2011年1月31日月曜日

ヘルダーリンの「生の半分」について

Facebookの中村剛彦君のページから、ミッドナイトプレスに同君の連載している「中村剛彦の「甦る詩人たち」」の最新題、「34.「終らないロマン主義」」にヘルダーリンの「生の半ば」と題した詩を見たので、興味を以て、ヘルダーリンの原文に当たってみた。

ヘルダーリンの原文、吹田さんの訳、そうして、いつもながら、散文訳と解釈という順序で書いてみようと思う。わたしの訳は、散文訳とあるように、吹田さんのように叙情的ではありません。

【原文】

Haelfte des Lebens
(人生の半分)


Mit gelben Birnen hänget
Und voll mit wilden Rosen
Das Land in den See,
Ihr holden Schwäne,
Und trunken von Küssen
Tunkt ihr das Haupt
Ins heilignüchterne Wasser.

Weh mir, wo nehm ich, wenn
Es Winter ist, die Blumen, und wo
Den Sonnenschein,
Und Schatten der Erde ?
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen

【吹田訳】

生の半ば     ヘルダーリン  吹田順助訳

黄色なす梨の實は
枝もたわわに、野薔薇水に映らふ
湖の岸べに立てば、
らうたき白鳥よ、汝達(なれたち)は
けうとしや、接吻(くちづけ)に醉ひしれつ、
頭(かうべ)をひたに浸すらし、
淨らにも冷たき水の中に。

悲しからずや、冬としなれば、
われはいづこに花を摘ままし、
いづこに日の光を、
地上の影をや求めえむ。
障壁(へき)は言葉なく、冷かに連なりて、
風吹くなべに風見(かざみ)ぞきしめく。

【散文訳】

黄色の梨とともに
そして、野生の薔薇で一杯になりながら
陸が、湖の中へと掛かっているよ
お前たち、わたしの好きな白鳥たちよ
そして、口づけに陶酔して
お前たちは、頭を
神聖に醒めている水に浸(ひた)しているのだね

ああ、わたしは悲しい、冬であれば
わたしはどこで花々を摘み、
どこで太陽の光を
そして、どこで地上の影を
とることがあるだろうか
壁が連綿と無言に冷たく立っていて、風の中には
旗という旗(風見の旗)が音を立ててはためいているのだ

【解釈】

この詩の第1連は、白鳥に呼びかけている、白鳥に語りかけています。

第1連の、白鳥のいる世界は、、実りのある浄福の世界です。

これに対して、第2連は、季節は冬、そこにいるこの話者、ああ悲しいと嘆ずる話者のいる世界です。

前者と後者は、互いに反対の世界です。

勿論、題にあるように、生の半分とは、後者の世界のことを言っています。

吹田さんという方の、生の半ばという題では、その詩の意図が伝わらない。

散文的に訳したように、これは、生の半分という意味です。

ひとつのコインの裏と表が、Haelfte、ヘルフテ、それぞれ半分と言い得るように、生の裏と表が、それぞれ、半分づつあるのです。

ひとつは、第1連。その裏は、第2連です。

第2連は、もしこういってよければ、1804年のこのとき、ヘルダーリンのいた世界の心象風景だと思う。

白鳥は、そのような神聖で豊かな世界にいるのに比べて、このわたしはと嘆いているのが第2連。

ヘルダーリンは、自分自身を、冬に寒風に晒されてはためいている旗に象徴させています。

第2連の「地上の影」とは、生きているものの影という意味でしょう。その影もないのだ。

話者の前に、あるいはぐるりに立っている壁は複数形で、幾つも幾つもあるように思われる。

それらの壁という壁は、もの言わず、無言であり、冷たい。

そうして、風の中には、風見の旗が音を立ててはためいている。

この旗は複数形です。

話者がたくさんに分裂しているように見えます。

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