2009年12月13日日曜日

オルフェウスへのソネット(VI)(第2部)

VI

ROSE, du thronende, denen im Altertume
warst du ein Kelch mit einfachem Rand.
Uns aber bist du die volle zahllose Blume,
der unerschöpfliche Gegenstand.

In deinem Reichtum scheinst du wie Kleidung um Kleidung
um einen Leib aus nichts als Glanz;
aber dein einzelnes Blatt ist zugleich die Vermeidur
und die Verleugnung jedes Gewands.

Seit Jahrhunderten ruft uns dein Duft
seine süßesten Namen herüber;
plötzlich liegt er wie Ruhm in der Luft.

Dennoch, wir wissen ihn nicht zu nennen, wir raten.
Und Erinnerung geht zu ihm über,
die wir von rufbaren Stunden erbaten.

【散文訳】

薔薇よ、お前、君臨する女性よ、古代のひとたちにとっては

お前は、簡素な縁を持った高脚杯(たかつきのはい)であった。

わたしたちには、しかし、お前は、全き無数の、数で表わすことのできない花であり、

汲みつくすことのできない対象である。

お前の富の中で、お前は、一枚また一枚と衣を着ているように見え、

光輝以外の何ものからなるものではない肢体に纏(まと)っているように見えるのだ。

しかし、お前のひとつひとつの葉は、同時に、どんな長衣(ガウン)を着ることの回避であり、そして拒否なのだ。

幾百年来、お前の香りは、わたしたちのところへと、オルフェウスの最も甘い名前の数々を呼び寄せてくれている。突然、オルフェウスは、名誉のように(誉高きひととして)、空気の中に(空中に)横たわっている。

それでもなお、わたしたちは、オルフェウスの名を呼ぶことはできない、わたしたちは推測して、言い当てるだけだ。そして、わたしたちが呼び出すことのできる時間から乞い求めた思い出の方が、オルフェウスのところへと、渡って行くのだ。

【解釈】

1連は、悲歌10番にもあったように、空間が異なれば、同じものを観ていても姿が異なっていることを事実として歌ったもの。

die volle zahllose Blumeの形容詞、zahllos、ツァールロースは、無数のという意味であるが、リルケは、これに「数で表わすことのできない」と入れた意味を掛け合わせていると思う。それは、第2部ソネットXIIIの第4連で、

Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dumpfen und stummen
Vorrat der vollen Natur, den unsäglichen Summen,
zähle dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.

全き自然の、使用され、また鈍く且つ黙っている

貯蔵へと、すなわち、言葉ではいい表わせられない集算(合計)へと

お前(オルフェウス)を、歓喜を以って、算入し、そして、数(数字)を破壊せよ

と歌われているからです。これが何を意味するかは、このソネットの文脈で、またそこに行ったときに論じたいと思います。平たくいってしまえば、豊かな自然は数字で表わすことができないということを言っていると思いますが、これは一寸簡単に言い過ぎたかも知れません。

同じことが、悲歌5番でも、無から、言葉では表わすことのできない空間が立ち上がると歌われる連で、豊かな過小が空虚な過多に変ずるところでは、桁数の多い計算がzahlenlos、ツァーレンロース、無限に、数字ではなく、行われると歌われていました。この解釈については、「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)に書いた通りです。

2連は、薔薇の花びらを着衣にたとえ、光輝な肢体もあり、しかし着衣を拒むという表現で、薔薇を歌っている。これも、エロティックな表現だと思います。

そうして、薔薇がその花の中にもつ無限の宇宙を変身しながら渡り歩くオルフェウスの姿が、第3連です。オルフェウスは、無数のよい名前で呼ばれるものに変身をしてゆく。そうして、突然現れる。この突然、ploetzlich、プレッツリッヒは、悲歌の天使のときも同じ使い方をされていたように、神々しい存在がある空間から別の空間に、時間とは無関係に移動して、その空間に姿を現す場合に使われる副詞です。悲歌の天使論でこの副詞を論じましたので、興味のある方はご覧ください(「天使論」(200974日):http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)。

最後の連に、わたしたちはオルフェウスの姿を推測するだけで、何に変身してどこにいるのかは知ることができないと歌われています。思い出と訳したErinnerung、エリンネルングという名詞は、erinnern、エリンネルン、思い出させるという動詞からできた名詞なのですが、リルケが末尾「-ung」という名詞をつくるときは、それはそのまま空間を表わしています。わたしは、そう考えています。後で類似の例が、第2部のソネットXIIの第3連に出てきます。それは、

