2009年10月31日土曜日

オルフェウスへのソネット(VIII)

VIII

NUR im Raum der Rühmung darf die Klage
gehn, die Nymphe des geweinten Quells,
wachend über unserm Niederschlage,
daß er klar sei an demselben Fels,

der die Tore trägt und die Altäre. —
Sieh, um ihre stillen Schultern früht
das Gefühl, daß sie die jüngste wäre
unter den Geschwistern im Gemüt.

Jubel weiß, und Sehnsucht ist geständig,
nur die Klage lernt noch; mädchenhändig
zählt sie nächtelang das alte Schlimme.

Aber plötzlich, schräg und ungeübt,
hält sie doch ein Sternbild unsrer Stimme
in den Himmel, den ihr Hauch nicht trübt.

前回読んだソネットVIIでよくわからなかった、

腐敗の王たちの墓穴の中では、賞賛することが嘘であるといって

オルフェウスを責め、罰することはないし、また

神々から一つの影が落ちて来るからという理由で、

オルフェウスを罰することはないのだ。

という連の、腐敗の王の墓穴でなぜオルフェウスは責められないのかというところですが、ソネットVIIを読むと、オルフェウスは、賞賛する者として歌われていて、その象徴として成熟した果実を鉢に抱いている姿として歌われています。

生きているもの、生命あるものは、この世では腐敗しますから、そのような王たちのところに行って、そうして死者でもある(生命のない)王たちのところへ行って、豊かな果物を持ち、その素晴らしさを歌っても、オルフェウスの場合には、決して、そんなことを歌っていても、いづれは生あるものは腐敗するだといって呵責されないといっているのだと思います。このように読みたいと思います。それが、オルフェウスの竪琴と歌声のなす音楽の力、聴力に訴える力なのでしょう。

またこうして考えてみますと、同様によくわからなかった、最後の連、

オルフェウスは、死者たちの戸口の中に、

もっとずっと中に入っていって、賞賛に値する果実を盛った鉢を

手に持っている、留まる使者のひとりなのである。

という連も、成熟した果実とは反対の世界にいる死者たちの中に、上に述べた腐敗の王たちの中でも非難されないということと同じ理由で、臆することなく入っていけるオルフェウスの姿を歌ったものと解釈することができると思います。もっとも、死者たちという言葉は、リルケの場合には注意が必要で、生の反対の存在とはいえ、オルフェウスのように「留まる使者」には、極近しい存在だということは留意しておく必要があると思います。

さて、ソネットVIIIに参りましょう。このソネットVIIIでも、さらに、引き続き、前のソネットの賞賛という主調を受けて、賞賛の空間という言葉から始まります。

【散文訳】

賞賛することという空間の中でのみ、悲嘆は行くことが

ゆるされる。悲嘆とは、涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフであり、

わたしたちの落下が、門を担い、祭壇を担っている同じ岩のところで、

清澄であると思って(清澄であることを)見張っているのだ。

見てごらん、ニンフの静かな両肩の周りには、こころの中に住む姉妹のなかでは

自分が一番年下で若いと思っている感情が、早々と萌(きざ)している。

歓喜は知っているし、憧憬は告白するが、しかし、悲嘆だけがまだ学ぶのだ。

悲嘆は、夜通し、古い、昔の悪いものを、娘の手で数えている。

しかし、突然、斜めに(まっすぐではなく)、そして未熟に(手際よくなく)、

悲嘆は、その息が曇らせることのない天の中へと、わたしたちの声の星座を掲げて保つのだ。

【解釈】

まづ、賞賛すること、ということを空間だとするリルケは、いつものリルケです。この詩人にとって、言葉の意味とは、ひとつの空間に他ならないのです。悲歌の世界を読み、慣れると、この出だしは、すんなりと入ってきて、驚くことはありません。

そうして、リルケが空間といったならば、既に今までソネットIIIとソネットIVで見てきたように、Hauch、ハオホ、息と関係があるのでした。そのように、まさしく、このソネットのさいごの一行に、Hauch、ハオホ、息が出てきます。

さて、最初の連で、悲嘆が出てきます。この悲嘆は、「涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフ」と言い換えられています。これは、泉、源泉があって、それが泣かれるという言い方なのですが、泉が泣かれるとは、誰かが泣いた涙が泉の水となって、そこから流れ出るような、そのような泉、源泉という意味です。その泉の精が、悲嘆と呼ばれているのです。そのような泉であり、泉の精であれば、そのニンフの名前は、悲嘆の名にふさわしいということになるでしょう。

そうして、このニンフは、「わたしたちの落下」を見張っているのです。わたしたちは、泉から、泣かれた水として激しく落下する水の流れなのです。(Niederschlagという言葉の意味からして、わたしたちは望んで落ちているのではありません。)そうして、泉の精は何を見張っているかというと、わたしたちの落下が、同じ岩のところで、清澄であること、清らかであることを見張っているというのです。時間の中で流れるわたしたちの生の一瞬一瞬がklar、クラール、清らかであることを見張っているのです。

岩が不易を意味することは、既に悲歌2番の最後の連で、言葉は別ですが同じ岩(Gestein、ゲシュタイン)として歌われ、流行であるStrom、シュトローム、流れと対比させて歌われていたことを思い出しましょう。詩人という人間は、必ず概念化をしますので、仮に時間の中でバラバラに詩を書いているように見えていても、言葉を立体的に使って作品を構築するものですから、詩人は無意識にでも、そうする者なのですが、リルケの場合は、明らかに意識的にそうしています。しかも、悲歌とソネットは同じ時期を重ねて詩作されている。

また、klar、クラール、清らかなという形容詞は、ソネットIの動物たちの棲む森の形容詞でもありましたし、ソネットIIで、乙女の姿を形容する副詞として出てきたことを思い出しましょう。これは、rein、ライン、純粋なという言葉と相当程度意味の重なる言葉として出てきているように思います。Rein、ライン、純粋なという言葉も、リルケ好みの言葉でした。

さて、そうして、その、流れの清澄度を測る定点である動かぬ岩は、門(複数)と祭壇を担っていると歌われています。前者の門、ドイツ語では、Tor、トア(英語のドアです)といいますが、これを見て反射的にわたしが連想するのは、町の門です。ドイツの町は城壁に囲まれていて、中世の姿をしていますが、東西南北に門、城門がある。後者の祭壇は、寺院を連想させます。このように考えると、これらふたつの言葉は、世俗の社会と、神聖な世界のふたつを指し、いづれをも、この不易の岩が担っていると解釈することができます。さて、次の、

見てごらん、ニンフの静かな両肩の周りには、こころの中に住む姉妹のなかでは

自分が一番年下で若いと思っている感情が、早々と萌(きざ)している。

というこの行は、何を歌っているのでしょうか。

これは、次の連との比較で読むと、歳が若くて、年下で、何もものごとを知らないという嘆きの(悲嘆の)感情だということがわかります。この泉の精は、そう思って、嘆いているわけです。

しかし、話者は、ただこの泉の精を嘆かせているだけではありません。Fruehen、早くに萌すという動詞を使って、その本質的な重要性を表わしています。Frueh、フリュー、早くにという言葉は、リルケ好みの言葉であって、宇宙の創世の初期、ものごとの叢生の初期、人間の子供のころという初期を、初期という初期をリルケがどんなに大切に思っていたかは、悲歌を通して歌われていた通りです。実は、fruehen、フリューエン、早く萌すという動詞は、ドイツ語にはなく、これはリルケの造語です。

ですから、このまだ未熟だという泉の精の感情、こころは、決して消極的なものではなく、深い意味のあることなのです。こう考えてみると、リルケが、「ニンフの静かな両肩の周りには」と歌ったところで、still、シュティル、静かなという形容詞にも、この語を選んだ必然的な理由が伺われます。沈黙は、今まで読んだソネットの中でも、何か大切なものが生まれてくる場所でしたし、前のソネットVIIでも、石の沈黙から、賞賛者としてのオルフェウスは生まれて来るのでした。ですから、このように、賞賛の空間では、沈黙に類する言葉が出てくるのでしょう。

