2014年3月15日土曜日

【Eichendorfの詩 59】Aufgebot(告示と招集)

【Eichendorfの詩 59】Aufgebot(告示と招集)


【原文】

Waldhorn bringt Kund getragen,
Es hab nun aufgeschlagen
Auf Berg und Tal und Feld
Der Lenz seine bunten Zelt!

Ins Gruen ziehn Saenger, Reiter,
Ein jeglich Herz wird weiter,
Moecht jauchzend uebers Gruen
Mit den Lerchen ins Blaue ziehn.

Was stehst du so alleine,
Pilgrim, im gruenen Scheine?
Lockt dich der Wunderlaut
Nicht auch zur fernen Braut?

》Ach! diese tausendfachen
Heilig verschlungnen Sprachen,
So lockend Lust, wie Schmerz,
Zerreissen mir das Herz.

Ein Wort will mir's verkuenden,
Oft ist's, als muesst ich's finden,
Und wieder ist's nicht so,
Und ewig frag ich: Wo?《-

So stürz dich einmal, Geselle,
Nur frisch in die Fruehlingswelle!
Da spurts du's im Innersten gleich,
Wo's rechte Himmelreich.

Und wer dann noch mag fragen:
Freudlos in blauen Tagen
Der wandern und fragen mag
Bis an den Juengsten Tag!


【散文訳】

森の増えが告示を運んできた
今となっては、打ち開いたのだ
山や谷や野原やに
春が、その色彩豊かなテントを

緑の中へ、歌い手たちが、騎士たちが入って行く
どの心臓も、一層広がって
歓喜の叫びをあげながら、緑を超えて行きたいのだ
雲雀と一緒に、青の中へと入って行きたいのだ

お前は何をそんなに一人でいるのだ?
巡礼のお前よ、緑の輝きの中で
お前を、不思議の音が誘っている
それはまた、遠い花嫁のところへと誘っているのではないのか?

》ああ!、これらの幾千にも重なって
神聖に飲み込まれ、食い尽くされた言語たちが
かくも喜びを誘惑しながら、そして苦痛もまた誘惑しながら
わたしの心臓を引き裂くのだ。

一つの言葉が、わたしにそれを布告したいという
しばしば、それは、恰もわたしが見つけねばならないかの如くである
そして、再び、実際には、そうではないのだ
そして、永遠にわたしは問うのだ:どこにあるのだ?《

だから、一度自分自身を突き落とせよ、仲間よ
ただ新鮮に、春の波の中へと
そうすれば、お前は一番の内奥で直ちに
本当の天国がどこにあるのかを感じるだろう。

そして、次にもっと、問いたい者がいるだろう
喜びもなく、青い日々の中で
最後の審判のその日まで
放浪し、そして問いたい者が!


【解釈と鑑賞】

春は、ここに歌われている通りの、この詩人のありようです。

前の詩人の春という詩のあとにも、間奏曲があり、またこの春の詩のあとにも間奏曲が入ります。

何か春には、附随して、どうでしても間奏曲が必要のようです。


そこに、この詩人のこころの秘密があるのかも知れません。

2014年3月8日土曜日

【Eichendorfの詩 58】Intermezzo(間奏曲)

【Eichendorfの詩 58】Intermezzo(間奏曲)

【原文】

Wohl vor lauter Sinnen, Singen
Kommen wir nicht recht zum Leben;
Wieder ohne rechtes Leben
Muss zu Ende gehen das Singen;
Ging zu ende dann das Singen:
Mögen wir auch nicht länger leben.


【散文訳】

純粋な感覚、そして歌の前では、きっと
わたしたちは、生きることには、正しくは至らないのだ
再び、正しい人生を抜きにして、その人生の無いままに
歌は、終りにならねばならず
そして、実際に、次に、歌は終りになったのだ
どんなに、わたしたちが、たとえそれ以上長く生きないように願ったとしても。


【解釈と鑑賞】

この詩の論理も、全くアイヒェンドルフらしい論理です。

世間のひとからみたら、倒錯した論理だと思われることでしょう。

しかし、わたしはこの詩人の論理の方が、やはり正しいと考えております。わたしも、そのように、世間からみれば、倒錯した人生を送って来た人間の一人なのでしょう。わたしはが詩人であるかどうかは、また、別にして。


この詩人の歌う最後の行のわたしたちの中に、わたくしもまた含まれていることを願う。

【西東詩集60】 Buch Suleika


【西東詩集60】 Buch Suleika


【原文】

Buch Suleika

Ich gedachte in der Nacht
Dass ich den Mond saehe im Schlaf;
Als ich erwachte
Ging unvermutet die Sonne auf.