Wer sich als Quelle ergießt, den erkennt die Erkennung

源泉として我が身を注ぐ者、これを、認識するということは、認識するのだ。

ところと、その後の行なのですが、これを読んでも、認識することが認識するとは理解が行きません。ドイツ語としても普通ではありません。認識するということが、空間だと理解して意味が通るのだと思います。

オルフェウスがわたしたちの方へ来るのではなく、思い出が、オルフェウスの方へとわたって行く。その思い出は、呼ぶことのできる時間から、わたしたちが乞い願って得た思い出と言われています。第3連の、

幾百年来、お前の香りは、わたしたちのところへと、オルフェウスの最も甘い名前の数々を呼び寄せてくれている。

というところと、これを併せて考えてみると、オルフェウスとは、わたしたちは呼ぶことを通じて、交流ができるもののようです。

考えてみれば、リルケの悲歌もそうでしたが、このソネットも、その基本は、呼びかけにあります。呼びかけるということが、晩年のリルケの詩作の骨法だということは、興味深いことです。

オルフェウスへのソネット(V)(第2部)

V

BLUMENMUSKEL, der der Anemone
Wiesenmorgen nach und nach erschließt,
bis in ihren Schooß das polyphone
Licht der lauten Himmel sich ergießt,
in den stillen Blütenstern gespannter
Muskel des unendlichen Empfangs,
manchmal so von Fülle übermannter,
daß der Ruhewink des Untergangs
kaum vermag die weitzurückgeschnellten
Blätterränder dir zurückzugeben:
du, Entschluß und Kraft von wieviel Welten!
Wir, Gewaltsamen, wir währen länger.
Aber wann, in welchem aller Leben,
sind wir endlich offen und Empfänger?

【散文訳】
花の筋繊維、それは、アネモネの草原の朝を次第に開く
その子宮の中へと、響く天の多声音楽的な光がみづからを注ぎ込むまで
すなわち、果てしない受容の、張りつめた筋繊維の、静かな花芯の星の中へと入るまで。
花の筋繊維は、時には、充溢で一杯になり、もっと圧倒され、打ち負かされて、
下へ向かえという没落の合図、静かな合図(あるいは、静かにせよという合図)が、
遠くまで行ってそこから撥(は)ね返される葉という葉の縁(へり)をお前に返すことがほとんどできないほどだ、お前、どれほどたくさんの世界の決心と力であるものよ
わたしたち、暴力的で無法なものたちは、(アネモネの花よりも)より長く存続するだろう。
しかし、いつ、すべての生活のどの生活において、わたしたちは、ついに、開いており、且つ受け容れるものであるか?

【解釈】
冒頭に出てくる、Blumenmuskel、ブルーメン・ムスケルという言葉は、ドイツ語をそのまま直訳すると、花の筋肉というのである。しかし、この無粋な訳語はないであろう。試しに、Googleの画像検索でこの言葉を検索すると、ヒットした数はたった47件、文字の検索で727件。いづれも、やはり、リルケのこの詩が検索されて、この言葉そのものが、リルケのこのソネットの言葉で、一般的な言葉ではないし、専門の言葉でもないのだということがわかる。画像としてみようとしても、やはり花の画像としては出てこない。ただ、それを思わせるデザインの、放射状の梁の走った何かの天井の写真をみることができた。

しかし、他に言いようもないのだと思う。この言葉は、花びらの根元にある肉厚の、内側と外側の部分で、そこに走っている、花びらの開閉を支え、維持する筋(きん)繊維部分を言っているのだ。それは、詩からも明らかだと思う。花の筋肉ということばは、いささか抵抗があったので、花の筋繊維という訳語をあてました。

一寸話しが横道に入りますが、Google検索をすると、リルケのこのオルフェウスへのソネットからいくつかのソネットを歌曲にしたてた作曲家がいて、ちなみに、それは、次のようなことになっています。無料体験でこれらの曲を聴くことができました(http://ml.naxos.jp/album/BCD9178

リーバーソン:リルケ歌曲集/6つの王国/ホルン協奏曲(リーバーソン/ピーター・ゼルキン/パーヴィス)

