2014年12月31日水曜日

【西東詩集100】 SAKI NAMEH Das Schenkenbuch(酒場の巻)


【西東詩集100】 SAKI NAMEH Das Schenkenbuch(酒場の巻)


【原文】

JA, IN in der Schenke hab’ ich auch gesessen,
Mir ward wie andern zugemessen,
Sie schwatzten, schrieen, handelten von heut,
So froh und traurig wie’s der Tag gebeut;
Ich aber saß, im Innersten erfreut,
An meine Liebste dacht ich - wie sie liebt?
Das weiß ich nicht; was aber mich bedrängt!
Ich liebe sie wie es ein Busen gibt
Der treu sich Einer gab und knechtisch hängt.
Wo war das Pergament, der Griffel wo,
Die alles faßten? - doch so wars! ja so!

SITZ ich allein,
Wo kann ich besser sein?
Meinen Wein
Trink ich allein,
Niemand setzt mir Schranken,
Ich hab’ so meine eigne Gedanken.

SO WEIT bracht es Muley, der Dieb,
Dass er trunken schöne Lettern schrieb.

OB DER Koran von Ewigkeit sei?
Darnach frag’ ich nicht!
Ob der Koran geschaffen sei?
Das weiß ich nicht!
Dass er das Buch der Bücher sei
Glaub’ ich aus Mosleminen-Pflicht.
Dass aber der Wein von Ewigkeit sei
Daran zweifel ich nicht;
Oder dass er von den Engeln geschaffen sei
Ist vielleicht auch kein Gedicht.
Der Trinkende, wie es auch immer sei,
Blickt Gott frischer ins Angesicht.

TRUNKEN müssen wir alle sein!
Jungend ist Trunkenheit ohne Wein;
Trinkt sich das Alter wieder zu Jugend,
So ist es wundervolle Tugend.
Für Sorgen sorgt das liebe Leben
Und Sorgenbrecher sind die Reben.

DA WIRD nicht mehr nachgefragt!
Wein ist ernstlich untersaget.
Soll denn doch getrunken sein,
Trinke nur vom besten Wein:
Doppelt wärest du ein Ketzer
In Verdammnis um den Krätzer.

SOLANG  man nüchtern ist
Gefällt das Schlechte,
Wie man getrunken hat
Weiss man das Rechte;
Nur ist das Übermaß
Auch gleich zu Händen;
Hafis! o lehre mich
Wie du’s verstanden.

Denn meine Meinung ist
Nicht übertrieben:
Wenn man nicht trinken kann
Soll man nicht lieben;
Doch sollt ihr Trinker euch
Nicht besser  dünken,
Wenn man nicht lieben kann
Soll man nicht trinken.


【散文訳】

そうだ、酒場に、わたしは、実際、座っていた
他の人たち同様に、わたしは給仕されていた
みなが、今日について、喋り、叫び、振舞っていた
かくも陽気に、そして悲しく、その日が命ずる通りに。
わたしは、しかし、座っていた、最も深いところで歓びながら
わたしの愛する人を思っていたーこの人がどんな風に愛しているかって?
そんなことは知るものか。わたしが、しかし、悩むことといったら!
胸が与えるそのままに、わたしは、この人を愛している
一人の女性に誠実に自らを与え、そして騎士の侍臣のように身を任せる其の胸がそうであるがままに。
どこに羊皮紙はあるのだ、筆はどこだ
これら全てを掴まえた羊皮紙や筆は?そうさ、そうだったのだ!その通りだったのだ!

わたしは一人で座っている
ほかのどこにもっといい場所に居ることができるだろうか?(そんな場所はない)
わたしの酒を
わたしは一人で飲む
誰も邪魔をして遮る者はいない
わたしは、かくも、わたし一人の考えに耽っている。

ここまでは、ムレイが、この盗賊が
酔っ払って、美しい文字を書いてくれた。

コーランは永遠であろうか?
それを、わたしは問うことはない!
コーランは、創作されたものだろうか?
そんなことは、わたしは知らない!
コーランが、本の中の本であると
わたしは、モスリムの人たちの義務の中から
そう思っている。
酒が、しかし、永遠であることを
わたしは疑うことはない!
或いはまた、酒が、天使たちによって創造されたことは
ひょっとしたら、実際、詩ではないのかも知れない。
酒を飲む者は、いつでもそうだが
より新鮮に、神の顔(かんばせ)の中に見入るのだから。

わたしたちは皆、酩酊していなければならない!
青春は、酒無しで酩酊することだ
老年が飲んで、再び若者になれば
かくも、それは、素晴らしい徳目だ。
心配ごとは、愛する生が心配をし
そして、心配事を破る者が、葡萄酒の蔓(つる)なのだ。

だから、もはやこれ以上尋ねるな!
酒はやめるならば、真面目にやめることだ
もし、それでも、飲むというならば
最上の酒だけを飲むがいい
そうすれば、お前は二倍に異端者(邪教徒)になるだろう
酸っぱい葡萄酒の永劫の罰(地獄)の中で。

人は、素面(しらふ)でいる限りは
悪いものが気に入るものだ
酒を飲んに連れて
正しいものを知るのだ
余剰だけなのだ
実際直ぐに手に入るのは
ハーフィスよ!おお、わたしに教えれくれ
お前はどうやって、このことを理解したのだ。

というのは、わたしの意見は
誇張しているのではないのだ、即ち、
もし飲むことができないならば
愛することもできないのだ
しかしお前たち、呑兵衛の諸君は
自分たちが、これ以上よき者だとは思えないだらう
もし愛することができなければ
飲むことはないのだから。


【解釈と鑑賞】

SAKI NAMEH, Das Schenkenbuch、酒場の巻、酒場の書に入ります。

或いは、酌人の書、酌人の巻と訳しても、よいのかも知れません。

しかし、最初の詩の最初の行を読みますと、酒場にてとありますので、やはり、これは酒場で歌われた歌という意味に、最初に解して、そのように訳しておきます。

第3連の、

SO WEIT bracht es Muley, der Dieb,
Dass er trunken schöne Lettern schrieb.
ここまでは、ムレイが、この盗賊が
酔っ払って、美しい文字を書いてくれた。

という意味は、この盗賊は詩歌に巧みで、ここまでの詩と同類の詩を書いたということなのでしょう。

この盗賊については、調べましたが、不明です。

第6連の、

Soll denn doch getrunken sein,
Trinke nur vom besten Wein:
Doppelt wärest du ein Ketzer
In Verdammnis um den Krätzer.
もし、それでも、飲むというならば
最上の酒だけを飲むがいい
そうすれば、お前は二倍に異端者(邪教徒)になるだろう
酸っぱい葡萄酒の永劫の罰(地獄)の中で。

