2014年3月16日日曜日

【西東詩集61】 Einladung(招待)


【西東詩集61】 Einladung(招待)


【原文】

Einladung

MUSST nicht vor dem Tage fliehen:
Denn der Tag den du ereilest
Ist nicht besser als der heutge;
Aber wenn du froh verweilest
Wo ich mir die Welt bezeigte
Um die Welt an mich zu ziehen,
Bist du gleich mit mir geborgen:
Heut ist heute, morgen morgen,
Und was folgt und was vergangen
Reisst nicht hin und bleibt nicht hangen.
Bleibe du, mein Allerliebstes,
Denn du bringst es und du gibst es.

DASS Suleika von Jussuph entzueckt war
Ist keine Kunst;
Er war jung, Jugend hat Gunst,
Er war schön, sie sagen zum Entzücken,
Schön war sie, konnten einander beglücken.
Aber dass du, die so lange mir erharrt war,
Feurige Jugendblicke mir schickst,
Jetzt mich liebst, mich später beglückst,
Das sollen meine Lieder preisen,
Sollst mir ewig Suleika heissen.

DA DU nun Suleike heissest
Sollt' ich auch benamset sein.
Wenn du deinen Geliebten preisest,
Hatem! das soll der Name sein.
Nur dass man mich daran erkennet,
Keine Anmassung soll es sein:
Wer sich St. Georgenritter nennet
Denkt nicht gleich Sankt Georg zu sein.
Nicht Hatem Thai, nicht der alles Gebende
Kann ich in meiner Armut sein;
Hatem Zograi nicht, der reichlichste Lebende
Von allen Dichtern, moecht ich sein.
Aber beide doch im Auge zu haben
Es wird nicht ganz verwerflich sein:
Zu nehmen, zu geben des Glückes Gaben
Wird immer ein gross Vergnügen sein.
Sich liebend an einander zu laben
Wird Paradieses Wonne sein.



【散文訳】

招待

その日を前にして逃げてはならない
なぜなら、お前が急いでも追いついたその日は
今日よりもよりよいものではないからだ。
しかし、世界をわたしに引き寄せるために
わたしが自らに世界を示したその場所に
お前が喜んで留まるならば
お前は直ちにわたしと共に安全に庇護されるているのだ。
今日は今日、明日は明日
そして、来るもの、去るものは
引き裂くことなく、またぶら下がって留まるものではない。
お前は留まるのだ、わたしの最も愛するものよ
何故ならば、お前はそれを運んで来て、そして、それを与えるからだ。

ズーライカが、ユッスフによって魅了されたということは
技術の話ではないのだ
ユッスフは若く、若さは恵みを持っている
ユッスフは美しく、そしてふたりは魅了されていうのだ
美しいのはズーライカだった、そして互いに互いを幸せにすることができた
しかし、お前、かくも長くわたしの待ち焦がれていたお前は、
炎の青春の眼差しをわたしに送るということ
今やわたしを愛し、わたしをあとで幸せにするということ
それが、わたしの歌々を賞賛することになり
お前はわたしの永遠のズーライカだと呼ぶことになるのだ。

さてこうして、お前がズーライカという名前になったからには
わたしもまた名前を呼ばれることになろう。
お前がお前の愛する者を賞賛するのであれば
ハーテム!この名前こそが、その名前でなければならない。
ひとはその名前でわたしだと知るということのみだということは
自惚れなどにはなりようがないのだ。
聖ゲオルグの騎士と自らを呼ぶ者が
直ちに聖ゲオルグであることを思うわけではない。
ハーテム・タイではない者として、すべてを与える者ではない者として
わたしは、わたしの貧しさの中にいることができるのだ。
ハーテム・ツォグライではない者に、この最も豊かに生きる者ではない者に
すべての詩人たちのうちで、わたしは、なりたいのだ。
しかし、これらふたりのハーテムから眼を離さないということ
それは、全く非難すべきことなのではないだろう。
取ること、幸福の喜捨を与えること
これは、いつも大きな満足となる。
自らを愛しつつ、互いに楽しませること
これは、天国の恍惚となること間違いないからだ。


【解釈と鑑賞】

ズーライカの巻という相聞歌の巻が、この招待と題した詩で始まるのは、理由があり、それは、この詩にある通りの理由だということになります。

ゲーテは、恋人をズーライカに擬し、自らをハーテムに擬する。そのものを別の名前で呼ぶということには、わたしたち人間の本質に根ざした何か深いものを示しています。

その不思議の力のありように、この恋人たちはその身を委ねようというのです。世俗を離れた世界の創造でしょう。それが、

「しかし、世界をわたしに引き寄せるために
わたしが自らに世界を示したその場所に
お前が喜んで留まるならば
お前は直ちにわたしと共に安全に庇護されるているのだ。」

という詩行にあらわれております。

この詩は、20歳になるかならないかのときに読んで、その間今にいたるまで、折にふれて思い出し、生きる糧として来た、西東詩集の詩のひとつです。

当時は、8行目にある、今日は今日、明日は明日という一行にとても惹かれ、そのような今日、そのような明日を行きたいと思い、生きて来たように思います。

全く、世間とは異なり、異質の世界を言語の力の不思議を借りて創造すること。しかも、言語の力には決して頼ることなく。

最後の2行は、いつものゲーテらしく、大変性愛の示唆に満ちた、eroticなゲーテがおります。

その他、聖ゲオルグ騎士団については、次の記述をネットで見つけました:

ハプスブルク伯ルドルフが皇帝に選ばれた時にトルコの侵略から辺境を守る為に創設し、カリンティアのマイルステートのベネディクト大聖堂を与えた。団長は皇帝の後継者がなった。
[http://crazyhis.web.fc2.com/dord/orders.htm]

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