しかし、何故、肩なのでしょうか。これは、前の行に、岩が門と祭壇を担うとあるからでしょう。泉の精は、まだその足りなさゆえに、門と祭壇を担うようにはできないのです。あるいは、それの相当する、泉の精としての仕事を担うことができないのです。

さて、次の第3連では、泉の精、すなわち悲嘆は、姉妹のなかで一番未熟な年少者ゆえに、まだ学ぶものとして歌われています。これは、この詩行の通りの理解でよいのではないかと思います。ただ、悲嘆といい(同じ悲嘆という擬人化された名前は、悲歌10番にもでてきます)、歓喜と憧憬といい、リルケは、よくこのような擬人法を使用します。しかし、わたしは、これは単なる修辞的な擬人法ではないと思っています。これは、もっと中世的な、言葉に対する考えと姿勢から生まれてくるものではないかと思っています。このことと、リルケが空間ということとは密接な関係があると思います。それは、ひとことでいうと、自分の言葉の体系を極めつくした者だけが辿り着く、概念化の極地だということです。

悲歌に限らず、リルケが何故天使に惹かれ、天使の歌を多く歌っているのかは、興味のあるところです。

さて、最後の連ですが、「斜めに(まっすぐではなく)、そして未熟に(手際よくなく)」というのは、この泉の精が、まだ一番若く、そういう意味では未熟だということを表わしているのだと思います。慣れていないのです。しかし、オルフェウスの賞賛の空間では、このような振る舞いも、このソネットの冒頭にあるように、ゆるされてあるのです。

そのようにあるものであれば、泉の精の吐く息は、それが息、空気、空間であることから言って既に、天を曇らせることはないことでしょうし、そのような天の中へと、「わたしたちの声の星座を掲げて保つ」ことができるのでしょう。

また、「突然に」とは、ploetzlich、プレッツリッヒとは、悲歌の中でも特別な意味を持つ副詞でした。このリルケ好みの言葉については、悲歌の「天使論」200974)で、空間との関係で論じましたので、それをご覧ください。ここでも、ploetzlich、プレッツリッヒ、突然に、このような一種の奇跡は、時間とは無関係に現れるのです。

わたしたちがオルフェウスに歌を教わるのか、またはオルフェウスの歌声を聞いて何かを悟るのかは、それぞれの場合があるでしょうが、いづれにせよ、そうやって発声せられた「わたしたちの声」が、天の星座となるほどの力を、この泉の精のあり方は、持っていると詩人は歌っているのだと思います。これは、オルフェウスに匹敵する、オルフェウスの力に均衡する力です。(こう考えてくると、「悲嘆は、夜通し、古い、昔の悪いものを、娘の手で数えている。」とは、この泉の精が、未熟で苦労をしている刻苦勉励の姿だと理解することができます。)

こうしてみると、悲歌10番の悲嘆も、このような理解の仕方から、もう一度読むことは、意味のあることではないかと思います。何故、悲嘆の一族であり、それはかつては栄耀栄華を極めたが、没落しているのかという問いに答えてみるということになります。この問いに答えることで、悲歌10番の意味も、わかるかも知れません。

2009年10月30日金曜日

オルフェウスへのソネット(VII)

VII

RÜHMEN, das ists! Ein zum Rühmen Bestellter,
ging er hervor wie das Erz aus des Steins
Schweigen. Sein Herz, o vergängliche Kelter
eines den Menschen unendlichen Weins.

Nie versagt ihm die Stimme am Staube,
wenn ihn das göttliche Beispiel ergreift.
Alles wird Weinberg, alles wird Traube,
in seinem fühlenden Süden gereift.

Nicht in den Grüften der Könige Moder
straft ihm die Rühmung lügen, oder
daß von den Göttern ein Schatten fällt.

Er ist einer der bleibenden Boten,
der noch weit in die Türen der Toten
Schalen mit rühmlichen Früchten hält.

前のソネットの最後の行の賞賛という言葉を受けて、ソネットVは、

賞賛という言葉から始まります。

【散文訳】

賞賛すること、これだ。賞賛するように決められている者、

オルフェウスは、石の沈黙の中から生まれる鉱石のように、

現れた。オルフェウスのこころは、ああ、人間たちにとっては

果てしない葡萄酒の圧搾機、過ぎ行く圧搾機だ。

神的な例がオルフェウスを捕まえるならば、その度に、

塵芥(ちりあくた)に接していても(触れていても)、

声は、オルフェウスのいうことをきかないということはない。

オルフェウスの感じている南の地で熟成して、

すべては、葡萄の山となり、全ては葡萄の房となる。

腐敗の王たちの墓穴の中では、賞賛することが嘘であるといって

オルフェウスを責め、罰することはないし、また

神々から一つの影が落ちて来るからという理由で、

オルフェウスを罰することはないのだ。

オルフェウスは、死者たちの戸口の中に、

もっとずっと中に入っていって、賞賛に値する果実を盛った鉢を

手に持っている、留まる使者のひとりなのである。

【解釈】

一体このソネットは何を歌っているのだろうか。

1連の

オルフェウスのこころは、ああ、人間たちにとっては

果てしない葡萄酒の圧搾機、過ぎ行く圧搾機だ。

という文は、オルフェウスは、ものごとのエッセンスを抽出するといっているのでしょう。それも、第2連を読むと、どうもオルフェウスは、塵芥であろうと、オルフェウスの歌う声に触れれば、葡萄の山になり、葡萄の房になるようですから、それを圧搾機にかけて、葡萄のエッセンス、すなわち葡萄酒を搾り出す者が、オルフェウスだということになります。「過ぎ行く圧搾機だ」とあるのは、オルフェウスが、既に見たように、変身してやまない、ここにはいない存在だからでしょう。

毎日葡萄酒が飲めるのならば、わたしはオルフェウスと一緒にいたい。しかし、それは無理なのだな、やはり変身して、その場を次から次と転ずるからだ。それに、それでは、酒を味わう時間がない。こうして考えてみても、オルフェウスは、無私の存在だということがわかる。変なわかりかたかも知れないが。

「腐敗の王たち」と訳した、この王様たちが、一体何者なのかが、今この文を書いているときに、わかりません。墓穴とあるので、いづれにせよ、生前は栄華を極め、死者となって今は墓の中に横たわっているのでしょう。この詩から言って、この王たちは、死の世界で、裁きの権利を持っているようです。

また、「神々から一つの影が落ちて来るからという理由」とは、何をいっているのでしょうか。神々という、誤謬のない、煌々と輝いている世界の存在から影が落ちるということは、あり得ないことの譬えなのでしょう。

最後の連は、

オルフェウスは、死者たちの戸口の中に、

もっとずっと中に入っていって、賞賛に値する果実を盛った鉢を

手に持っている、留まる使者のひとりなのである。

と歌われていますが、これは、何を歌っているのでしょうか。

やはりわかることは、オルフェウスは、何かの使者であって、それも留まる使者たちのひとりであるということです。留まる死者の留まる、bleiben、ブライベンという言葉は、悲歌にも出てくる、リルケの好きな言葉のひとつです。この世の変化とは無縁に、いつまでも同じ場所にいるという意味です。辞書には、そうは書いていませんが、リルケが独自に概念化した、リルケ好みの言葉です。

使者とあると、悲歌の2番でも、青年は、人間の旅姿に身をやつした大天使とともに、戸口に立ち、父親の代理として、いわば使者として、旅立つところでした。戸口は、旅立つということ、そうして使者ということばと一緒にひとつの連想をなす、リルケの詩世界のことばなのだと思います。

