【Eichendorfの詩 17-2】Der verliebte Reisende (恋する旅人)
【原文】
2
Ich geh durch die dunklen Gassen
Und wandre von Haus zu Haus,
Ich kann mich noch immer nicht fassen,
Sieht alles so trübe aus.
Da gehen viel Männer und Frauen,
Die alle so lustig sehn,
Die fahren und lachen und bauen,
Dass mir die Sinne vergehn.
Oft wenn ich bläuliche Streifen
She umber die Daecher fliehn,
Sonnenschein draussen schweifen,
Wolken am Himmel ziehen:
Da treten mitten im Scherze
Die Tränen ins Auge mir,
Denn die mich lieben von Herzen
Sind alle so weit von hier.
【散文訳】
2
わたしは暗い小路を通って行く
そして家から家へと遍歴する
わたしは、わたしを相変わらず捕まえることができず
すべてはかくも曇って暗く見える。
そこへ、多数の男と女が行くが
皆かくも陽気にものを見
馬車に乗り、そして笑い、そして何かを建てるので
わたしの五感が消えて行く。
しばしば、わたしが青い線が
屋根屋根の上に逃げるのを見るたびに
戸外の太陽の光は漂い
空にある雲は行く
そこへ、冗談のただ中に
涙がわが目に入って来る
何故ならば、涙は心からわたしを愛しており
涙はみなかくもここから遠くにあるからだ。
【解釈と鑑賞】
この詩も不思議な詩です。ドイツ語の文法通りに書かれていますが、アイヒェンドルフの歌うところは、普通に文法通りの意味ではありません。
この詩の歌い手は、家家を訪ねますが、それらの家はいづれも、歌い手の家ではないようです。そうして、その訪ねる道は暗い。何故ならば、歌い手のわたしは自分自身を捕まえていないから、即ち自分自身を知らないからだというのです。これが一連目。
二連目は、対照的に、今度は孤独なひとりの人間から、陽気な多数の男女の登場を迎え、馬車に乗って遠出をしたり、笑ったり、家を建てたりします。これらのことは、詩人とは無縁のことのようです。その様子をみると、詩人の五感は消えて行く。気が遠くなって行くのです。
三連目は、さて、この青い線状のものが何かはわかりませんが、それは文字通りの姿をとるとして、それが家々の屋根の上を逃げて行くのを詩人は見るのです。この青い線が何かは、今は謎です。そうして、戸外の太陽の光は漂い、ということは、何も目的なく、目的を喪って、漂っている。天空の雲も行く。と続く一行は、雲もまた目的を欠いているように見えます。
四連目、最後の連では、こういったことがみな冗談であって、こういう冗談のど真ん中に、涙がわたしにやってくるのです。その理由は、涙というものは、こころからそのようなわたしを愛しているのであり、この場所から遥かに遠いものであるからです。愛してるから遠いのか、遠いから愛しているのか、この何故ならばの後の2行の文のそれぞれ互いの関係は、謎であり、読み手の推量に任されています。
以上が第2番目の詩の内容です。
このように歌うアイヒェンドルフは、全く現代の詩人、21世紀の詩人のようであり、少しも古くなく、18世紀の詩人であるにも拘らず、字tにcontemporaryな詩人であると、わたしは思います。