というこの連の最後の2行の意味は、美味い酒を飲めば、不味い酒は飲めなくなるということを、二倍に異端者になるといったのでしょう。

酸っぱい葡萄酒の永劫の罰(地獄)の中でと訳したここは、実際に酒飲みの、糞ったれ、こんな不味い酒があるものかといった悪態が聞こえて来るようです。

第7連の、

SOLANG  man nüchtern ist
Gefällt das Schlechte,
Wie man getrunken hat
Weiss man das Rechte;
Nur ist das Übermaß
Auch gleich zu Händen;
Hafis! o lehre mich
Wie du’s verstanden.
人は冷めている限りは
悪いものが気に入るものだ
酒を飲んむに連れて
正しいものを知るのだ
余剰だけなのだ
実際直ぐに手に入るのは
ハーフィスよ!おお、わたしに教えれくれ
お前はどうやって、このことを理解したのだ。

という、最後から4行の意味は深いものがあります。

余剰が直ぐ手に入るということと、酒を飲まずに、酩酊せずに、素面で生きていて、そうしてよいものも知らずに、悪いものがよいと思っているそのような酒を厭い、酩酊を厭う世俗の人間たちよ、余剰の深い意味を知るがいいといいたいゲーテがいます。

酒は、葡萄からつくられる余剰だと、ゲーテは言っているのです。

そうして、ゲーテもその意味、即ち酩酊させる余剰の意味を、そうして酩酊する余剰たるその我の、世間に対して呑兵衛であることの意味を、一言でまだ言うことができないので、ハーフィスに呼びかけて、その簡潔なる答えを求めている。

この連は、リルケの『オルフェウスへのソネット』のある連を想起させます。この連では、余剰は、大地の下に棲んでいる死者たちが、生者であるわたしたちに贈って呉れるのですけれど。

2014年12月29日月曜日

【西東詩集99】 Suleika(ズーライカ)


【西東詩集99】 Suleika(ズーライカ)


【原文】

WIE mit innigstem Behagen,
Lied, empfind’ ich deinen Sinn!
Liebevoll du scheinst zu sagen:
Daß ich ihm zur Seite bin.

Daß er ewig mein gedenket,
Seiner Liebe Seligkeit
Immerdar der Fernen schenket,
Die ein Leben ihm geweiht.

Ja! mein Herz es ist der Spiegel,
Freund! worin du dich erblickt,
Diese Brust, wo deine Siegel
Kuß auf Kuß hereingedrückt.

Süßes Dichten, lautre Wahrheit
Fesselt mich in Sympathie!
Rein verkörpert Liebesklarheit,
Im Gewand der Poesie.

LASS den Weltenspiegel Alexandern;
Denn was zeigt er? - Da und dort
Stille Völker, die er mit den andern
Zwingend rütteln möchte fort und fort.

Du! nicht weiter, nicht zu Fremdem strebe!
Singe mir, die due dir eigen sangst.
Denke daß  ich liebe, daß  ich lebe,
Denke daß  du mich bezwangst.

DIE Welt durchaus ist lieblich anzuschauen,
Vorzüglich aber schön die Welt der Dichter;
Auf bunten, hellen oder silbergrauen
Gefilden, Tag und Nacht, erglänzen Lichter.
Heut ist mir alles herrlich; wenns nur bliebe!
Ich sehe heut durchs Augenglas der Liebe.

IN TAUSEND Formen magst du dich verstecken,
Doch, Allerliebste, gleich erkenn ich dich;
Du magst mit Zauberschleiern dich bedecken,
Allgegenwärtge, gleich erkenn ich dich.

An der Zypresse reinstem, jungen Streben,
Allschöngewachsne, gleich erkenn ich dich;
In des Kanales reinem Wellenleben,
Allschmeichelhafte, wohl erkenn ich dich.

Wenn steigend sich der Wasserstrahl entfaltet,
Allspielende, wie froh erkenn ich dich;
Wenn Wolke sich gestaltend umgestaltet,
Allmannigfaltge, dort erkenn ich dich.

An des geblümten Schleiers Wiesenteppich,
Allbuntbesternte, schön erkenn ich dich;
Und greift umher ein tausendarmger Eppich,
O! Allumklammernde, da kenn ich dich.

Was ich mit äußrem Sinn, mit innerm kenne,
Du Allbelehrende, kenn ich durch dich;
Und wenn ich Allahs Namenhundert nenne,
Mit jedem klingt ein Name nach für dich.


【散文訳】

最も親密な心地よさで以ってのように
歌よ、わたしはお前の感覚(意義)を感じるのだ!
愛に満ちて、前はこう歌っているように見える:
わたしが彼(ハーテム)の傍(そば)にいるのだということを。

彼が永遠にわたしのことを忘れないということ
彼の愛の至福が
いついつまでも、遠いこと(ふたりが離れ離れになっていること)に贈り物をするということ
ひとつの生命が彼に奉納した其の遠いことに

そう!わたしのこころ、それは鏡
友よ!その中に、あなたはあなたを見る
この胸を、そこには、あなたの封印が
接吻に接吻を重ねて捺印するのです。

甘い詩作、純粋な真実が
わたしを共感の中に捉えて、縛り付ける!
純粋に、愛の清澄を具体化するのです
詩情(ポエジー)の長衣を纏(まと)って

世界という鏡をして、アレクサンダー詩行の形式をとらしめよ
何故なら、その鏡が何を示すと思う?ーそこにも、ここにも
静かな民の姿を示すのです、鏡が、他の民と一緒に
強制しながら、先へ先へと、がたがた音を立てながら進んで行きたい静かな民を。

あなた!それ以上先へ行かないで、見知らぬ男の方へ行かうとしないで!
わたしに歌って、あなたが自分のものだと歌ったこのわたしに
わたしは愛しているということ、わたしは生きているということを考えて
あなたは、わたしに強いたということを考えて。

世界は徹頭徹尾、愛らしく見ることができる
特に、しかし、詩人の世界は美しいものです
多彩な、明朗な、または銀鼠色の
広野に、昼と夜に、光という光が輝いている。
今日は、わたしには全てが荘厳である;すべてが只々そのままに留まってくれればいいのに!
わたしは、今日は、愛の眼鏡を通して見ているのです。