オルフェウスは、豊かな果物を盛った鉢を、あるいは皿を手にしている。そうして、死者たちの家々の中、奥深くにまで入ってゆくことができるのです。この詩の文脈からいうと、オルフェウスは、賞賛するために、死者たちの戸口の奥深くへと入っていく、そのような不変の使者だということになります。賞賛すべき立派な果物を持って。

オルフェウスと死者たちの関係はどのようなものなのか、これは、もう少しソネットを読みながら、考えてゆかなければなりません。悲歌のことを思い出すならば、オルフェウスは青年でありますから、それだけの理由で、死者とはとても親しい関係を有しているのだと思い当たります。リルケの意識の中では、この組み合わせは、無理のない、自然なものなのです。

2009年10月29日木曜日

詩集「麗人と莫連」(秋川久紫著)を読む(2)

2.結界と媒介者について

何故、詩を読むと、その詩について話しをしたくなるのだろうか。自分の知ったことを話したい、話したいとは、人に伝えたいということだ。不思議なことである。

前回上梓した、秋川さんの詩集「麗人と莫連」を移動書斎で読んでいるうちに、リルケの詩集の紙面がそうなったように、数多くの相互参照のしるしや書き込みで、戴いた詩集の紙面が鉛筆書きで埋まり始めている。そうやって、わたしは詩を理解するのだろう。

理解したことの中には、いろいろなことがあるけれども、それをただ書いても、他人には何も面白くもないかも知れないと思うし、どうしたものだろうと思っている。しかし、その思った中に、標題にしたふたつの言葉、結界と媒介者について、詩中の話者が歌うところに興味が向かい、それらについて、それらの関係について、書いてみたいと思った。それらは、詩人のこれからに大いに関係があるのではないだろうか。もっと正確にいうと、詩人の創造する詩中の話者の歌い方に大いに関係するのではないだろうか。この話者の明日のためになることが書ければいいと思う。

詩そのもの以上には、詩について語ることはできないということを前提に、それでも書いてみましょう。

何から書き始めたら一番、わたしの知ったことが伝えられるだろうか。

やはり、結界という言葉から始めよう。結界という言葉は、天地の部の「奔水」という詩の中に出てきて、

その人とは

寛永寺の結界辺りで

幾度となく交わったらしい

とあり、また、破の部の「突風の内側へと」という詩に、

緋縅の空は

酸化鉄の

軋んだ甘みの中へと

溶けてゆき

眷属どもの倦怠が

姻族たちの

白い慈しみに

包まれる頃

水鳥の声を合図にして

結界を打ち破る

侘しき半鐘を

精魂を込めて

ただ一息に打ち鳴らしてみるのだ

とあり、

さらにまた、急の部の「追憶VIII(追復と結界)」に、

幾多の虚無との戯れを棄て赤いカラスになりたい。群れの中にたった一羽だけ混じった結界をついばむ羽根の赤いカラスに

と歌われて、出てくるのです。

ことばの通りに読むと、結界という言葉は、だれか、なにものかが結んで生まれる場所だと思いますが、不思議なことに、話者は、そのものの名前を決して呼ばないのです。

そうではなく、その結界の中にいて、その結果の外へ出ようとしているのが、なぜか多分罪人である検非違使(「突風の内側へ」)や、検非違使と同じ者の姿だと思いますが、「まるで煩悩の過積載車両を厳しく取り締まる孤独な鬼の検問係」(「追憶V(閃光と撹拌」)なのです。これらの名前は、一言でいうと警察なのです。その警察官が自己矛盾するかのように、傍目(はた)には反対の否定的な行為を行うのです。前者は、半鐘を打って、結界の外へでることを、後者は、「見て来たばかりの全ての出品画を巨大な筆で白く塗り潰してしまうことを画策する。」

読んでいくとわかりますが、この同じ警察官の形象は、別の視点から、シナリオを書く青年として登場したり(追憶という題の各詩)、絵筆を持った「不在の素描師」(「不在の素描師」)として姿を変えて登場しているのです。あるいは、赤いカラスとして。(この赤いカラスは美しい。)これらの登場人物、それ以外の同様の登場人物については、またもっと詳しく機会があれば、そのときに触れることにしましょう。

さて、話者は、このような犯罪者を序の部の「復讐劇」では、「下手人」と呼んでいますし、また破の部の「フランシス・ベーコン」でも「不敵の下手人」と呼んでいます。この詩集の登場人物、主人公は、強い言葉で言えば、犯罪者、法を犯したものたちです。国家の法律の外に出たいと思っている。しかし、他方、結界を結んでいる上位者の名前が詩の中で言われることがないのです。ここが、話者と主人公たちの急所だと思います。(この詩文楽アウトローズというブログは、その名前から言ってアウトローなので、法の外にいるわけですから、わたしも主人公たちと同類ということになりましょう。話者の意識も主人公たちも、かくして、わたしには親しい。)

面白いことに、これらの下手人は、共通して、何かに「紛れ込」みたいと思っているのということです。「復讐劇」の「下手人」は、

狂気を

押し隠して

矮小な媒酌人の

仮装に紛れ込む

と歌われていますし、「フランシス・ベーコン」の「不敵の下手人」は、

静謐の衣装をまとったまま

果てのない眠りの中に

紛れ込もうと画策し

と歌われているからです。

結界を破って、外へ出たいという一方で、衣装を着て、何かに紛れ込もうとしている「下手人」の主人公たち。

上の詩で、媒酌人という媒介者になりたいという意識に注目しましょう。これは、あとで触れることになると思います。媒酌人という存在は、また他の詩の中では、別の名前で出てきます。シナリオを書き、演劇的な世界にいる青年(「追憶II(殉死と煉獄)」)は、衣装を着て、媒介者になりたいという「下手人」なのです。仮装といい、衣装といい、この世で何かの役を演じて、うまく紛れ込んだら、罪が赦されるのでしょうか。あるいは、罪が軽くなるのでしょうか。

さて、序の部に「監獄序曲」という題名の詩があるのは、こういうわけで、少しも不思議なことではないということになります。この作品を作者は、「私自身の詩作における立場を表明したものである」と書いていますが、実際、この詩の中に歌われている、絵筆をもつ者は、

聖なる 果実と

鎮魂の 旧い唄声を

頼りに 禅師の

辿った 夢路に

自ら彩色をして歩く 罰

と歌われていて、その創作の行為が、何かの罰であるといわれています。

何故、創作の行為は罰なのでしょうか。それについては、作者のあとがきも、どの詩篇も理由を表立っては、明かしておりません。あとがきに、かろうじて「詩作は多くの過ちを犯してきた「罪人」のすること」だからだとあります。罪人という言葉に括弧がしてありますから、これはいわゆる罪人という意味でしょう。この罪人の括弧を取り外した者たちが、この詩集の中の、色々な名前で呼ばれる主人公たちということになるのでしょう。さて、そうだとして、詩作によって、これらの罪人たちはゆるされるのでしょうか。

わたしは、上で、結界を結ぶ存在の名前を話者は言わないと書きましたが、このことと、話者の罪の意識は密接な関係があります。

話者は、媒介者になることで、この問題を解くことができると思っているのではないかと思います。

この媒介者は、「監獄序曲」では、「配達人」と呼ばれ、「復讐劇」では、「媒酌人」と呼ばれ、「劇薬」では、「触媒」と呼ばれています。

媒介者、媒体は、意思疎通、コミュニケーションにとっての前提で、必要不可欠のものですが、話者の歌う主人公の意識が自分は媒介者でないと思えば、

配達人の棲まない 浮世なら

まるごと愛そうか 毀してしまおうか

と歌うことになり、

話者の歌う主人公の意識が自分は媒介者になりたいと思えば、上で述べたように「紛れ込」みたいと思うのです。それは、罪を赦されるというよりは、罪から逃れるため、休むためです。そのように見えます。それは、悪いことではありません。

