2009年11月15日日曜日

オルフェウスへのソネット(XV)

XV

WARTET..., das schmeckt... Schon ists auf der Flucht.
....Wenig Musik nur, ein Stampfen, ein Summen —
Mädchen, ihr warmen, Mädchen, ihr stummen,
tanzt den Geschmack der erfahrenen Frucht!

Tanzt die Orange. Wer kann sie vergessen,
wie sie, ertrinkend in sich, sich wehrt
wider ihr Süßsein. Ihr habt sie besessen.
Sie hat sich köstlich zu euch bekehrt.

Tanzt die Orange. Die wärmere Landschaft,
werft sie aus euch, daß die reife erstrahle
in Lüften der Heimat! Erglühte, enthüllt

Düfte um Düfte. Schafft die Verwandtschaft
mit der reinen, sich weigernden Schale,
mit dem Saft, der die Glückliche füllt!

前のソネットが、樹木になる果実に焦点を当てた詩であったので、そのことから、引き続き、果実を味わう第1行から、このソネットは始まる。口の中の感触。それから話者は外へ出る。外へ出ること、これは詩人の仕事だ。

このソネットで、話者が呼びかけている相手は、2人称複数の親しい間柄の相手たちである。この呼称の形式は、悲歌にも共通している。これは、リルケの詩作の深奥に触れている形式なのだと思う。その深さをどこまで測ることができるか。

【散文訳】

待て、お前たち、美味いなあ、おいしい。と、思ったらもう、その味は逃げてしまっている。

音楽もひどく少ないじゃないか。足を踏み鳴らす音、ぶんぶん言う音、

娘たちよ、お前たち暖かいものたちよ、娘たちよ、お前たち黙っているものたちよ、

踊れ、経験した果実の味を踊るのだ。

蜜柑を踊れ。誰が、蜜柑の味を忘れることがあろうか、どのように蜜柑が自らの中に溺れ、その味を味わい尽くして死に、そうして同時に、蜜柑の甘く存在しているということに抵抗して我が身を護るかを、だれが忘れることがあろうか。(だれも忘れることはないのだ。)

お前たちは、蜜柑を所有した。蜜柑は、美味に、類稀れな味を以って、お前たち(娘たち)に回心したのだ。

蜜柑を踊れ。もっと暖かい景色、それをお前たちの中から放り出せ、そうすれば、熟した蜜柑が、ふるさとの空気の中で、輝きを放つだろう、そのように。光かがやくもの、蜜柑よ、芳香を、ひとつまたひとつと剥(む)かれて、露わになってゆく。お前たち、娘よ、純粋な、自らを拒む皮と、親しい、類縁の関係を創造せよ、幸福なるもの、すなわち蜜柑を満たす汁液との親しい関係を創造せよ。

【解釈】

2VIIのソネットが、リルケ自らそう註釈しているように、Weraという若い娘の死に捧げられたソネットなのであるが、このソネットに関係して、このソネットも若いダンサー、踊り子が思われているのだと思う。それも、複数形なので、Weraのことは思われていても、そうであるよりは、もっと広く女性の性の段階のうちの、青春にある女性を思って、リルケはこのソネットを書いている。

娘が、暖かいものだという言い方は、第2部ソネットVIIの第3連の第3行にも出てくる言い方で、リルケは、若い女性に、暖かさを感じたのだ。このときのリルケ、このソネットを書いているリルケは50代のはじめという年齢です。なにか、このようなことを思ってみて、このソネットを読むことができるというのも、わたしの年齢がリルケを超えているからなのだと思う。これは、幸せの一種ではないだろうか。

さて、上の散文訳にすべて訳出してしまったので、このソネットについていうことは、多くないのですが、それでも敢ていうとすれば、次のようなことでしょうか。

1.娘たちは、言葉を発せず、ただただ踊っているのだろう。

2.蜜柑を踊れという文は、詩人のつくる文なのだと思う。それは、ひとをハッとさせます。同じ手法を、リルケは、第1部のソネットIIの第3連の第1行で、

Sie schlief die Welt.

