2013年12月10日火曜日

Ich kann mir Bücher kaufen (わたしは本を買うことができる) :第51週 by Dionne Brand(1953 -  )


Ich kann mir Bücher kaufen (わたしは本を買うことができる) :第51週 by Dionne Brand(1953 -   )




【原文】

Ich kann mir Bücher kaufen,
die ich nicht lesen und mir nicht leisten kann,
mit dem ziel, dass sie mir
durch meine Depression helfen,
wintersonnenwende/mit verkruemmtem fleisch
versuche ich es mit verschiedenen Haltungen, sitzend und stehend,
bis der sadistische Februar mich auf die knie zwingt
dann bilanziere ich noch einmal mein leben
auf die sentimentale art,
komme zu dem Schluss, dass ich nichts wert bin,
und verbringe den März und den april
als haeufchen elend
neben der heizung.


【散文訳】

わたしは沢山本を買う事ができる
わたしが読むことのできない本を、そしてわたしには書けない本を
それらの本が、わたしを
わたしがふさぎ込んでいる間中、わたしを助けてくれるという目標を以て
冬の太陽の冬至/屈(かが)まった肉を以て
わたしは、様々な姿勢をとって、坐ったり、そして立っていたりして
サディスティックな2月がわたしを無理矢理ひざまづかせるまで
そうしたら、わたしはもう一度わたしの人生の晩収支を計算するのだ
センチメンタルな流儀で
わたしは何の値打ちもない人間だという結論に至り
そして、3月と4月を過ごす
暖房装置の傍で、哀れにも、一塊になって


【解釈と鑑賞】

この詩人はカナダの詩人です。

この詩人のWikipediaです。


原詩は無題ですが、最初の一行をとって題としました。

読書、冬、猛烈に寒い2月、しかし3月になり4月になっても、この詩人のこころは雪の様には溶けないようです。






2013年12月9日月曜日

【Eichendorfの詩 51】Der Unverbesserliche(頑固者)

【Eichendorfの詩 51】Der Unverbesserliche(頑固者)

【原文】

            Der Unverbesserliche
      
Ihr habt den Vogel gefangen,
Der war so frank und frei,
Nun ist ihm's Fliegen vergangen,
Der Sommer ist lange vorbei.

Es liegen wohl Federn neben
Und unter und über mir,
Sie können mich alle nicht heben
Aus diesem Meer von Papier

Papier! wie hör ich dich schreien,
Da alles die Federn schwenkt
In langen, emsigen Reihen―
So wird der Staat nun gelenkt.

Mein Fenster am Pulte steht offen,
Der Sonnenschein schweift uebers Dach,
Da wird so uraltes Hoffen
Und Wünschen im Herzen wach.

Die lustigen Kameraden,
Lerchen, Quellen und Wald,
Sie rauschen schon wieder und laden:
Geselle, kommst du nicht bald?

Und wie ich durch die Gardinen
Hinaussah in keckem Mut,
Da hört ich lachen im Grünen,
Ich kannte das Stimmlein recht gut.

Und wie ich hinaustrat zur Schwelle,
Da blühten die Bäume schon all
Und Liebchen, so fruehlingshelle,
Sass drunter beim Vogelschall.

Und eh wir uns beide besannen,
Da wiehert' das Fluegelross―
Wir flogen selbander von dannnen,
Dass es unten die Schreiber verdross.


【散文訳】

      頑固者

お前達が、その鳥を捕らえたのだ
その鳥は、かくも大いに自由であった
さてこそ今は、飛ぶことも失われた
夏が、とっくの昔に過ぎてしまっていたのだ。

羽根が、わたしの傍(そば)に落ちている
そして、わたしの下にも上には
羽根たちは、みな、わたしを高く掲げることができない
この書類の海の中から

書類だ!と、わたしは、お前(鳥)が叫んでいる声を聞く
すべてが羽根を振り廻すのだから
長い、勤勉な列をなしてー
そのように、国家が操縦されているのだ。

斜面机の傍のわたしの窓が開いたままになっている
太陽の光が、屋根を渡って遊弋している
そこには、かくも古代の願いが
そして、望みが心臓の中で目覚めている。

陽気な同志達が、
雲雀が、泉が、そして森が
既にまたさやさやと音を立てていて、そして招待するのだ:
仲間よ、お前はぢきに来ないのか?(来ればいいのに)

