2017年6月30日金曜日

荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む (4): タイムズ スープ

荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む
(4)
タイムズ スープ

この詩は、時間を歌つた詩です。しかし、この詩人の時間論は時間を論ずるだけには留まらない。その裏には汎神論的存在論がいつもあるからです。それが、time’s soupといふ題名の意味です。Times’ soupであれば、一層時間は幾つもあるといふ意味にもなり、また時代のスープといふ意味にもなるでせうが、そもそも其の複数の時間のあるといふ由来は時間の本質に由来するのであると考へると、time’s soupで十分であるといふ考へにもなります。

しかし、時間に本質などといふものがあるのかといふことを此の詩は歌つてゐて、そんなものはないのであるといふことを結論としてゐるのです。しかし、こんな理屈を詩にしても、それは詩ではない、散文です。それでは、何が此の詩を詩足らしめてゐるのかといふと、soupといふ液体の形象(イメージ)なのです。それ故のTime’s Soupなのです。さうであれば、この詩の題名の、もう一つ深い意味は、

Time is soup

といふ意味になるでせう。

本題に入る前に、この詩の構成について整理をします。まづは詩の全文をお読みください。

スープの中を
未来に背を向けて
後ずさりしているのが真相なのだ。
背中に眼などないのだから
虚ろな瞳が向けられているのは
霧の彼方……
神話の故郷……
われらは向かっているのではない
遠ざかっているのだ。
岸を離れた帆掛け船のように
やがて
水線の彼方に陸は没し
やがて記憶も薄れ
船出した港までも忘却される。
人が未来に向かっていると確信しているのは錯覚なのだ。……(A)

人々はいつ時という言葉を思いついたのだろうか。

timeは潮
chronos――円環する時

だが、おれは思うのだ
密かに……
時というものを、おれたちの言葉で喩えることはできない、と。
時は隠喩(メタファー)たり得るか――否
時は換喩(メトニミー)たり得るか――否
時は提喩(シネクドキ)たり得るか――否

だが――
強いてイメージすれば
おれたちは、透明なスープの中にいるのであって……
むろん……
この無限大のスープ鍋の持ち主が だれかを知らないけれども。……(B)

たしかに大宇宙は開闢したが――ビッグバン
たしかに
あるとき
時ははじまり……
突如
あてどもなく
流れはじめはしたが……
だが、それとても……
所詮の一宇宙にすぎない……

スープ鍋の中で起きる対流の中にいる我
翻弄され
悶え
笑い
神妙になり
おれたちって
バカみたいだぜ。
物質進化の……
巨いなる潮の中で弄ばれていることは 認めるけれど
神様……
あなたの仕業などではない。

ニーチェ氏にならえば「大いなる遊戯」
フッサール氏にならえば「判断中止」
ウィトゲンシュタイン氏にならえば「言語ゲーム」……(C)

いま、秋は色づき
落ちた庭の胡桃(くるみ)をわが妻は拾い
書斎の俺は 書きかけの詩を中断するのだ……     ……(D)


この詩の構成する段落の最後にアルファベットで識別子をつけました。この識別子の上までは、当該段落であるといふ意味です。さうすると、この詩は4つの段落からなることになります。

(A):Topologyで時間を観る
(B):時間とは何か
(C):宇宙の時間と人間の時間
(D):現実只今のこの時間

結局題名の通り、この詩は時間についての詩であることが判ります。時間はスープである。一つ一つの段落をみて見ませう。最初に(B)から見てみます。結論をいひますと、

この詩人の時間は流動する液体状の連続した空間である

といふことなのです。空間を思ふと時間を思ひ、時間を思ふと空間が液状化するのです。さうしてそれは食べられるものであり、また皮膚感覚として触覚に訴求するものであり、それが生きてゐるといふことである、といふ其のやうなスープです。

