2014年6月14日土曜日

Die Laeuterung(濾過):第25週 by Michale Buselmeier


Die Laeuterung(濾過):第25週 by   Michale Buselmeier





【原文】


Schmerzlust Fronlast sagst du, ihr seid das Feld,
der Gottesacker Welt; ihr seid des Lebens
zaehe Kreisform Tod. Ich bin das Brot,

der Wein im hellen Kelch, das Wort aus Stein,
gegerbtes Fell, die Fahne weiss und rot,
das Lindenbluehn im Park, die Birken locken,

der Weihrauchduft, die Vogelsprache, Glocken
so nah im Wind, als ich verschlafen, blind
den Laden aufstiess und die Kinder sah

auf Blütenblättern kniend, O und A.
Sind wir die Letzten, die Gott spüren,
im Baldachin durch unsre Gassen fuehren,

jasminbekraenzt uns in die Luefte schwingen,
mit Erdbeereis bekleckert Verse singen?
Am Schluss de Zugs die flackernde Monstranz.



【散文訳】


苦痛の快感、聖なる苦役よ、お前は、こう言ったな、お前達は野原だ
墓地の世界だ、お前達は生命の強靭な円形、即ち死だ、と。
わたしはパンなのである。

明るい高杯(たかつき)の中の葡萄酒が、石から産まれた言葉が
鞣(なめ)された毛皮が、旗が、白と赤の
公園の菩提樹の花盛りが、白樺の木々が、誘惑している。

乳香の香、鳥の言葉、鐘々が
かくも近く風の中にある、わたしが寝過ごして、盲いたまま
雨戸を押し上げようとし、そして、子供達を目にしたときに

(子供達が)花びらの上に跪(ひざま)づきながら、オメガであり、アルファであるのを目にしたときに
わたしたちは、神の感ずる最後の者であろうか?
神が天蓋の中にあって、わたしたちの路地を通って導く最後の者であろうか?

ジャスミンの花冠を奉戴した自分自身を中空へと勢いよく放り投げる最後の者であろうか?
阿蘭陀苺で汚れた詩を歌う最後の者であろうか?
行列の最後に、ちらちらと光っている聖体顕示台がある。


【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたWikipediaです。


ハイデルベルクに生まれ、ハイデルベルク大学に学び、今もハイデルベルクに住んでいます。


オメガであり、アルファであるというのは、キリスト教圏の慣用句で、αとωが、古代ギリシャ語のアルファベットの最初と最後であることから、始めと終りの、即ち全体の、また従い神の、また従い、最初にして最後の者としてのイエス•キリストのことを指すとということです(http://de.wikipedia.org/wiki/Alpha_und_Omega)。

聖体顕示台とは、次のような姿をしています。




カソリックの儀式に使われるものです。この詩を読みますと、宗教的な行列が町の中を練り歩くのでしょう。子供達も一緒に歩くのでしょう。

中世の町である、ハイデルベルクの街中に住む男が、寝過ごして、鎧戸のおりた暗い部屋の中に、外の騒がしい音に目を覚まして、鎧戸を開け、外にその祭列を目の当たりにしたところを歌った詩だということになります。

そうして、題名のことを考えると、この詩は、そのような祭列を見て、自分自身が濾過され、純化される経験を歌ったという詩ということになります。




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