そして、わたしが、カーテンを通して
思い切って、その向こうを見遣ると
そこに、緑の中で笑い声が聞こえ
わたしは、その可愛らしい声を本当によく知っていたのだ。

そして、わたしが閾を跨いで出ると
そこには、木々が既にすっかりと花咲き
そして、愛する人が、かくも春の明るさを以て
その下に、鳥の響く場所に、坐っていたのだ。

そして、わたしたち二人が互いに気付く前に
翼のある馬が嘶(いなな)いてー
わたしたちは、自分と二人で、そこから飛ぶ去って
その馬は、下界にいる書記達を不機嫌にしたのだ。


【解釈と鑑賞】

詩の題名のドイツ語、Der Unverbesserlicheという本来の意味は、そのまま訳せば、決して、そもそもより良くならない者という意味です。

わたしは頑固者と訳しましたが、あるいは、上の原義から、落ちる所まで落ちた者という訳もあるかも知れません。

この題といい、詩の内容といい、前にある巴旦杏の種という詩に連なる詩です。

城も領地も失った自分を一羽の鳥に譬えています。夏は終わったのです。

そして、煩雑極まりない書類の事務が待っていたのでしょう。役所で長い列をつくって、勤勉に順番を待っている、それが国家の事務処理というものだ。

しかし、第4連から、いつものアイヒェンドルフらしく、窓の外、森の中に鳥が囀り、樹木の下には恋人もいて、そのこころの中に生命が湧き上がって来ます。

斜面机と訳したPultという机は、日本にはありません。わたしはヴァイマールのゲーテの家を訪ねて、ゲーテの使った斜面机を見たことがあります。インターネットで見つけたこれは、モダンなプルトです。










2013年12月7日土曜日

Papier auf dem es schneit (その上で雪の降る紙) :第50週 by Harald Hartung(1932 -  )

Papier auf dem es schneit (その上で雪の降る紙) :第50週 by Harald Hartung(1932 -   )




【原文】

Papier auf dem es schneit

Ich koennte stundenlang zusehn
Wie es schneit
den Silben des Schneefalls
die Worte bilden und Sätze
und langsam die Bäume beschweren
bis alle Zeilen gefüllt sind
und das Papier wieder weiss


【散文訳】

その上で雪の降る紙

わたしは長い時間凝(ぢ)っと見ていることができるかも知れない
どのように雪が降り
雪の降る綴(つづ)りを
言葉を形作ること、そして文を
そしてゆっくりと、木々を重たくして
すべての行が満たされるまで
そして、紙が再び白くなるまで


【解釈と鑑賞】

この詩人はドイツの詩人です。

この詩人のWikipediaです。


白い紙を雪の降るさま、降る場所に譬(たと)え、言葉がその上で生まれて、完成したら、また言葉が雪であるから、その紙は白い色に戻るという、面白い着想。


最初のkoennteという、できるかも知れないという接続法II式の非現実話法が実に効いています。この詩自体が夢なのか現実なのかわからない。


【西東詩集53-8】 Buch des Unmuts(不満の書)


【西東詩集53-8】 Buch des Unmuts(不満の書)


【原文】

HAB' ich euch denn je geraten
Wie ihr Kriege führen solltet?
Schalt ich euch, nach euren Taten,
Wenn ihr Friede schliessen wolltet?

Und so hab' ich auch den Fischer
Ruhig sehen Netze werfen,
Brauchte dem gewandten Tischler
Winkelmass nicht einzuschärfen.

Aber ihr wollt' besser wissen
Was ich weiss, der ich bedachte
Was Nature, für mich beflissen,
Schon zu meinem Eigen machte.

Fühlt ihr auch dergleichen Stärke?
Nun, so foerdert eure Sachen!
Seht ihr aber meine Werke,
Lernet erst: so wollt Ers machen.


