2009年10月21日水曜日

愛する人のために

愛する人のために
                 

保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、

パソコンの便利さもありません。

けれど目に見えぬこの商品には、

人間の血が通っています。

人間の未来への切ない望みが

こめられています。

愛情をお金であがなうことはできません。

けれどお金に、

愛情をこめることはできます、

生命をふきこむことはできます。

もし愛する人のために、

お金が使われるなら。



これは、日本生命という生命保険のおばさんが置いていったクリアフォルダーの表に書かれてあった、谷川俊太郎の詩だ。

「けれど目に見えぬこの商品には、/人間の血が通っています。」という一文は、アイロニーなのだろうなあ。そう思わなければ、読むことができない。何故ならば、保険という商品は、個人が死に対して抱く恐怖心を利用して、それに基づいて(計算もしてー保険数学という数学がある)販売されているからだ。

その個人の抱く恐怖心を、「人間の未来への切ない望みが/こめられています。」と書いているのだろう。

この詩は、この通りで、何も解釈など必要ないのだな。

哀悼

2009年10月12日月曜日

オルフェウスへのソネット(III)

III

EIN Gott vermags. Wie aber, sag mir, soll
ein Mann ihm folgen durch die schmale Leier?
Sein Sinn ist Zwiespalt. An der Kreuzung zweier
Herzwege steht kein Tempel für Apoll.

Gesang, wie du ihn lehrst, ist nicht Begehr,
nicht Werbung um ein endlich noch Erreichtes;
Gesang ist Dasein. Für den Gott ein Leichtes.
Wann aber sind wir? Und wann wendet er

an unser Sein die Erde und die Sterne?
Dies ists nicht, Jüngling, daß du liebst, wenn auch
die Stimme dann den Mund dir aufstößt, — lerne

vergessen, daß du aufsangst. Das verrinnt.
In Wahrheit singen, ist ein andrer Hauch.
Ein Hauch um nichts. Ein Wehn im Gott. Ein Wind.

【散文訳】

神様ならばできるだろう。しかし、おい、男がひとり、

弦が狭く張ってある竪琴を、神さまの後をおって、

潜り抜けることなどどうやってできようか。この男の

感覚は、分裂する(二つに分かれる)。ふたつの、こころの

道の交差するところには、アポロのための寺院など立って

いないのだ。

聖なる歌、お前がその男に教えるのは、欲求ではない、

求めることではない、かろうじて到達できるものを

求めることではない。(歌うとは、そのように容易に手に入る、

到達できることではない。)聖なる歌、歌うことは、今ここに

こうしてあることだからだ。神にとっては、安きもの、安きことである。

さて、われわれ人間は、一体いつ存在するのだ?そうして、いつ、

われわれの存在に、大地と星辰を向けることを、この男は

するのだろうか?若き者、オルフェウスよ、お前が愛するということ、

たとえ声が、愛することで、お前の唇からほとばしり出たとしても、

お前が愛するということでは、それは、ないのだ。忘れることを

学びなさい、お前が声高らかに歌ったということを忘れることを。

それは、失われ、消えてしまう。真実に歌うということ、それは

また別の息吹だ。何ものをも求めぬ、そっと吐く息だ。神様の中を吹く風だ。

すなわち、風。

【解釈】

1.やはり、この詩は、話者が重要な役割を演じている。話者は、オルフェウスでは

ない。その話者が、オルフェウスに直接呼びかけたり、間接的に歌ったりしている。

2.「ふたつの、こころの道の交差するところには、」と訳したところに似た箇所が、ずっと後の、ソネットXXIXの第3連の第2行に出てくる。ここにもSinn、ジン、感覚という言葉が出てくるので、このふたつのソネットは照応し、対応し、互いに響きあっていると思う。それが、本当は何を意味しているのか、これを考えることが、このソネットを理解する道筋のひとつだと思う。解釈があれば、お教えください。

2.そこで、アポロのための寺院がたっていないということは、何を言っているのだろうか。アポロは、オルフェウスの父親ということである。父のための寺はたっていないという文である。これは、オルフェウスと父親の何か特別な関係を示しているのだろうか。リルケは、この文で、一体なにを言いたいのか。多分わたしの知識の少ないことによって、理解することができないのだろう。これも、解釈があれば、どなたか、お教えください。

4.「聖なる歌、歌うことは、今ここにこうしてあることだからだ。」という文は、デゥイーノの悲歌6番第3連第2行にある

Sein Aufgang ist Dasein.

