ドイツ語の音をつくるということについて
これは、語学習得論であるとともに、言語とは何か、言葉とは何かの一端に触れていると思いましたので、またわたしがドイツ語の詩をどのような考えと順序で翻訳しているかを率直に述べておりますので、この詩文楽にも投稿して、後日の習いと致します。
根石さんへ、
前回のわたしの回答の【岩田4.4】で、音をつくることについて書きましたが、後で考えて一寸まだ言葉が足りなかったかなと思いましたので、補足を致します。
わたしが最初に考えたことは、ドイツ人の音と同じ音を発音するということでした。
それは、まづ、A,B,C、アー、ベー、ツェーという、ひとつひとつの文字単独としての音の発音から始まりました。
その次に、単語という、ある意味のあるまとまりのアルファベットの集合を発音するという訓練をしました。
このとき、既に音を円滑に発音するということに気をつけました。即ち、例えば、Hund、これは英語でdog、犬という意味のドイツ語の名詞ですが、これを発音するのに、Huという音を発声(ここは何故か発声ということになる)することが、次のndに滑らかに繋がること、即ち、音の連続も自然に滑らかに、また口、あるいは口唇の動きも連続して滑らかになることを意図して、そのようになるように努力をしました。
そのような連続的な、発声として自然な音を生み出すために、わたしは毎朝、自分では顔面体操と名づけた体操を致しました。
それは、次のことからなる発声のための準備運動です。
1.複式呼吸をする。
2.唇をへの字にして、唇の縁(へり)を下に下げる訓練をする。
この唇の形が、連続的にUの音を出したり、Tschという音を出したり(唇を突き出す)
Rという音を出したりする(喉でRの音を響かせる)ときなど、また、そのほかの音への自然な展開(連続)への最初の原型の働きをするのです。
これは、顔の表情としては、誠に変な顔なのです。ドイツ人は、そんな変な顔を普段していないし、話しているときにも、無理にそうしているわけではありません。日本人が発音し、発声しようとすると、そのようにしなければ、ドイツ人の音を真似て、音をつくることができないということです。
あるとき、アメリカで買った語学教材で、学習者の発声をオシロスコープで波形にして、アメリカ人の発音と比較ができるように表示してくれる教材を買ったことがあります。
これを使って、自分の波形を見てみましたが、アメリカ人と同じ波形にはなりませんでした。
やはり、発声のタイミング(音への入り方、出方)、その強さと弱さのポイント、ひと息の長短が違っているのだということがわかりました。
ですから、わたしのドイツ語の発声も、やはり日本人の発声なのです。これは、肉体が違うので、いかんともしがたいし、わたしは、それはそれで何ということはない、そのことを知っていれば、それで十分であると思っています。
さて、そうした上で、
1.発声と発音
2.文法(根石さんの言葉で言えば、シンタックス)
3.言葉の意味をとること(これは、単語の接続を理解する、語順、語の配置の列または行に並んでいる順序で理解をするという意味です。)
この3つのことを、文章を読みながら、バランスをとって、理解できるようになることが目標になります。
これを、最初の回答書に書きましたように、わたしはドイツ語の(根石さんのいう)磁場に、わざわざ身を置くこと、即ち直接ドイツ語とドイツ人の世界に身をおくことで、自分のものとしたいと思ったわけです。
今、毎週土曜日に、ドイツ語の詩を翻訳して、わたしの詩文楽というブログに上梓しておりますが、このとき、実際にわたしが詩を理解するために行っている順序を反省してみると、次のようになっていることがわかります。
1.まづ原語で書かれた詩をテキストエディター(わたしはMacユーザなのです)に転記をする。このとき、わたしは、綴りの正誤に注意を払い、日本人の意識、即ち外側から、更に即ち形式(文法)から、その語の正しさを見、また意味をとりながら読んでいます。このとき、意味のわからない言葉は当然のことながら、あるわけです。
2.次に、転記した詩を、最初から読み下して(言葉の順序のままで理解しようとして)、詩を通して読みます。このときは、外側(形式、文法)からではなく、意味の流れを理解しようとして、いわば言葉或いは文字(根石さんのいう言語)の内側から理解しようとしています。このときには、こころの中で、音として、自分の音声(voice)で、読みながら、理解をして行きます。
これで、外側と内側から、その詩を理解したことになります。勿論、不明の単語があれば、辞書にあたり、その概念を理解するようにします。この不明な単語をひくのは、次の3の段階です。
3.次に、実際に詩を翻訳しようとします。このときには、連ごとに訳して行きます。これは、最初の回答書に書いた通りですが、日本語の語順のゆるす限り(ということは、日本語の文法のゆるす限り)、ドイツ語の語順に従って、訳し下ろしてゆきます。
この3番目の段階が、わたしが一番愉悦、愉楽を覚える、至福のときです。
この翻訳という行為、即ち、言葉の意味を変形(transform)させるという仕事が、わたしに悦(よろこ)びを与えてくれるのです。これは不思議なことですが、いつもそうです。
それは、この翻訳、変形という仕事が、接続の仕事だからだと、わたしは思っています。さて、
3.最後に、ドイツ語の全体を黙読して、即ち、こころの中で音に出して読み、次に日本語訳との意味の整合性、意味の均衡を斟酌します。ドイツ語の言葉の中での整合性と均衡、それから日本語の言葉の中での整合性と均衡を、それぞれに考え、それから詩の全体同士を比較して、問題がないかを検査します。この場合、問題とは、意味のズレ、不整合性、不均衡、意味の過不足です。
このような訳は、詩行の行間を掘り起こして日本語にすることになりますので、わたしは、このわたしの翻訳を散文訳と呼んでいます。
この3番目のステップで、既に【解釈と鑑賞】の文章が、わたしの中に出来ています。
最後の方は、詩の翻訳の話になってしまいましたが、発声して外国語を読むということが、どのように、その言語で書かれた文章を読み、理解するのに役に立つのか、そのことをお伝えしたかったのです。
以上、補足説明と致します。
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