さて、媒介者になるという動機が、もしこのようなものであれば、主人公は、自分の内と外にある分裂や対立をそのまま維持しなければならないという、追憶の諸篇に出てくる青年の意識、すなわちこの詩集の結構に戻ることでしょう。

結界を結んだ存在の名前を「告げる」こと、それが「初源の言葉を告げる」(「追憶I(麗人と莫連)」)ことになることを、願っています。

2009年10月28日水曜日

詩を、また詩について、書くことについて

詩を、また詩について、書くことについて

リルケの詩について書きながら、あれこれ詩と詩について考えて得たもの、得たことがある。詩とは、ポエジーと詩作品または詩作という意味です。ひとによっては、詩精神という意味まで、詩という一語に籠めているひとがいるように見える。さて、ここで、中間地点で、小さなまとめを記しておきたい。それは、次のような定義です。

1.詩とは、連想の芸術である。
2.詩心とは、無媒介のこころである。
3.分類とは、概念を定義することである。

1の定義は、連想ということから、これは隠喩のありかを既に伝えている一行(センテンス)なり。この定義の中の詩とは、詩作品または詩作という意味です。

2の定義は、これはこの通り。直かなこころのことである。普通は、この世にはない。よほどのことがなければ。人は普通は、媒介、媒体を通じてまた共有して、意思疎通を図っているから。その形式が、ことばと文法ならば、主語と述語ということ。詩は、そうではない。

3の定義は、これは、隠喩の形式でもある。隠喩は、このように、これほど、詩人の宝なり。この定義から、隠喩はまた連想でもあるということが判る。1の定義と実は、同じことを言っている。かくも姿が異なるけれども。

(実は、ひとつのことを、敢て、三つに分けたものである。)

2009年10月26日月曜日

詩集「麗人と莫連」(秋川久紫著)を読む

詩集「麗人と莫連」を読んで。

リルケの詩を読むのと同じ方法で、秋川久紫(あきかわきゅうし)さんの詩を読んでみよう。それは、日本語の詩を外国語のように読むということであるかも知れない。

目次から見てわかることは、詩人の、強い、立体的な造形の意志である。天地と無用という篇の間に序破急という篇があって、それで全部で5つの部立てという構成になっていて、それも、天地、序、破、急のそれぞれ篇の最初には、追憶と題した詩が、その対位的な、対照的な副題とともに、おかれている。曰く、麗人と莫連、殉死と煉獄、浪漫と鈍化、閃光と撹拌。序の篇においては、最初のみならず、最後にも追憶という詩篇がおかれてあり、その副題は、欠落と揺籃とある。

これらの篇と詩の間に、それ以外の詩が置かれている。このような構成である。

1.副題について

括弧の中に入っている副題を、詩集の表題にするという考えは、ある成熟を前提にした発想である。これを何歳で知るかによって、そのひとの人生が様々なことになるだろうと思う。

このこととあわせて思うのは、この詩集は、詩人の人生と等価であるということです。詩人の、いうまでもなく凝縮が、これらの言葉であるということが、あらためて伝わってくる。追憶というすべての詩の主人公は、ひとりの青年です。

副題の対立は、実は単なる対立ではない。

作者は、意識的、意図的に色彩にある意味を持たせています。最初の詩、追憶I(麗人と莫連)の最後は、次のように終わります。

吊るされたたくさんのフィルムの中から特に黄色く見える一枚を取り出し、青年は顔を歪めてほんの少しためらった後、そこでようやく初源の言葉を告げる。

とあります。

青年は、「特に黄色く見える一枚のフィルムを取り出」すのです。フィルムには、麗人と莫連の姿が写っているのでしょう。それらは、黄色い色の中に、ふたつながらに、相反するものとして、そのまま、あるのでしょう。

青年は、「そこでようやく初源の言葉を告げる」ことができる。これは、詩人の言葉の出てくる場所を、そのまま示しています。そうして、青年の言葉は、そのまま「初源の」言葉です。「告げる」とあるので、これは、このままこの詩集の中の詩の言葉の性格を、そのまま表わしていると思います。それほど、この最初の詩は、重要な位置を占めているのでしょう。

もう少し、黄色という色に焦点を当ててみます。そうすると、この初源の場所がどのような場所であるかが、作者自身の言葉でわかると思います。追憶II(殉死と煉獄)をみてみましょう。その中に次のような一行があります。

まずは白い倦怠を、次に緑の官能を、最後に黄色い不条理をシナリオから消し去ろうとする試み。

このシナリオを書いているのは、とある青年なのですが、ここに「黄色い不条理」とあるように、この散文詩で歌われている「深夜の二丁目の支那そば屋」の店の中も、混沌というのではなく、いや、むしろ、この青年の意識の均衡を保とうという努力で、互いに反し合って分裂しそうな現実のあれこれが、かろうじて持っている様子が歌われています。黄色い色とは、そのような意識を表わす色として、歌われているのだと思います。そこは、初源での場所です。この詩人の強い意志によって、分かれて生まれる筈の不条理の世界が、かろうじてひとつに、言葉の力でまとめられ、維持されています。「初源の言葉」とは、実は、この不条理な場所に生まれています。もっとも、青年は、自分自身の言葉で、その不条理を、そのシナリオから消してしまおうとしているのですが。(追憶V(閃光と撹拌)の青年も、今度は数ある絵のカンバスを「白く塗り潰してしまうことを画策する」のです。)

青年が支那そば屋を出て、「唐突に現れた鉄橋の上から覗き込む真っ昏な川の面」は、如何なる川面であることでしょうか。言葉と現実の不条理は、続くのです。そこで、詩人は、一体どのようなシナリオを書くのでしょうか。これは、この詩人ばかりではなく、どの詩人も直面する課題ではないでしょうか。戦争から来た用語を使えば、詩人がこのようなシナリオを書くとは、詩人が、生きるために、どのような戦略を立案するかということでもありましょう。この青年は、そのような立案をしては、壊し、しては壊しすることになるのでしょう。

最後の追憶VIII(追復と結界)では、青年は、その最後の連で「揺ぎ無き明快な終章」に立っていますので、自分の姿をみづから知るところに至っています。それは、このような自分自身の姿です。これは、やはり、わたしは、美しいと思います。言葉で、美を生み出さなければ、書かれただけでは、詩ということは難しい。初源の場所、不条理の場所を、ここでは、「磁場の昏迷」と歌っています。

磁場の昏迷に畏怖して急流に立ち、青年は振り向きざまに任意の同僚に向けて語りかける。幾多の虚無との戯れを棄て、赤いカラスになりたい。群れの中にたった一羽だけ混じった結界をついばむ羽根の赤いカラスに。

この赤いカラスが、追憶と題された詩群の間に配置された詩群を書いたのです。

このように、日本語の詩を解釈をするという経験は、実は、わたしは初めてなのですが、追憶という詩群に護られたその他の詩群についても、読んでみたいと思います。作者が総体として読んでほしいといっている言葉を大切にしたいと思います。

2009年10月25日日曜日

オルフェウスへのソネット(VI)

VI

IST er ein Hiesiger? Nein, aus beiden
Reichen erwuchs seine weite Natur.
Kundiger böge die Zweige der Weiden,
wer die Wurzeln der Weiden erfuhr.

Geht ihr zu Bette, so laßt auf dem Tische
Brot nicht und Milch nicht; die Toten ziehts —.
Aber er, der Beschwörende, mische
unter der Milde des Augenlids

ihre Erscheinung in alles Geschaute;
und der Zauber von Erdrauch und Raute
sei ihm so wahr wie der klarste Bezug.

Nichts kann das gültige Bild ihm verschlimmern;
sei es aus Gräbern, sei es aus Zimmern,
rühme er Fingerring, Spange und Krug.