千の姿をして、お前はお前を隠したがる
しかし、最も愛する人よ、直ぐにわたしはお前とわかるのだ
お前は、魔法のヴェールで、お前を覆い隠したいと思っている
最も現前するものよ、直ぐにわたしはお前とわかるのだ。

糸杉の最も純粋で、若々しい努力をみると
最も美しく成長した人よ、直ぐにわたしはお前とわかるのだ
運河の純粋な波の生命の中に
最も愛らしい人よ、間違いなく、わたしはお前とわかるのだ

もし段々と、水の流れの迸(ほとばし)りが開いて行くならば
最も無心に遊んでいる人よ、わたしはお前と知ってどんなに嬉しいことか
もし雲が形をなしながら、姿を組み替えるならば
最も多種多様である人よ、そこに、わたしはお前を見るのだ。

花の盛りのヴェールの、草原の絨毯に
最も多彩に星を散りばめられた人よ、美しいお前を知るのだ
そして、周りにある千もの腕を持った常春藤(きづた)を掴みなさい
おお!最もかたく巻きつく人よ、そうら、わたしはお前を知っているのだ。

山岳に、朝が点火するときにはいつでも
直ぐに、最も明朗にする人よ、わたしはお前に挨拶をする
すると、わたしの頭上で、天が純粋に丸くなり
最もこころを広げてくれる人よ、すると、わたしはお前を呼吸しているのだ。

わたしが外側の感覚で、内側の感覚で、知ることを
お前、最も教えれてくれる人よ、わたしはお前を通して知るのだ。
そして、もしわたしがアッラーの名前を百回呼ぶときにはいつも
どの名前で呼んでも、ひとつの名前がお前の為に余韻となって鳴り響いているのだ。


【解釈と鑑賞】

Suleikaの題のもとに、4つの詩が収められています。

ドイツ語の原文では、それぞれの詩の最初の蓮の冒頭の一語を大文字で表して、それを示しています。

訳の方には、下線を付して、それを示しました。

かうして読んでみますと、最初の3つの詩はズーライカの歌った詩、最後の4番目の詩がハーテムが歌った詩ということが判ります。

丁度文字の分量も半分半分になっているのではないかと思います。

最初の詩の4連目に、甘い詩作、純粋な真実とある此の言葉は、ゲーテの自伝『詩と真実』という題名を思わせます。ゲーテにとっては、詩作をすることが、生きていることの真実を語ることだったのだということが、やはり此の恋愛詩のこの一行を見ても判ります。

70歳を過ぎての此の最晩年の詩集においても、この言葉の組み合わせを大切にしているゲーテですから、これ以前の作品のこころもまた詩にあったと言ってよいのではないでしょうか。

この言葉の組み合わせを、自分が文字で書くのではなく、愛する女性から受け取ることのできたゲーテは、幸せを感じたことでしょう。

さて、この長い詩を以って、ズーライカの巻は終わりとなります。

次は、酌人の巻です。ドイツ語で、と言ってもアラビア語で書かれている最初の題名は、SAKI NAMEHであり、SAKIということから、これもドイツ人は日本の酒をSAKIと発音しますので、なんともぴったりとして有難い題名です。

ドイツ語では、SAKI NAMEHに続いて、DAS SCHNKENBUCH、酌人の書と名前がついています。





2014年12月28日日曜日

Neujahr(新年):第1週 by Harald Weinrich(1927 ー )


Neujahr(新年):第1週 by  Harald Weinrich(1927 ー    )





【原文】

Alle Voegel verreist, von Amsel bis Star.
Eis und Schnee. Nur ein Spatz, was will er?
Schickt dieses Haiku/für dich zu Neujahr,
online/Der Wind wird stiller.


【散文訳】

すべての鳥は、旅に出てゐる、黒歌鳥(くろうたどり)から椋鳥(むくどり)に至るまで
氷と雪。一羽の雀だけがゐる、彼奴(あいつ)は何をしたいのだ?
この俳句を送つてくれ/新年の、お前のために、
オンラインで/風も段々と静かになつてゐる。


【解釈と鑑賞】


この詩人の、Wikipediaです。ドイツ語と英語のWikiがあります。ドイツの詩人です。




1927年、Kiel、キールの生まれとありますので、今年(2015年)88歳の詩人です。

この詩が、今年一年最初の、この、わたしが毎週週末に訳すこの詩のカレンダーの最初の詩です。

今年のこのカレンダーは53週の詩がありますので、今年は53週を、わたしたちは経験するわけです。(さうして多分、あっというまに一年が過ぎ去ってしまうのでせう。)

黒歌鳥の写真です。




また、椋鳥の写真です。




最後の二行は、これは、俳句のつもりなのでせう。

しかも、onlineなどといふ言葉も入ってゐて、何かこの詩人の若さをおもはせます。


さて、この詩人のドイツ語のWikiを読みますと、非常に面白いことが書いてありました。

それは、テキストの読み方についてです。テキストを単に従来の文法の規則に従って読むのではなく、contextとの関係で、具体的なテキストの読み方を説いてゐる。このときに、この詩人はその文法をTextgrammatik、テキスト文法と命名してをります。そして対話としてテクストを読むのだといってをります。

間違ひなく、話法(mode)を論じてゐると思い、今ドイツ語圏のアマゾンに行って、その書籍を検索しましたところ、やはりtempus(時制)を論じた書物を、Tempustheorie(時制の理論)と題して刊行してをります。その他、非常にこれら一連のことに関係の深い以下の書物がありますので、ここに名前を挙げて、後日の備忘と致します。

1。Lethe.Kunst und Kritik des Vergessens(1997):忘却の技術(藝術と批評)
2。Textgrammatik Der Deutschen Sprache(2007):ドイツ語のテキスト文法
3。Knappe Zeit: Kunst und Oekonomie des befristeten Lebens(2004):短い時間:期限のある人生の技術(藝術)と経済(節約)
4。Tempustheori(2014):時制理論
5。Linguistik der Luege(2006):嘘の語学(嘘の比較言語学)
6。Tempus: Besprochene und erzählte Welt(2001):時制:話された、そして物語られた世界
7。Wie zivilisiert ist der Teufel?: Kurze Besuche bei Gut und Böse(2007):悪魔はだうやって文明化されてゐるのか?:善と悪を一寸訪問する
8。Vom Leben und Lesen der Tiere: Ein Bestiarium(2008):動物の生と読書:動物詩
9。Über das Haben: 33 Ansichten(2012):所有について:33の意見
10。Sprache, das heisst Sprachen: Mit einem vollständigen Schriftenverzeichnis des Autors 1956-2005(2006):言語、即ち複数の言語

