2012年8月24日金曜日

第36週: An die Parzen (運命の女神達に) by Friedrich Hoelderlin (1784 - 1834)



第36週: An die Parzen (運命の女神達に) by Friedrich Hoelderlin  (1784 - 1834)  

【原文】

An die Parzen

Nur Einen Sommer gönnt, ihr Gewaltigen!
Und einen Herbst zu reifem Gesange mir,
Dass williger mein Herz, vom süßen
Spiele gesaettiget, dann mir sterbe.

Die Seele, der im Leben ihr göttlich Recht
Nicht ward, sie ruht auch drunten im Orkus nicht;
Doch ist mir einst das Heil'ge, das am
Herzen mir liegt, das Gedicht, gelungen;

Willkommen dann, o Stille der Schattenwelt!
Zufrieden bin ich, wenn auch mein Saitenspiel
Mich nicht hinabgeleitet; Einmal
Leb' ich, wie Götter, und mehr Bedarfs nicht.


【散文訳】

運命の女神達に

ただ一つの夏だけを恵むのだ、お前達権力者は!
そして、ひとつの秋を熟した歌にして、わたしに恵む
より従順に、わたしのこころは、甘い遊戯に
満足させられていて、そうなれば、わたしのこころは、わたしのために死ぬがいいのだ。

生においては、お前達の神聖な正義は、本当に
魂には与えられなかったので、魂は、実際地下の冥府でも休むことがない
しかし、わたしにはかつて、神聖なるものが、わたしの
こころにある神聖なるものが、即ち詩が、成功したのだ。

とあれば、ようこそ、ああ、影の世界の静けさよ!
わたしは満足しているのだ、たとえわたしの弦の手遊(てすさ)びが
わたしを地下の冥府へと導かぬとしても、一度だけ
わたしは生きるのだ、神々のように、そして、それ以上は何も不足がなかったのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩人の 英語のWikipediaです。


あるいは、日本語のWikipediaです。


この日本語のWikipediaによれば、「30代で狂気に陥りその後人生の半分を塔の中で過ごした。」とあります。このWikipediaにその塔の実物の写真が掲載されています。

第1連を読むと、巡る季節が運命の女神達が恵まれていることがわかります。

この運命の女神達は、詩の歌い手に夏と秋という季節を恵み、秋の収穫も歌または詩として恵むのであるが、そうなると、わたしのこころはわたしのために死ぬ。

それも、甘美な遊戯に満足させられた状態で、死ぬのです。

季節が恵まれるということが、甘美な遊戯だと言っている。ここにこの詩人の意味の凝縮があって、解釈が難しい。

しかも、わたしのこころが死ぬということについては、わたしのこころはより従順に受け容れているということを歌っている。より従順にの「より」とは、他の場合よりもという意味でしょう。このような死であるならば、詩の歌い手は、より従順に自分の死を受け容れることができるのです。

これが第1連です。

第2連の

Doch ist mir einst das Heil'ge, das am
Herzen mir liegt, das Gedicht, gelungen;
しかし、わたしにはかつて、神聖なるものが、わたしの
こころにある神聖なるものが、即ち詩が、成功したのだ。

とある2行目の意味は、わたしは、神聖なる詩を書く事に成功したのだという意味です。

ドイツ語の言い方では、直訳した通りなのですが、ここに何か生硬な感じがします。上ではこの難しさ、違和感を、凝縮といいましたが、ここでも表現上の凝縮があります。

しかし、考えてみれば、ドイツ語のGedicht、詩という言葉の由来は、dichten、凝縮するという動詞から作られているのでした。確かに、これは詩なのだと思います。

この第2連で、大切なことは、詩が神聖なるものだということです。そうして、そのような詩は、自分ひとりの力で出来たのではない、運命の季節の女神の力で出来たのだといっている。詩が成功したのだ、という言い方は、そのことを含意していると思います。

第3連でわかることは、詩作することがこの生の中で神々のように生きることを意味しているということです。

こうして第3連までを読んで来て、第1連に戻って再度解釈をすると、この詩の歌い手は、四季を人生、生の四季として歌っているということです。そうして、その四季の巡りは、運命の女神(4人いるのでしょう)が恵み賜うものであり、この一巡りの恵みは、生身の人間としては一度きりしかない。詩作は、その一度きりしかない人生を運命の女神達のように、神聖に神々しく生きることである。

そうして、それは甘美な遊び、遊戯、嬉遊であると、そう歌っていることになります。

この詩の制作年代は今不明ですが、その認識は本来老年のものです。しかし、もしその制作年代が若年であるのであれば、ふたつの生硬な表現上の圧縮が示している通りに、相当な負荷がこの詩人に掛かったことでしょう。それが狂気の一因をなしていたのかも知れません。

年相応に歳をとるという、この人間の一番幸せな事は、実はとても難しいことなのかも知れません。

しかし、そのように平々凡々と生き、無名に徹して、ものを考え、ものを書き、詩作をしたいものです。ヘルダーリンのように。しかし、狂気に陥ること無く。


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