(奇跡的な)娘は、世界を眠った。

というように使われています。

奇跡的にと今形容した言葉は、わたしの意訳で、なぜならリルケは、この娘を、“fast ein Maedchen“、ほとんど娘である、そのような娘といっているからです。これは非常に微妙な表現です。娘であって、娘ではないということです。何度もソネット全体を読み返すうちに、そのように、またその意味するところを、理解するようになりました。これが何を意味するのか、リルケは何を娘、若い女性に思っているのかは、第2部ソネットVIIで、解釈することにいたしましょう。

ここでは、リルケの性愛に対する典型的な表現形式が露わになっています。このことは、リルケの詩を理解する上で重要ではないかと思います。詩人に非礼のないように、このことは、そこで論じたいと思います。

3.「光かがやくもの、蜜柑よ、芳香を、ひとつまたひとつと剥(む)かれて、露わになってゆく。」という原文の第3連のこの言葉は、第2部のソネットVIにも、同じ文法的な形式で表現されているものに一致しています。

ドイツ語では、ひとつまたひとつと訳したところは、um、ウム、という前置詞で表わされているのですが。この前置詞の意味を総動員して、このum、ウムは、ここでも実にエロティックです。それは、女性が露わにされることに通じている。第2部のソネットVIは、それが同じように出ています。同じようにという意味は、やはり、着物を脱いで行く表現になっていて、それがそのまま「着物の回避と拒否」であるという表現、露わになることについての、あらわになるもの(花、果実、果実の味)が、同時にそれを否定する身振りを心底からするという表現の中に、リルケのエロスが現れているからです。これは、具体的な経験や体験を抽象化したリルケの表現なのだと思います。

最後の一行は、そのことを、同様に、このソネットの中で示していると思います。

次のソネットは、オルフェウスの生の声が聞こえてくる。そのようなソネットです。既にオルフェウスは八つ裂きにされ、死者となっている。そのオルフェウスが歌うのです。

2009年11月8日日曜日

オルフェウスへのソネット(XIV)

XIV

WIR gehen um mit Blume, Weinblatt, Frucht.
Sie sprechen nicht die Sprache nur des Jahres.
Aus Dunkel steigt ein buntes Offenbares
und hat vielleicht den Glanz der Eifersucht

der Toten an sich, die die Erde stärken.
Was wissen wir von ihrem Teil an dem?
Es ist seit lange ihre Art, den Lehm
mit ihrem freien Marke zu durchmärken.

Nun fragt sich nur: tun sie es gern?...
Drängt diese Frucht, ein Werk von schweren Sklaven,
geballt zu uns empor, zu ihren Herrn?

Sind sie die Herrn, die bei den Wurzeln schlafen,
und gönnen uns aus ihren Überflüssen
dies Zwischending aus stummer Kraft und Küssen?

前のソネットが、果実のソネットなので、それに続いて、葡萄の葉や、やはり果実が続いて歌われる。それから、前のソネットで、果実の味が口腔の中でdoppeldeutig、ドッペルドイティッヒ、(死と生の)二重の意味が掛けられているということからも、最後の連のZwischending、ツヴィッシェンディング、中間にあるものという言葉が関係づけられています。勿論、死と生ということから、死者も出てくる。

【散文訳】

わたしたちは、花、葡萄の葉、果実と交流する。

これらのものは、一年だけの言葉、単年度の言葉では話さない。

暗闇の中から、多彩な、明きらかなもの、公然たるものが、上がって出てきて、そして、

それには、ひょっとしたら、大地を強くする死者たち自身の嫉妬の輝きが、あるかも知れない。

その多彩な、開かれているものの、死者たちの分、どれだけ死者たちがそれに関与しているかということについて、わたしたちは、何を知っているというのだろう。ずっと前から、長い間、粘土に自分たちの自由な標章、印章をはっきりと刻印することが、死者たちの流儀、やり方である。

さて、こういうわけで、自分自身に問うでみるがいい。死者たちは、その刻印することを、好き好んでしているのだろうか?と。この果実、すなわち、重たい奴隷の作品は、丸くなってわたしたちの方へと高く投げられて来て、つまり、死者たちの(または、奴隷たちのと訳せる)主人たちへと、迫っているのだろうか?

死者たちというのは、根のところで眠っている男たち(または、主人たちと訳せる)なのだろうか、そうして、わたしたちに、その剰余の中から、物言わぬ力と、数々の接吻から生まれたこの中間物を恵んでくれるのだろうか?

【解釈】

1連の第2行のこころは、花や、葡萄の葉や果実は、その歳1年で終わりになるのではなく、毎年繰り返して話をすると歌われている。

果実が、死から生まれ、その中に死を含むとリルケが考えていたことは、既に見てきた通りです。この「多彩な、明きらかなもの、公然たるもの」とは、果物のことを言っているのだと思う。それゆえ、暗闇の中から外へと、そこから生まれて、昇ってくると歌われている。既に、これも前回のブログで書いた通り、リルケの垂直志向、垂直感覚というものがあって(これは悲歌5番にはっきり論理的に出ている)、死からまた死であるがゆえに生まれ、育まれた樹木が高く伸長して、そこに枝が張り、そうしてそこに果実がつくということを前提に、リルケは詩を書いているので、その「多彩な、明きらかなもの、公然たるもの」も、昇ってくる、steigen、シュタイゲンと書いているのだ。これで、第1部ソネットIの意味は、一層深まると思われる。オルフェウスは、身を引き裂かれて殺されるのだから。