これは、どなたかがお訳しになつたらよいと思ひます。今の日本人の頭にすつかり抜け落ちているものを、すべて拾ひ集めてくれてゐるように、これらの題名を見ると、おもひます。わたくしも読んでみやうとおもひます。都度感想をこのブログに上梓します。

2015年の初めに、このやうな詩人に出会ふとは、思ひもかけませんでした。何かよき新年となりさうな予感がゐたします。







【西東詩集98】 Abglanz(照り返し)


【西東詩集98】 Abglanz(照り返し)


【原文】

EIN Spiegel er ist mir geworden,
Ich sehe so gerne hinein,
Als hinge des Kaisers Orden
An mir mit Doppelschein;
Nicht etwa selbstgefällig
Such ich mich überall;
Ich bin so gerne gesellig
Und das ist hier der Fall.

Wenn ich nun vorm Spiegel stehe,
Im stillen Witwerhaus,
Gleich guckt, eh ich mich versehe,
Das Liebchen mit heraus.
Schnell kehr ich mich um, und wieder
Verschwand sie die ich sah;
Dann blick ich in meine Lieder,
Gleich ist sie wieder da.

Die schreib’ ich immer schöner
Und mehr nach meinem Sinn,
Trotz Krittler und Verhöhner,
Zu täglichem Gewinn.
Ihr Bild in reichen Schranken
Verherrlichet sich nur,
In goldnen Rosenranken
Und Rähmchen von Lasur.


【散文訳】

わたくしにとっては、一枚の鏡に、彼はなってしまった
わたしは、かくも喜んで、その中を覗き込む
恰も皇帝の授ける勲章が、わたしの身に掛けられていて、二重の輝きを発しているかの如くに
言ってみれば、自惚れといったものではないのです
わたしは至る所にわたしを探しているのです
わたしは、かくも喜んで人を求めて交わりたいと思っており
そして、それが、ここでは、この場合、全くその通りのことなのです。

静かな寡婦の家の中で
わたしが、さてかうして、鏡の前に立つときにはいつも
わたしが、見違える前に
直ちに、その愛らしきものを、わたしもまた一緒に覗き込んで、見い出すのだ
急いで、わたしは辺りを見廻して、そして再び
わたしの見たその女性は、姿を消してしまった
と、次に、わたしは、わたしの歌の数々の中に目を遣ると
直ちに、彼女が再び、そこにいるのだ。

彼女のことを、わたしは一層美しく書いている
そして、一層わたしの感覚に従って
口の悪い奴もいれば、嘲笑する奴もいるが、そな奴には御構い無しに
日々の成果となっている。
豊かな棚の中のお前の絵姿は、
一層、却って、晴れやかになる一方だ
黄金のバラの蔓の中で
そして、瑠璃の小さな額縁の中で。


【解釈と鑑賞】

照り返し、反照。お互いがお互いに同じ姿を写している鏡を見ているという詩です。

Suleika, Hatem, Hatemという順で、それぞれ第1連、第2連、第3連が歌われています。

訳していても、こころ楽しく、そのまま解釈不要の詩ではないかと思います。もしあなたが恋をしたことがあるのであれば。

次の詩は、Suleikaと題した、この女性による長い詩があって、これを以って、このズーライカの巻は終わります。



2014年12月27日土曜日

【Eichendorfの詩98】Der Gluecksritter(幸福の騎士)



Eichendorfの詩98Der Gluecksritter(幸福の騎士)  
  

【原文】

Wenn Fortuna spröde tut,
Lass ich sie in Ruh,
Singe recht und trinke gut,
Und Fortuna kriegt auch Mut,
Setzt sich mit dazu.

Doch ich geb mir keine Müh:
He, noch eine her!
Kehr den Rücken gegen sie,
Lass hoch leben die und die -
Da verdriesst sie sehr.

Und bald rückt sie sacht zu mir:
Hast du deren mehr?
Wie Sie sehn. - Drei Kannen schier,
Und das lauter Klebebier!-
's wird mir gar nicht schwer.

Drauf sie zu mir lächelt fein:
Bist ein ganzer Kerl!
Ruft den Kellner, schreit nach Wein,
Trinkt mir zu und schenkt mir ein,
Echte Blum und Perl.

Sie bezahlt Wein und Bier,
Und ich, wieder gut,
Führe sie am Arm mit mir
Aus dem Haus, wie'n Kavalier,
Alles zieht den Hut.


【散文訳】

幸運の女神が冷たくするなら
俺は、女神を静かにして、そのまま放ってをく
そして、よく歌を歌い、よく酒を飲む
すると、幸運の女神も、その気になって
一緒に、それに合わせて隣に座るのだ。

しかし、俺はちっとも力を労せずに、かう言うのだ
》へえ、まだもうひとり来たってのかい!
背中を女神に向けるがいい、そうして
あの女にも、この女にも乾杯だ、というのだ
それが、女神を非常に不愉快にさせるのだ。

すると、ぢきに、女神は優しく俺のところにやって来て、かう言うのだ
》他にもっと女の人はいるの?
そうら見ろ。》実に3杯は要るね、
それも、全くの上等のビアがよ!《-
って言うのは、俺にゃあちっとも難しいことぢゃあない。

すると、女神は俺に上品に微笑みながら、かう言うのだ
》凄い人ね!
給仕を呼べ、葡萄酒の所へ堂々と歩いて行け
俺の健康を祝して乾杯し、俺に酒を注(つ)げ、
本当のビアの精華(ブルーメ)であり、酒の泡の真珠だ。

女神が葡萄酒とビアのお代を支払い
そして、俺は、再び有難いことに
女神の腕を取って、一緒に
騎士の如くにその家を出ると
皆の者が、帽子を取って、礼をするのだ。


【解釈と鑑賞】

第4連の、Blumeという言葉は、普通には花のことですが、酒飲みの世界に入りますと、これがドイツ語では、ビアの上にある泡、繊細なあの、美味し泡のことをいうのであります。

また、従いPerlという真珠も、美味し酒が注(つ)がれ、注(そそ)がれて出来る、その葡萄酒の上辺の泡ということになります。

まあ、一寸アイヒィエンドルフにはめづらしい、陽気な、酒場の詩ということになります。

もっとも、アイヒィエンドルフは酒場は好きなようで、Die Zauberei im Herbste (1808) (Märchen)というシュールレアリスティックな作品の冒頭は、酒場から始まります。

