2013年10月27日日曜日

【西東詩集53-2】 Buch des Unmuts(不満の書)


【西東詩集53-2】 Buch des Unmuts(不満の書)


【原文】

KEINEN Reimer wird man finden
Der sich nicht den besten hielte,
Keinen Fiedler der nicht lieber
Eigne Melodien spielte.

Und ich konnte sie nicht tadeln:
Wenn wir andern Ehre geben
Müssen wir uns selbst entadeln.
Lebt man denn wenn andre leben?

Und so fand Ichs denn auch just
In gewissen Antichambern,
Wo man nicht zu sondern wusste
Maeusedreck von Koriandern.

Das Gewesene wollte hassen
Solche rüstige neue Besen,
Diese dann nicht gelten lassen
Was sonst Besen war gewesen.

Und wo sich die Völker trennen
Gegenseitig im Verachten,
Keins von beiden wird bekennen
Dass sie nach demselben trachten.

Und das grosse Selbstempfinden
Haben Leute hart gescholten,
Die am wenigsten verwinden
Wenn die andern was gegolten.


【散文訳】


詩人を見つけることはない
自らに最善の詩人を抱えたことのない詩人を
ヴァイオリン奏者を見つけることもない
好んで独自の旋律を演奏したことのないヴァイオリン奏者を。

そして、わたしはそのような詩人もヴァイオリン奏者も非難することができなかった:
わたしたちが、他人に名誉を与えるのであれば
自分自身をまづ貴族の地位から降ろさねばならない。
一体全体、他の人たちが生きているならば、という理由で、ひとは生きるものだろうか?

そして、そのように、わたしはそれをまさしく
貴人の謁見を次の間で待つある場合に見たのであり
そこでは、ひとは、鼠の糞を、こえんどろの実と
区別することができなかったのである。

嘗てあったものは、憎みたいと思うものだ
そのような強壮な新しい箒(ほうき)を
これらの箒を通用させたいとは思わないのだ
かつて箒であったものは。

そして、人々が別れるところでは
お互いに軽蔑をして
両者のうちどちらもが告白しないのだ
われわれは、同じものを手に入れようと努力いるのだと。

そして、偉大なる自己の感受を
人々は、厳しく非難した
他の人たちが通用させたときに
最も少なく耐える人々は。


【解釈】

第一連は、この世に優れた者の例を挙げて、詩人とヴァイオリン奏者のことを歌っています。

詩人を自らの内に抱かぬ詩人はなく、独自の旋律を持たぬ奏者はいない。そうであって、それは初めて真の優れた者と言えるのだという考えです。

しかし、そのような本物ではない人間がいても、わたしはそれを非難はしなかったし、敢えて口には出す事をしなかった。

何故ならば、Lebt man denn wenn andre leben?一体全体、他の人たちが生きているならば、という理由で、ひとは生きるものだろうか?

いや、そんな理由で生きるわけではないからだ。わたしは、そんな生き方はしてこなかったし、していないのだ。

この第一連の最後の一行は非常に強烈な一行です。普通のひとは、また社会で教える道徳は、人様がいるので、わたしもいられるというものだからです。

わたしは、このゲーテの一行に賛意を表する。

第2連は、ドイツ語のことわざで、Neue Besen kehren gut、即ち、新しい箒はよく掃(は)ける、新しい使用人はよく働くの意味の格言を下敷きにした連です。

これを大人と子どもの軋轢ととってもよいでしょう。かつては新しい箒であった人間が年の功で、何も新たな創造をせずに、ただ権威だけに頼って生きているさまを思ってもいいでしょう。そのような人間は、新しい箒を憎むのだといっているのです。

第3連は、この通りです。

第4連は、「偉大なる自己の感受」の自己の感受と訳したドイツ語は、Selbstempfindenですが、これはゲーテの造語で、自己を確かなものとして感受している、しっかりとした、確たる、自己を有している人間という意味の言葉です。

これは、第1連のLebt man denn wenn andre leben?一体全体、他の人たちが生きているならば、という理由で、ひとは生きるものだろうか?という一行に対応しています。

勿論、自己の感受の偉大なる人間は、そのような生き方はしないと言っているのです。

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