作曲されているソネットは、次のソネットです。既にこれまで読んだソネットもありますし、これから読むソネットもあります。

No. 1. O ihr Zartlichen(第1部ソネットIV:おお、柔らかき者たちよ)
No. 2. Atmen, du unsichtbares Gedicht(第2部ソネットI:呼吸せよ、お前、眼に見えぬ詩よ)
No.3. Wolle die Wandlung(第2部ソネットXII:変身を求めよ)
No. 4. Blumenmuskel, der der Anemone(第2部ソネットV:花の筋繊維、それがアネモネの)
No.5. Stiller Freund(第2部ソネットXXIX:静かなる友よ)

さて、性愛を歌うリルケの常で、アネモネという花を歌っている第1連、第2連、第3連は、すべて、冒頭の花の筋繊維という名詞にかかっているだけで構成されています。なんという構成でしょう。

「下へ向かえという没落の合図、静かな合図(あるいは、静かにせよという合図)」と註釈的に訳したところは、花びらが反り返って下に行くという意味と、没落するという意味が掛け合わされているのではないかと思い、そう訳しました。何か、そのような女性の姿態を想像せしむるものがあります。静かにせよという合図というのも、エロティックに響きます。

このアネモネは、ドイツ名では、Windroeschen、直訳すれば、風薔薇、風の小さい可愛らしい薔薇という名前で、リルケは薔薇に似た形状の花を愛したのでしょう。

それは、花びらが幾重にも深く重なっているからで、その筋繊維を「どれほどたくさんの世界の決心と力であるもの」と呼んでいます。花びらの一枚一枚が、それから花びらと花びらの構成する空間が、それぞれひとつの世界だといっているのです。それらの決意と力であるものが、Blumenmuskel、ブルーメン・ムスケル、花の筋繊維なのです。

最後の連は、いうまでもなく、アネモネと人間を対比させて、わたしたち人間が、アネモネの花ほど、開いていて、受容するものであるかと問うています。リルケにとって、開いているとは、前のソネットで書いたように、外側を知っているということ、永遠に向かって、普通名詞としての神に向かって、開かれているということです。しかし、ここでは、このように註解しないことの方が正しいことだと思います。この詩のエロティックなものを生かすために。

そうしてみると、最後の、「わたしたち、暴力的で無法なものたち」というのは、男たちのことをいっているのではないでしょうか。

リルケは、そう意識したのではないでしょうか。それゆえ、次のソネットは、薔薇が歌われており、それを君臨する女性、女王として歌い始めます。恰も男性と均衡を保たせむかの如くに。

2009年12月12日土曜日

オルフェウスへのソネット(IV)(第2部)

IV

O DIESES ist das Tier, das es nicht giebt.
Sie wußtens nicht und habens jeden Falls
— sein Wandeln, seine Haltung, seinen Hals,
bis in des stillen Blickes Licht — geliebt.

Zwar war es nicht. Doch weil sie's liebten, ward
ein reines Tier. Sie ließen immer Raum.
Und in dem Raume, klar und ausgespart,
erhob es leicht sein Haupt und brauchte kaum

zu sein. Sie nährten es mit keinem Korn,
nur immer mit der Möglichkeit, es sei.
Und die gab solche Stärke an das Tier,

daß es aus sich ein Stirnhorn trieb. Ein Horn.
Zu einer Jungfrau kam es weiß herbei —
und war im Silber-Spiegel und in ihr.

前のソネットが鏡を歌ったので、そのままこのソネットでも鏡が歌われている。

鏡と動物と空間の関係が歌われている。

【散文訳】

ああ、これは、存在しない動物だ。

鏡は、動物が存在していないことを知らなかったし、しかし、いづれにせよ動物を―

動物の悠然たる歩行、態度や姿勢、その首を

静かな眼差しの光の中にまで―愛したのだ。

なるほど、動物は存在していなかった。しかし、鏡は動物を愛したので、

一匹の純粋なる動物が存在した。鏡は、いつも空間がそうしたいままにしておいた。

そうして、空間の中で、清澄に且つ上手に空間を無駄なく節約して、

動物は、軽くその頭(こうべ)を上げ、そして、存在することをほとんど

必要とはしなかった。鏡は、動物を穀物で養いはせずに、

ただいつも、動物は存在する、存在せよ、あれかし、という可能性だけを以って、養ったのだ。

そうやって、鏡は、動物に、それほどの強さを与えることになったので、

動物は、自分自身の中から、一角獣を追い出した。角一本の一角獣だ。

ひとりの乙女のもとへと、一角獣は、白い色をして、やって来た。―

そして、銀の鏡と乙女の中に、存在した。

【解釈】

このソネットは、他のソネットには例がないのですが、前のソネットからそのまま主題も気分も文字の上で繋がっていて、つまり、最初から鏡が指示代名詞で呼ばれているのです。