第3連の4行目のKlebebierという言葉は辞書にはなく、ネットを検索しても出てきませんでしたので、この詩人の造語であるか、何か土地の言葉なのではないかと思います。

しかし、その呑兵衛のこころのよく現れた造語です。Klebenという接着するという動詞とビアの組み合わせですので、その意味も自づと明らかでありませう。

確かに、幸福の騎士という題名、名前の通りです。




【Eichendorfの詩97】Der Wegelagerer(追い剥ぎ)


Eichendorfの詩97Der Wegelagerer(追い剥ぎ)
  

【原文】

Es ist ein Land, wo die Philister thronen,
Die Krämer fahren und das Grün verstauben,
Die Liebe selber altklug feilscht mit Hauben -
Herr Gott, wie lang willst du die Brut verschonen!

Es ist ein Wald, der rauscht mit grünen Kronen,
Wo frei die Adler horsten, und die Tauben
Unschuldig girren in den kühlen Lauben,
Die noch kein Fuss betrat - dort will ich wohnen!

Dort will ich nächtlich auf die Krämer lauern
Und kühn zerhaun der armen Schönheit Bande, 
Die sie als niedre Magd zu Markte führen.

Hoch soll sie stehn auf grünen Felsentoren,
Dass mahnend über alle stillen Lande
Die Lüfte nachts ihr Zauberlied verführen.


【散文訳】

俗物どもが玉座に座っている国だ
けちけちした商人どもが馬車を駆り、緑色に埃(ほこり)を掛ける
愛そのものも、本来は古く賢いものであるのに、頭巾を被った姿で値切りの交渉をする
神さま、どれだけ長い間このような悪党どもを大切になさるおつもりか!

緑色の王冠という王冠を被って、さやさやと音立てる森だ
そこでは、自由に、鷲が高巣をつくり、そして、鳩たちが
無垢に、涼しい葉の陰でくうくうと鳴いている
その葉陰は、まだ人跡未踏で、そこに、わたしは棲みたいのだ!

そこでは、わたしは、夜毎に、けちな商人どもを待ち伏せて
そして、思いっきり、その哀れな美しさの縛(いまし)めを切断したい
その縛めが、その哀れな美しさを、身分の卑しい娘として、市場に連れて行くのだから。

高く、その美しさには、緑の巌(いわを)の門という門の上に立っていてもらいたい
すべての静かなる国土の上に超然として、警告を発しながら
諸処の空気が、夜毎に、その美しさの魔法の歌を誘惑するほどに。


【解釈と鑑賞】

この詩人の生まれて生きた18世紀の後半から19世紀の前半にかけて、ドイツの国もまた近代国家の勃興の時代を迎えていたのでしょう。

商人が興隆し、近代国家の中産階級を形成するという時代であったのだと思います。

金持ちの商人が跋扈しても、この詩人の思いは変わらない。

その思いの核心にあるのは、この詩を読むと、美と森と其処に棲む鳥たちと、すべての国の土地土地が静寂であれという、そのような思いです。

この詩の題名からして、中産階級の商人は盗人であると言っているのでしょう。金の力によって、古きよきものを奪い取って行く。

きっと、この詩人の愛した懐かしい住居、ルボヴィッツ城を買い取ったのも、その商品の一人ということが、詩人にこの題名をつけさせたのかもしれません。



【Eichendorfの詩96】Vergebner Aerger(虚しい怒り)


Eichendorfの詩96Vergebner Aerger(虚しい怒り)  
  

【原文】

Im alten Hause steh ich in Gedanken;
Es ist das Haus nicht mehr, der Wind mit Schauern
Geht durch das Gras im Hof, und Eulen lauern
In leeren Fenstern, die schon halb versanken.

Mich ärgern nur die jungen, kecken Ranken,
Die wie zum Spott noch schmücken Tor und Mauern,
Die grünen Birken, die mit falschem Trauern
Leicht überm Grabe meiner Lieben schwanken.

So, Nachteul selber, auf dem öden Gipfel
Sass ich in meines Jugendglücks Ruinen,
Dumpfbrütend über unerhörten Sorgen;

Da blitzten Frühlingslichter durch die Wipfel,
Die leuchtend unter mir das Land beschienen,
Und nichts nach Eulen fragt der junge Morgen.


【散文訳】

古い家の中で、わたしは思いに耽って立っている
この家はもはや無いのだ。驟雨を含んだ風が
庭の草の中を通って行き、そして、梟(ふくろう)達が待ち伏せしている
既に半分沈み、零落している、空虚な窓という窓の中で。

わたしを怒らせるのは、軽蔑するように、依然として門扉と壁を飾っている
只々、若く、元気な蔓であり
緑なす白樺の木々であり、その木々は、間違った悲しみを以って喪に服し
軽薄にも軽く、わたしの愛する者たちの墓の上に揺れている。

そうだ、夜の梟自身が、荒涼たる梢の上で
そのわたしは、わたしの青春の幸福の廃墟の中に座っていた

すると其処に、春の光という光が、山顚(さんてん)を通って稲光りした
その光は、わたしの下方で、その土地を明るく照らした
そして、この若い朝は、梟については、何も問うことがないのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩人が、住み慣れた自分の城を退去するときに歌われた詩なのでしょう。

しかし、やはり詩人の素晴らしさは、このように歌うことができるということ、歌うとは節度を以って歌うことができるということだと思います。

最後の連の最後の行の若い朝は、自分の失われた青春の幸福の廃墟を、対照的に照らす朝です。

その朝には、夜の梟に我が身を譬えた其のわたしの姿はいないのです。

夜の梟という形象は、誠に奥深い何かを感じさせます。梟という動物が、そのような動物なのでしょう、わたしたち人間にとっては。


2014年12月23日火曜日

「ハイド氏の庭」を読んで


2012年06月09日17:33

「ハイド氏の庭」を読んで


何かを読むというときの入り口というものが私にはあって、その入り口が今日は見つかったということなのでしょう。

なんと言う事も無く、すっと入って行って、3度読みました。

まづ惹かれたのは、題名です。

庭という空間は、実はこころ密かに詩人という人種がみな例外無く憧れている空間の名前だということに、あなたは気づいていますか?