彼(英雄)の上昇は、今ここにこうしてあることだ

という一行と同じ意味を有している。悲歌をソネットの解釈のために利用することができる。

悲歌のこの部分でも、星辰が出てくる。悲歌のこの箇所では、英雄は、死者、若い死者に不思議なほどよく似ていると歌われている。時間の持続が英雄を刺激することはない、絶えず攻撃することはないのだという。何故ならば、彼の上昇は、今ここにこうしてあることだからだ、というのである。

ここでも言われていることは、英雄の行為は、無私の、無償の行為であるということである。それは、絶えずわが身を危険にさらる行為であり、星辰、それがなにも本当の星辰であるとしてではなくとも、星辰に相当するものの中に、そのような像の中へと歩み入るのが英雄なのだと、悲歌では歌われている。同様に、オルフェウスもまた、そのような人間ならぬ人間として、そのようなありかたであるのだと、リルケの創造した話者は、歌っているのだ。それが、真実の中で歌うことだ、と。それは、容易なわざではないのだと、話者は言っている。

最後のHauch,ハウホ、息、息吹とは、リルケらしい言葉である。悲歌では、同じ言葉が、atmen、アートメン、息をするという動詞として、繰り返し出てきたことを思う。

何も求めるのではない、という箇所は、悲歌の2番の冒頭そのものである。

こうしてみると、リルケは、悲歌を書きながら、このソネットにおいて、もっと静かな調子で、同じ思想を展開したのだと理解することができる。

2009年10月2日金曜日

リルケの言葉、fallen、ファレン、落ちるという動詞の美しさについて


オルフェウスへのソネットを、例によって移動書斎にて読んでいると、やはりまた、わたしは
リルケの使う言葉、fallen、ファレン、落ちるという動詞の美しさについて語りたいと思った。

そうして、Herbst、ヘルプスト、秋というリルケの詩を探して、というのは、この詩には、やはり
fallenという言葉が出てくるのですが、それを引用もして、この言葉の美しさを語りたいと
思ったのでした。

そうしたところ、素晴らしい文章に出会いましたので、そのブログのアドレスを以下に引用して、
読者にお伝えしたいと思いました。

これは、リルケの秋という詩と、リルケが秘書をしたロダンについてのリルケの文章を翻訳しているものです。後者には、悲歌の中でもリルケが特別な関心を示したいた手についての、リルケの考察を読むことができ、悲歌についての、それからオルフェウスへのソネット24についての(ここでも、粘土という、手で制作するものが歌われている)理解が格段に進むことと思います。前者については、落ちるという動詞が訳されていて、それはその通りの訳となっています。


また、次の同じブログのページには、リルケの墓碑銘である薔薇の詩についての、興味深い解釈が書かれています。



リルケのfallenという言葉の美しさについては、次回稿をあらためて論じたいと思います。

2009年9月24日木曜日

言葉の楽しみ、いやよろこびか


今日、los celosという言葉を知った。これは、スペイン語で嫉妬という意味であるが、los celosというはじめてみる言葉と、それが嫉妬という意味だということを知ることが、よろこびであった。

こころの底から、そのようなよろこびが、湧いてくる。

ドイツ語を学び始めたときのことを思い出した。

今リルケを読んでいて、そのよろこびがあるかを自問自答する。それがなければ、オルフェウスへのソネットを読んでも、意味がないなと思うが、しかし、これも青臭い考え、侠気の一種かと思えもする。何に対する侠気であるか。これは、英語でいうとプライド、というのであろうか。なんだか、先週の土曜日お会いした須永紀子さんのある詩の最後の2行のようだ。それを護るために生きてきたのだ。というと、もっと格好いいということになるだろう。

が、そんなことではない。

今でも、ドイツ語に触れること、これは文字通りに触れることは、よろこびである。また、昨日は、日がな、アメリカ名詩選(岩波文庫)を読んでいたのだが、英語の原詩に触れること、そうして日本語との間をいったりきたりすることも、かけがえのない、よろこびであった。

これは、一体どういうことであろうか。

また、関口存男の初等ドイツ語文法書を読み返すことにしよう。それから、真鍋先生の洒脱な語学の本も。

2009年9月23日水曜日

オルフェウスへのソネット1部のソネット2番の第2連から第4連

1章 

II-2から4連

残りの2連から4連を読んでみる。各連づつ、散文訳をつけてみる。事前の予想では、訳をつけてみたら、それで終わってしまって、解釈とか鑑賞とか感想とか、なにも書けなくなっているかも知れないけれども。

Und schlief in mir. Und alles war ihr Schlaf.
Die Bäume, die ich je bewundert, diese
fühlbare Ferne, die gefühlte Wiese
und jedes Staunen, das mich selbst betraf.