さうして、スープは、この詩の中だけに出てくる液体ではありません。『聖シュテファン寺院の鐘の音は』といふ長編小説があります。この物語の最終局面に、やはり時間が論ぜられ、時間といふことから当然に次元についての思弁が記述され、その思弁は、次元と次元の層、即ち前者を此の現実のある次元だとすれば、後者は異次元であり、〈〉といふ記号を使つて〈異界〉と呼ばれてゐます。さうして、この二つの次元には当然のことながら境界面があり、この「境界面を浸透する」のが「熟語の駿馬にまたがる主語」であることは、『世界接触部品』で論じた通りです。さうして見ると、この接触といふ言葉の意味もまた一層よく、私たちには理解されるのではないでせうか。私たちが「世界を横断する者」である限り。そして、「横断する」とは、「浸透する」ことであるのです。自分が液体状になつてゐる。この独特の感覚は、Time’s Soupにも現はれてゐます。さうして、最後には私たちは〈異界〉から浸透して来て、(D)の「現実只今のこの時間」に回帰して、ハッと眼を醒ますのです。

上の長編小説に顕著な特徴は、主人公が〈異界〉にゐる女性を求めて「境界面を浸透する」旅をするところにあります。現実のデンツといふ町がズレて変形し、同じ名前ではあるが別の次元の町へと変容する。安部公房の世界ならば、KがK’に変形するのです。真獣類から有袋類が生まれる。

「《わずかな、……〈世界〉の真実を告げる〈言葉〉の力によって、この〈異界〉はふたたび異なる〈次元〉へと〈現象学的トラバース〉を起こす可能性があるかもしれない》」とある(『定本メタSF全集第4巻 聖シュテファン寺院の鐘の音は』262ページ)、このやうな記号の使ひ方を見ると、安部公房の「僕の中の「僕」」といふ内省的・独白的・再帰的話法の場合の使用法と同じく、さうして『第一の手紙~第四の手紙』の記号の使用法と同じく、
《》は、哲学的思弁によるまとまりある内省的・独白的・再帰的話法を示し、
〈〉は、その思弁の中で使はれる異次元での、または異次元に関わる諸事諸物を示してゐることが判ります。安部公房の場合の「異次元に関わる諸事諸物」とは、リルケの詩の世界の言葉でありました。

空間を思ふと時間を思ひ、時間を思ふと空間が液状化する例を上の長編小説より引用します。

「執事のマルクスさんがおっしやっておられましたが、いま〈次元の潮〉が強まって、〈異界〉の〈次元層〉が乱れているんですって」(同巻、363ページ)

この、〈次元〉は海であり、海流であり、潮の満ち引きといふことがあるといふ形象(イメージ)であることが判りますが、この形象は、同じ小説で、

「秘儀である。
 母と呼ばれる子宮への回帰。
 生まれた場所へ戻ること。
 すなわち、アルカディアの夜が、白樹に見せた幻の意味……。」
(同巻、316ページ)

とか、

「彼は悟る。〈鹿の園〉こそが……あるいは〈生命の泉〉こそが、この〈異界〉の理想郷、アルカディアの子宮であることを。そこが〈異界〉の中心なのだ。理想的な愛の園なのだ。」(同巻、317ページ)

とか、さうして何よりも上の「秘儀である」「母と呼ばれる子宮への回帰」は、「乳蛍」といふ蛍の乱舞する「乳の池」の中に裸になつてエンマ夫人と二人で浸かつて此の夫人によつて主人公の知らされ意識するやうに「この乳池の乳は、あなたの母の乳よ。さ、乳の中に体を沈めて、好きなだけお飲みなさい」といふ母の乳であると同時に、もつと汎神論的に「言われたとおりにしながら、彼がこの〈異界〉にやってきて出会った総ての女たちが、彼自身の無意識に潜む母親の影であったのかもしれない……と気付いた」といふ其のやうな、大地ならば大地母神と呼ばれる女性の神または神々なのです。(同巻、314~315ページ)