同じ死ということから、この果実には、死者が関係していないのだろうかと詩人は考え、続けて歌う。本当は無関係であるので、それゆえ、ひょっとしたら、死者たちはその果実に嫉妬するのではないだろうかと。なぜならば、死者たちは、大地を強よくするものたちだからだ。

ここにも、粘土が出てきて、死者たちが粘土に刻印を押すことを言っている。第2部のソネットXXIVを読むと、その第1連第1行にも粘土が出てくる。これは、手が製作する壺のための粘土、それから、そうやって出来た壺に油や水が満たされるので、そのようにして(実際に家々も城壁も粘土を焼いて作るのではないだろうか)都市が生まれ、繁栄を象徴しての粘土という言葉が使われている。(死、粘土、手)は、リルケの場合、連想のセット、数ある連想一式のひとつです。

奇妙な言い方だが、死者たちも生きているということは、悲歌の世界と同じである。ソネットの世界も生と死が別なのではないリルケの世界なのだ。

さて、果実は、「重たい奴隷の作品」と言い換えられているが、これは何を言っているのだろうか。連想がローマ時代に遡行して、当時の果樹園の様子を思い描いたのではないかとわたしは想像します。確かに奴隷が仕事をして、果実を取り入れたのかも知れない。しかし、「重たい奴隷」とは何でしょうか。上の散文訳に、( )を使って解釈の二重性を示したように、この奴隷とは、死者たちのことではないでしょうか。最後の連を読むと、死者たちは、植物や樹木の根元に眠っている様子です。それゆえに、「重たい奴隷」と歌われているのでしょう。(重たいこと、重さの意味については、既に第1部ソネットIVで歌われている通りです。)そうして、奴隷の主人たちとは、この果実を放り投げられる当の私たちということになります。

同じ主人たちということば、ドイツ語で、Herrn、へルンという言葉の連想と、この言葉の持つもうひとつの意味、男たちという意味から、最後の連は、死者たちは、男たちなのだろうか、と始まります。それとも、死者たち自身が、前の連で、果物の登ってくる当の主人たちなのでしょうか。そのような意味の掛け合わされた含みを、最後の連の最初の一行はもっているように思います。このことは、第1連の「ひょっとしたら、大地を強くする死者たち自身の嫉妬の輝きが、あるかも知れない。」の「ひょっとしたら」に呼応していると思います。

さて、主人であるかもしれない死者たちは、根っこのところに眠っている。そうして、自分たちの剰余、収穫の余りを、わたしたち人間に恵んでくれる。主人であれば、goennen、ゲネン、恵むという言葉も、その通りです。

この収穫とは、もちろん果実のことで、これは、死者であることから「物言わぬ力」からなり、同時に、慈しまれて育てられることから「数々の接吻」から生まれた中間物といわれるのでしょう。中間物とは、もちろん、果実のことで、果実とは、第1部ソネットVIIIで書いた通り、死と生の混合、死と生の文字通り中間にあるからです。

さて、最後にもう一度言いたいですが、リルケの思想(ここまで来ると、思想といってよいと思います)の、この大地の底には、死があり、死者が棲んでいる、そうして、そこから生の種子、または種子の生が芽生える、そうして垂直の樹木になり、枝が生え、枝になり、果実が実る、さらに果実が大地に落ち、大地に戻って、大地の肥料になる。この繰り返しを、実感として創造したことは、素晴らしいことだと思います。これを、ヴィジョン、visionと呼ばずして、なんと呼びましょうか。思えば、悲歌の1番、2番の天使たちも、その循環は、全く比較を絶したヴィジョン、visionの世界でした。詩人は、ヴィジョンの創造者であると、わたしは思います。そのような詩人こそ、詩人の名に値するのではないでしょうか。

2009年11月5日木曜日

17_オルフェウスへのソネット(XIII)-2(思ったこと)

XIII

VOLLER Apfel, Birne und Banane,
Stachelbeere... Alles dieses spricht
Tod und Leben in den Mund... Ich ahne...
Lest es einem Kind vom Angesicht,

wenn es sie erschmeckt. Dies kommt von weit.
Wird euch langsam namenlos im Munde?
Wo sonst Worte waren, fließen Funde,
aus dem Fruchtfleisch überrascht befreit.