そうして、(その娘は)わたしの中で眠った。そして、すべては彼女の眠りであった。

木々、わたしがいつも驚嘆している木々が、この感じることのできる距離が、感じている草原が、それから、わたし自身を打った驚きのひとつひとつが。

Sie schlief die Welt. Singender Gott, wie hast
du sie vollendet, daß sie nicht begehrte,
erst wach zu sein? Sieh, sie erstand und schlief.

娘は、世界を眠った。歌っている神よ、お前はどのようにして、さあ起きよう、目覚めようと願わないように、娘を完成したのだ?見よ、娘は立って、そうして眠っていた。

Wo ist ihr Tod? O, wirst du dies Motiv
erfinden noch, eh sich dein Lied verzehrte? —
Wo sinkt sie hin aus mir?... Ein Mädchen fast...

娘の死は、どこにあるのだ?ああ、お前は、お前の歌がみづからを食い尽くさぬ前に、このモチーフをまだ発明することになるのだろうか? 娘は、わたしの中から外へと出て、どこに沈んでゆくのだろうか? ほとんど娘であるものが…..

2連から見てみよう。この語り手の中に娘が眠っている。すべては娘の眠りだったという文をドイツ語では書けるのだなあ。日本語で書いても、やはり同様に意味があるのだろうか。この意味は、解釈すると、娘が世界を夢見るという文ならわかるが、世界を眠るというのであるから、娘が世界を眠らせたという意味なのか、そうして眠らせた結果世界が眠っているのか、実はよく、うまく言えない。しかし、この文は何か深いことをいっているように思うのだが。

木々や距離や草原の例を列挙していることから感じ考えると、世界は娘の眠りであるとは、わたしたちの廻りに現実に存在するものがすべて、眠りそのものからなっているという意味に解釈することができる。娘が眠っているから(夢ではない)、ものとして存在している、眠りであるものたち。

3連目をどうやら先走って考えてしまったようだ。娘は世界を眠っている。神が娘をこのように眠らせていることがわかる。しかも、立って眠っていたとは。

時間、時制、tenseの話をすると、2連と3連の時間は、過去である。過去の事実として語り手は述べている。

4連に来ると、時間は、現在形に戻る。と、こう考えて来ると、語り手は、時間の中を自由に行ったり来たりして話しをしているようだ、いや歌っているようだ。

4連目でわからないのは、語り手であるわたしの中から娘が出て行くと、沈んでいくということである。何故沈んでいくのだろうか。この問いの答えは、また後のソネットの中に出てくるのであろうか。

そうして、やはり、最後にも出てくる、ほとんど娘である娘という表現、これは何を言いたいのかということである。前回は、性の文化した後の乙女に近づけて読んだが、あるいは逆に少女、子供としての女の子に近づけで読むべきなのだろうか。わからない。リルケは何を言いたいのか。

それから、文法的なことを言えば、娘というドイツ語、Mädchen、メートヘェンは、中性名詞であるのにもかかわらず、リルケは、それを彼女、sie、ズィーで受けているということである。中性名詞ならば、es、それが、で受けたり、所有代名詞ならば、sein、彼の、で受けるのではないかと思うが。こういうことがあるのだという例であろうか。

それから、もうひとつ、文法的におもしろいのは、3連の

O, wirst du dies Motiv
erfinden noch, eh sich dein Lied verzehrte?

ああ、お前は、お前の歌がみづからを食い尽くさぬ前に、このモチーフをまだ発明することになるのだろうか?

というところである。従属文の動詞が過去形で、主文の動詞が未来形(あるいは現在形)になるのだろうかということである。これは、書いていく順序が前から書いていくわけであるから、意識がそのように動く、変化するということなのであろう。わたしたちが日本語で書いていても、ありそうである。

2009年9月22日火曜日

オルフェウスへのソネット1部のソネット2番の第1連

1章 

II

前回のところから。今日少しひっかかって、どうも前回言い残したことがあるらしいと気がついた。それは、

ein Unterschlupf aus dunkelstem Verlangen
mit einem Zugang, dessen Pfosten beben, —
da schufst du ihnen Tempel im Gehör.

