V
ERRICHTET keinen Denkstein. Laßt die Rose
nur jedes Jahr zu seinen Gunsten blühn.
Denn Orpheus ists. Seine Metamorphose
in dem und dem. Wir sollen uns nicht mühn
um andre Namen. Ein für alle Male
ists Orpheus, wenn es singt. Er kommt und geht.
Ists nicht schon viel, wenn er die Rosenschale
um ein paar Tage manchmal übersteht?
O wie er schwinden muß, daß ihrs begrifft!
Und wenn ihm selbst auch bangte, daß er schwände
Indem sein Wort das Hiersein übertrifft,
ist er schon dort, wohin ihrs nicht begleitet.
Der Leier Gitter zwängt ihm nicht die Hände.
Und er gehorcht, indem er überschreitet.
このブログでは、ソネットVを読むわけであるが、実際には今日わたしは移動書斎にて既に第2部のソネットVIまでを読んでいて、その間、ソネットとソネットの関係や、連と連との間の関係を見つけて、思ったことを、この詩を印刷した実際の紙に書いていて、これらの新しい発見は、過去に遡って、以前のブログに書き込むわけにはいかないという不便がある。
悲歌の場合は、最初に相当読み込んでから書き始めたので、このような問題は起きなかったけれども、ソネットの場合には、頭から読んで行こうということなので、これは致し方ないことだろう。まとまりのあるものを、時間の中で書くと、断片的になってしまう。
後へ行くに従って、過去に論じたソネットに遡及し、言及する、引用するということが起きることでしょう。まとまらないのは、ブログという形式のなせるわざゆえ、仕方がない。
さて、ソネットの5番です。
リルケは、前のソネットIVが、空間(複数)で終わっているので、その連想から、ソネットVを書き始めたのだと思う。このソネットの主題は、オルフェウスの変身です。しかし、何故変身するのか、それはどのようなものなのでしょうか。それが歌ってあります。空間ということから、ソネット3の風、息というものが、主調として、ここまで吹いていると考えることができます。
【散文訳】
記念碑を建てることをしてはならない。薔薇には、
彼のために、ただただ毎年花を咲かせるようにしなさい。
何故なら、オルフェウスが薔薇だからだ。オルフェウスは変身して、
これにも、あれにも、なっている。わたしたちは、オルフェウスという
以外の名前を思い煩うには及ばない。歌声があれば、いつも、
オルフェウスなのだ。オルフェウスは、来たり、そして、去る。
もしオルフェウスが、薔薇の花弁の姿に、数日の間留まることに堪えるならば、
それだけで、大変なことではないだろうか。
ああ、お前たちが理解したと思ったら、オルフェウスは消えなければならないのだ。
そして、オルフェウスの言葉が、ここにあるということを超えてしまうことによって、
オルフェウスが消えるということが、オルフェウス自身をまた不安にするのだが、
そのときには、もうあそこにいて、お前たちはついてゆくことができないのだ。
竪琴の弦が、オルフェウスの両手に何かを強いることはない。そして、オルフェウスは
限界を踏み超えてゆくことによって、(何ものかの意志や命令に)従っているのだ。
【解釈】
薔薇の花は、遺言によってリルケの墓碑銘の主題となっている、その花です。「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009年8月15日)のブログにて、その薔薇が一体何であるかを論じ、示しました。薔薇とは、リルケが観た宇宙の姿そのものであるというのが、わたしの理解であり、解釈でした。このときの説明が果たしてうまいものかというと、そうだとは、とても言えないと思いますが、それでも、もう一度、そのことを思い出して、この連を読むことにいたしましょう。
ここで、初めて、オルフェウスが様々なものに姿を変える、変身するということが歌われています。そうして、それがどのような姿であれ、オルフェウスは薔薇であるといえば、それですべて足りるのだと、リルケは歌っているのです。
薔薇の花の花弁、はなびらの内側に包み、同時に外側に溢れるような薔薇のはなびらは、リルケの宇宙の階層構造を象徴していると思いますが、このことと、それから、変身という言葉を、薔薇という名前と一緒に使っているということから、リルケは明らかに、薔薇の花と変身の関係を具体的に、実感を以って、文字にしていると、わたしは思います。
オルフェウスは、数日と同じ姿を保ってはいない。同じ姿に留まるに堪えないといっています。そうして、わたしたちが、個別のそのものの名前を呼んで、それが何か、だれであるかを知ったか知らぬかのうちに、既に、オルフェウスは失せ、その先のどこかへと行ってしまっている。
第3連の、
そして、オルフェウスの言葉が、ここにあるということを超えてしまうことによって、
オルフェウスが消えるということが、オルフェウス自身をまた不安にする
というところは、これは、もう、リルケ自身の意識と感覚を表わしているかのようです。リルケの対象に対する態度も、こうなのだと思います。その生活も、人生も。
この第3連ばかりではありませんが、このソネット全体を読んで、わたしはトーマス・マンのトニオ・クレーガーの次のところを連想し、思い出しました。これは、芸術家の意識のありかたであり、芸術家というものなのだと思わずにはいられません。それは、トニオに、大人たちが、大きくなったら何になるのかと問うことに対するトニオの心中の答えです。
Fragte man ihn, was in aller Welt er zu werden gedachte, so erteilte er wechselnde Auskunft, denn er pflegte zu sagen (und hatte es auch bereits aufgeschrieben), dass er die Moeglichkeiten zu tausend Daseinsformen in sich trage, zusammen mit dem heimlichen Bewusstsein, dass es im Grunde lauter Unmoeglichkeiten seien...
