2009年10月25日日曜日

オルフェウスへのソネット(VI)

VI

IST er ein Hiesiger? Nein, aus beiden
Reichen erwuchs seine weite Natur.
Kundiger böge die Zweige der Weiden,
wer die Wurzeln der Weiden erfuhr.

Geht ihr zu Bette, so laßt auf dem Tische
Brot nicht und Milch nicht; die Toten ziehts —.
Aber er, der Beschwörende, mische
unter der Milde des Augenlids

ihre Erscheinung in alles Geschaute;
und der Zauber von Erdrauch und Raute
sei ihm so wahr wie der klarste Bezug.

Nichts kann das gültige Bild ihm verschlimmern;
sei es aus Gräbern, sei es aus Zimmern,
rühme er Fingerring, Spange und Krug.

オルフェウスへのソネットのVIを読んでみよう。

わたしは、MSWORDで原稿を書き、それをこのブログに上梓するのであるが、そこでは、原稿のときにとった行間や、行のつながりが、乱れてしまうので、困ったことである。あるいは、わたしが電子的文書の取り扱いに不慣れなだけかもしれないけれども。

段々と、こうしてリルケのソネットを訳すということ、勿論そのためには解釈をして詩を理解することになるわけだけれども、それが楽しいと思うようになってきた。多分、わたしは、何か、リルケの詩の根底に触れているのだろう。リルケの詩の言葉が難しいものに思われなくなってきたのだ。言葉の難しさとは、その発想、語の配列といえばすべてであるが、語の飛躍、語の省略も。

わたしは、自分自身で定義した、詩は連想の芸術であるという定義に従って、この定義を詩にあてがい解釈することによって、今までソネットを解釈してきたわけですが、どうもこれで無理がないように思われます。

ソネットVIは、またこれは、興味深い、おもしろいソネットだと思います。このソネットそのものが、ひとつの魔法の呪文のようである。祈願文で出来ているソネットです。

【散文訳】

オルフェウスは、ここにいる者なのだろうか。否、オルフェウスの

遥かなる性質は、両方の領域から成長したものだ。(だれでも柳の枝をたわめることは容易であるが、しかし)柳の根を経験し、知っているものこそ、(そうでない者よりも)もっと精通し、熟知して(地上に出ている)柳の枝々を撓(たわ)めることができよう。(オルフェウスは、そのような者であれ。)

お前たちが、寝床へ行くならば、テーブルの上に、パンを残しておいてはいけないし、

牛乳を残しておいてもいけない。というのも、そうすると、死者たちがやって来るからだ。

しかし、オルフェウス、この魔法を使って呼び出すことのできる者は、瞼(まぶた)の柔和さの下で、死者たちの出現を、すべての見られたものの中へと混ぜよ。大地の煙と菱形の魔法は、オルフェウスにとっては、最も清澄な関係のように真実であれかし。

これがオルフェウスだといって表わされて通用している姿、像は、どれもオルフェウスを貶めることはできない。たとえ、それが、墓場から出てきた像であれ、部屋べやからの、つまり、部屋に飾ってある絵や像の姿であれ。オルフェウスは、指輪、バックル(帯止め)、そして壺を褒め称えよ。

【散文訳】

上で、散文的に翻訳してしまったら、なんだか、書くことが余りなくなってしまった。やはり、解釈する思考プロセスを書いてから、散文訳という果実に至るという方が、いいのだろうなあ。でも、書いてみよう。

1連の最初の一行、オルフェウスは、ここにいる者、ここの者なのかという疑問文は、前のソネットVの中の第3連の3行目のdas Hiersein、ここにいること、を受けている。オルフェウスは、ここに常にはいず、あっという間にあそこへと姿を消すもの、変身するものであった。

二つの領域とは、何であろうか。第2連を読むと、それは、昼と夜、生と死だということがわかる。いづれの領域にもオルフェウスは精通しているというのだ。

2連で、寝る前には、食べたものをテーブルに残すなという、多分ドイツ人の言い伝え、慣用句があるのだろう。そうすると、寝る前に食べたものをそのままにしておくことが、死者を引き寄せるから。というのが、原文の直訳です。

しかし、オルフェウスは、死者が出現しても、それを、オルフェウスが見ることによって見られた対象となるすべてのものと同じものとして、その見られたものの中に混ぜ入れてしまえと、リルケは歌っています。それがオルフェウスに可能であるのは、オルフェウスの瞼が柔和であるから。これは、読み過ぎかも知れませんが、瞼のドイツ語は、Augenlid、このLid、リート、瞼という文字を見ると、つい薔薇の花を連想してしまいます。

大地の煙と菱形の魔法とは、一体何をいっているのでしょうか。このソネットVIの文意からいって、あるいは文脈からいって、オルフェウスは魔法を使うことができるのです。ですから、大地の煙とは、大地の持つ力を意味するのではないでしょうか。何かそこから立ち出る力。この大地と訳したドイツ語は、Erde、エールデで、リルケがソネットIII3連において、いつその男は、大地と星辰を、我らが存在に向けるのかと歌っている同じ大地です。大地や星辰は、大いなる力を有しているのですが、神的な存在であるオルフェウスは、これらの力を使うことができるのでしょう。

菱形とは何か、ですが、これは、あるいは魔方陣の形を言っているのか。あるいは、この菱形という形そのものに、何か意味があって、それがオルフェウスの力に関係しているということなのでしょう。わたしの貧しい知識から思い出してみると、菱形は、それぞれの頂点から対角線を相手方の頂点に引いてやると(これが両点の最短の意志の疎通の距離)、2点の間に障害があっても、他のどれかの線を伝って相手方に到達できるという幾何学的な形にはなりますから、あるいは、オルフェウスの、失われた恋人への強い思いがあるのかも知れないとも、思ったりいたしますが、これは横道に逸れてしまいました。

さて、古来、オルフェウスの姿は、彫刻にされ、絵に描かれてきたものだと思います。そのことが、第4連で歌われている。どうも、墓の中にもオルフェウスの像を納めた死者がいるようです。部屋べやというのは、絵画ではないかと思いますが、彫像もあったことでしょう。その姿は、指輪をはめ、バックルをつけ、壺を持っているという姿だと歌ってあると読めますが、これは、どういうことでしょう。(しかし、他方、オルフェウスの姿は、必ず竪琴と共にありますので、それをリルケが言わないのは、おかしなことです。)

もし、そうではないのであれば、これは、賞賛することが、オルフェウスの仕事であれと言っているということになります。こうしてみると、実際に、次のソネットVIIは、同じ賞賛することという言葉で詩が始まっており、オルフェウスは、賞賛するように決められている者と歌われていますので、ソネットVIの最後の連の最後の行は、そのように読むことがよいのだと思います。

そうすると、指輪、帯止め(バックル)、そして壺とは一体何かということですが、これは、壺については、ソネットVの最後の連の最後の2行のところで述べたように、また第2部のソネットXXIVの壺のことでの言及でも、前回のブログで述べましたように、既に考えてきたことをもとに考えて見ますと、これらのものは、いづれも、定住し、町をつくり、社会を営む上で必要なものの象徴として、リルケは挙げているのではないかということです。指輪は婚姻の、また商売の、また身分の、あるいは帯止めも身分を表わし、壺は町の繁栄をあらわす、といったように。オルフェウスは、人間の営みを褒め称えることをせよ、とリルケは歌っているのでしょう。手、体、町という順序で、リルケは歌っています。

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