IV
O IHR Zärtlichen, tretet zuweilen
in den Atem, der euch nicht meint,
laßt ihn an eueren Wangen sich teilen,
hinter euch zittert er, wieder vereint.
O ihr Seligen, o ihr Heilen,
die ihr der Anfang der Herzen scheint.
Bogen der Pfeile und Ziele von Pfeilen,
ewiger glänzt euer Lächeln verweint.
Fürchtet euch nicht zu
gebt sie zurück an der Erde Gewicht;
schwer sind die Berge, schwer sind die Meere.
Selbst die als Kinder ihr pflanztet, die Bäume,
wurden zu schwer längst; ihr trüget sie nicht.
Aber die Lüfte... aber die Räume....
【解釈】
今日は、【散文訳】からではなく、解釈から入ろう。その方が書きやすい。とはいえ、逆のいつもの順序でも、解釈をしてから、散文訳をまとめ、それをその順序で上梓しているということなので、実は変わらないのであるが。
最初のソネットからこの4番まで読み返してみて、リルケの詩想がわかったように思う。あるいは、リルケの連想という方が正しいか。
ソネットIの主調は、耳の中の平安ということである。そのために沈黙から飛び出した、あるいは生まれ出でた動物たちに、オルフェウスは、平安のための寺院を耳の中に建立した。
ソネットIIも、同様の主調、モチーフで理解することができる。耳の中に永遠に眠る少女を歌っている。この少女は、眠っていて、覚醒することを求めないということを以って、オルフェウスは、少女の眠っている世界を完成させたのである。この求めないという主調は、悲歌7番の第1連に出てくる主調と同じである。この7番の第5連にもMaedchen、メートヒェン、少女、いや女たちが出てくるが、これらは、都会の自堕落な生活を求める逆の展開の女たちであったけれども。
そうして、この求めないということから、更に詩想と連想の糸は繋がっていて、ソネットIIIに続いている。
ソネットIIIでは、神ならば、竪琴の弦の間を通り抜けてみせ、そうして分かれずに、分裂することなく一つでいられるのであるが、人間はそうはいかないと歌っている。この、駱駝が針の穴を通るという、聖書にある譬えに似た言葉を思い出させる表現であるが、人間には、そのような行為は苦しみであり、不安であろうものを、歌は、それを平安に導くと歌っている。わたしたちを存在ならしめるような、そんな歌を歌え、そのように歌を歌えとオルフェウスよ、お前が歌を教えているその男に教えよとリルケは歌っている。
ここで、リルケは、こころの交差点にはアポロのための寺院は立っていないのだといっている。この意味を前回ソネットIIIを解釈するときには、わからないとしたのであるが、このような詩想の糸を辿ってみると、その意味は平明である。アポロは神であるので、ふたつのこころの交差点にあっても不安にはならず、そのこころは平安であるので、ソネットIでオルフェウスが動物たちの避難のために建立したような寺院は不要なのである。そのような意味であるとわたしは思う。
ふたつのこころの道の交差点とは何かは、もっとこれからソネットを読むに従い、また考えを深めて行こう。既にソネットIIIのところで触れたように、ソネットXXIXの第3連の第2行に同じ詩想が出てきます。そこに至るまでに、正解に至ることでしょう。
さて、そうして、このソネットIIIの最後のふたつの連で、真に歌うということは、大きな声で大仰に歌うのではなく、小さな声で、息をそっと吹きかけるような声、何ものをも求めぬ息なのだとリルケは歌い、それは神の中を行渡る風と言い換え、すなわち一言で風だと言って、このソネットIIIを終わっていますが、この息、風という連想から、更にソネットIVが始まっています。
O IHR Zärtlichen, tretet zuweilen
in den Atem, der euch nicht meint,
laßt ihn an eueren Wangen sich teilen,
hinter euch zittert er, wieder vereint.
【散文訳】
ああ、優しいひとたちよ、ときには、
お前たちのことを思っていない息の中に歩みいりなさい、
そうして、自分の両の頬に息を当てて、息が分かれるようにしなさい、
お前たちの後ろで息は震え、再びひとつになるから。
このソネットIIIの第1連で、リルケはソネットIIの終わりのところから、詩想を繋いで、息というものを歌っています。息は、人間とは違ってばらばらになることなく、ひとつになっているものだとリルケは言っています。この言い方は、上に見た、ソネットIIIの第1連の第3行の、竪琴の弦の間を通り抜けるという主調と同じものです。神はいつも一体だと、リルケが言っていることが、これでわかります。悲歌7番で鳥が編隊を組んでいつも、人間のようにバラバラに孤独ではなく、ひとつになって意思疎通ができる、距離がなくひとつになっていられることを、rein、ライン、純粋だ、鳥のように純粋だと歌っています。同じように、息も、従って風も、こうしてみると、純粋だということができるでしょう。それゆえ、リルケは、神の中を吹き渡るとソネットIIIの最後の連で歌ったのでしょう。
思えば、悲歌の中で、特にその2番では、天使たちもまたいつも一体になっている存在でありました。地上においては、ばらばらになって鏡としてその姿をあらわしていたわけですが。
こうしてこのような順序で天使のことを考えてみると、詩人とは、Vision、ヴィジョンを歌う者のことだといわずにはいられません。Hart CraneのTo Brooklyn Bridgeもそうでした。リルケの天使といい、ブルックリン橋に立つ、自由の女神、否、白い鴎の織り成す聖母マリアといい、それは素晴らしいヴィジョンだと思います。
さて、Atem、アーテム、息の中へ歩みいれよとなにをいっているかということに戻りましょう。これは、以上説明してきた文脈から明らかなように、息の中、風の中に入るということは、分裂せず、ばらばらにならなず、平安になること、ひとつであること、存在していることを意味しています。
だから、続いて、こころの平安ということから、第2連で、聖者たちよ、完全無欠な、健やかなるものたちよという呼びかけに繋がるのです。第2連です。
O ihr Seligen, o ihr Heilen,
die ihr der Anfang der Herzen scheint.