トニオは、一体何になるつもりだと訊かれると、そのたびに違った答えをした。というのも、いつも自分でそういっていたし(また実際既にそうメモしてもいたのだが)、トニオは、幾千もの生存形式に対するたくさんの可能性をその内に蔵しており、そうしてまた同時に、こころ密かに、いや、その根底においては、そんなことは全く不可能なことばかりなのだと、そう意識しても(知っても)いたからである。
こうして考えると、悲歌4番の人形劇場の舞台の前に客席に座って、幕が下りても動かぬ子供の心中の言葉と覚悟を思い出します。(そうして、父親に問うて、みづからの人生の真偽を確かめようとする、子供の悲鳴のような疑問文の声も。)これも、こうして、同じことに触れているのだと思います。留まること、変化に対して、留まること。Bleiben,ブライベン、留まること。
他方、ソネットでのリルケは、留まらずに変身すること、その主人公として、オルフェウスのことを歌っております。しかし、これは同じことの表と裏というべきでしょう。変身することは、留まること(ひとこと、薔薇と呼べばよいのだ!)、留まることは、変身すること(いづれも、オルフェウスだ!)。
最後の連の最後の2行について、話しをしたいと思います。
竪琴の弦が、オルフェウスの両手に何かを強いることはない、という一行は何を意味するのでしょうか。オルフェウスは、両手を使わずに竪琴をひけるのでしょうか。手に何かを強いる、例えば壺を制作するというようなことは、そこに留まるということを意味するからなのでしょうか。確かに、第2部のソネットXXIVでは、粘土で何かを制作するよろこびが語られていて、未知の領域に脚を踏み入れ、境界を踏み越えて行く冒険者たちがいるにもかかわらず、それでも、町ができて、ひとは定住して、粘土からできた壺には水と油が満ちて、栄えるさまが歌われています。手の仕事は、定住に関係があるのでしょう。これに対して、オルフェウスは、そうではないといっているのではないでしょうか。この読み方であると、オルフェウスは、冒険者なのでしょうか。いや、そうではありません。オルフェウスは神的な存在であり、ソネットXXIVの冒険者たちは、人間であるからです。
さて、ここは、ほかにもまだ解釈の余地はあると思いますが、ここ、このときでは、このように解釈をしておくことにいたします。
最後の一行。こうして、オルフェウスは、限界を踏み越えて行く、変身を続けてゆく。それによって、オルフェウスは従っているのだと、リルケは歌っている。これは、何をいっているのでしょうか。リルケは、従うという動詞に敢て目的語をおいておりません。
今までのソネットを読んできてわかることは、ueberschreiten、ユーバーシュライテン、踏み越えるとか、ソネットIにあったように、uebersteigen、ユーバーシュタイゲン、境界を超えて昇ってゆく、踏み越えてゆくといった言葉の根底にあるのは、それは無私の行為である、何ものをも求めぬ純粋な行為であるというリルケの思想です。(求めないという詩想、または思想は、悲歌7番の冒頭にもありました。)あるいは、無私であることによって、その最たる者の場合は、悲歌1番の最後の連で、リノスという神的な若者の死がそうであったように、わが身の死を賭してもひとのための行為をなすことによって、はじめて、踏み越えるという行為が成り立つという、リルケの思想です。リルケは、そのような思想に従って、生きたのでしょう。オルフェウスもまた。いや、それはオルフェウスの思想であったのかも知れません。変身とは、無私の歩みである。
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