Wagt zu sagen, was ihr Apfel nennt.
Diese Süße, die sich erst verdichtet,
um, im Schmecken leise aufgerichtet,

klar zu werden, wach und transparent,
doppeldeutig, sonnig, erdig, hiesig — :
O Erfahrung, Fühlung, Freude —, riesig!

【思ったこと】

前のソネットとの関係では、namenlos、ナーメンロース、無名にという言葉が連らなって、第2連に引用されている。またそのソネットに行ったときに。

と上のように書いたのだが、今日移動書斎で、第2部のソネットXXを読んで、思うことがあったので、忘れないように、ここに、この日に書いておこうと思った。

それは、子供のことである。

ソネットXXでは、次のような連がある。第1連です。

ZWISCHEN den Sternen, wie weit; und doch, um wievieles noch weiter,
was man am Hiesigen lernt.
Einer, zum Beispiel, ein Kind... und ein Nächster, ein Zweiter —,
o wie unfaßlich entfernt.

【散文訳】

星星の間の距離、なんという遠い。しかし、ひとがここにあるものから学ぶことは、どれほど、もっと遥かなことであることだろうか。

あるひとりの者、例えば、ある子供が直ぐ隣にいる者が、ふたり目の者がー

ああ、なんととらえどころ無く離れていることか。

ここでわたしが連想し、思い出したのが、第1部のソネットXIの第1連でした。ここでは、

SIEH den Himmel. Heißt kein Sternbild «Reiter»?
Denn dies ist uns seltsam eingeprägt:
dieser Stolz aus Erde. Und ein Zweiter,
der ihn treibt und hält und den er trägt.

【散文訳】

天を見よ。星座に「騎士」という名前の星座はないのだろうか。

何故なら、この星座は、わたしたちに刻印されること、そうして、

こころに残ることが、稀だからだ。

この、大地から生まれた名誉のこころよ。そして、二人目の騎士

この名誉心を(乗る馬のように)駆け、そして維持し、飼い、名誉心が逆に

この騎士を担う、そのような騎士がいる。

この引用に下線を付したところを見ればわかるように、リルケは、第2番目の、直ぐ隣にいる者を、とても遠い者だと感じ、考えているのです。リルケにとって、子供は、そういう者であったのだと思います。大人と、ことさらというわけではありませんが、対比されて、極く身近にいる、それゆえにまた、遠い者、子供。それは、何故でしょうか。

(上のソネットXIの引用の大地から生まれるStolz、シュトルツ、名誉心という言葉から、わたしはまた第2部のソネットXXIVの冒険者たち(Wager、ヴァーガー)と、そこに使われているtrotzdem、トロッツデーム、にもかかわらず、という副詞のことに、とても触れて話しをしたいと思っているのですが、それは次回といたします。ここに備忘のように書いておきます。)

なぜ、こんなことを書くかというと、これらは皆、namenlos、ナーメンロース、無名の、無名にという言葉と関係があるからなのです。

1部のソネットXIでは、ふたりの騎士は、食卓と楽しみによって、無名なものとして、分かれさせられるのでした。食卓と歓待の楽しみが何を意味するかは、それはそれとして、ここでは、やはり一緒にいるふたりの騎士が、同道しているにもかかわらず、そうして、s近くとも遠く離れているその姿、ひととしての有り様が無名であるといっているのです。それは、たとえ、食卓と歓待のよろこびによって分かたれているものだとしても、です。

この無名の、無名にという言葉を、前回読んだソネットXIIIでは、果物たちが口のなかで無名になると使って、歌っています。その味わいを味わうことができるのは、子供なのです。果物たちは、死と生命とのことを話し、口の中にその話しをします。子供だけが、その味わいを知っている。その味は、遠いところから来るということを知っている。リルケは、子供は死に親しい、それであって、こころが平安だと歌っているように、わたしには見えます。そのような子供の姿。

少々、話しが飛ぶようですが、

Ein Zweiter – Kind – Sterne – Ferne:ふたり目の(隣の)ひとー子供―星辰―遥かな距離

これらの言葉は、リルケの世界では、連語、連想語なのです。

さて、ここから、もうひとつ言いたいことがあります。それは、何故リルケは、オルフェウスを歌ったのかということです。オルフェウスについての連想連語です。s

リルケは、オルフェウスという神的な若者が、引き裂かれて殺されるから、このソネットの主人公にしたということなのです。これは、悲歌1番の最後の連において、リノスという若者の死を歌ったのと同じ主題です。悲歌とソネットの通奏低音です。いや、低音ばかりではなく、ソネットにおいては、高くも歌われる主題です。