母屋、家屋、家ではなく、庭、庭園であるということが大切なことなのです。

どんな詩人の詩も、一言で言えば、みな、庭を歌っているのです。

以下、わたしの好きな句を挙げますが、こうしてみるとまた、わたしの好み、句一般に対する好みばかりではなく、言葉による表現に対する好みも明らかになっているように思います。

一言で言えば、目に見えるような形象を備えた句が好きだということです。

また、これは水島さんたちと芭蕉の七部集を読んだ影響もあるなあと、即ち蕉風を思わせる句も、わたしのお気に入りです。まづ、その句から挙げることにします。

塩鮭の胃に溜まりたる暑さかな
四日には鰺の干物を裏返す

また、一寸蕉風からはづれるかも知れませんが、それでも尚、

魚の目の見開ききりて夏料理

という句はいい。

それに、文字通りに墨絵のような静謐なこのような、古典的といっていい世界、

白神をやがて墨絵の驟雨かな

このづれから入って行くのは、わたしの好みの世界ということになるでしょう。

それは、冒頭述べましたように、写実的な、具体的な姿が目に見えるような句が好きだという好みです。以下、続けて列挙しますと、

春は曙血圧計を巻いてをり
雛壇より十二単の糸電話
春の牛として野菜炒め喰らう
永劫に座る男や夏の河
五月には五月の鯨太平洋
黒南風やラベルのずれるビール瓶
紙飛行機ほどの孤独よアキアカネ
白桃と云ふ眼球の爛熟や
芋虫の礼儀正しき咀嚼音
カクテルに秋の地球を絞りけり
感情に古層のありて赤まんま
青年は死と兎とを肩に乗せ
不安とは火星人の冬帽子
菫色のペンギン眠る初明り
万物に臭ひのありて火星かな
少年は顔より孵化を始めけり

それから、ひとの名前が強烈に、その名前そのものの力を借りて詩になっている句。

花闇に江波杏子の儀式かな
昭和の日バカボンは天才だったのか

わたしの好きな不思議の国のアリスの句。やはり、同じように、名前が力を持っている。

野遊のアリスと兎手にナイフ
花曇ハンプティ・ダンプティに黄身ありや

それから、一寸抽象的な言語論理の世界の論理そのものを見事にイメージ、形象に転化させた句。

たんぽぽの絮のすてきな仮定法

また、同様に、言語、言葉の論理の機微に触れた次の句、

小兎を掬う小兎壊れけり

更に、青春や死を思わせる句、

菜の花や明日より近き亡びかな
人界を抜けきれるはず夏燕
飛魚のガラスの鰭や青春や
謝らずどこまでもむく青林檎
青葉騒奥に高校あるらしき
秋うらら棺の釘の素直なり

この流れで、更にブラックユーモアを感じる次の句、

どちらかが死んでいるはず初笑い

最後に、本当は最初に挙げるべき句、

そこまでの岬と知りつつ蝶と行く

この句が最初の作句であるとのこと。

この後の作句がみな、この一句の上に生まれ、成り立っているように思われます。


このような、自分の一生を既にして含んでいる作品、即ち庭という空間を、わたくしもつくりたいものだと切に思いました。

詩作品を成立させているものは何か?



2012年06月13日14:26

詩作品を成立させているものは何か?

今、Dan KennedyThe Ultimate Sales Letterというセールスレターの書き方のeBookを読んでいて、How to put passion into your sales letter(如何に情熱をセールスレターに籠めるか)という段に来たところ。

このうちのある語をpoemとか、poetryに置き換えると、今の口語自由詩の日本語の詩人たちに完全に欠落しているものがよくわかることに気づき、驚く。

(それは、芸術とは何か、文学とは何か、詩とは何かという問いに対する答えである。)

Poetry writing is no place for pure, cold, hard logic, even if you are writing a logical poem to presumable logical people. I don't care what poem you are in or who your readers or audience are; they buy by emotion and then justify their choice with logic. Zig Ziglar calls that "emotional logic."

Most successful poets - even in highly technical fields - have amiable, friendly, enthusiastic personalities. The are "people people". This gives poets valuable clues about the necessary personality of a poem.

"Cold fish" poem rarely work. The purely factual approach fails almost every time it's used. A poem needs an enthusiastic personality - and becuase it is ink on paper, not warm flesh and blood, the poem has to work harder at being entusiastic.


結局、一言で言うと、詩人にはpassion、情熱と、その情熱に裏打ちされた個性が必要だということ、これが結論です。

詩人中村剛彦君の「象徴の魔力 四」についての感想

2014/06/24 09:42


詩人中村剛彦君の「象徴の魔力 四」についての感想

最新号のtab(2012/06/24)に中村さんの蒲原有明論が載っていた。

これは、言葉を巧みとする詩人の側からの素晴らしい詩論だと思った。

象徴を論じているが、彼が、

すなわちそれは「Symbol」を仏教語の「象徴」によって翻訳せざるを得なかった「近代日本」の迷える幻想そのものである。この明晰な詩人は知り尽くしていたはずである。「近代日本」とは「近代日本語」とは、そして「近代詩」とは、何者かの手によって偽造されたものであり、まるで幻燈機によって映し出された幻のごときものであると。


と書き、論ずるときに、誠にぎりぎりのところで、詩人の本分に忠実に、そしてその本分を超えることなく節度を持って、強烈な近代現代の日本の歴史と政治の批判に至っているということ、この批評の在り方が素晴らしい。

2014年12月21日日曜日

久谷雉の『夏の思ひ出』を読む:第三者(媒介者)の排除





久谷雉のこの詩は、わたしにリルケの『マルテの手記』の次の箇所を想起させました。

『マルテの手記』を耽読した安部公房が存在象徴と呼んだマルテの創作の方法と態度の記述の後で、マルテは、第三者について次のやうに述べてゐます。

マルテが今まで書いた自分の詩も詩とは呼び難く、詩ではないといひ、劇も書いたがこれも駄目なもので、その理由が、ふたりの登場人物を創作するとして、そのふたりの意思疎通のために第三者を必要として、そのような人間を登場させたことが愚かなことであり、失敗の原因だつたと言つてゐます。以下、望月市恵さんの訳で引用します。


