戦禍舞踏論を読む
戦禍舞踏論とは何か?
戦争の後の焼け跡の戦禍の中で踊るという意味なのか
舞踏をすることが、そのまま戦争であり、戦禍を起こすものだという意味なのか
戦禍を主題として舞踏を踊るという意味なのか
それとも、戦禍が舞踏をするという意味なのか
戦禍がなにものかを舞踏せしめるという意味なのか
そうして、題名に論とつけていることから、上のこれらの事を理論的に論ずる詩であるということになるだろう。
こうしてみるとこの詩人は、詩作という行為を舞踏だと考えていることになり、舞踏は詩作の譬喩だということになる。
それは必然的に散文詩という形になることを、この題名は示している。詩の典型が叙情詩であるならば、詩の叙情と散文の叙事の間に立って、戦禍舞踏を論ずるように歌うというのが、この詩集の題名のこころだと思われる。
と、このように想像をたくましうして準備とこころづもりをしてから、詩集を開きました。
最初に詩集の題名である同じ題名の詩があります。
この詩を読むと、この詩集のテーマが題名の通り、戦場と舞踏であることがわかります。普通には戦場は譬喩ですが、しかし実際の実業の世界での過酷な仕事を個人的に知っているわたしとしては、それはやはり譬喩ではなく現実であるという以外にはありません。
後書きで、詩人は「強いて言えば、現実の過酷さが私自身にもたらした変化を起因としている」と、この詩の特質の原因を述べて、自註しています。
そうして、この場合の詩人自身による、詩人自身の詩の特質に関する分類は、わたしが抽出すると、次のようなものです。
0。多義性
1。鎮静作用
2。装飾性
(1)音楽性
(2)絵画性
3。映像性
4。演劇性
詩の一行は多義的です。これを、従い、0番とします。これは、大前提。
さて、その上で、1から4までが、この詩人がこの詩集において獲得した言葉の質(quality=意義と意味)の分類です。
こうしてこの分類を眺めますと、次のふたつのまとまりに分かれます。
1。鎮静作用と装飾性
2。映像性と演劇性
前者は静的な効果、詩人みづからが言及しているように、この詩集によって読者にもたらされる「快」や「楽」のことです。後者は、詩人が探究してやまない動的なシナリオ、言い換えれば詩人の詩作上の戦略のことです。
敢えて言うならば、前者は読者のために、後者は詩人のためにということになるでしょう。
この詩人が鎮静作用という言葉を、それもまだ括弧書きですから、半信半疑、あるいは遅疑逡巡するこころがあるのだと思いますが、しかし、この鎮静作用という言葉を使ったことは、この詩人のこれからの人生において、とても重要なことだと思います。
何故ならば、言語藝術に限りませんが、藝術という人間の行為の最たるもの、その精華は、古今東西、鎮静作用にあるからです。主義や主張や思想とは全く無関係に、遠く離れて、ひとのこころの騒ぎを鎮め、鎮静する働き。これが最高の藝術のもたらす恩恵であると、わたしは思います。
わたしは、この藝術観をドイツの作家トーマス•マンに教わりました。マンの小説の言葉はそのような、装飾性の高い、遊戯の、また嬉遊の言葉になっています。また、同じ鎮静効果を、わたしの好きな画家、マチスにも観るものです。
「1.副題について
括弧の中に入っている副題を、詩集の表題にするという考えは、ある成熟を前提にした発想である。これを何歳で知るかによって、そのひとの人生が様々なことになるだろうと思う。」
秋川さんは、間違いなく成熟という場所に至ったのであると、わたしは思います。
[註]
さて、そうである事実を前に、次に詩人とは何かと考えてみることにします。詩人の定義です。これは、文化人類学用語借りて言えば、詩人は絶対贈与者であるということです。
普通、社会の中に、従い法律の中に生きているわたしたちは、交換原理に従って生きています。何かをもらう代わりに何かを与える。何かを与える代わりに、何かをもらう。この原理に、法律も、即ち意義と意味の定義された言語の体系、システムである法律の体系も、この交換原理の上に成り立っています。
この原理を否定すると、大多数にとっての社会が成り立たない。
しかし、詩人は絶対贈与者であって、与えても見返りを求めないし、そもそも全然期待をしない人種なのです。そうして、この考えに基づいて、言葉を使います。