オルフェウスの身が引き裂かれ、殺されて、第1部の最後のソネットXXVIは終わります。そこまでが、第1部。その後が第2部で、殺された後のオルフェウスが登場してきます。第2部の最初のソネットでは、それまで話者としてオルフェウスを呼んでいた話者が、オルフェウス自身の声になっている、すなわち話者がオルフェウスになっています。その後も、これが持続されるわけではありませんが、それでも、これが第1部と第2部の大きな違いです。第1部と第2部は、前者はオルフェウスの死まで、後者はその後のオルフェウスということになります。このように部立てをリルケは考えたのでしょう。

さて、何故リルケは、身を裂かれ殺されるオルフェウスを主人公にしたのでしょうか。何故リルケは、このような若者に強く惹かれるのでしょか(これは、別の視点からは、いわば青春を喪った若者に強く惹かれるのでしょうかと問うてもよいのですが、これはまた別の機会の論といたします)。

それは、身を引き裂かれ、殺されるのが、詩人の運命だからだとリルケが考えていたからです。オルフェウスのことは、我が身のことである。これは、詩人の姿だとリルケはいっているのだと思います。

そうして、大地の肥料になる。この肥料は何を育てるのか。垂直に伸長する樹木を育てるのだと思います。(このリルケの動く垂直感覚は、悲歌5番での曲芸師の均衡感覚、バランス感覚、宇宙に対する一対の平衡感覚として歌われておりました。これについても、悲歌5番との関係で稿を改めて論じたいと思います。)それゆえ、第1部ソネット1番の第1行は、樹木、高く聳える樹木のことから歌われるのでしょう。

そうして、垂直に伸びる樹木は、果実を実らせる。それは、このように、おのづから、死から生まれたもの、生と死、いやリルケの語順は正しい、死と生から生まれたものだ。

Alles dieses spricht
Tod und Leben in den Mund

こういった果実すべてが、死と生との話を、口の中へとする。

リルケは、このように想像していたのではないでしょうか。それがわかったと思ったのは、第2部のソネット最後のXXIXを読んだときでした。ここには、交差した道にある魔法の力という言葉も出てきて、第1部のソネットIIIの第1連の同じ言葉の謎も、これを合わせて考えると解けるのではないかと思っています。

リルケがこのように人間の典型としての詩人の死と生を考えていたことは、循環的な思想だとわたしは思います。思えば、既に悲歌1番、2番に出てくる天使がそうでした。この天使は、天上と地上の間を循環しておりました。(地上にあっては無数の鏡になっている。)これが、リルケの思想の核心にある感覚、体系的な感覚ではないでしょうか。詩人は、体系的に感じる。と、わたしは思った次第です。論理ではなく、感じる、しかし、体系的に。それゆえに概念化した数々の詩人自身の言葉であるのだと思います。

後日、またこのページに戻ってくることがあることでしょう。

2009年11月3日火曜日

オルフェウスへのソネット(XIII)

XIII

VOLLER Apfel, Birne und Banane,
Stachelbeere... Alles dieses spricht
Tod und Leben in den Mund... Ich ahne...
Lest es einem Kind vom Angesicht,
wenn es sie erschmeckt. Dies kommt von weit.
Wird euch langsam namenlos im Munde?
Wo sonst Worte waren, fließen Funde,
aus dem Fruchtfleisch überrascht befreit.
Wagt zu sagen, was ihr Apfel nennt.
Diese Süße, die sich erst verdichtet,
um, im Schmecken leise aufgerichtet,
klar zu werden, wach und transparent,
doppeldeutig, sonnig, erdig, hiesig — :
O Erfahrung, Fühlung, Freude —, riesig!

前のソネットとの関係では、namenlos、ナーメンロース、無名にという言葉が連らなって、第2連に引用されている。

【散文訳】
林檎、梨、それからバナナに、すぐりの実で一杯これらすべての果物は話しをするのだ、そうして、話しをして、口の中に死と生を入れるわたしは予感するものがあるもし子供がこれらの果物を味わい尽くすときには、いつも、それ(生死を入れること)を、子供の顔から読み取りなさい。この味は、遠いところからやって来る。

お前たちだって、口の中で、次第に無名になっているのがわかるだろう?以前には、他に言葉がなかったところに、今は、掘り出したもの、発掘したものが流れている、果肉の中かから外へと驚いて解放されて。

お前たちの(食べている)林檎が何を呼んで、名づけているかを思い切って言ってみなさい。まづ濃縮しているこの甘さ、味わう中に幽(かす)かに真直ぐ立っていて、清澄になるために、覚めていて、そして透明で、二重の意味があって、太陽が燦燦と照っていて、大地のものであって、ここにあるものであって。ああ、経験よ、感じることよ、悦びよ-----巨大なるものよ!