オルフェウスへのソネットのVIを読んでみよう。

わたしは、MSWORDで原稿を書き、それをこのブログに上梓するのであるが、そこでは、原稿のときにとった行間や、行のつながりが、乱れてしまうので、困ったことである。あるいは、わたしが電子的文書の取り扱いに不慣れなだけかもしれないけれども。

段々と、こうしてリルケのソネットを訳すということ、勿論そのためには解釈をして詩を理解することになるわけだけれども、それが楽しいと思うようになってきた。多分、わたしは、何か、リルケの詩の根底に触れているのだろう。リルケの詩の言葉が難しいものに思われなくなってきたのだ。言葉の難しさとは、その発想、語の配列といえばすべてであるが、語の飛躍、語の省略も。

わたしは、自分自身で定義した、詩は連想の芸術であるという定義に従って、この定義を詩にあてがい解釈することによって、今までソネットを解釈してきたわけですが、どうもこれで無理がないように思われます。

ソネットVIは、またこれは、興味深い、おもしろいソネットだと思います。このソネットそのものが、ひとつの魔法の呪文のようである。祈願文で出来ているソネットです。

【散文訳】

オルフェウスは、ここにいる者なのだろうか。否、オルフェウスの

遥かなる性質は、両方の領域から成長したものだ。(だれでも柳の枝をたわめることは容易であるが、しかし)柳の根を経験し、知っているものこそ、(そうでない者よりも)もっと精通し、熟知して(地上に出ている)柳の枝々を撓(たわ)めることができよう。(オルフェウスは、そのような者であれ。)

お前たちが、寝床へ行くならば、テーブルの上に、パンを残しておいてはいけないし、

牛乳を残しておいてもいけない。というのも、そうすると、死者たちがやって来るからだ。

しかし、オルフェウス、この魔法を使って呼び出すことのできる者は、瞼(まぶた)の柔和さの下で、死者たちの出現を、すべての見られたものの中へと混ぜよ。大地の煙と菱形の魔法は、オルフェウスにとっては、最も清澄な関係のように真実であれかし。

これがオルフェウスだといって表わされて通用している姿、像は、どれもオルフェウスを貶めることはできない。たとえ、それが、墓場から出てきた像であれ、部屋べやからの、つまり、部屋に飾ってある絵や像の姿であれ。オルフェウスは、指輪、バックル(帯止め)、そして壺を褒め称えよ。

【散文訳】

上で、散文的に翻訳してしまったら、なんだか、書くことが余りなくなってしまった。やはり、解釈する思考プロセスを書いてから、散文訳という果実に至るという方が、いいのだろうなあ。でも、書いてみよう。

1連の最初の一行、オルフェウスは、ここにいる者、ここの者なのかという疑問文は、前のソネットVの中の第3連の3行目のdas Hiersein、ここにいること、を受けている。オルフェウスは、ここに常にはいず、あっという間にあそこへと姿を消すもの、変身するものであった。

二つの領域とは、何であろうか。第2連を読むと、それは、昼と夜、生と死だということがわかる。いづれの領域にもオルフェウスは精通しているというのだ。

2連で、寝る前には、食べたものをテーブルに残すなという、多分ドイツ人の言い伝え、慣用句があるのだろう。そうすると、寝る前に食べたものをそのままにしておくことが、死者を引き寄せるから。というのが、原文の直訳です。

しかし、オルフェウスは、死者が出現しても、それを、オルフェウスが見ることによって見られた対象となるすべてのものと同じものとして、その見られたものの中に混ぜ入れてしまえと、リルケは歌っています。それがオルフェウスに可能であるのは、オルフェウスの瞼が柔和であるから。これは、読み過ぎかも知れませんが、瞼のドイツ語は、Augenlid、このLid、リート、瞼という文字を見ると、つい薔薇の花を連想してしまいます。

大地の煙と菱形の魔法とは、一体何をいっているのでしょうか。このソネットVIの文意からいって、あるいは文脈からいって、オルフェウスは魔法を使うことができるのです。ですから、大地の煙とは、大地の持つ力を意味するのではないでしょうか。何かそこから立ち出る力。この大地と訳したドイツ語は、Erde、エールデで、リルケがソネットIII3連において、いつその男は、大地と星辰を、我らが存在に向けるのかと歌っている同じ大地です。大地や星辰は、大いなる力を有しているのですが、神的な存在であるオルフェウスは、これらの力を使うことができるのでしょう。

菱形とは何か、ですが、これは、あるいは魔方陣の形を言っているのか。あるいは、この菱形という形そのものに、何か意味があって、それがオルフェウスの力に関係しているということなのでしょう。わたしの貧しい知識から思い出してみると、菱形は、それぞれの頂点から対角線を相手方の頂点に引いてやると(これが両点の最短の意志の疎通の距離)、2点の間に障害があっても、他のどれかの線を伝って相手方に到達できるという幾何学的な形にはなりますから、あるいは、オルフェウスの、失われた恋人への強い思いがあるのかも知れないとも、思ったりいたしますが、これは横道に逸れてしまいました。

さて、古来、オルフェウスの姿は、彫刻にされ、絵に描かれてきたものだと思います。そのことが、第4連で歌われている。どうも、墓の中にもオルフェウスの像を納めた死者がいるようです。部屋べやというのは、絵画ではないかと思いますが、彫像もあったことでしょう。その姿は、指輪をはめ、バックルをつけ、壺を持っているという姿だと歌ってあると読めますが、これは、どういうことでしょう。(しかし、他方、オルフェウスの姿は、必ず竪琴と共にありますので、それをリルケが言わないのは、おかしなことです。)

もし、そうではないのであれば、これは、賞賛することが、オルフェウスの仕事であれと言っているということになります。こうしてみると、実際に、次のソネットVIIは、同じ賞賛することという言葉で詩が始まっており、オルフェウスは、賞賛するように決められている者と歌われていますので、ソネットVIの最後の連の最後の行は、そのように読むことがよいのだと思います。

そうすると、指輪、帯止め(バックル)、そして壺とは一体何かということですが、これは、壺については、ソネットVの最後の連の最後の2行のところで述べたように、また第2部のソネットXXIVの壺のことでの言及でも、前回のブログで述べましたように、既に考えてきたことをもとに考えて見ますと、これらのものは、いづれも、定住し、町をつくり、社会を営む上で必要なものの象徴として、リルケは挙げているのではないかということです。指輪は婚姻の、また商売の、また身分の、あるいは帯止めも身分を表わし、壺は町の繁栄をあらわす、といったように。オルフェウスは、人間の営みを褒め称えることをせよ、とリルケは歌っているのでしょう。手、体、町という順序で、リルケは歌っています。

2009年10月23日金曜日

オルフェウスへのソネット(V)

V

ERRICHTET keinen Denkstein. Laßt die Rose
nur jedes Jahr zu seinen Gunsten blühn.
Denn Orpheus ists. Seine Metamorphose
in dem und dem. Wir sollen uns nicht mühn

um andre Namen. Ein für alle Male
ists Orpheus, wenn es singt. Er kommt und geht.
Ists nicht schon viel, wenn er die Rosenschale
um ein paar Tage manchmal übersteht?

O wie er schwinden muß, daß ihrs begrifft!
Und wenn ihm selbst auch bangte, daß er schwände
Indem sein Wort das Hiersein übertrifft,

ist er schon dort, wohin ihrs nicht begleitet.
Der Leier Gitter zwängt ihm nicht die Hände.
Und er gehorcht, indem er überschreitet.