この詩集にある「贈与論」は、社会の中での贈与の関係を、時間の中での受け取りと受け渡しという形で言葉にし、もし絶対的な贈与関係が成立するとすれば、「贈与は恩寵に対する返礼形式もしくは抗議形式のひとつだ」と書いています。税務官は、このような関係に立ち入ることができない。何故ならば、「贈与の本質は等価交換に基づく価値観や生活様式の破壊である」から。これを「等価交換に収斂することを拒む力学」と秋川さんは呼んでいます。
この詩集のすべての詩は、この力学によって書かれた詩です。その力学に基づく精神の運動が舞踏であり、それがそのまま魂の軌跡になっています。
戦禍舞踏論という詩をみてみましょう。
最初のひと段落で、人間とその社会の本質であるスパイという行為、監視という行為、密告という行為に言及し、そこが戦場であることを示唆しています。この指摘は本質的です。この詩を最初に措いた詩人のこころがわかります。そうして、それを詩集の題名に採用したというこころが。ここが戦場である。
そうして、他方、奇瑞の生物というべき白象や獅子や麒麟や孔雀が対置されて、動態的な運動を生み出す最初の均衡を生み出します。
この詩に限らず、どの詩においても、言葉の、もっと言えば概念の対立による立体的な構造が生み出されています。これは、前の詩集「麗人と莫連」と全く変わりません。
上の「麗人と莫連」についての詩人の成熟への思いへの言及の後で、わたしは次のように続けていました。
「このこととあわせて思うのは、この詩集は、詩人の人生と等価であるということです。詩人の、いうまでもなく凝縮が、これらの言葉であるということが、あらためて伝わってくる。」
この言葉を再度引用して、各詩篇の立体的な構造を生み出すこころを想い出す事にしましょう。
社会の内と外の間にいる役割を担う者が、規則や紀律に違背するものであったり(「私見犯意」)、そのような境域にいる緑の鴉が、そこから境域の外へ飛び立ったり(「パラダイス」)、作者のこころは縦横無尽に遊びます。
ひとつひとつの詩篇を論じることよりも、わたしの好きな箇所を引用して、批評に代えたいと思います。それは、既に上述した鎮静作用を備えた言葉です。
「まさか麒麟の背中がこんなにも柔らかいなんて、想像すらしなかった。」(「超獣師篇」)
「マーマレードの海原を遊泳しているような陽だまりの季節は訪れない。驟雨は恋人たちの小さな軋轢の集積によって、満月は石畳に並べられた小魚の些細な願いによってもたらされる。僥倖だけが世界を創る。そして、多くを捨てた時、人は初めて花に囲まれる。」(「パラダイス」)
他にも論理的な骨格を備えた文に、遊びのこころの宿った文が幾つもあります。
結局、読者はこのような詩人の言葉を味わうだけでよいのです。解釈は無用です。
それから、最後に「童化」という独特の言葉について。この言葉は2カ所、ひとつは「超獣詩篇」に、もうひとつは、「アンリ•ルソーの森」に出て来ます。
童子とは、未分化の状態にある人間であり、法律の外にいる人間のことです。いや、まだ人間にすらなっていないのかも知れません。
この子供を想像するときに、話者は、快楽の弛緩を味わっているように思われます。勿論、その言葉を読む読者もまた。精神の力学に従った強靭な、荘厳し、聖性を奉る舞踏とは対照的に、魂の快楽を味わう弛緩した童化の未分化の状態(荘厳の放棄)に在ること、詩人の魂はこのふたつの間を往復して、すべての詩篇を書き上げたことが、よくわかります。
Contraction(収縮)とrelaxation(弛緩)。これは、このまま筋肉の運動の動きそのものであり、これが秋川さんの舞踏を可能ならしめている文字通りの運動能力、舞踏能力、言語能力です。
話者のこころも鎮まるのは、後者であり、読者もそのこころにある詩人の言葉を読んで、こころが一緒に鎮まるのを覚えます。
「聖性と獰猛さが混交した護神の温もりに長く触れていると、魂が鎮められて次第に童化してゆくのがわかる。」(「超獣詩篇」)
「僕は 畢竟
童化の 意味一つ
分かろうともしないで
膂力によって それらを
アンリ•ルソーの森の中に
統御し 聖化する試みすら
予め 放棄してしまっていたのだ」
(「アンリ•ルソーの森」)
どの言葉もつくりものではなく、全く話者が、詩人が感じた事実としての生きている感覚を言葉に変換していることが、こうして読んでみるとよく伝わって来ます。
そのような言葉は誠に貴重であると、わたしは思うのです。
他にも数多くの参照をいつもの通り、この詩集に書き込むことを致しましたが、上のような詩集の言葉の質(quality)とその骨組みを論じることで、細かな批評の言葉に代えたいと思います。