2.結界と媒介者について
何故、詩を読むと、その詩について話しをしたくなるのだろうか。自分の知ったことを話したい、話したいとは、人に伝えたいということだ。不思議なことである。
前回上梓した、秋川さんの詩集「麗人と莫連」を移動書斎で読んでいるうちに、リルケの詩集の紙面がそうなったように、数多くの相互参照のしるしや書き込みで、戴いた詩集の紙面が鉛筆書きで埋まり始めている。そうやって、わたしは詩を理解するのだろう。
理解したことの中には、いろいろなことがあるけれども、それをただ書いても、他人には何も面白くもないかも知れないと思うし、どうしたものだろうと思っている。しかし、その思った中に、標題にしたふたつの言葉、結界と媒介者について、詩中の話者が歌うところに興味が向かい、それらについて、それらの関係について、書いてみたいと思った。それらは、詩人のこれからに大いに関係があるのではないだろうか。もっと正確にいうと、詩人の創造する詩中の話者の歌い方に大いに関係するのではないだろうか。この話者の明日のためになることが書ければいいと思う。
詩そのもの以上には、詩について語ることはできないということを前提に、それでも書いてみましょう。
何から書き始めたら一番、わたしの知ったことが伝えられるだろうか。
やはり、結界という言葉から始めよう。結界という言葉は、天地の部の「奔水」という詩の中に出てきて、
その人とは
寛永寺の結界辺りで
幾度となく交わったらしい
とあり、また、破の部の「突風の内側へと」という詩に、
緋縅の空は
酸化鉄の
軋んだ甘みの中へと
溶けてゆき
眷属どもの倦怠が
姻族たちの
白い慈しみに
包まれる頃
水鳥の声を合図にして
結界を打ち破る
侘しき半鐘を
精魂を込めて
ただ一息に打ち鳴らしてみるのだ
とあり、
さらにまた、急の部の「追憶VIII(追復と結界)」に、
幾多の虚無との戯れを棄て赤いカラスになりたい。群れの中にたった一羽だけ混じった結界をついばむ羽根の赤いカラスに
と歌われて、出てくるのです。
ことばの通りに読むと、結界という言葉は、だれか、なにものかが結んで生まれる場所だと思いますが、不思議なことに、話者は、そのものの名前を決して呼ばないのです。
そうではなく、その結界の中にいて、その結果の外へ出ようとしているのが、なぜか多分罪人である検非違使(「突風の内側へ」)や、検非違使と同じ者の姿だと思いますが、「まるで煩悩の過積載車両を厳しく取り締まる孤独な鬼の検問係」(「追憶V(閃光と撹拌」)なのです。これらの名前は、一言でいうと警察なのです。その警察官が自己矛盾するかのように、傍目(はた)には反対の否定的な行為を行うのです。前者は、半鐘を打って、結界の外へでることを、後者は、「見て来たばかりの全ての出品画を巨大な筆で白く塗り潰してしまうことを画策する。」
読んでいくとわかりますが、この同じ警察官の形象は、別の視点から、シナリオを書く青年として登場したり(追憶という題の各詩)、絵筆を持った「不在の素描師」(「不在の素描師」)として姿を変えて登場しているのです。あるいは、赤いカラスとして。(この赤いカラスは美しい。)これらの登場人物、それ以外の同様の登場人物については、またもっと詳しく機会があれば、そのときに触れることにしましょう。
さて、話者は、このような犯罪者を序の部の「復讐劇」では、「下手人」と呼んでいますし、また破の部の「フランシス・ベーコン」でも「不敵の下手人」と呼んでいます。この詩集の登場人物、主人公は、強い言葉で言えば、犯罪者、法を犯したものたちです。国家の法律の外に出たいと思っている。しかし、他方、結界を結んでいる上位者の名前が詩の中で言われることがないのです。ここが、話者と主人公たちの急所だと思います。(この詩文楽アウトローズというブログは、その名前から言ってアウトローなので、法の外にいるわけですから、わたしも主人公たちと同類ということになりましょう。話者の意識も主人公たちも、かくして、わたしには親しい。)
面白いことに、これらの下手人は、共通して、何かに「紛れ込」みたいと思っているのということです。「復讐劇」の「下手人」は、
狂気を
押し隠して
矮小な媒酌人の
仮装に紛れ込む