このソネットでの鏡は、前のソネットと同様、複数形の鏡です。ですから、この地上にある鏡という鏡を想像することができます。この形象は、悲歌2番に出てくる天使と鏡、鏡に変身している天使を、やはりここでも、わたしには思わせます。

鏡と来れば、空間なのです。空間と言えば、動物なのです。あるいは、動物と言えば、純粋は空間なのです。これがリルケでした。

鏡という鏡は、そんな動物を、存在の可能性だけでいつも育てているのです。

このような文は、譬喩というのではない、やはり意味するところは、そのところ、そのままだ、そのままでよいというふうに思います。

このソネットは、何も解釈するところがなく、そのままだという気がします。

1連の最後の行、「静かな眼差しの光」とは、動物の目の光だと思います。

その動物の目で見る空間は、悲歌5番第1連では、純粋な空間と呼ばれていて、そこには時間は存在しないのです。リルケが、rein、ライン、純粋なという意味は、時間が存在しないという意味です。

動物や花々は、その空間を観ることができ、実際に知っている。悲歌5番の純粋な空間は、神とさへ呼ばれています。この神は、もちろんキリスト教の神ではありません。神と呼ばれえる一般名詞の神です。

そうして、純粋な空間は、開かれている。開かれているとは、外側を知っているということだと、リルケは悲歌5番で言っています。そうして、その空間の持つ外側とは、永遠なのだと歌っています。同じ思想は、ここにもあるでしょう。悲歌とオルフェウスへのソネットは同じ時間の中で同時に並行して書かれたから、尚更です。

動物の持つ強さは、こうして悲歌5番で歌われている強さと同じ、上に述べた強さなのですが、それを話者は、あれかし、ある、という存在の可能性で養われた強さだと言っている。その可能性だけで、鏡は動物を飼育したのです。

注意すべきは、時制は、このソネットでは、すべて過去で、こういったことは、みな、動かしがたい事実として歌われているということです。

最後の連で、何故一角獣が出てくるのでしょう。このソネットには、リルケ自身による註釈がありますので、それをそのまま訳して引用します。

Das Einhorn hat alte, im Mittelalter immerfort gefeierte Bedeutungen der Jungfräulichkeit: daher ist behauptet, es, das Nicht-Seiende für den Profanen, sei, sobald es erschiene, in dem «Silber-Spiegel», den ihm die Jungfrau vorhält (siehe: Tapisserien des XV. Jahrhunderts) und «in ihr», als in einem zweiten ebenso reinen, ebenso heimlichen Spiegel.

一角獣は、古い、中世にあってはいつも、女性の処女性を祝した様々な意味を持っている。それゆえ、そこで言われていることは、一角獣が、処女が自分の前に持つ「銀の鏡」(15世紀の刺繍やつづれ織りをご覧なさい)の中に現れるや、ただちに、世俗の者にとっては、一角獣、すなわち、存在していないもの(非存在)が存在するということであり、(その「銀の鏡」と」)「処女の中に」、すなわち、第2の、まさしく純粋な、まさしく密やかな、秘密の、隠された鏡の中に、一角獣という存在しないものが存在するということなのです。

哲学者や科学者は、時間を欠いた空間など存在しないということでしょう。しかし、ここが詩人と哲学者、詩人と科学者の違いです。ないもの、ある筈のないもの、非存在を創造することができる。存在する、存在あれかしという可能性があるのであれば。これが、詩人であり、詩だということを、詩そのものとして示しているソネットだと思います。

そういう意味では、詩の中に、詩への批評を含む、これもやはり、外側に開かれた、そういう意味では純粋な詩なのだということができるでしょう。リルケならば、このように言うことができることでしょう。

鏡と女性の処女性をこのように歌うリルケは、これから出てくる花と女性を歌うときに、男としてその処女性を奪うことに対する罪悪感と贖罪の気持から、エロティックに惑乱し、それでも自分自身を保とうとしながら、いつものように性愛を歌うときには動詞、すなわち時間を捨象して、時間を越えた純粋な空間の中にあるもののようにして、永遠の形象として、花と女性を歌うのです。

それで、次のソネットVからは、花が続けて主題となるのです。

2009年12月6日日曜日

オルフェウスへのソネット(III)(第2部)

III

SPIEGEL noch nie hat man wissend beschrieben
was ihr in euerem Wesen seid.
Ihr, wie mit lauter Löchern von Sieben
erfüllten Zwischenräume der Zeit.

