2014年12月27日土曜日

【Eichendorfの詩96】Vergebner Aerger(虚しい怒り)


Eichendorfの詩96Vergebner Aerger(虚しい怒り)  
  

【原文】

Im alten Hause steh ich in Gedanken;
Es ist das Haus nicht mehr, der Wind mit Schauern
Geht durch das Gras im Hof, und Eulen lauern
In leeren Fenstern, die schon halb versanken.

Mich ärgern nur die jungen, kecken Ranken,
Die wie zum Spott noch schmücken Tor und Mauern,
Die grünen Birken, die mit falschem Trauern
Leicht überm Grabe meiner Lieben schwanken.

So, Nachteul selber, auf dem öden Gipfel
Sass ich in meines Jugendglücks Ruinen,
Dumpfbrütend über unerhörten Sorgen;

Da blitzten Frühlingslichter durch die Wipfel,
Die leuchtend unter mir das Land beschienen,
Und nichts nach Eulen fragt der junge Morgen.


【散文訳】

古い家の中で、わたしは思いに耽って立っている
この家はもはや無いのだ。驟雨を含んだ風が
庭の草の中を通って行き、そして、梟(ふくろう)達が待ち伏せしている
既に半分沈み、零落している、空虚な窓という窓の中で。

わたしを怒らせるのは、軽蔑するように、依然として門扉と壁を飾っている
只々、若く、元気な蔓であり
緑なす白樺の木々であり、その木々は、間違った悲しみを以って喪に服し
軽薄にも軽く、わたしの愛する者たちの墓の上に揺れている。

そうだ、夜の梟自身が、荒涼たる梢の上で
そのわたしは、わたしの青春の幸福の廃墟の中に座っていた

すると其処に、春の光という光が、山顚(さんてん)を通って稲光りした
その光は、わたしの下方で、その土地を明るく照らした
そして、この若い朝は、梟については、何も問うことがないのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩人が、住み慣れた自分の城を退去するときに歌われた詩なのでしょう。

しかし、やはり詩人の素晴らしさは、このように歌うことができるということ、歌うとは節度を以って歌うことができるということだと思います。

最後の連の最後の行の若い朝は、自分の失われた青春の幸福の廃墟を、対照的に照らす朝です。

その朝には、夜の梟に我が身を譬えた其のわたしの姿はいないのです。

夜の梟という形象は、誠に奥深い何かを感じさせます。梟という動物が、そのような動物なのでしょう、わたしたち人間にとっては。


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