【解釈】
訳してしまうと、他に解釈は要らないように思われるが、それでも言葉を紡いでみよう。
子供と大人。呼びかけられているのは、大人だ。そうして、生と死が、果物の味にあるといっている。散文的にいうと、そうなる。果物という生の頂点にあるものを喰らうという人間の行為を、このように歌った。

口の中で、果物は、無名になる。無名になるとは、生と死を味わい尽くすことだ。子供のように。

そう話者は、その話者を創造しているリルケは、言っている。

清澄にと訳したドイツ語は、klar、クラールで、今まであちこちで既に出てきた言葉です。Rein、ライン、純粋な、純粋にという言葉と置き換えてみて、文意を味わってください。

こうしてみると、リルケは禁欲的ではあるが、感覚を否定しているわけではないのだ。確かに花を歌うときの、その花弁、はなびらを、umという前置詞、その周りに、それを重ねてという意味の前置詞を使って歌うときのリルケはの言葉は、美しく、さらに、エロティックである。この話しは、またそのソネットに行ったときに。

オルフェウスへのソネット(XII)

XII

HEIL dem Geist, der uns verbinden mag;
denn wir leben wahrhaft in Figuren.
Und mit kleinen Schritten gehn die Uhren
neben unserm eigentlichen Tag.

Ohne unsern wahren Platz zu kennen,
handeln wir aus wirklichem Bezug.
Die Antennen fühlen die Antennen,
und die leere Ferne trug...

Reine Spannung. O Musik der Kräfte!
Ist nicht durch die läßlichen Geschäfte
jede Störung von dir abgelenkt?

Selbst wenn sich der Bauer sorgt und handelt,
wo die Saat in Sommer sich verwandelt,
reicht er niemals hin. Die Erde schenkt.

このソネットは、前のソネットを受けて、結びつくこと、結びつけることがから始まっています。それから、前のソネットの最後の連で「(ふたりの)姿」と訳したこの姿、Figur、フィグーアが続けて引かれている。それから、tragen、トラーゲン、担うという言葉も。

詩人は概念を結びつけて、新たな形象を創造する。そうして、時代を批判もするのだ。

【散文訳】

精神において快癒せよ。精神は、わたしたちを結びつける。

なぜならば、わたしたちは、真に、(結ばれて初めて形をなす)姿として生きているからだ。

だから、時計は、小さな歩みとともに、わたしたちの本来の日(とは別に、そ)の傍を、進むのだ。

わたしたちの真の場所を知ることなく、わたしたちは、実際の現実の関係の中から外へと、その関係の理由によって(約束事に従って規則正しく)行なっている(行動している)。アンテナが、アンテナを感じ、そして、空虚な遠い距離が、担っていた。

純粋な緊張、張り渡されていること。おお、諸々の力からなる音楽よ。

だらしのないビジネス、実業を通じて生まれるどの障害も、お前が舵をとって、

道をそらして、別の方へと向けているのか?

たとえ農民が心配し、世話をして、そうして(約束事に従って規則正しく)行うとしても、

播かれた種が、夏に変身するところでは、農民は決して充分ではないのだ。大地が贈りものをするのである。

【解釈】

前のソネットでは、騎士という星座の、点と線とを結んでできる姿を、Figur、フィグーアと、そう呼んだのですが、ここでもその幾何学的な不変の形が、同じ名詞のもとに思われています。星座は、点と線を結んでできる、時間によって変化しないentity、実存、存在であることを、ここでは言っています。精神は、そのような形で、わたしたちを結びつける。

そういっているのです。リルケ流にいえば、そうして、ひとつの、あるいは幾つもの、星座を創造するのでしょう。

これは、人間の認識の能力だとわたしは考えますが、しかし、リルケは決して認識という言葉を高次の言葉として使いません。すべてを、既にある空間の集合と考えているからです。これは、悲歌で論じたところです。

精神にあれば、わたしたちは快癒することができるとは、いいことばです。

リルケの生きた時代は、トーマス・マンの生きた時代で、ふたりは同じ生年ですから、近代の、いや19世紀後半から20世紀前半にかけての現代の機械文明の勃興を目の当たりにした世代です。トーマス・マンのエッセイの中に、それらに対する嫌悪感も含めた感想の述べられていることがあったのを、こうして思い出します。リルケも、ここでは時代の批判をしています。国家の名の下に、中産階級、ビジネスマンが巨大な資本をつかい、首都やその他の大きな都市に人間を膨大に集め、教育訓練を施し、産業を起こし、富を生み出して、分配する、そのような近代の社会に対する批判です。