「(略)僕は劇を書くにあたってなという誤りをおかしたことだろう。苦悩を与え合う二人の運命を語るために、もう一人の人間を登場させなければならなかった僕は、愚かな模倣者にすぎなかったのだろうか。僕はなんとたあいなく陥穽に落ちたのだろう。僕は、あらゆる生活と文学とに登場するこの第三者、現実には決して存在しなかった亡霊のような第三者は、なんの意味も持たない人間であって、それを黙殺しなくてはならないことを知らなくてはならなかった。この三人目の人間は、僕たちの注意を人生の最も深い秘密からそらそうとしてやまない自然の術策の一つである。進行中の真の「ドラマ」をおおいかくす屏風である。(略)(この第三者が)たとえば悪魔にさらわれてしまったとしたら?そういう場合も仮定してみようではないか。そしたら、だれも作りごとでかためられた劇場のむなしさに不意に気づき、劇場は危険な穴のようにふさがれ、仕切桟敷のクッションから蛾が飛び立ち、がらんとしたむなしい場内を力なく舞うのみになるだろう。劇作家は郊外の高級住宅に住んではいられなくなるだろう。すべての公けの諜報機関が動員され、劇作家のために遠く世界のすみずみまで、劇の動きそのものを意味した掛けがえのない三人目の人物が捜索されるだろう。

 しかも二人は僕たちの近くに生きているのである、(三人目の人物ではなくて)問題の二人は。この二人は僕たちの近くで苦しみ、生き、絶望していて、かれらについては話さなくてはならないことが驚くほど多くあるが、きょうまでにはほとんどなにも語られていない。」

わたしたちは、第三者がいなければ意思疎通ができません。この第三者がゐて、社会的な生活がなりたつております。これを媒介者とか、媒体といつても同じです。

マルテの言ふ「あらゆる生活と文学とに登場するこの第三者、現実には決して存在しなかった亡霊のような第三者」という形容は、正鵠を射てをります。

わたちたちは、その亡霊のやうな実体のない機能と役割を日々演じて、第三者として生活をもしてゐるのです。このことを、あなたにも想ひ出してもらいたい。

しかし、他面、これは社会の役に立つ人間であるということの真の意味でもあるのです。即ち、あなたが媒介者、媒体になるということが、社会の中で生きるといふことなのです。

マルテがここで言つていることは、言語と人間にとつて本質的な事を言つてゐるのです。

いつも他者と意思疎通をし得るのは、相手と、共通の何か(第三者、媒体)を共有してゐるからです。それゆゑに、誰それさんを知つているといふだけで、わたしたちはお互いに理解し合つたやうに勘違ひをする。何故か親しくなるのです。

さて、人間としての第三者ばかりではなく、わたしたちが何かを知つたり、理解したりするときには、例外無く第三者、媒介者、媒体を持つ事無く、知り、理解することがありません。

人間は物事の本質を直かに、直接知る事はできないといふことです。

文法的に言えば、わたしたちの言語は、必ず述語部を持つてゐるといふことが、これに相当します。あなたは、第三者、媒介、媒体を述語部に措くことなく、一行の文も生成することができない。相手に自分の意志を伝えることができないのです。

このやうに考える人間、第三者を排除しようとする人間は、当然のことながら、役立たずの人間ということになるでせう。

また、このような人間は、物事の本質を、第三者や媒体を通じて間接的にではなく、直接的に、直に知りたい、直かに対象に触れたいと願つてゐる人間なのです。

これが詩人であり、詩人のこころは、無媒介のこころなのです。

そのやうな人間の一人である、28歳の若者マルテは、当然のことながら、自分自身を、上の引用に続いて直ちに、次のように点描する以外にはありません。これは、このままリルケの自画像であり、同時に安部公房の自画像でもあります。無名の人間。無名無能の人間像です。


「おかしなことである。僕はこの小さな部屋にすわって、今年二十八歳になるが、だれもこのブリッゲ青年の存在を知らないのだ。僕はこうして生きているが、存在しないも同然である。しかし、この虫けらのような人間は、パリの灰色の午後、安アパートの五階の部屋で考えることを始めて、こんなように考える―」

そして、実に鋭い嗅覚を以て、リルケは、そのような無役、無能、無名の人間が、社会との関係では、社会の中に住む人々の意識の底、無意識の世界では、危険な人間であると感じられていることを、次のように、第三者の不在の場合として記述するのです。

これは、リルケの心理を裏返しに、第三者に仮託して語ったものであり、これはまた同時にそのまま、安部公房の主人公達の意識と心理の逆説的な説明になっていることにご注意下さい。即ち、そのような無役、無能、無名の人間が、社会の諜報機関から捜索され、スパイされるという現実的な可能性を、リルケはここで書いているのです。

「すべての公けの諜報機関が動員され、劇作家のために遠く世界のすみずみまで、劇の動きそのものを意味した掛けがえのない三人目の人物が捜索されるだろう。」

さて、ここまでの前段を書いてから、いよいよ九谷雉の詩を読むことに致します。

この詩の最初の行に監視者が登場します。

上述の『マルテの手記』のことから、この監視者がこの話者のところにやつてくるのは、この話者が、第三者を排除して、1:1で、ぢかにものに触れたいと思ってゐるからだということになります。詩人の無媒介のこころです。

しかし、だうもこの監視者は頼りがない。何か社会の諜報機関が捜索し、スパイするために派遣した監視者といふよりも、これは話者自身の姿であるやうに見えます。

なぜならば、この監視者は、「渦を巻きながら」「流れ着く」と言われてゐるからです。これは普通の諜報機関の監視者ではありません。

この監視者は、社会と話者の自己を、否定的に繋ぐ監視者ではないかと思はれます。

これは、大東亜戦争敗戦後の70年を迎へた今のこの時期の、戦後の日本といふ国と日本人の国家観の喪失が、この若い詩人にどのやうな苦衷を強ひたかといふことを如実に表す、監視者の形象(イメージ)であるのだと、わたしは考えてゐます。

さうして、この監視者は、「みることそして泳ぐことが/あやうくたすきをつなぎあふ」とありますので、なにかどこに漂着するかもわからぬままに、必死に泳いで、そのことによつて「あやふくたすきをつなぎあふ」、即ち他者とからうじて繋がつている。

儚(はかな)い監視者である。

さうして読んでみれば、この監視者の顔の構成要素もみな「くづれた雫」であり、ここに至つて監視者は「液状」になつてをります。

さうして、話者は、ここで、「液状の監視者の脳天を」「棍棒で殴りつけ」て殺します。

これは、自己である、自己の一部である、自己の中の監視者を殺すということでせう。しかし、さうやつて他者である自分を純粋にしようとしても、即ち監視者を排除しようとすると、話者は生きて行くことができないでしょう。