【散文訳】

そのとき、お前達に一度助言をしたことがある
どうやって、お前達は戦争を指揮すべきなのかを
わたしがお前達に、お前達の行いに応じて
命令するぞ
お前達が講和を結びたいと思っているならば

そして、わたしは実際また漁師が
何ということもなく、そのまま普通に、網を投げているのをみた
わたしは、腕のいい指物師に
角の寸法を厳しく命じる必要はなかった。

しかし、お前達は、もっとよく知りたいのだといった
わたしの知っていることを、このわたしが考えた
自然とは何かということを、わたしのために勤勉に。

お前達は、実際またそのような強さを感じているのか?
さて、そうならば、お前達のことの促進をこそ図るがよい!
お前達が、それでも、わたしの作品を見るというのならば
真剣に学ぶがいい:そうしたら、彼もそれをなしたいと思うだろう。

【解釈】

第2連のTischerは、Tischler(指物師)の誤植だと思いますので、そのように訳しました。

市井、平民の漁師や指物師の幸せと普通の生活の優れたところをいい、他方対照的に、賢しらな、愚かで、瓦落多(がらくた)のどうしようもない、一見頭のよいとうぬぼれているような輩どもを嗤った詩です。

今の日本にも充分過ぎる位に通じている詩です。

彼もそれをなしたいと思うだろうと訳した最後の一行は、
er(彼は)が小文字なので、前に受ける名詞がありません。

大文字ならば神ですが、ここでは何か誰か、この詩を書いたゲーテの近辺、近傍にいるひとならだれもあああの人かと知っている人がいるのだと解して、文字通りに訳しました。違っているかも知れません。

【Eichendorfの詩 50】Mandelkerngedicht(巴旦杏の種の詩)

【Eichendorfの詩 50】Mandelkerngedicht(巴旦杏の種の詩)

【原文】

            Mandelkerngedicht

Zwischen Akten, dunkeln Waenden
Bannt mich, Freheitsbegehrenden,
Nun des Lebens strenge Pflicht,
Und aus Schränken, Aktenschichten
Lachen mir die beleidigten
Musen in das Amtsgesicht.

Als an Lenz und Morgenröte
Noch das Herz sich erlabete,
O du stilles, heitres Glueck!
Wie ich nun auch heiss mich sehne,
Ach, aus dieser Sandeebene
Führt kein Weg dahin zurück.

Als der letzte Balkentreter
Steh ich armer Enterbeter
In des Staates Symphonie,
Ach, in diesem Schwall von Tönen
Wo fand ich da es eigenen
Herzens suesse Melodie?

Ein Gedicht soll ich euch spenden:
Nun, so geht mit dem Leidenden
Nicht zu strenge ins Gericht!
Nehmt den Willen fuer Gewaehrung,
Kuehnen Reim fuer Begeisterung,
Diesen Unsinn als Gedicht!


【散文訳】

            巴旦杏の種

公の書類の間で、暗い壁の間で
自由を求める人間達よ、わたしを追放するがいい
さてこそ、人生の厳格な義務も一緒に
そして、棚から、書類の層の中から
侮辱された詩の女神達が、
役人顔のわたしを笑うのだ

春と朝日の赤い燭光に
まだ心臓が元気になったときには
ああ、お前、静かな明朗な幸福よ!
わたしが、こうなった今、どんなに熱く渇望しようとも
ああ、この砂の地平からは
そこへと戻る道はないのだ。

梁の上を歩く最後の者として
わたし、哀れな遺産相続の資格を剥奪された者は
国家の交響曲の中に立っているのだ
ああ、音のこの響きの中で
それでは、どこに、わたしは自分自身の心臓を以て
それが甘い戦慄だというのか?

わたしは一篇の詩をお前達に施さずにはいられない:
さてこういう次第となれば、この苦しむものと一緒に行くが良い
厳格に過ぎて裁判所には行くのではない!
授けるための意志を受け取るがいい
熱狂のための勇敢なる韻律を受け取るがいい
この理不尽を詩として受け取るがいい!


【解釈と鑑賞】

巴旦杏とは、アーモンドのことです。


そのアーモンドの実を、多分、そのような硬い自分自身に譬えたのがこの詩ではないでしょうか。



第3連をみると、遺産の継承者であることを剥奪されたとあるので、そのような目にあったときに歌った歌なのだと思います。

第1連からは、何かそれまで自分の領地の支配下にあった人間達であったものが自由を求めて、そのような行為に及んだ、或いは法律が変わって、そのようなことができるようになったのではないかと推測します。アイヒェンドルフも具体的な事実を、詩の常として、また詩人の矜持として、歌っておりません。

ドイツ語のWikipeidaによれば、


1818年に父親が死に、その財産であったお城も借金の方にとられてしまったとあります。そうして、アイヒェンドルフは、子供時代の想い出のあるこの城、Lubowitzと、そのSeidlnitzの地所を手放すことになって、これらを惜しみ、懐かしんだとあります。無念であったことでしょう。