Ihr, noch des leeren Saales Verschwender —,
wenn es dämmert, wie Wälder weit...
Und der Lüster geht wie ein Sechzehn-Ender
durch eure Unbetretbarkeit.

Manchmal seid ihr voll Malerei.
Einige scheinen in euch gegangen —,
andere schicktet ihr scheu vorbei.

Aber die Schönste wird bleiben —, bis
drüben in ihre enthaltenen Wangen
eindrang der klare gelöste Narziß.

前のソネットが鏡を歌っていることから、このソネットも鏡を歌っている。

【散文訳】

,鏡を、今だ嘗て、お前たちが、お前たちの本質の中に何があるのかを知って、ひとは叙述したことはない。お前たち、篩(ふるい)のただ穴だけで満たされているように、満たされている時間の中間空間(時間と時間の狭間の空間)よ。

お前たち、夕暮れになるといつも、遥かなる森という森のように、まだ、空虚な大広間の浪費家であるものたちよ….

そうして、シャンデリアが、角が16に分かれた牡鹿(おじか)の如くに、行く、

お前たちの、中に踏み入られないという性質を通って。

時には、お前たちは、絵画で一杯になることもある。

幾つかの絵画は、お前たちの中、内側で、歩行しているように見える。

その他の絵画は、お前たちは、内気なことに、そうはしないで、やり過ごして、ただ行かせてしまうのだ。

しかし、最も美しい女性は、留まることになる。そこ、その女性の含まれた両の頬の中にまで、清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシスが押し入って来るまでは。押し入ってきたのだ。

【解釈】

1連は、鏡というものの性質を歌っている。鏡は、時間と時間の間にある空間だと言っている。時間と時間の間の空間とは、変化する時間の性質を有した、変化しない空間という意味に解釈することができる。一見矛盾のようであるが。

1部のVIIIの妖精が棲む空間、あの賞賛、讃嘆の空間の中に棲んでいる妖精も、同じ空間にいるのだろうか。なぜなら、そこでは、泉から流れ出るわたしたち人間の流れを、不変(巌)の尺度で計測し、わたしたちがklar、クラール、清澄であることを見張ってくれていたからである。Klar、クラール、清澄という言葉は、このソネットの最後にナルシスの形容としても使われているので、これらふたつのソネットは、どこかで間違いなく響きあっている。

それから、悲歌2番最後の連の次の文、これが鏡という空間なのではないでしょうか。いや順序は逆で、リルケはこのような空間が時間と時間の合間にはあって、それを鏡と呼び、また次のように果実のなる豊かな土地と呼んでいるのでしょう。この巌(不易)と流れ(流行)という対比の仕方から言っても、上に述べた泉の妖精と大いに関係のある空間だということがわかります。

Fänden auch wir ein reines, verhaltenes, schmales
Menschliches, einen unseren Streifen Fruchtlands
zwischen Strom und Gestein.

もし、わたしたちが、純粋で、抑えられている、狭い、人間的なもの、すなわち、急流と巌の間にある一筆の果実のなる豊かな土地を見つけることができるならばなあ(実際にはそういうことはないのだが)。

今こうして読んでみて、人間的なものと鏡との関係をもう少し考えなければならないということに気づきました。それをしなければ、この豊かな土地が鏡であるとは言えません。しかし、リルケが、時間の中に、何かそのような、わたしたちが生きる、変わらぬ空間を思い描いていたことは否定できないでしょう。鏡もそのような、しかし一寸非人間的な感触で、歌われているように思います。非人間的な感じがするのは、それが鏡だからでしょう。

この空間は、篩の穴だけからできているような空間だと歌われています。そのような空間、それが鏡です。それは、ものとものとで構成される空間。ある時間というものと、次の時間というものとで構成される空間。さて、こう考えてくると、リルケは時間をひとつだけ念頭においているのではなく、複数の時間を念頭において、この一行を書いたのではないかと思われるのです。ひとつの時間の中で、ある時点と次の時点の間の空間という意味ではなく、一本の時間の流れがあり、別の一本の時間の流れがあり、その間の空間という意味です。どちらの解釈も可能だと思います。

2連をみると、大広間ということから、ヨーロッパにあるような何か宮殿の中の空間を連想しますが、そのような空間を思い描いてみるとよいのではないでしょうか。シャンデリアが、角の豊かな牡鹿のように、鏡の中を歩いている。悲歌でもみたように、注意すべきは、リルケはいつも空間の中に時間をおくことです。空間を設定して、そうしてその中で動きを歌う。これがリルケの順序です。