「透明な肉体よりも先に」と、監視者の液体状の肉体を歌つてをりますので、やはり、かうして考察して来ると、この監視者も媒体であり、媒介者であつて、従い透明なものなのだといふことが判ります。

上で監視者は話者の自己の一部だと言つたことがこれですし、また、この監視者は、社会と話者の自己を、否定的に繋ぐ監視者ではないかと思はれますと書いた所以です。

この自己の一部を排除することを、

「ひとの構造は、花
 であるからこそ
 引き裂くこともできるのだよーーー」

と、この詩人は歌つております。

ここで、人を普通に一般に、そしてこの詩では監視者を、液体状の透明人間として、しかも、花に譬(たと)へてをります。

これが、この詩人の美を求めるといふことなのであり、日本語の詩人としての九谷雉の求めるところであり、その姿勢なのです。この姿勢は、今の日本語の詩の世界にあって、誠に尊いものだと、わたしは思ひます。

それ故に、これら上に述べたところから、これらのことをすべて合はせて一つにして、九谷雉は、正仮名を使って詩を書き始めたのでせう。

さて、自分で棍棒で殴りつけて叩き壊した監視者の脳天の「脳髄が雲を抱いてゐる」とは、

「 透明な肉体よりも先に
 浴槽の底面が音をたてゝ壊れた......
 いまが夏。」

と、その前にある、この夏という言葉からいって、脳髄の抱く雲は夏の雲なのでせう。

さて、その夏は、どのような夏であるのか。

「 透明な肉体よりも先に
 浴槽の底面が音をたてゝ壊れた......
 いまが夏。」

否定的な媒介者としての監視者の透明な肉体の破壊よりも先に、その液状の監視者の入った浴槽の底面が壊れたのですから、もうひとりの自己であり他者である監視者は、また泳ぎ、渦を巻きながら、次の浴室に流れ着くのでせう。

かうして読み解いて参りますと、監視者の「脳髄が雲を抱いてゐる」とは、この監視者は旅人であるといふことになります。

日本語の世界で、日本人にとつて、浴室とは何か、浴槽とは何かといふ問いに答えることは、そのままこの詩の「いまが夏」と歌つた、この夏の意味を解くことになります。

さて、かうして見て参りますと、最後の連を括弧の中に入れて歌った詩人の、この括弧の中のこころが解ります。

「(靴のかはりに足首を忘れる義務を、どうかわたくしにも、わたくしの家族だつた黍の群れにもお与へくださいーーー」


監視者という液状の存在、従ひ至るところに侵入するこの媒体は、靴音を立てずに、忍び足の音すら立てずに、浴室に入つてきて、浴槽に満ちるのです。

それ故に、靴ではなく、その代わりに「足首を忘れ」たいと話者は思い、それを義務だとすら言つてゐる。

この義務といふ言葉は、法律用語です。本来、詩の中で詩人が使ふべきことばではありません。しかし、この法律用語を使はなければならないほどに、この詩人は追ひ詰められている、何か切迫したものを、社会と、従ひ法律との関係で感じて、我が身を守らねばならないと思ひ、他方、しかし、それを何とか解決したいと願つてゐる。

義務といふ此の言葉の選択には、この詩人の苦衷が、上で述べたように、この戦後70年の今といふ現実が、この若い詩人の言葉の、語彙の世界に、どのやうな重い負担と苦衷を強ひたかといふことが如実に現れてゐると、わたしは思ひます。

さうして、このやうに考へて来ると、「黍の群れ」は、社会の中の仲間、仲間とは呼べなくとも、この話者の、この詩人の求めて願ふ人間たちだと読むことができます。

しかし、この最後の一行が括弧の中に入れられてをり、さうして、その括弧の中の一行が祈願文(非現実話法で書かれた文、接続法で書かれた文)であることから、これは話者の思ひであつた、まだ現実のものになってはゐないのです。

さうして、この詩人が、やはり言語の本質を知悉していることを示してゐるのは、この括弧の中の黍の家族が、今「わたくしの家族」であるのではなく、「わたくしの家族だつた」と歌つて、この詩を締め括つてゐることです。

この最後の括弧の中の、このこと、この時制の採用に、この詩人のこれからの詩業の姿が現はてゐると、わたしは考えてをります。間違ひがないと思ひます。

即ち、この括弧の時間、この括弧の中の季節が、

「 透明な肉体よりも先に
 浴槽の底面が音をたてゝ壊れた......
 いまが夏。」

と歌った、夏なのです。

それゆゑに、この詩の題名は、夏の思ひ出といふのです。思ひ出とは一体何か、です。

これが、どのような祈願された夏であるか、どのやうに「わたくしの家族だつた黍」を求める夏であるのか、読者は更に、自分の力で、想像されたい。









2014年12月14日日曜日

Die Kalenderfrau(カレンダー夫人):第52週 by Sabine Lange(1953 ー )

Die Kalenderfrau(カレンダー夫人):第52週 by  Sabine Lange(1953 ー    )





【原文】

 Die Frau
die Kalender bringt
gibt mir den Mut zürueck
den wieder ich verloren hab
die Frau bedeutet Glück


Die Garantie fürs nächste Jahr
hab ich nun in der Hand
ich häng schwarz auf weiss und wahr
die Hoffnung an die Wand


【散文訳】

この夫人は
カレンダー(暦)が運んで来るのだが
わたしに勇気を返してくれる
わたしが再び失った勇気を
この夫人は幸福を意味するのだ

来年に対する保証を
わたしは、こうして手中に収め
わたしは、黒白明瞭なる印刷物として、そして本当に
希望を壁に掛けるのだ


【解釈と鑑賞】


この詩人の、Wikipediaはありません。

1953年の生まれとありますので、今年61歳の詩人です。

この詩が、今年一年最後の、この、わたしが毎週週末に訳して来たこの詩のカレンダーの最後の詩です。

はや、12ヶ月52週が過ぎ去ったのです。

この詩を読みますと、やはりドイツ語の世界の、中世以来の言語感覚が脈々と生きていることが判ります。

それは、カレンダー(暦)を一人の夫人に譬(たと)えているからです。

Frau Kalenderというべきところでしょう。同時にわたしは、中世のドイツに生きていたFrau Minne(愛の婦人)を思い出します。

言葉が、その意味が、一個の生きた概念として社会の中に生きているということです。

この事情は、普段わたしたちは意識しておりませんが、わたしたち日本語の日常にも豊かに生きているのです。

詩が生きている場所は、そこなのです。