アンテナという言葉は、当時具体的に何を意味していたのかは解りませんが、今ならば小さな家庭にでもあるアンテナを思いますが、当時のことですから、エッフェル塔のような巨大な塔ではないかとも思いますが、どうでしょうか。あるいは、商業的なアンテナが、やはり、そのほかにも都市にはたくさんあったように、この連からは読みとることができます。そうして、遠いところと通信ができる。無線や電話で確かに通信ができたことでしょう。しかし、それは、「空虚な遠い距離が、担っていた」のだと話者は歌っています。

距離はいくら遠くても、真の結びつき、真の紐帯はないとういことでしょう。

それでは、真の紐帯とは何か、それはどこにあるかというと、第3連の冒頭にあるように、純粋な張り渡しにあるのです。張り渡すと訳したspannung、シュパヌングは、明らかにアンテナの連想連語です。こうして詩をつないでいる。さて、その純粋な緊張であるのが、音楽なのであって、何故ならば音楽は諸々の力の結集したものだからだというのです。

音楽の力が、上のような放恣な産業のあり方から生まれる障害、悪いことを、そのまま結果にいたらせることなく、道をそらして、脇へと誘導し、害のないようにしているのかというのです。

最後の連は、農民の行いは、第2連でのわたしたちの行いと同じ言葉、handeln、ハンデルンが使われており、都市の人間の行いと、農民の行いが対比されて歌われています。しかし、農民といえども、その力だけでは不足で、大地の恵みに預かっているのだということが歌われています。

オルフェウスへのソネット(XI)

XI

SIEH den Himmel. Heißt kein Sternbild «Reiter»?
Denn dies ist uns seltsam eingeprägt:
dieser Stolz aus Erde. Und ein Zweiter,
der ihn treibt und hält und den er trägt.

Ist nicht so, gejagt und dann gebändigt,
diese sehnige Natur des Seins?
Weg und Wendung. Doch ein Druck verständigt.
Neue Weite. Und die zwei sind eins.

Aber sind sie's? Oder meinen beide
nicht den Weg, den sie zusammen tun?
Namenlos schon trennt sie Tisch und Weide.

Auch die sternische Verbindung trügt.
Doch uns freue eine Weile nun
der Figur zu glauben. Das genügt.

あるいは、リルケは、前のソネットの最後の文、人間の顔の中の時間ということから、このソネットを思ったかも知れません。表面上、字面の上では、直接、その前のソネットの言葉が引き継がれて出て来ません。

主題は、結びつけること、絆です。騎士と旅、あるいは騎士の旅で、それを表わしています。この旅もまた、オルフェウスの変身のごとく、無私の旅です。

【散文訳】

天を見よ。星座に「騎士」という名前の星座はないのだろうか。

何故なら、この星座は、わたしたちに刻印されること、そうして、

こころに残ることが、稀だからだ。

この、大地から生まれた名誉のこころよ。そして、二人目の騎士、

この名誉心を(乗る馬のように)駆け、そして維持し、飼い、名誉心が逆に

この騎士を担う、そのような騎士がいる。

この、(名誉心という)存在の憧憬の性質は、このように、(狩猟でのように)狩り立てられ、そして、(手綱で)制御され、抑えられているのではないか?

道と分岐点。しかし、そんなことはない、ある圧力が教え、解らせるのだ。そうして、新たなる先へと続く。こうして、ふたり(の騎士)は、ひとつになる。

しかし、ふたりは、本当にひとつになったのだろうか?あるいは、そうではなくて、ふたりが一緒に行っている道のことを、お互いに思ってはいないのではないだろうか。卓(テーブル)と慰安が、ふたりを既に無名という形で、分けているのだ。

たとえ星辰の絆、星辰の関係が(ふたりを)担っていても(そうであればなあ。そのような関係は稀だし、続かないのだが)。いやいや、しばしの間、こうして、その(ふたりの)姿を信じて思うことを、(ふたりの関係よ)、我らをして楽しましめよ。それで、充分だ。

【解釈】

地上、あるいは大地から生まれる名誉のこころを、話者は、第2連で、「この、存在の憧憬の性質」と呼んでいる。そのこころに乗って馬を駆るのがふたりの騎士。

しかし、その騎士ですら、同じ道を行くことが難しい。中世の騎士が旅をして、中世的な至高の価値を求めることを前提に、リルケは詩を書いている。

地上から生まれた筈の名誉心が、星辰的な紐帯、絆、関係と同じに歌われるのは、そのこころが、「存在の憧憬の性質」だと歌われていることからいって、自然に理解されるところです。その星座としての騎士座が、ないのだろうかと、話者は最初に問うている。