という最後の連の、

暗い欲求から生まれた、隠れ場所、避難場所があったのであり、

というところです。

Unterschlupf、隠れ場所、避難場所という言葉のドイツ語は、何かの下をするりとうまく潜り抜けて得た場所という意味なので、何か災厄が来たり、困難に見舞われたりしたときに、するりとその下を潜り抜けて(これがUnterschlupf、ドイツ語の音の通りです)、隠れ家に至るというわけですが、これは、動物たちがやむにやまれず見つけた場所ということなのでしょう。

それが、aus dunkelstem Verlangen、一番暗い欲求から生まれたとあるのはどういうわけかというのが、わたしのひっかかっている疑問です。何もすることができないで、ただ聞いているだけであるから、その受身の状態が招来するのが、最も暗い欲求ということなのか。攻撃することを知らないわけであるから。だから、このソネット1番の動物たちは、普通の動物たちではないということになる。それが、沈黙から生まれてきた、沈黙から出てきた動物たちという言葉の意味なのでしょう。それゆえ、その棲む森は、klar、クラール、清澄で、澄んでいて、解放されている森(der geloeste Wald)ということなのでしょう。禁忌のない森。禁止の命令から解放されている森。そのように理解することにいたしましょう。

(なんだか、こうしてドイツ語のテキスト、あるいは英語のテキストでもよいのであるが、このようにテキストを読んで、解釈して、それをこのように書いているときが一番楽しく、幸せである。このような時間に、詩が生まれるとよいなと思う。最近であった詩で、倉田さんのブログに引用されていた西脇順三郎の詩が素晴らしかった。このような詩を書きたいものだ。この括弧の中の別世界にて、引用を赦されよ。

灯 台 へ 行 く 道
              
                   西 脇 順 三 郎

     まだ夏が終わらない 灯台へ行く道
     岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
     いろいろの人間や小鳥の国を考えたり
     「海の老人」が人の肩車にのって
     木の実の酒を飲んでいる話や
     キリストの伝記を書いたルナンという学者が
     少年の時みた「麻たたき」の話など
     いろいろな人間がいったことを
     考えながら歩いた

                                         )

さて、ソネット2番の話に入ることにしよう。

これも、わからないところだらけで

ある。

まづは、第1連をそのまま引用して

考えてみる。

UND fast ein Mädchen wars und ging hervor
aus diesem einigen Glück von Sang und Leier
und glänzte klar durch ihre Frühlingsschleier
und machte sich ein Bett in meinem Ohr.

最初のUND、ウント、英語でいうANDの意味はいかなるものであろうか。その次に、fast ein Mädchen wars、ほとんど娘である娘がいた、とは、これは何をいっているのだろうか。

最初のそうしてとは、昔々あるところにお爺さんとお婆さんがいましたというときの、once upon a timeであろうか。ほとんど強引に、リルケのこの詩の語り手は、Undといってから、突然、今度は、前のソネットとは脈絡なく(ここまで時系列で読んでくるとそう思われるが)、この、ある娘を登場させる。この娘もしかし、ある娘ではあるが、しかしほとんど娘である、ある娘なのである。これは一体いかならむというのがわたしの問いである。

上の原詩の引用の3行目に、ihre Frühlingsschleier、彼女の春のヴェールとあるので、この女性によって春を暗示してもいることから、この女性は、子供から少女へ、乙女といってよい年齢の女性をいっていると思われる。性未分化の子供から、女性という性へと分化した人間の、ある年齢の女性ということではないだろうか。この彼女の春のヴェールを通じて、この娘は光かがやいているのであるが、その輝きようは、klar、クラール、清澄だといっている。これは、動物たちの棲む森と同じ形容であるから、この娘は、どこか、なにかしら、森の動物たちのように、沈黙、静けさ、静寂に関係しているのではないかと考えることができるし、実際に、そうである。とりあえず、まづこの第1連を散文訳すると、

そうして、ほとんど娘といっていいある娘がいたのであり、そして、歌と七弦琴のこのいくばくかの幸せかの中から外へと出てきたのであるが、この娘は、その春のヴェールを通して清らかに光かがやいており、わたしの耳の中で、自分の寝床をしつらえたのである。

ということになるだろう。

リルケというひとは、わたしの悲歌の論の中でも論じたように、言葉を空間と考えているので、いやもっと正確にいうと、言葉の意味するところをひとつの空間と考えているので、耳の中でも、何事でも起こるといった塩梅なのだ。ここでは、多分美しいと思しき女性が、自分のための寝床をこしらえて、寝てしまうのだ。わたしも、こういう語り手になりたい。

ところで、このうらやましい語り手とは、いかなる者であろうか。リルケではなく、オルフェウスではない。リルケの詩の中に登場する、リルケがこのソネットを歌い始めるやすぐ間髪を入れず登場する語り手である。これに名前をつけることがむつかしい。しかし、どの民族のどの言語であっても、この語り手が同じように登場するのは、何故であろうか。