空間を思ふと時間を思ひ、時間を思ふと空間が液状化し、そして其の液状のもの又はそれほどに柔らかいものに可塑性を与へて可食性のあるものと化する好例は、初期の短編の傑作『時の波堤』(のちに『大いなる正午』と改題)の波、『柔らかい時計』のポタージュの池、『大いなる失墜』のアンアンといふ何時でも何処にでも存在する汎神的女性、同様の性質を持つた『トロピカル』のミス・トイによく現れてゐます。しかしそもそもの処女作である『しみ』といふ短編に、此の詩人の空間的な流動性の高い時間感覚がよく現れてゐます。

〈沼地〉じゃなく〈過去〉だって言っているんだよ、そう、過去、未来の過去だよ。過去に足をとられて、そこんとこに虫が食いついているらしいんだ。沼地なら虫はいるけどさ。
 辻つま合わないだろう。てっきり酔っぱらっているんじゃないかって俺は思ったな。」(『定本荒巻義雄メタSF全集第1巻 柔らかい時計』446ページ)(傍線筆者)

さうして同様にもう少し先の、「僕の中の「僕」」といふ内省的・独白的・再帰的話法による次の独白を。後年であれば《》といふ記号の中で語られるべき哲学的思弁です。

「驚いたよ。やつらは時間的な生物なんだ。俺たちが空間を自由に動きまわれるように、奴らは時間の中を行き来できるってことだよ。体の構造も時間的に拡がっているんだとか言っていたぜ。頭が未来にあって、足が過去にあるなんて場合もありうるわけだな。つまり俺たち三次元生物にとって空間にあたるものが、やつらの場合は時間ってことなんだぜ。」(同巻、448ページ)

以上を一言で云へば、この詩人の空間には可塑性があり、変形し、この変形は流動性を具へてゐて、流体となり、この液状の体の中で、話者または主人公は、生きてゐることの現実を、それが此の現実であらうが、あの〈異界〉であらうが、味覚と触覚を用ゐて確かめ、安心するといふ時間的空間であり、空間的な三次元以上の時間なのであり、従ひ、安部公房の場合と同様に、これが此の詩人の大量流布の存在概念なのであり、抽象的・哲学的にいへば、汎神論的存在論の存在概念なのである。この場合、上に味覚と書いたが、味覚といふよりも、可食とか飲むといふことから口唇による(結局は)触覚といふ感覚の方が優勢であると私には見える。『しみ』の異生物である(立体時間的な生物である)シミが、やはり此の現実の空間を可食なものとして食べてしまふ生物だといふことに着目すべきではないかと思ふ。これが、この詩人の生きてゐるといふ感覚であり実感なのです。

女性は大地母神といふのが陸上の女性観ですが、これに対して、この詩人の女性は海であつて、海の女性観です。それ故に潮も満ち引きし、海流は対流し、この汎神論的存在論の形象は、大地母神に倣つて云へば、大海母神となり、大和言葉で呼べば、オオハハワタツミと呼ぶ以外にない独自の神となる。

ですから、「大学浪人時代」に読んだカミュの「異邦人」の出だしの一行「きょう、ママンが死んだ」は、確かに詩人にとつて「驚きは忘れられない」ものであつた筈です。(『定本荒巻義雄メタSF全集別巻』の「骸骨半島」の「覚え書き」、111ページ)詩人によれば「カミュの文体はハードボイルドである」とあり、これが同じあとがきの、言葉との関係について人間を考える時にいふ「散文ではその(筆者:言葉のこと)機能が究明できない、何かが詩にあるのかもしれない。たとえば、比喩表現である。/たとえば、エリオットである。」とあるやうに、詩を書くことがハードボイルドであり、事実の率直な表白なのであり、それがエリオットの詩であるのです。エリオットの詩の魅力は「自由連想」であることを詩人はエリオットの有名な詩「荒地」の冒頭「四月は残酷な月だ」からの数行を例に挙げて、このことを述べてゐます。この論考の連載の最初に詩の定義を示したやうに、自由連想は詩の極意です

『異邦人』の上の一行の次に「それに続く光溢れるアルジェの風景」への言及がある。この「光溢れるアルジェの風景」は、海のある景色でありませう。「きょう、ママンが死んだ」とゴシックにして書いてある一行、これはこの詩人がゴシック体を使うことの解説に、そのまま、なつてゐます。