さて、シャンデリアが歩行しているのも、鏡の性質、現実のものを映すとうい性質によって、「中に踏み入られないという性質を通って」と歌われています。像は映っていても、鏡の中に入っていくことはできません。何か幻想的で美しい連だと思います。

同じように、広間には絵画が掛けられていることが多々ありますので、そのような空間では、鏡は絵画を映じることになるでしょう。これが、第3連です。第3連の最後の行、

その他の絵画は、お前たちは、内気なことに、そうはしないで、やり過ごして、ただ行かせてしまうのだ。

という一行をみると、リルケは、空間にも何か意志、意図といってよいものを認めているのではないかと思われます。この一文は、譬(たと)えとは言えない、何かぎりぎりのものがあります。このことは、第2XIIの第3連第1行でもう一度論ずることになるでしょう。そこでは、空間が認識するという言葉が書かれているのです。リルケの空間と意志の問題は、悲歌5番のところでも論じたところです。

さて、最後の連ですが、最初の一行は、しかしという接続詞で始まっています。この「しかし」の意味は何でしょうか。前の連で、鏡の中でシャンデリアが歩行したり、また現実のものを映すことをしないで、やり過ごしたりするということに対して、反対にそうではなくという意味なのでしょう。

そうではなく、美しい女性は、鏡の内側にあっても動かないままである。空間という性質の本来の性質を体現しているかのように、留まって、動かない。ただ、いつまでかというと(やはり時間があらわれて)、

そこ、その女性の両の頬の中にまで、

清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシスが押し入って来るまで

というのです。

「清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシス」といわれているので、このナルシスは、自分自身を愛するという呪縛から解き放たれて、女性を愛するナルシスだと考えられます。

鏡の中に自分自身ではなく、異性である女性を見ることのできるナルシス。やはり、ナルシスも、「中に踏み入られないという性質を通って」、鏡の中に入ってゆくことができるのでしょう。

「清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれたナルシス」と同じ文を、わたしたちは、第1部ソネットIに既に見ています。それは、

Tiere aus Stille drangen aus dem klaren
gelösten Wald von Lager und Genist

沈黙の中から生まれてきた動物たちは、清澄な、禁忌を解き放たれた森、

寝床と巣であった森からから外へと切迫したように走り出た。

興味深いことは、この「清澄な、禁忌、呪縛から解き放たれた」とリルケが歌うものとの関係では、いつも、何かが、押し迫って出たり、押し迫って入ったりするということです。これは、リルケの実感なのでしょう。

この「最も美しい女性」は、ナルシスが、その頬の中に押し入ると、やはり時間の中を、ナルシスと一緒に動くのでしょう。花という主題ではなく、鏡という主題を歌っているからでしょう、リルケの筆致は、エロティックに過ぎることがなく、美的な形象を歌うことができていると思います。

「含まれた両の頬」という言葉が少しわかりにくい。それは何かに含まれているのでしょうが、含んでいるのが何かが不明です。あるいは、過去分詞になって、形容詞のような意味を持つとして、それが何を意味するのか。何かある形状を言ったものなのか。いづれにせよ、美しい頬であることには変わりがないでしょう。この女性の頬は、ナルシスが魅入られ、その中に押し入るほど魅力的な頬なのでしょう。あるいは、神話に典拠があるのでしょうか。調べましたが、そこに至りませんでした。

2009年12月5日土曜日

オルフェウスへのソネット(II)(第2部)

II

So wie dem Meister manchmal das eilig
nähere Blatt den wirklichen Strich
abnimmt: so nehmen oft Spiegel das heilig
einzige Lächeln der Mädchen in sich,

wenn sie den Morgen erproben, allein, —
oder im Glänze der dienenden Lichter.
Und in das Atmen der echten Gesichter,
später, fällt nur ein Widerschein.

Was haben Augen einst ins umrußte
lange Verglühn der Kamine geschaut:
Blicke des Lebens, für immer verlerne.

Ach, der Erde, wer kennt die Verluste?
Nur, wer mit dennoch preisendem Laut
sänge das Herz, das ins Ganze geborne.