と歌われていますし、「フランシス・ベーコン」の「不敵の下手人」は、
静謐の衣装をまとったまま
果てのない眠りの中に
紛れ込もうと画策し
と歌われているからです。
結界を破って、外へ出たいという一方で、衣装を着て、何かに紛れ込もうとしている「下手人」の主人公たち。
上の詩で、媒酌人という媒介者になりたいという意識に注目しましょう。これは、あとで触れることになると思います。媒酌人という存在は、また他の詩の中では、別の名前で出てきます。シナリオを書き、演劇的な世界にいる青年(「追憶II(殉死と煉獄)」)は、衣装を着て、媒介者になりたいという「下手人」なのです。仮装といい、衣装といい、この世で何かの役を演じて、うまく紛れ込んだら、罪が赦されるのでしょうか。あるいは、罪が軽くなるのでしょうか。
さて、序の部に「監獄序曲」という題名の詩があるのは、こういうわけで、少しも不思議なことではないということになります。この作品を作者は、「私自身の詩作における立場を表明したものである」と書いていますが、実際、この詩の中に歌われている、絵筆をもつ者は、
聖なる 果実と
鎮魂の 旧い唄声を
頼りに 禅師の
辿った 夢路に
自ら彩色をして歩く 罰
と歌われていて、その創作の行為が、何かの罰であるといわれています。
何故、創作の行為は罰なのでしょうか。それについては、作者のあとがきも、どの詩篇も理由を表立っては、明かしておりません。あとがきに、かろうじて「詩作は多くの過ちを犯してきた「罪人」のすること」だからだとあります。罪人という言葉に括弧がしてありますから、これはいわゆる罪人という意味でしょう。この罪人の括弧を取り外した者たちが、この詩集の中の、色々な名前で呼ばれる主人公たちということになるのでしょう。さて、そうだとして、詩作によって、これらの罪人たちはゆるされるのでしょうか。
わたしは、上で、結界を結ぶ存在の名前を話者は言わないと書きましたが、このことと、話者の罪の意識は密接な関係があります。
話者は、媒介者になることで、この問題を解くことができると思っているのではないかと思います。
この媒介者は、「監獄序曲」では、「配達人」と呼ばれ、「復讐劇」では、「媒酌人」と呼ばれ、「劇薬」では、「触媒」と呼ばれています。
媒介者、媒体は、意思疎通、コミュニケーションにとっての前提で、必要不可欠のものですが、話者の歌う主人公の意識が自分は媒介者でないと思えば、
配達人の棲まない 浮世なら
まるごと愛そうか 毀してしまおうか
と歌うことになり、
話者の歌う主人公の意識が自分は媒介者になりたいと思えば、上で述べたように「紛れ込」みたいと思うのです。それは、罪を赦されるというよりは、罪から逃れるため、休むためです。そのように見えます。それは、悪いことではありません。
さて、媒介者になるという動機が、もしこのようなものであれば、主人公は、自分の内と外にある分裂や対立をそのまま維持しなければならないという、追憶の諸篇に出てくる青年の意識、すなわちこの詩集の結構に戻ることでしょう。
結界を結んだ存在の名前を「告げる」こと、それが「初源の言葉を告げる」(「追憶I(麗人と莫連)」)ことになることを、願っています。
2 件のコメント:
タクランケさん、私自身が意識していないことにまで踏み込んで書かれていて、前回以上に驚いています。
個々の作品における意識は元々バラバラなのですが、詩集を通して使われているいくつかのキーワードの串刺し参照がなされることによって、作者あるいは描かれている人物の共通した深層心理が読まれていき、解体されていくような感じがします。
秋川さん、詩にまつわる言葉は、決して詩そのものの豊かさを超えることができないという事実を痛感するばかりです。
わたしは、解体しようと思ったのではありません、理解しようと思ったのでした。ですから、これは、済みません、わたしの方法の限界なのでしょう。本当は、詩人のこころを直接詩の中から汲みだしたいと思った。
詩について語るということは、本当はとても難しいことなのかも知れません、仇や疎かに、すべきことではない。
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