『大いなる失墜』で汎神論的存在であるアンアンの名前とその行為がゴシックになつてゐるのは、カミュの『異邦人』の冒頭の一行をゴシックにしたのと同じ心、即ち変幻自在、変形自在の海なる母、母なる海を自由連想してゐるからです。

さうしてみると、『柔らかい時計』の「柔らかい時計」が作中ゴシックであるのも、これが汎神論的存在論としてある母と海の形象、遍在し限りなく変形する柔らかい存在の形象が可食であるからでせう。その中に浸かり、または食することによつて、母なる何かと触覚を通じて「浸透」することによつて一体となるのです。

してみると、『ゴシック』という題名の詩集(といふべき)作品の題名も、これに由来するのではないかと思はれる。マルセル・デュシャンの『大ガラス』と通称される作品に関する此の藝術家の同じ説明の言葉の引用を詩人が繰り返しするのも、この引用文がゴシックの意味を詩人の代わりに明かしてゐるからです。このデュシャンの作品の引用を読むと、この作品の唯一其処にゐる処女はほとんど巫女である。

また、この海の母は(先走るやうであるが)『骸骨半島』に歌われる母でもある。それが半島であり、内陸の大地ではない、即ち大陸ではないことが重要である。海に接した半島、半分だけ大陸である半島といふ島でなければならないのです。何故ならば、半島は海といふ母性の液体に浸ることのできる唯一の大地の地形であるからです。半島は母乳といふ液体に包まれるといふ形象を最初から含んでゐる。

『タイムズ スープ』にある「……」といふ点線による記号は、このやうに読んで来ると、ここまで思弁的であり且つ実感される感覚にまで詩人の中で連続してゐるのであれば象徴化してゐる、母なる海であるといふことができる。

(A):Topologyで時間を観る
人間は「……」といふ母なる大海の回想と忘却の意識の中にあつて、topologicalに時間が相殺されることになる。何故なら、始まりは終はり、終はりは始まりであるから。即ち、「スープの中を」、私たちは、

「未来に背を向けて
 後ずさりしているのが真相なのだ。」

からであり、他方、私たちのすることは、

「われらは向かっているのではない
 遠ざかっているのだ
 岸を離れた帆掛け舟のように」

とあるやうに、時間といふ空間の中を、陸地を離れて海なる母の中へ、即ち「タイムズ スープ」の中へと出帆してゐる。さうして、話者の意識は既に水平線の彼方にあつて、

「水線の彼方に陸は没し
 やがて記憶も薄れ
 船出した港までも忘却される」

このやうに「人が未来に向かっていると確信しているのは錯覚なのだ。」何故なら、あなたは陸地を離れて海の中へと水平線の彼方へとむかふからであり、陸地のことは忘却され、後は母なる時間の海神(わたつみ)の中へと参るからである。

以上がtopologicalに、この詩人の世界を眺めた時の、私たちの「真相」としてある生活なのです。さて、その上で、それでは、時間とは何かを問ふのが次の段落です。

(B):時間とは何か
この段落の最初の一行「人々はいつ時という言葉を思いついたのだろうか。」といふ問ひに答へようとする。しかし、その回答は既に第一段落で出てゐる。更にしかし、

「だが――
 強いてイメージすれば
 おれたちは、透明なスープの中にいるのであって……
 むろん……
 この無限大のスープ鍋の持ち主が だれかを知らないけれども。」

この「だが」といふ接続詞の後に置かれてゐる「――」の記号は、主題に関して本質的なことを言ひたい時に使用される記号なのでした。そしてやはり、ここでも液体状の流動性のある汎神論的な母性の形象が「透明なスープ」といふ時間のスープ、時間のポタージュを遍在する存在概念の形象(イメージ)を表す言葉として歌へば、其の次には忘却と想起の記号「……」が書かれることになる。思ひ出さうとしても、スープの鍋の外側になにがあるのか、何が此のスープ鍋を支持してゐるのかは、内部にゐる私には解らない。上善水の如し言つた老子の言葉を思はせる。スープは鍋から溢(こぼ)れても、形に合はせ、次の器に合はせて変形することでせうから。ここで大事なことは、このスープ鍋の大きさは無限大であるといふことです。しかし無限を内に含む器にも、外部は常に存在するといふ詩人の認識が示されてゐます。