【散文訳】

ズーライカの巻

わたしは夜に覚えていた
わたしは眠りの中で月をみていると
目覚めた時
思いもかけず、日が登っていたのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩は、ズーライカの巻、ズーライカの書の冒頭に掲げられている詩です。

月と太陽、眠りと目覚め、夜と昼という素晴らしいくも簡潔な対照、対比により構成されている詩です。

前者の世界は、その記憶していることが接続法第II式で、後者は既に過去の事実となった過去形で表されております。

この差異が、味わうべき形式の差異でありましょう。従い、その内容である意味もまた、その差異のうちに、味わうべきでありましょう。

こうしてみますと、2行目の従属文の接続法第II式を敢えてとったということが、よく効いています。第3行、第4行もまた、主文にある事実は、太陽の登ったということですが、主客を入れ替えれば、それもまた夢かうつつかということになります。

この淡いに、ハーフィスとズーライカの相聞がなされるのでしょう。





Mein schoenes Gedicht(わたしの最高の詩):第12週 by Mascha Kaleko




Mein schoenes Gedicht(わたしの最高の詩):第12週 by Mascha Kaleko




【原文】


Mein schoenes Gedicht?
Ich schrieb es nicht.
Aus tiefsten Tiefen stieg es.
Ich schwieg es.


【散文訳】


わたしの最高の詩?
わたしはそれを書いたことはありません。
最も深いところから、それは立ちのぼったのです。
わたしは、その詩を沈黙したのです。




【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたWikipediaです。。


http://de.wikipedia.org/wiki/Mascha_Kaléko


オーストリア•ハンガリー帝国に生まれた女性詩人です。

簡潔な、この詩人のこころを表した、文字通りに、素晴らしい詩だと思います。

最後の一行は、生硬な訳ですが、このように訳すのいいと思いました。詩について沈黙するのではなく、詩そのものを沈黙するのです。
この翻訳臭芬々(ふんぷん)たる訳から、そのこころを察して下さい。




2014年3月2日日曜日

【西東詩集59】 An Suleika(ズーライカに寄す)


【西東詩集59】 An Suleika


【原文】

An Suleika

DIR mit Wohlgeruch zu kosen,
Deine Freuden zu erhöhen,
Knospend muessen tausend Rosen
Erst in Gluten untergehn.

Um ein Flaeschen zu besitzen
Das den Ruch auf ewig haelt,
Schlank wie deine Fingerspitzen,
Da bedarf es einer Welt;

Einer Welt von Lebenstrieben,
Die, in ihrer Fülle Drang,
Ahndeten schon Bulbuls Lieben,
Seeleregenden Gesang.

Sollte jene Qual uns quälen,
Da sie unsre Lust vermehrt?
Hat nicht Myriaden Seelen
Timurs Herrschaft aufgezehrt!


【散文訳】

ズーライカに寄す

お前を、芳香を以て愛撫すること
お前の歓びを高めること
そうやって、芽吹いて、芽吹きながら、千の薔薇が
やっと灼熱の中へと沈んで行かなければならない

お前の指先のように、すらりとして
芳香を永遠に保つ
小さな壜を所有するために
それであればこそ、小壜は一つの世界を必要とするのだ

生命に満ちた衝迫の中で
夜啼き鴬の恋心、即ち魂を生動させる歌を
既に予感した生命の駆動するひとつの世界を

もしもあの苦しみがわたしたちを苦しませるならば
その苦しみは、わたしたちの悦びを増大させるのではなかろうか?
数知れない魂を、チムールの支配が食い尽さなかったとは!


【解釈】

ズーライカというハーフィスの恋人に寄せる詩という体裁をとっております。

誰がズーライカに歌いかけるのかといえば、それは、ハーフィスというペルシャの詩人でありましょう。

ゲーテは、この詩人になって、ズーライカに歌を寄せている。

第4連の、あの苦しみとは、恋の苦しみでありましょう。しかし、それは同時に恋の悦びを増大することでもある。

そうして、チムール帝の支配も、そのような幾千、幾万の魂を食尽すことはできなかった。

このように、ズーライカに歌いかけて、この巻はこのように短く終り、次に、ズーライカの巻、相聞歌の書が始まります。

Sage mir(我に言えよかし):第11週 by Johann Wolfgang von Goethe



Sage mir(我に言えよかし):第11週 by Johann Wolfgang von Goethe




【原文】


Sage mir
Was mein Herz begehrt?
Mein Herz ist bey dir
Halt es werth.