前のソネットの最後に、Blatt、ブラット、葉っぱという言葉があるので、それから連想をつないだ。それから、やはり前のソネットの詩想は連続している。それは、空間ということである。

【散文訳】

(絵の名人がではなく逆に)しばしば、急いで傍に寄ってきた葉っぱの方が、絵の名人から現実的な、本物らしい一筆のタッチを奪いとるように、丁度そのように、鏡は、しばしば娘たちの神聖に唯一である微笑(ほほえみ)をそれ自身の内に奪い取っている。

娘たちが一人で、または奉仕する光の中で、朝(の効能や能力)を試す毎に。そして、本物の顔の呼吸をすることの中に、後で、ただ反映だけが落ちるのだ。

目は、嘗て、暖炉の(火が)煤けで長く燃えて止むことの中を観た。すなわち、これは人生の、生の眼差しなのだが、(一度これを習得したら)永遠に忘れることだ。

ああ、だれが、大地の損失を知っていようか。ただ、それでも賞賛する音を以って、心臓を、こころを、すなわち全体の中に生まれ入るものを歌うものがいるとすれば、その者だけが知っているのだ。

【解釈】

最初の連の一行目から2行目は、普通は画家が現実を写し、本物以上に絵を描くものだが、そうではなく、関係が逆転していて、自然の方が、画家の方から現実的なタッチを奪いとると歌って、現実と鏡の関係を歌い始めている。

「娘たちが一人で、または奉仕する光の中で、朝(の効能や能力)を試す毎に」とあるのは、朝娘たちが髪を梳いたり、化粧をしたりする朝の光景をいっているのだろう。奉仕する光とは、光は、娘たちを美しく見せるからであろう。

最初の出だしの2行から考えると、鏡の中の娘たちの方が、時には、現実的な存在だと話者は歌っていることになる。このことを前提に、第2連の最後の2行を解釈することになる。すなわち、

本物の顔の呼吸をすることの中に、後で、ただ反映だけが落ちるのだ。

この「本物の顔」とあるのは、娘の顔が本物だといっているだろうか。それも、現実的な顔を本物だといっているのか、鏡の中の娘たちの顔を本物だといっているのか。それは、上の文脈からいって、後者だということになるだろう。

そうすると、鏡の中にある娘たちの顔が呼吸をするのだ。

わたしは、ここでも、やはり、悲歌2番の天使、鏡に変身した天使を思い出す。この地上では鏡という空間になっていた天使は、自らの身のうちから流れ出た美を汲み戻すのであった。

鏡と現実の間の交換という主題が、このソネットにもあると考えることができる。

さて、また、悲歌4番第3連14行目にあるように、リルケは、顔の中に空間があると考え、そのように観て、歌っている。顔というと直ぐ空間なのだ。この顔という空間が呼吸をしている。その顔、鏡の中の娘の顔の呼吸の中に、後で現実の反映が落ちる。逆に、現実の娘の顔の反映が、鏡の娘の顔の呼吸の中へと落ちる。

後でとはどういうことであろうか。娘が立ち去っても、その鏡には、本当の娘が映っている、現実の娘の姿が消えずに、本当の娘の姿がそこにあるということではないだろうか。

3連で、暖炉の火が出てくる。これは、暖炉の火をみて、わたしたちは、人生と生のことを思う。これは、暖炉のあるひとの生活なのだろう。ここは日本で暖炉はないが、場合によっては、焚き火であるか、田舎へ行って囲炉裏の火をみることに、そのような契機が隠れているかも知れない。デカルトが、オランダで冬の日に、暖炉の火を見て、ある観想を得たことを思い出す。

リルケのおもしろいところは、この生と人生の眼差しを、覚えたら忘れろといっていることです。これは、真理だと思う。あるいは、格言だと思う。あるいは、人生の、生を生きているひとの格律であると思う。なんという贅沢な人生、豊かな人生であろうか。

2部ソネットVIII4連に同じ詩想が歌われていて、リルケが人生にどのように対したのかが窺われる箇所があります。子供たちがボール遊びをしているのですが、キャッチボールをするそのボールよりも、そのボールの描く軌跡、Bogen、ボーゲンにリルケの関心は集中するのです。詳細を論ずるのは、またそのソネットへ行ったときに。

さて、そう思って考えれば、これは、単なるボールの話しではなく、暖炉の火の話しではなく、リルケの詩法の骨法かも知れないと思います。リルケの詩の書き方です。表を書くのではなく裏を書く。対象をではなく、その影を書くという方法です。そうして、それを荘厳するということによって歌い切る。