なぜ、「卓(テーブル)と慰安が、ふたりを既に無名という形で、分けているのだ」ろうか。この一行は、何を言っているのだろう。

中世の時代に騎士は旅をして、礼をとり、礼をとられて、お城に宿泊を許されることがあるわけだから、そこで食卓の宴に預かる。そういう場では、その場の常として、階級が截然としていて、自づと秩序もあるので、ふたりの騎士とはいえ、ふたりのそれぞれの騎士としての身分違いによって、既にその物理的な席、配置も、そこで味わうことのできる歓待の楽しみも、既に、分かれているといっているのではないだろうか。そのことは、ふたりを無名にする。この世の秩序や約束事は、永続はしないのに、いつもひとを無名になることを強いる。

これは、芸術家仲間同士のことを思って出てきたソネットであろうか。

オルフェウスへのソネット(X)

X

EUCH, die ihr nie mein Gefühl verließt,
grüß ich, antikische Sarkophage,
die das fröhliche Wasser römischer Tage
als ein wandelndes Lied durchfließt.

Oder jene so offenen, wie das Aug
eines frohen erwachenden Hirten,
— innen voll Stille und Bienensaug —
denen entzückte Falter entschwirrten;

alle, die man dem Zweifel entreißt,
grüß ich, die wiedergeöffneten Munde,
die schon wußten, was schweigen heißt.

Wissen wirs, Freunde, wissen wirs nicht?
Beides bildet die zögernde Stunde
in dem menschlichen Angesicht.

前のソネットの主調の構成要素、死者たち、それから二つの領域(二重の領域)から連想して、このソネットでも、死のことと、二重の領域である時間と空間の関係が歌われます。

また、このソネットXには、第2連についてのリルケの自註があります。

【散文訳】

お前たちよ、わたしの感情を決して去らなかったものたち、

古代の石棺、ローマ時代の日々のよろこびの水が

逍遥する歌として流れ通る石棺よ、

わたしはお前たちに挨拶をする

あるいは、うれしく思い、目覚めている羊飼いの眼のように

かくも開いている石棺に挨拶をするー羊飼いの眼の内側は

静けさと蜂の眼で一杯だー その眼から、魅了された蝶たちが

渦を巻いて飛び立って行った

疑いから奪い取るすべてのものに、すなわち、沈黙とは何を意味するかを

既に知った再び開かれた唇に、わたしは挨拶する

わたしたちがそれを知っているか、友よ、わたしたちがそれを知らないか

両方が相俟って、人間の顔の中に、躊躇する時間を形成するのだ。

【解釈】

古代の、ローマ時代の石棺に呼びかける話者。ローマの石棺と同じものとして、第2連では、「うれしく思い、見張っている羊飼いの眼のようにかくも開いている石棺」にも挨拶をしています。

この第2連について詩人の自註があり、この石棺のある墓は、マルテの手記でも書いた、Arlesの傍のAllyscamps墓地のことを思って書いたとあります。参照すると、このソネットの理解が深まることと思います。

死んでいても、眼を開けていて(蜂のように)、死ぬことのない、生きているものたち、すなわち沈黙や静けさを知るものたちへの呼びかけではないでしょうか。

3連で呼びかけられている唇は、沈黙とは何かを既に知った、疑うことのない唇。この既に、schon、ショーンと同じ既にが、第2部ソネットVIIIの第2連にも出てきます。

そこでは、ガラスの割れる音の中で既に自らを砕く、そのようなグラスとして歌われ、この副詞が使われています。何かが起こる前に、時間の中でではなく、それとは無関係に既に起こっているという、既に、です。確かに、既に知っていたと書いてある原文の動詞は過去形なのですが、既に過去に知ったことだとしても、その知り方が、このような既にだと思われるのです。

この唇も、Allyscamps墓地の石棺のように、また羊飼いの眼のように開かれている唇です。Offen、オッフェン、開かれているというところに眼目があるのだと思います。

何が生で何が死か、何が現在の現実で、何が不変であるか、わたしたちはその答えを知っているのか、それとも知らないのか、友よ、友のあなたがたよ、と話者は呼びかけている。

この両方のこと、そういったことを知っているということと知らないということの両方が、人間の顔の空間の中に、躊躇する時間を形成する。

人間の顔というと、悲歌では空間をそのまま意味しておりましたので、この最後の文も、その通りだということになるでしょう。空間の中に時間があるのです。悲歌で論じた通りです。友よと呼ばれたわたしたちは、疑いを持っているので、その時間も躊躇した時間と呼ばれるのでしょう。