このブログでは、ソネットVを読むわけであるが、実際には今日わたしは移動書斎にて既に第2部のソネットVIまでを読んでいて、その間、ソネットとソネットの関係や、連と連との間の関係を見つけて、思ったことを、この詩を印刷した実際の紙に書いていて、これらの新しい発見は、過去に遡って、以前のブログに書き込むわけにはいかないという不便がある。

悲歌の場合は、最初に相当読み込んでから書き始めたので、このような問題は起きなかったけれども、ソネットの場合には、頭から読んで行こうということなので、これは致し方ないことだろう。まとまりのあるものを、時間の中で書くと、断片的になってしまう。

後へ行くに従って、過去に論じたソネットに遡及し、言及する、引用するということが起きることでしょう。まとまらないのは、ブログという形式のなせるわざゆえ、仕方がない。

さて、ソネットの5番です。

リルケは、前のソネットIVが、空間(複数)で終わっているので、その連想から、ソネットVを書き始めたのだと思う。このソネットの主題は、オルフェウスの変身です。しかし、何故変身するのか、それはどのようなものなのでしょうか。それが歌ってあります。空間ということから、ソネット3の風、息というものが、主調として、ここまで吹いていると考えることができます。

【散文訳】

記念碑を建てることをしてはならない。薔薇には、

彼のために、ただただ毎年花を咲かせるようにしなさい。

何故なら、オルフェウスが薔薇だからだ。オルフェウスは変身して、

これにも、あれにも、なっている。わたしたちは、オルフェウスという

以外の名前を思い煩うには及ばない。歌声があれば、いつも、

オルフェウスなのだ。オルフェウスは、来たり、そして、去る。

もしオルフェウスが、薔薇の花弁の姿に、数日の間留まることに堪えるならば、

それだけで、大変なことではないだろうか。

ああ、お前たちが理解したと思ったら、オルフェウスは消えなければならないのだ。

そして、オルフェウスの言葉が、ここにあるということを超えてしまうことによって、

オルフェウスが消えるということが、オルフェウス自身をまた不安にするのだが、

そのときには、もうあそこにいて、お前たちはついてゆくことができないのだ。

竪琴の弦が、オルフェウスの両手に何かを強いることはない。そして、オルフェウスは

限界を踏み超えてゆくことによって、(何ものかの意志や命令に)従っているのだ。

【解釈】

薔薇の花は、遺言によってリルケの墓碑銘の主題となっている、その花です。「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009815日)のブログにて、その薔薇が一体何であるかを論じ、示しました。薔薇とは、リルケが観た宇宙の姿そのものであるというのが、わたしの理解であり、解釈でした。このときの説明が果たしてうまいものかというと、そうだとは、とても言えないと思いますが、それでも、もう一度、そのことを思い出して、この連を読むことにいたしましょう。

ここで、初めて、オルフェウスが様々なものに姿を変える、変身するということが歌われています。そうして、それがどのような姿であれ、オルフェウスは薔薇であるといえば、それですべて足りるのだと、リルケは歌っているのです。

薔薇の花の花弁、はなびらの内側に包み、同時に外側に溢れるような薔薇のはなびらは、リルケの宇宙の階層構造を象徴していると思いますが、このことと、それから、変身という言葉を、薔薇という名前と一緒に使っているということから、リルケは明らかに、薔薇の花と変身の関係を具体的に、実感を以って、文字にしていると、わたしは思います。

オルフェウスは、数日と同じ姿を保ってはいない。同じ姿に留まるに堪えないといっています。そうして、わたしたちが、個別のそのものの名前を呼んで、それが何か、だれであるかを知ったか知らぬかのうちに、既に、オルフェウスは失せ、その先のどこかへと行ってしまっている。

3連の、

そして、オルフェウスの言葉が、ここにあるということを超えてしまうことによって、

オルフェウスが消えるということが、オルフェウス自身をまた不安にする

というところは、これは、もう、リルケ自身の意識と感覚を表わしているかのようです。リルケの対象に対する態度も、こうなのだと思います。その生活も、人生も。

この第3連ばかりではありませんが、このソネット全体を読んで、わたしはトーマス・マンのトニオ・クレーガーの次のところを連想し、思い出しました。これは、芸術家の意識のありかたであり、芸術家というものなのだと思わずにはいられません。それは、トニオに、大人たちが、大きくなったら何になるのかと問うことに対するトニオの心中の答えです。

Fragte man ihn, was in aller Welt er zu werden gedachte, so erteilte er wechselnde Auskunft, denn er pflegte zu sagen (und hatte es auch bereits aufgeschrieben), dass er die Moeglichkeiten zu tausend Daseinsformen in sich trage, zusammen mit dem heimlichen Bewusstsein, dass es im Grunde lauter Unmoeglichkeiten seien...

トニオは、一体何になるつもりだと訊かれると、そのたびに違った答えをした。というのも、いつも自分でそういっていたし(また実際既にそうメモしてもいたのだが)、トニオは、幾千もの生存形式に対するたくさんの可能性をその内に蔵しており、そうしてまた同時に、こころ密かに、いや、その根底においては、そんなことは全く不可能なことばかりなのだと、そう意識しても(知っても)いたからである。

こうして考えると、悲歌4番の人形劇場の舞台の前に客席に座って、幕が下りても動かぬ子供の心中の言葉と覚悟を思い出します。(そうして、父親に問うて、みづからの人生の真偽を確かめようとする、子供の悲鳴のような疑問文の声も。)これも、こうして、同じことに触れているのだと思います。留まること、変化に対して、留まること。Bleiben,ブライベン、留まること。

他方、ソネットでのリルケは、留まらずに変身すること、その主人公として、オルフェウスのことを歌っております。しかし、これは同じことの表と裏というべきでしょう。変身することは、留まること(ひとこと、薔薇と呼べばよいのだ!)、留まることは、変身すること(いづれも、オルフェウスだ!)。

最後の連の最後の2行について、話しをしたいと思います。

竪琴の弦が、オルフェウスの両手に何かを強いることはない、という一行は何を意味するのでしょうか。オルフェウスは、両手を使わずに竪琴をひけるのでしょうか。手に何かを強いる、例えば壺を制作するというようなことは、そこに留まるということを意味するからなのでしょうか。確かに、第2部のソネットXXIVでは、粘土で何かを制作するよろこびが語られていて、未知の領域に脚を踏み入れ、境界を踏み越えて行く冒険者たちがいるにもかかわらず、それでも、町ができて、ひとは定住して、粘土からできた壺には水と油が満ちて、栄えるさまが歌われています。手の仕事は、定住に関係があるのでしょう。これに対して、オルフェウスは、そうではないといっているのではないでしょうか。この読み方であると、オルフェウスは、冒険者なのでしょうか。いや、そうではありません。オルフェウスは神的な存在であり、ソネットXXIVの冒険者たちは、人間であるからです。

さて、ここは、ほかにもまだ解釈の余地はあると思いますが、ここ、このときでは、このように解釈をしておくことにいたします。

最後の一行。こうして、オルフェウスは、限界を踏み越えて行く、変身を続けてゆく。それによって、オルフェウスは従っているのだと、リルケは歌っている。これは、何をいっているのでしょうか。リルケは、従うという動詞に敢て目的語をおいておりません。

今までのソネットを読んできてわかることは、ueberschreiten、ユーバーシュライテン、踏み越えるとか、ソネットIにあったように、uebersteigen、ユーバーシュタイゲン、境界を超えて昇ってゆく、踏み越えてゆくといった言葉の根底にあるのは、それは無私の行為である、何ものをも求めぬ純粋な行為であるというリルケの思想です。(求めないという詩想、または思想は、悲歌7番の冒頭にもありました。)あるいは、無私であることによって、その最たる者の場合は、悲歌1番の最後の連で、リノスという神的な若者の死がそうであったように、わが身の死を賭してもひとのための行為をなすことによって、はじめて、踏み越えるという行為が成り立つという、リルケの思想です。リルケは、そのような思想に従って、生きたのでしょう。オルフェウスもまた。いや、それはオルフェウスの思想であったのかも知れません。変身とは、無私の歩みである。

2009年10月22日木曜日

オルフェウスへのソネット(IV)

IV

O IHR Zärtlichen, tretet zuweilen
in den Atem, der euch nicht meint,
laßt ihn an eueren Wangen sich teilen,
hinter euch zittert er, wieder vereint.