(C):宇宙の時間と人間の時間
さて、さうなると、物理学者のいふやうにビッグバンで生まれた宇宙であつても、宇宙にも外部のある限り、

「だが、それとても……
 所詮の一宇宙にすぎない……」

即ち唯一絶対の全知全能のGodなどは存在せず、私は「この無限大のスープ鍋の持ち主が だれかを知らないけれども」、この時間のスープの海と其処にかうして其の対流に翻弄されながら生きてゐる私たちの生活は、「神様……/あなたの仕業などではない」ことを知ってゐる。(私は此処での「……」といふ忘却と記号に、荒巻義雄といふ詩人の持つ優しさを感ずる。)何故ならば、一次元の、両端点の不明の、直線的な時間だけがあるのではないからだ。「無限大のスープ鍋」は幾つもあり、鍋の外に鍋があるといふ、ロシアの人形のマトリョーシュカのやうに入籠構造を、宇宙はしてゐるからだ。一柱の神だけでは人間を肯定する宇宙創生はできない。古事記を読み給へ。幾柱の神々の力があつて、宇宙が生まれるものかを。一柱の神の力による、そんな宇宙が仮にあつたとして、それでは神は人間と意思疎通ができずに絶対命令のGodとなつてしまふ以外にはないだらうから。

しかしまた、かういふことをよく知つてゐる我々なのに「スープ鍋の中で起きる対流の中」にゐて「翻弄され/悶え/笑い/神妙になり」「おれたちって/バカみたいだぜ。」しかし此の無目的な私たちの行為を3人の哲学者は「大いなる遊戯」「判断中止」「言語ゲーム」と言つた。生きてゐることは遊戯であつて、生きることに目的はない。私たちは幻を見、夢を見てゐるのだ。この私の今ゐる宇宙の「無限大のスープ鍋の持ち主が」誰かは知つても良いし、知らなくても良い。何故ならば「時というものを、おれたちの言葉で喩えることはできない」からだ。時は隠喩(メタファー)足り得ず、換喩(メトニミー)足り得ず、提喩(シネクドキ)足り得ない。それは、詩人の能力を超えてゐる何かである。そのやうな人間の言語能力を超える「透明なスープの中」の私たちの日常生活の、現実只今の此の時間とは、次のやうなものである。

(D):現実只今のこの時間
「いま、秋は色づき
 落ちた庭の胡桃(くるみ)をわが妻は拾い
 書斎の俺は 書きかけの詩を中断するのだ…… 」

『大いなる正午』(『時の波堤』改題)の終はりも同様に次のやうになつてゐる。

「夢想――
 それは大いなる哲学の、幻夢だったのだろうか。ヒトは、ありきたりの平凡な土木技師に戻っていた。
 今、彼は岡の上に立ち、緑なす地上の山河に対峙している。
 ――やがて、男はゆっくりと彼の住む街に向って道を下りはじめた。」
(『定本荒巻義雄メタSF全集第1巻』203ページ)

安部公房にも最初が最後に戻るといふ作品は、topologyといふことから当然ながら多々あるわけですが、荒巻義雄の詩も小説も、安部公房の詩と小説と同じく、最後に最初に回帰するといふ性質を備へてゐます。これを話法(mode)で説明をすれば、

作者(a)>話者(b)>話者の語る物語(c)