また、第1部ソネットIV2連でも、矢よりも、矢の描く弧を話者は褒め称えていました。これも同じこころだと思います。

そうしてみると、やはり、この連想から、最後の連では、「それでも賞賛する音を以って」と歌われています。Preisen、プライゼン、賞賛するとは、他にも出てきたRuehmen、リューメンと同じ語義の言葉ですから、わたしが荘厳と訳したいと思っていることは既に前に書いた通りです。表と裏の関係、対象と影または蔭、こうなると、陰と陽の関係を褒め讃え、その全体を言葉で荘厳する。これが、リルケの詩なのではないでしょうか。そう思います。

確かに、このソネットは、対象、現実と、影、鏡に映るものの関係を歌い、最後の連で荘厳しています。あるいは、荘厳そのものを歌っている。わたしは、リルケの詩に、言葉が本来持っている古代的なものを思います。あるいは、詩本来の姿、社会的な役割というべきかも知れません。

その荘厳する者とは、歌うという動詞がドイツ語の文法でいう接続法II式であって、現実には存在しないと歌われているのですが、もし存在するとしたら、それは、オルフェウスでありますが、そのような者は、こころを歌うといっています。こころとは、「全体の中に生まれ入るもの」と言い換えられています。

こころをそのように言い換えているということは、こころと言う言葉で、実は人間のことを言っていると解釈することもできます。人間とは、もともと全体の中へと生まれ出でたものなのだ。しかし、そのこころが第1部ソネットIIIに、また同じくソネットXIに歌われているように、全体、すなわちひとつであったこころが二つに分かれているのが、普通の人間だとソネット全体で歌っているのだと思います。こうしてみると、第1部の最後のソネットXXVIで、オルフェウスがその身を引き裂かれるのも、高次の人間の象徴的な姿だと解釈することもできると思います。

最後に、もうひとつ。第3連の「それでも」とは、忘れるということに対して発せられた言葉です。忘れることは、第4連にある通り、「大地の損失」ですが、しかし、それにもかかわらず、褒め称え、賞賛し、荘厳することを、無償の人は、なすのです。あるいは、そのような行為が無償の行為であり、その行為と引き換えに、新しい生命が生まれ、何かに宿り、樹木のように成長し、果実をつけるとリルケは考えているのだと思います。死から生まれる生。こうして考えると、暖炉の火を見ることを忘れよとは、生よりも死のことを考えよという言葉にも解釈することできます。

2009年12月1日火曜日

言葉の性質

言葉の性質のことを意味といっている。

言葉の意味は、文法用語でいうと、不可算名詞である。つまり、単位化しなければ数えることができない。

この視点でみると、言葉は、水と同じだ。あるいは、紅茶、コーヒーと。一杯のコーヒーといったように。

言葉の意味を、だから、単位化する。それが、言葉、ひとつの語だ。これは、概念化によって生み出される。人間の精神が概念化をする。

Moneyと英語で呼ばれるお金も、不可算名詞だ。だから、単位化して呼ばれる。円、ドル、ユーロ、そうして何桁かの数字でもって。

この点で、言葉とお金は同じだ。

お金が流通する量であるように、言葉も流通する量なのだろうか。然り。単位化しない限りは。その性質を考え、意味を発見しない限りは。そうでない言葉は、物質的な量として流通する。つまり、売り買いができる。そうでない言葉は、質、すなわち意味として明瞭にある言葉は、売り買いはできない。しかし、交換することができる。意味と意味の交換である。(これを売り買いと言ったら、この売り買いは譬喩である。譬喩とは何かの答えがここにある。

これが、詩ではないか?詩の言葉ではないか?

詩は開かれているか?

リルケの詩、オルフェウスへのソネットを読んで、ふとこんな文句が浮かんだ。

リルケは、開かれているということを大切に言っている。そのような存在は、動物であり、また花である。

花は、リルケの場合、いつも女性という性と分かち難く表象され、歌われるので、それは受け容れるということと同義なのである。非常にエロティックな歌い方を、女性と花と開かれているという3つの言葉の組み合わせでは、している。

この問いは、何を意味するのだろうか。

そうして、それは、誰に対して、あるいは何に対して開かれているのだろうか。

開かれているとは、どういうことだろうか。

リルケの詩は、開かれている筈である。

それは、どのような詩だというのであろうか。

(この問いは、リルケの詩、または一般的に詩というものの内にあるものを、外に展開する問いだと思う。歌っている対象そのものが、詩作品の批評になっているという意味で、そう思うのです。)