O ihr Seligen, o ihr Heilen,
die ihr der Anfang der Herzen scheint.
Bogen der Pfeile und Ziele von Pfeilen,
ewiger glänzt euer Lächeln verweint.

Fürchtet euch nicht zu leiden, die Schwere,
gebt sie zurück an der Erde Gewicht;
schwer sind die Berge, schwer sind die Meere.

Selbst die als Kinder ihr pflanztet, die Bäume,
wurden zu schwer längst; ihr trüget sie nicht.
Aber die Lüfte... aber die Räume....

【解釈】

今日は、【散文訳】からではなく、解釈から入ろう。その方が書きやすい。とはいえ、逆のいつもの順序でも、解釈をしてから、散文訳をまとめ、それをその順序で上梓しているということなので、実は変わらないのであるが。

最初のソネットからこの4番まで読み返してみて、リルケの詩想がわかったように思う。あるいは、リルケの連想という方が正しいか。

ソネットIの主調は、耳の中の平安ということである。そのために沈黙から飛び出した、あるいは生まれ出でた動物たちに、オルフェウスは、平安のための寺院を耳の中に建立した。

ソネットIIも、同様の主調、モチーフで理解することができる。耳の中に永遠に眠る少女を歌っている。この少女は、眠っていて、覚醒することを求めないということを以って、オルフェウスは、少女の眠っている世界を完成させたのである。この求めないという主調は、悲歌7番の第1連に出てくる主調と同じである。この7番の第5連にもMaedchen、メートヒェン、少女、いや女たちが出てくるが、これらは、都会の自堕落な生活を求める逆の展開の女たちであったけれども。

そうして、この求めないということから、更に詩想と連想の糸は繋がっていて、ソネットIIIに続いている。

ソネットIIIでは、神ならば、竪琴の弦の間を通り抜けてみせ、そうして分かれずに、分裂することなく一つでいられるのであるが、人間はそうはいかないと歌っている。この、駱駝が針の穴を通るという、聖書にある譬えに似た言葉を思い出させる表現であるが、人間には、そのような行為は苦しみであり、不安であろうものを、歌は、それを平安に導くと歌っている。わたしたちを存在ならしめるような、そんな歌を歌え、そのように歌を歌えとオルフェウスよ、お前が歌を教えているその男に教えよとリルケは歌っている。

ここで、リルケは、こころの交差点にはアポロのための寺院は立っていないのだといっている。この意味を前回ソネットIIIを解釈するときには、わからないとしたのであるが、このような詩想の糸を辿ってみると、その意味は平明である。アポロは神であるので、ふたつのこころの交差点にあっても不安にはならず、そのこころは平安であるので、ソネットIでオルフェウスが動物たちの避難のために建立したような寺院は不要なのである。そのような意味であるとわたしは思う。

ふたつのこころの道の交差点とは何かは、もっとこれからソネットを読むに従い、また考えを深めて行こう。既にソネットIIIのところで触れたように、ソネットXXIXの第3連の第2行に同じ詩想が出てきます。そこに至るまでに、正解に至ることでしょう。

さて、そうして、このソネットIIIの最後のふたつの連で、真に歌うということは、大きな声で大仰に歌うのではなく、小さな声で、息をそっと吹きかけるような声、何ものをも求めぬ息なのだとリルケは歌い、それは神の中を行渡る風と言い換え、すなわち一言で風だと言って、このソネットIIIを終わっていますが、この息、風という連想から、更にソネットIVが始まっています。

O IHR Zärtlichen, tretet zuweilen
in den Atem, der euch nicht meint,
laßt ihn an eueren Wangen sich teilen,
hinter euch zittert er, wieder vereint.

【散文訳】

ああ、優しいひとたちよ、ときには、

お前たちのことを思っていない息の中に歩みいりなさい、

そうして、自分の両の頬に息を当てて、息が分かれるようにしなさい、

お前たちの後ろで息は震え、再びひとつになるから。

このソネットIIIの第1連で、リルケはソネットIIの終わりのところから、詩想を繋いで、息というものを歌っています。息は、人間とは違ってばらばらになることなく、ひとつになっているものだとリルケは言っています。この言い方は、上に見た、ソネットIIIの第1連の第3行の、竪琴の弦の間を通り抜けるという主調と同じものです。神はいつも一体だと、リルケが言っていることが、これでわかります。悲歌7番で鳥が編隊を組んでいつも、人間のようにバラバラに孤独ではなく、ひとつになって意思疎通ができる、距離がなくひとつになっていられることを、rein、ライン、純粋だ、鳥のように純粋だと歌っています。同じように、息も、従って風も、こうしてみると、純粋だということができるでしょう。それゆえ、リルケは、神の中を吹き渡るとソネットIIIの最後の連で歌ったのでしょう。

思えば、悲歌の中で、特にその2番では、天使たちもまたいつも一体になっている存在でありました。地上においては、ばらばらになって鏡としてその姿をあらわしていたわけですが。

こうしてこのような順序で天使のことを考えてみると、詩人とは、Vision、ヴィジョンを歌う者のことだといわずにはいられません。Hart CraneTo Brooklyn Bridgeもそうでした。リルケの天使といい、ブルックリン橋に立つ、自由の女神、否、白い鴎の織り成す聖母マリアといい、それは素晴らしいヴィジョンだと思います。

さて、Atem、アーテム、息の中へ歩みいれよとなにをいっているかということに戻りましょう。これは、以上説明してきた文脈から明らかなように、息の中、風の中に入るということは、分裂せず、ばらばらにならなず、平安になること、ひとつであること、存在していることを意味しています。

だから、続いて、こころの平安ということから、第2連で、聖者たちよ、完全無欠な、健やかなるものたちよという呼びかけに繋がるのです。第2連です。

O ihr Seligen, o ihr Heilen,
die ihr der Anfang der Herzen scheint.
Bogen der Pfeile und Ziele von Pfeilen,
ewiger glänzt euer Lächeln verweint.

【散文訳】

ああ、聖なるものたちよ、完全なるものたちよ、

(複数の)こころの始まりとみえるものたちよ。

矢の飛び行き弓なりに描く弧と、矢の的、

矢よりも一層永遠に、お前たちの微笑みは、涙して、輝く。

さて、上では、息、風は、分裂しないということ、一体であることをみてきましたが、これに対して、矢は、それを切り裂いて飛び行くものです。リルケの連想の矢も一筋に飛んでいるようです。

そうして、聖者は、こころの平安をもっているひとです。矢は、最初は勢いがあり高く上を目指して飛んでいくが、いづれは弧を描いて落ちてゆき、的を射ることになるのだとリルケはいっていて、それは、次の第3連で、重力のことを歌っていることに繋がっているのですが、それはそれとして、(複数の)こころの始まりには、こころの平安があるのだとリルケはいっているのです。

したがって、平安を知っている聖者たちのこころは、重力とは無縁で、風のようであり、その微笑は、そうやって飛ぶ矢よりももっと永遠に、重力で落ちることなく、いやあるいは、矢が落つるものであればなお一層、かえって、風のように永遠に、微笑んで、輝くのです。

さらに、しかし、その微笑の輝きには、涙して輝くとあるように、その身に受ける矢の悲しみも知っているということなのでしょう。いかがでしょうか。

3連に参りましょう。

Fürchtet euch nicht zu leiden, die Schwere,
gebt sie zurück an der Erde Gewicht;
schwer sind die Berge, schwer sind die Meere.

【散文訳】

重力を苦しむことを恐れてはならない、

重力は地上の重さに返しなさい。

山々は重たいし、海という海もみな重たいのだ。

前の連の矢の譬えから、この連では、重力のことを歌っています。これは、ここに歌われている通りの、文字通りの解釈で、よいのではないでしょうか。理解のままに。

最後の連です。

Selbst die als Kinder ihr pflanztet, die Bäume,
wurden zu schwer längst; ihr trüget sie nicht.
Aber die Lüfte... aber die Räume....