といふ三階層をなす話法の普遍的な形式に於いて、(c)まで行つた物語が(a)に回帰したといふことです。あるいは(b)に回帰したといふことです。今思ひつくままに名前を挙げれば、安部公房の『牧草』『燃えつきた地図』『方舟さくら丸』、芥川龍之介の『杜子春』などを思ひ出します。別にtopologyを持ち出さなくとも、もつと様々な作品がある筈です。安部公房ならば『終りし道の標べに』でいふ「現存在」のことを、詩人は最後に語つてゐるのです。しかし、若き安部公房は人生の最初に詩人であることを主張して生きたので厳しい思弁による哲学用語を用ゐる事になりましたが、しかし、荒巻義雄は古希を過ぎて自分が詩人であることを宣言することができたがために、後者の「現存在」は、存在を歌つたあとでも、今色づいた秋の中で静かです。

現実の時間の中では、季節は秋であり、春夏秋冬と四季は巡る、庭の胡桃は実をつけ、詩人が書斎で描きかけの詩を中断するのは、「timeは潮」だからなのか、「chronos――円環する時」だからなのか、時を名付けることは、私はできない以上、沈黙する以外にはなく、詩人は書きかけの詩を中断して、後は、最後の「……」に委ねる以外にはないことが示されて詩は終はる。忘却と想起の記号の中に、即ち余白と沈黙の中に、私たちは本来生きてゐる。

最後に、遍在する母なる存在といふ汎神論的存在論による形象を暗示する、この詩人のゴシック体の文字が、メタSF理論としては一体何を意味するのかを、この詩人の処女評論『術の小説論―私のハインライン論』より、当該ゴシック体で書かれてゐる箇所のみを以下に引用して、この作家の宇宙を想像されたい。

(1)「”術”をもってSFの本質とする」。
(2)「SFにとって倫理とは、時代と環境に相関する一つの約束事にすぎない。
(3)SFを手段として解決していく、「すなわち倫理の地平から湧きおこってくるさまざまな矛盾を、科学の論理や成果を武器として、合理的に解決していく」、この思索の過程こそSFではないのだらうか。
(4)「いったんSFの方法論を作家が体得した場合、文学のあらゆる主題すらもSFにおいて書きかえられるのではなかろうか……。
(5)「僕たちは、事実的問題を前にして既成の知識をいかに適用するかを考える。」
(『定本荒巻義雄メタSF全集第1巻』)

上記(5)の後で、現実にある科学と科学的な産物をS派(科学主題派)とF派(幻想小説派)の違ひを論じた後に、これら(1)から(5)のことを一言で、どちらをも含み、それらを超える第三の小説としてのSF、「すなわち、本来は、形而上学的主題ともいえそうなものが、形而下的レベルにひきずりおとされる。そして、この白日化への技法がSFの方法なのである。」と主張するのである。このeither-orの否定の論理は、実に安部公房に通つてをります。AでもなくZでもない、(自分の身を捨てて)第三の客観を求める事。

これは、成城高校生の時代の18歳の安部公房ならば「問題下降」といつた方法論であり、長じて作家となつたとあとにSFの領域では、SFは仮説設定の文学であると言ひ、『仮説の文学』といふ短いエッセイの中で次のやうに言つてゐます。

SFとは「仮説を設定することによって、日常のもつ安定の仮面をはぎとり、現実をあたらしい照明でてらし出す反逆と挑戦の文学伝統の、今日的表現にほかならないのである。」(全集第15巻、238ページ下段)

安部公房らしく、また安部公房らしくなく、伝統といふ言葉を、SFの世界についてならば云ふのです。

これはまた、巽先生の編まれた『日本SF論争史』の中でいふ、石川喬司が「戦略的SF論」(福島正実編『SF入門』1965年/207ページ/早川書房)のなかで、「SFの効用は〝日常生活への衝撃〟にある」(216ページ)と言っているのと同じことです。

「余人の知らぬ秘密の辞書を使い、謎めいて詩を書く楽しさを晩年の歓びとしたい。」「詩の使命は〈存在の秘密〉に迫ることである。」と、この詩集のあとがきである「覚え書き」で語り、この秘密は散文では叶はず、やはり詩による以外にはないと考へる詩人でありますので、この私の散文では「〈存在の秘密〉に迫ること」は諦め、せめて詩人〈荒巻義雄の秘密〉に迫ることで満足する事に致します。


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