【Eichendorfの詩 8-3】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 3
【原文】
Ich reise übers grüne Land,
Der Winter ist vergangen,
Hab um den Hals ein guelden Band,
Daran die Laute hangen.
Der Morgen tut ein'n roten Schein,
Den recht mein Herze spüret,
Da greift ich in die Saiten ein,
Der liebe Gott mich führet.
So silbern geht der Ströme Lauf,
Fernueber schallt Gelaeute,
Die Seele ruft in sich: Glück auf!
Rings gruessen frohe Leute.
Mein Herz ist recht von Diamant,
Ein' Blum von Edelsteinen,
Die funkelt lustig uebers Land
In tausend schoenen Scheinen.
Vom Schlosse in die weite Welt
Schaut eine Jungfrau 'runter,
Der Liebste sie im Arme haelt,
Die sehn nach mir herunter.
Wie bist du schön! Hinaus, im Wald
Gehen Wasser auf und unter,
Im grünen Wald sing, dass es schallt,
Mein Herz, bleib frei und munter!
Die Sonne uns im Dunklen laesst,
Im Meere sich zu spülen,
Da ruh ich aus vom Tagesfest
Fromm in der roten Kuehle.
Hoch führet durch die stille Nacht
Der Mond die golden Schafe,
Den Kreis der Erden Gott bewacht,
Wo ich tief unten schlafe.
Wie liegt all falsche Pracht so weit!
Schlaf wohl auf stiller Erde,
Gott schützt dein Herz in Ewigkeit,
Dass es nie traurig werede!
【散文訳】
わたしは、緑なす国を旅する
冬は過ぎ去り
首の周りには、黄金の首環をして
それには、ラウテ(マンドリンに似た昔の弦楽器)がぶら下がっている
朝は、赤い輝きをなす
その輝きを、わたしのこころこそが感ずるのだ
そうすると、わたしは弦の中へ指を掻き入れ
わが神がわたしを導く
このように銀色に、数々の流れの道は行く
それを遥かに超えて、弦の音が響き渡る
魂は、自らの中に叫ぶのだ:うまく行けよかし!
周りでは、歓ぶ人々が挨拶をしている
わたしのこころは、まさしくダイヤモンドでできている
わたしのこころは、数々の宝石からなる一茎の花だ
それは、陽気に国中に火花を散らしている
幾千もの美しい輝きとなって
お城から広い世界の中へと
ひとりの乙女が下を見遣る
最愛の男性が、乙女を腕(かいな)に抱きしめる
乙女は、わたしの方へ、下の方へと見遣るのだ
お前は何と美しいのだろう!向こうへ出て、森の中で
川が上り下りして流れている
緑なす森の中で、歌えよ、わたしのこころが響いていると
わたしのこころよ、自由に、そして陽気であれ!
太陽が、わたしたちを暗闇の中に置き去りにし
海の中で、その身を洗う
そうすると、わたしは、一日の祝祭から、憩い、心身を休めるのだ
敬虔に、赤い冷たさの中で
静かな夜の中を、月は
黄金の羊を導くのだ
地上の円環を、神が見張り
そこで、わたしは、深く、下のところで、眠っている
すべての偽善の壮麗が、何と遠くにあることか!
静かな地上で、よく眠れよかし
神は、お前のこころを永遠の中で守護している
決して悲しくなることがないようにと!
【解釈と鑑賞】
素晴らしい詩篇だと思います。
アイヒェンドルフの詩を訳していると、ロマン主義(仮にアイヒェンドルフがロマン主義の詩人だとして、もしそうならば、この文藝思潮)は、シュールレアリスムを既に一部として含んでいるし、それ以上だと思うことがあります。
それ以上とは、何か非常に要素に還元された物事に対する根源的な感情、即ち、恐怖と歓喜を歌うことによって、それ以上になっているということです。
要素に還元された物事とは、言い換えれば、十分に概念化された言葉の意義(sense, intensive)と意味(meaning, extensive)、ということです。
第1連、第2連の後を受けた、第3連は素晴らしい。これは、何か言葉の額面以上のものがあります。様々な流れが一本になって、それも銀色に流れて行く。この銀色という色彩も、単に色の名前を言ったという以上の深い意味があると思われる。人間にとって、この銀色という色は何を意味するのでしょうか。と、そう思わしめるのです。金、銀、銅の銀の色です。何故人間は、金、銀、銅をあしらうのだろうか。(例えば、オリンピックのような場合にも)
第5連も不思議な連です。この女性に対する思い、思慕が、何か全く隔絶した場所からの思慕だという風にとることができる。即ち、成就しない恋であり(もしこの思慕が恋ならば)、最初からあり得ぬことを前提とした、女性に対する思いである。これは、色々な解釈を惹起することだろう。わたしは安部公房という小説家に登場する主人公と女性の関係を思い出しました。男には、このような思いがあると、わたしは思います。
第6連は、第5連の女性を受けて、お前は美しいといっているように見えながら、その感動が、そのまま自然の中を流れる川の流れ、森の中を延々と流れる川の流れに転化されている。森といい、川の流れといい、これらは、感情の面でも、そうして何か得たいの知れない論理の面でも、このアイヒェンドルフという詩人、この人間の奥底から出て来る形象を言い当てた言葉なのだと思います。
第7連の太陽も、そうしてみると何も擬人化しているという解釈にはならず、これはこのままの太陽の行為を歌っていると読むことができます。
Da ruh ich aus vom Tagesfest
Fromm in der roten Kuehle.
そうすると、わたしは、一日の祝祭から、憩い、心身を休めるのだ
敬虔に、赤い冷たさの中で
とある、この2行の素晴らしさ。赤い冷たさの中で敬虔に、一日の祝祭を離れて、心身を休めるというこの2行。これ以上に言いようがないように思われます。
そうして、第8連と第9連の、これも素晴らしい詩行。これらの詩行を味わって欲しいと思います。
[追記]
アイヒェンドルフのこの詩を読んで、わたしはトーマス•マンの言葉を思い出しました。
トーマス・マンという作家が素晴らしいのは、小説家のも詩人のも、その創造能力をふたつの側面から喝破していることです。
曰く、Vergeistigung und Beseelung。
即ち、概念化とコンテクストの創造。
後者はイメージ(形象)の創造でもあります。イメージはあるコンテクストにおかなければ、その生命を発動しない。
アイヒェンドルフのこの詩は、十分なコンテクストを持っている、創造しているということになります。さて、それはどのようなコンテクストでしょうか。
概念化というのは、その最たる者は、詩人やマンのような小説家を除けば、哲学者に必要とされる能力で、ジャック・デリダなどはその能力の極北だと思います。
例を挙げると、ジャック・デリダは、あるセッションでブックエンドとは何かを論じ、論じ来たり、論じつくして、とうとう最後にブックエンドがブックエンドではなく全く別のものに変容、変貌、変化、変形するというところまで概念化したという典型的な例を挙げることができます。