【散文訳】


わたしに言え
わたしの心臓が何を求めているのかを
わたしの心臓は、お前のもとにあり
それでいい(価値あり)と思っているのだ。



【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたWikipediaです。。




ゲーテは有名な詩人であり芸術家ですから、言うまでもありませんが、この機会に、どういう人間であったかを、Wikipediaで読み直すのもよいかも知れません。

これは、如何様にでも解釈できる詩です。

恋の歌ととれば、相手の女性に対する余りの激情の迸り故の短い詩行ということになるでしょう。俺の気持ちがわからないのかという言葉が裏に隠れているでしょう。


3月、春の訪れに相応しい詩を、カレンダーの編纂者は選んだということなのでしょう。

【Eichendorfの詩 57】Dichterfruehling(詩人の春)

【Eichendorfの詩 57】Dichterfruehling(詩人の春)

【原文】

Wenn die Bäume lieblich rauschen,
An den Bergen, an den Seen,
Die im Sonnenscheine stehen,
Warme Regen niederrauschen,
Mag ich gern begeistert lauschen.
Denn um die erfrischten Hügel
Auf und nieder sich bewegen
Fühl ich Winde, Gottes Fluegel,
Und mir selber wachsen Flügel,
Atm ich still den neuen Segen.

Wie der Kranke von der Schwelle
Endlich wieder in die warme
Luft hinausstreckt Brust und Arme,
Und es spült des Lebens Welle
Fort die Glieder in das Helle:
Also kommt ein neues Leben
Oft auf mich herab vom Himmel,
Und ich seh vor mir mein Streben
Licht und unvergänglich schweben
Durch des Lebens bunt Gewimmel.

Will erquickt nun alles prangen,
Irrt der Dichter durch die Schatten,
Durch die blumenreichen Matten,
Denkt der Zeiten, die vergangen,
Ferner Freude voll Verlangen,
Und es weben sich die Träume
Wie von selbst zum Werk der Musen,
Und rings Berge, Blumen, Baeume
Wachsen in die heitern Raeume
Nach der Melodie im Busen.


【散文訳】


木々が愛らしく
太陽の輝きの中にある山々で、湖という湖で
さやさやと音を立てるたびに
温かい雨がさやさやと音を立てて降って来て
わたしは、喜んで熱狂して、耳をそばだてる。
というもの、新しくなった丘々を巡って
上昇したり下降したりして動く
風を、神の翼を、わたしは感じるからであり
そして、わたし自身に両の翼が生えて来て
わたしは、静かに、新しい至福を呼吸するのだ。

病人が、閾(しきい)から
遂に再び、温かい
空気の中へと、胸と両腕を伸ばし入れるように
そして、生命の波が四肢に打ち寄せて、洗い
四肢を明るいものの中へと、ずんずんと押し入れる
こうして、新しい生命がやって来て
天から、しばしば、わたしに向かって降りて来て
そして、わたしは、わたしの前に、わたしの努力が
明るく、そして不易に過ぎ去ることなく、漂っているのを見るのだ
生命の多彩な雑踏を通って

こうして、すべてが蘇生して光輝くことを欲し
詩人は、影の中を通って、迷い
花々の豊かな牧場を通って
詩人は、過ぎ去った様々な時代について回想し
欲求で一杯の更なる歓びについて思い出す
そして、夢という夢が自らを織り為すのだ
自分自身から(ひとりでに)文学や芸術の女神達の作品になるかのように
そして、巡る山々が、巡る花々が、巡る木々が
明朗なる空間という空間の中へと成長して入って行く
胸の中にある旋律に従って。


【解釈と鑑賞】

Dichterfruehlingという題名の命名の造語をみると、英語ならばPoet-springということになり、何か呼ぶならば、本当は詩人の春ではなく、詩人春という春の種類があるのだという意味での、詩人の春という意味だということになります。

そのこころは、春と言えば詩人であり、詩人と言えば春を歌うのがその主要な仕事だということでしょう。

春が来ると、詩人は迷いもするものの、しかし蘇生して、生命の讃歌に触れて、夢を織りなす、それも夢がひとりでに意志あるものの如くに織りなすのを目の当たりにし、それを言葉で書き記す。


最後の一行の、胸の中の旋律という言葉が、詩人の胸中を歌うとともに、何故どのように詩が生まれるかをも歌っております。