2008年に撮影されたLubowitz城の写真です。








2013年12月1日日曜日

Weihnachten mag sie(彼女はクリスマスが好き):第49週 by Gabriele Wohmann(1932 -  )

Weihnachten mag sie(彼女はクリスマスが好き):第49週 by Gabriele Wohmann(1932 -   )




【原文】

Weihnachten mag sie

Sie ist atheistisch aber
Mit Kerzen Kirchen wichtige
Besichtigt sie Barock bevorzugt
Fröhlich vor allem hell viel
Licht der Chor wie Sommer
Unentwegt der Winter geht
Wegen Sport Weihnachten mag
Sie auch muss man nicht gleich
Daran glauben zwei Stapel
UNICEF-Karten im Oktober sehr
Gern das Gruesseschreiben um
Es neutral zu hatten Saison
Grüße Schnee passt und erst
Recht stark belichtet Kerzen
Alles im Griff und bis sie
Schliesslich doch sogar auch
Sie Dranglauben muss.


【散文訳】

彼女はクリスマスが好き

彼女は無神論者だが、しかし
蝋燭のある、教会、重要な教会
彼女は何よりも先にバロック様式を訪問する
陽気に、何よりも、明るく大量の
光があり、夏の様に聖堂の内陣があり
毅然として、冬は行く
スポーツはクリスマスが好きだ

世間は彼女のそう言うことも直ぐには
信じない、二つの重なった
ユニセフのカードは10月に、非常に
喜んで、挨拶の手紙を、そのことで
中立的に持たなければならなかった季節が―
雪に挨拶せよ、注意せよ、そしてやっと
蝋燭に強く光りを当てるのだ
凡てが一摑みに、そして彼女が
最後には、勿論
蝋燭の言うそのことをも信じなければならなくなるまで。



【解釈と鑑賞】

この詩人はドイツの詩人です。

この詩人のWikipediaです。


これは正直にいって、破格のドイツ語で書かれていて、よく解らないところがあります。

しかし、できるだけドイツ語の文法に沿って解釈をし、訳しました。

到頭最後まで、彼女が誰なのかは不明です。あるいは、詩人自身のことかも知れません。


Wegen Sport Weihnachten magという一行は最後まで謎でした。お解りの方はご教示下さい。

【西東詩集53-7】 Buch des Unmuts(不満の書)


【西東詩集53-7】 Buch des Unmuts(不満の書)


【原文】

MEDSCHNUN heisst―ich will nicht sagen
Dass es grad' ein Toller heisse;
Doch ihr müsst mich nicht verklagen
Dass ich mich als Medschnun preise.

Wenn die Brust, die redlich volle,
Sich entladet euch zu retten,
Ruft ihr nicht: das ist der Tolle!
Holet Stricke, schaffet Ketten!

Und wenn ihr zuletzt in Fesseln
Seht die Kluegeren verschmachten,
Sengt es euch wie Feuernesseln
Das vergebens zu betrachten.


【散文訳】

メデゥシュンという者は―わたしは言いたくはないのだが
それはまさしく一人の気違いの名前だということを;
しかし、お前達は、わたしを告発する必要はないのだ
わたしが我が身をメデゥシュンとして褒めることを。

もし胸が、この誠実で一杯の胸が、
お前達を救うために爆発するならば
お前達は叫んではならないのだ:そいつがその気違いだ!
縄を持って来い、鎖を持って来い!、と。

そして、もしお前達の方こそ遂には頸城(くびき)に捕われて
より聡明な者達が衰弱するのをみるならば
それは、お前達自身の身を、炎の刺草(いらくさ)のように、焼くのだ
それを観察しても無駄なことだ。




【解釈】

註釈によれば、MEDSCHNUN(メデゥシュン)という名前は、男性の名前で、もうひとつの女性の名前であるLeila(ライラ)という名前と一対になって、素晴らしい恋人同士の典型で、ペルシャの世界では、あるようです。

ゲーテは、そのような典型的な恋人(男性)に自らを比したのです。

そうして、その年齢から言って、70歳を超えているのに恋をすることを悪く言う世間に対して、これに反論をし、否定をしています。

メデゥシュンは気違いだという言い方に、ゲーテの感情の激しさを知ることができます。

最後の一行は、ゲーテが観察しても無駄だという意味にとります。しかし、また、世間の人間が自分の身を焼く事を観察しても無駄だともとることができます。