【散文訳】

お前たちが、子供のときに植えた木々さえも、

時間がたってもう重過ぎる位になってしまった。

持って担ごうとしても、それはできはしない。

しかし、空気は、そうではない、しかし、空間は、そうではない。

(時間がたっても、お前たちは、空気や空間を持ち運ぶことができる。それらは、落ちるものではないのだ。)

この最後の連で、空気、呼気、このソネットIII1連に出てきた言葉で言えば、Atem、アーテム、息、呼吸は、地上に落ちないとリルケは考えていることがわかります。それから、空間もまた。空気も空間もともにドイツ語では、複数形になっています。

この連は、丁度そのまま悲歌の、リルケの空間論の註釈になっています。実は、わたしはこのブログの20097月と8月に集中的にリルケの空間を論じましたが、この論がそうであったように、リルケの空間の、これは、格好の註釈になっています。わたしは、ここから、実はリルケは空間をなんだと考えていたのかを書きたいと思っています。それは、空間論を書いたときに、敢て書かずに、一歩手前で筆を抑制したところに、この最後の連は触れているからです。でも、これは、また稿を改めたいと思います。ひとこと今ここに書くとすると、リルケは現実を、かくも、このように意味だと考えていたということです。言葉の意味、です。リルケの空間は、ことばの世界によく似ているのです。もっと正確にいいますと、概念の世界に。

さて、この最後の連で、リルケは、子供のときにと訳しましたが、直訳すれば、子供として植樹をすると歌っています。リルケは、子供として木を植えるといっているのです。子供、人間の初期の、幼児期がどんな人間にとってに本質的に重要だとリルケが考えているかは、悲歌の「天使と死者を語る前に」(2009621日)で、Fruehe、フリューエ、早い時期にというリルケの愛好する言葉について分析することで、論じたとおりです。それが、天使の性格と能力に、リルケからみると憧憬の強い思いを抱かせるのでした、勿論、恐怖心と裏腹に。

次は、ソネットVに参ります。

2009年10月21日水曜日

愛する人のために

愛する人のために
                 

保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、

パソコンの便利さもありません。

けれど目に見えぬこの商品には、

人間の血が通っています。

人間の未来への切ない望みが

こめられています。

愛情をお金であがなうことはできません。

けれどお金に、

愛情をこめることはできます、

生命をふきこむことはできます。

もし愛する人のために、

お金が使われるなら。



これは、日本生命という生命保険のおばさんが置いていったクリアフォルダーの表に書かれてあった、谷川俊太郎の詩だ。

「けれど目に見えぬこの商品には、/人間の血が通っています。」という一文は、アイロニーなのだろうなあ。そう思わなければ、読むことができない。何故ならば、保険という商品は、個人が死に対して抱く恐怖心を利用して、それに基づいて(計算もしてー保険数学という数学がある)販売されているからだ。

その個人の抱く恐怖心を、「人間の未来への切ない望みが/こめられています。」と書いているのだろう。

この詩は、この通りで、何も解釈など必要ないのだな。

哀悼

2009年10月12日月曜日

オルフェウスへのソネット(III)

III

EIN Gott vermags. Wie aber, sag mir, soll
ein Mann ihm folgen durch die schmale Leier?
Sein Sinn ist Zwiespalt. An der Kreuzung zweier
Herzwege steht kein Tempel für Apoll.

Gesang, wie du ihn lehrst, ist nicht Begehr,
nicht Werbung um ein endlich noch Erreichtes;
Gesang ist Dasein. Für den Gott ein Leichtes.
Wann aber sind wir? Und wann wendet er

an unser Sein die Erde und die Sterne?
Dies ists nicht, Jüngling, daß du liebst, wenn auch
die Stimme dann den Mund dir aufstößt, — lerne

vergessen, daß du aufsangst. Das verrinnt.
In Wahrheit singen, ist ein andrer Hauch.
Ein Hauch um nichts. Ein Wehn im Gott. Ein Wind.

【散文訳】

神様ならばできるだろう。しかし、おい、男がひとり、

弦が狭く張ってある竪琴を、神さまの後をおって、

潜り抜けることなどどうやってできようか。この男の

感覚は、分裂する(二つに分かれる)。ふたつの、こころの

道の交差するところには、アポロのための寺院など立って

いないのだ。

聖なる歌、お前がその男に教えるのは、欲求ではない、

求めることではない、かろうじて到達できるものを

求めることではない。(歌うとは、そのように容易に手に入る、

到達できることではない。)聖なる歌、歌うことは、今ここに

こうしてあることだからだ。神にとっては、安きもの、安きことである。

さて、われわれ人間は、一体いつ存在するのだ?そうして、いつ、

われわれの存在に、大地と星辰を向けることを、この男は

するのだろうか?若き者、オルフェウスよ、お前が愛するということ、

たとえ声が、愛することで、お前の唇からほとばしり出たとしても、

お前が愛するということでは、それは、ないのだ。忘れることを

学びなさい、お前が声高らかに歌ったということを忘れることを。

それは、失われ、消えてしまう。真実に歌うということ、それは

また別の息吹だ。何ものをも求めぬ、そっと吐く息だ。神様の中を吹く風だ。

すなわち、風。

【解釈】

1.やはり、この詩は、話者が重要な役割を演じている。話者は、オルフェウスでは

ない。その話者が、オルフェウスに直接呼びかけたり、間接的に歌ったりしている。

2.「ふたつの、こころの道の交差するところには、」と訳したところに似た箇所が、ずっと後の、ソネットXXIXの第3連の第2行に出てくる。ここにもSinn、ジン、感覚という言葉が出てくるので、このふたつのソネットは照応し、対応し、互いに響きあっていると思う。それが、本当は何を意味しているのか、これを考えることが、このソネットを理解する道筋のひとつだと思う。解釈があれば、お教えください。

2.そこで、アポロのための寺院がたっていないということは、何を言っているのだろうか。アポロは、オルフェウスの父親ということである。父のための寺はたっていないという文である。これは、オルフェウスと父親の何か特別な関係を示しているのだろうか。リルケは、この文で、一体なにを言いたいのか。多分わたしの知識の少ないことによって、理解することができないのだろう。これも、解釈があれば、どなたか、お教えください。

4.「聖なる歌、歌うことは、今ここにこうしてあることだからだ。」という文は、デゥイーノの悲歌6番第3連第2行にある

Sein Aufgang ist Dasein.

彼(英雄)の上昇は、今ここにこうしてあることだ

という一行と同じ意味を有している。悲歌をソネットの解釈のために利用することができる。

悲歌のこの部分でも、星辰が出てくる。悲歌のこの箇所では、英雄は、死者、若い死者に不思議なほどよく似ていると歌われている。時間の持続が英雄を刺激することはない、絶えず攻撃することはないのだという。何故ならば、彼の上昇は、今ここにこうしてあることだからだ、というのである。

ここでも言われていることは、英雄の行為は、無私の、無償の行為であるということである。それは、絶えずわが身を危険にさらる行為であり、星辰、それがなにも本当の星辰であるとしてではなくとも、星辰に相当するものの中に、そのような像の中へと歩み入るのが英雄なのだと、悲歌では歌われている。同様に、オルフェウスもまた、そのような人間ならぬ人間として、そのようなありかたであるのだと、リルケの創造した話者は、歌っているのだ。それが、真実の中で歌うことだ、と。それは、容易なわざではないのだと、話者は言っている。

最後のHauch,ハウホ、息、息吹とは、リルケらしい言葉である。悲歌では、同じ言葉が、atmen、アートメン、息をするという動詞として、繰り返し出てきたことを思う。

何も求めるのではない、という箇所は、悲歌の2番の冒頭そのものである。

こうしてみると、リルケは、悲歌を書きながら、このソネットにおいて、もっと静かな調子で、同じ思想を展開したのだと理解することができる。