Bogen der Pfeile und Ziele von Pfeilen,
ewiger glänzt euer Lächeln verweint.
【散文訳】
ああ、聖なるものたちよ、完全なるものたちよ、
(複数の)こころの始まりとみえるものたちよ。
矢の飛び行き弓なりに描く弧と、矢の的、
矢よりも一層永遠に、お前たちの微笑みは、涙して、輝く。
さて、上では、息、風は、分裂しないということ、一体であることをみてきましたが、これに対して、矢は、それを切り裂いて飛び行くものです。リルケの連想の矢も一筋に飛んでいるようです。
そうして、聖者は、こころの平安をもっているひとです。矢は、最初は勢いがあり高く上を目指して飛んでいくが、いづれは弧を描いて落ちてゆき、的を射ることになるのだとリルケはいっていて、それは、次の第3連で、重力のことを歌っていることに繋がっているのですが、それはそれとして、(複数の)こころの始まりには、こころの平安があるのだとリルケはいっているのです。
したがって、平安を知っている聖者たちのこころは、重力とは無縁で、風のようであり、その微笑は、そうやって飛ぶ矢よりももっと永遠に、重力で落ちることなく、いやあるいは、矢が落つるものであればなお一層、かえって、風のように永遠に、微笑んで、輝くのです。
さらに、しかし、その微笑の輝きには、涙して輝くとあるように、その身に受ける矢の悲しみも知っているということなのでしょう。いかがでしょうか。
第3連に参りましょう。
Fürchtet euch nicht zu
gebt sie zurück an der Erde Gewicht;
schwer sind die Berge, schwer sind die Meere.
【散文訳】
重力を苦しむことを恐れてはならない、
重力は地上の重さに返しなさい。
山々は重たいし、海という海もみな重たいのだ。
前の連の矢の譬えから、この連では、重力のことを歌っています。これは、ここに歌われている通りの、文字通りの解釈で、よいのではないでしょうか。理解のままに。
最後の連です。
Selbst die als Kinder ihr pflanztet, die Bäume,
wurden zu schwer längst; ihr trüget sie nicht.
Aber die Lüfte... aber die Räume....
【散文訳】
お前たちが、子供のときに植えた木々さえも、
時間がたってもう重過ぎる位になってしまった。
持って担ごうとしても、それはできはしない。
しかし、空気は、そうではない、しかし、空間は、そうではない。
(時間がたっても、お前たちは、空気や空間を持ち運ぶことができる。それらは、落ちるものではないのだ。)
この最後の連で、空気、呼気、このソネットIII第1連に出てきた言葉で言えば、Atem、アーテム、息、呼吸は、地上に落ちないとリルケは考えていることがわかります。それから、空間もまた。空気も空間もともにドイツ語では、複数形になっています。
この連は、丁度そのまま悲歌の、リルケの空間論の註釈になっています。実は、わたしはこのブログの2009年7月と8月に集中的にリルケの空間を論じましたが、この論がそうであったように、リルケの空間の、これは、格好の註釈になっています。わたしは、ここから、実はリルケは空間をなんだと考えていたのかを書きたいと思っています。それは、空間論を書いたときに、敢て書かずに、一歩手前で筆を抑制したところに、この最後の連は触れているからです。でも、これは、また稿を改めたいと思います。ひとこと今ここに書くとすると、リルケは現実を、かくも、このように意味だと考えていたということです。言葉の意味、です。リルケの空間は、ことばの世界によく似ているのです。もっと正確にいいますと、概念の世界に。
さて、この最後の連で、リルケは、子供のときにと訳しましたが、直訳すれば、子供として植樹をすると歌っています。リルケは、子供として木を植えるといっているのです。子供、人間の初期の、幼児期がどんな人間にとってに本質的に重要だとリルケが考えているかは、悲歌の「天使と死者を語る前に」(2009年6月21日)で、Fruehe、フリューエ、早い時期にというリルケの愛好する言葉について分析することで、論じたとおりです。それが、天使の性格と能力に、リルケからみると憧憬の強い思いを抱かせるのでした、勿論、恐怖心と裏腹に。
次は、ソネットVに参ります。
2 件のコメント:
takrankeさん
やっとここへたどり着きました(笑)
ここではドイツ語の詩が主ですね
私はフィクション体質が欠如している人間ですが、若い頃、詩は好きでした
主に現代詩を読んでいました
商社の入社試験で愛読書は?とんも問いに対して「西脇順三郎全詩集」という、バカな答えをしてしまった人間です(笑)
またおじゃまします
Alexさん、
いやあ、ようこそいらしてくださいました。ここでは、息をすることができます。今、リルケを論じています。
そうですか、わたしは奥手なので、詩に魅了されたのは、こんな年になってからです。そうして、西脇順三郎、わたしも好きです。
また、いらしてください。
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