これは、よくよく考えるべきことであると、わたしは思う。

さて、今日は、少しあれこれと書きすぎたようである。このソネット2番の残りは、また明日といたそう。

2009年9月21日月曜日

オルフェウスへのソネット1部の第2連から第4連


2連から第4連を見てみる。最初は1連1回のブログとおもっていたけれども

こうして読み始めると、連と連にわたってひとつの文があるので、なかなか

そうも行かない。これらの連を散文的に分解してしまっては、やはり駄目なのだろうなあ。

むつかしいところです。

Tiere aus Stille drangen aus dem klaren
gelösten Wald von Lager und Genist;
und da ergab sich, daß sie nicht aus List
und nicht aus Angst in sich so leise waren,

最初のTier aus Stilleとは、一体どういう意味なのだろうか。静けさ、静寂の中から生まれた動物たちと読める。そのような動物たちがいるのだと合点する以外にはない。

それとも、生まれたとまでは言わないが、静寂の中にいたのだが、そこから外へと出てきた動物たちという意味もあるから、そうなのか。いづれにせよ、ausという前置詞は、リルケの好きな、favouriteな前置詞。悲歌でもそうだった。内から外へ出ると、苦しいこともあるが、しかし、それはよきことなのだ。

Aus dem klaren geloesten Waldというのがよくわからない。森があって、森である以上は、動物がたくさん棲んでいて、それは当然klar、英語でいうclear、清澄であって、geloest、ゲレスト、動物たちの糞で汚れているという、そういうイメージが最初からあるのだろうか。最初からというのは、森に定冠詞がついているから、そう思ってみたのだが。あるいはリルケのことだから、案外に掛け言葉になっているかも知れない。

前者のklar、クラール、明るい、澄んだ森というのは、森そのものが本来持っているイメージなのだろうか。それとも、この沈黙から生まれでた動物たちが棲むからそうなのだろうか。

後者のgeloest、ゲレスト、糞をされた森というイメージはどうなのだろうか。これは、糞をされた森という解釈で正しいのだろうか。それとも、動詞loesenという意味から、解き放たれた森という解釈が正しいのだろうか。つまり、それまでその森の中にいて、そこから外に出ることを禁じられていたものたちが、そこから外に出るようになった、そのような森という意味。

うーん、どうも、後者の意味の方が、この場合は通るかも知れない。清澄で糞にまみれたというイメージも、個人的にはおもしろいと思うのであるが、どうもそうではないようだ。

こうして考えてくると、リルケの意識の中では、森とは、何か禁忌のある、何かが魔法によってなのか閉じ込められている空間なのだろうか。

そうすると第2連の前半2行は、次のような散文訳になる。

Tiere aus Stille drangen aus dem klaren
gelösten Wald von Lager und Genist;

沈黙の中から生まれてきた動物たちは、清澄な、禁忌を解き放たれた森、

寝床と巣であった森からから外へと切迫したように走り出た。

(続いて来る2行は、)

und da ergab sich, daß sie nicht aus List
und nicht aus Angst in sich so leise waren,

そうすると、そこで、はっきりとしたことは、この動物たちは、

悪い企みや不安なこころから、自分自身の中にそっと静かにしているのではなかったということなのであり、

(という訳になる。続いて、第3連は、)

sondern aus Hören. Brüllen, Schrei, Geröhr
schien klein in ihren Herzen. Und wo eben
kaum eine Hütte war, dies zu empfangen,

(とあり、これを訳すと、)

そうではなく、聞くというこころから、そのように静かであったということなのである。唸ったり、叫んだり、咆哮したりすることは、その動物たちのこころの中では、小さいことに思われた。そうして、これ(このような状態)を受け容れてくれるまさにほとんどひとつの小屋もなかったところに、

(続けて第4連へ、文のつながりのままに訳すと、)

ein Unterschlupf aus dunkelstem Verlangen
mit einem Zugang, dessen Pfosten beben, —
da schufst du ihnen Tempel im Gehör.

暗い欲求から生まれた、隠れ場所、避難場所があったのであり、

この場所には、そこへと至る通路があるのだが、その柱は

激しく震えているのだ――そこで、お前は、動物たちのために

聴覚の中に寺を建立したのだ。

以上が最初のソネットの全体です。第3連にあるGeroehr、ゲレール、ということば、これをわたしは咆哮と、その語感から訳しましたが、これは仮の訳で、辞書には載っていない言葉です。ご存じの方があれば、お教えください。

悲歌の場合には、リルケが動物を持ち出すと、それはいつも人間の限界との関係で、理想の状態を持っている生き物として描かれ、歌われていますが、悲歌をソネットの註釈に使ってみると、ここでもそのような対比が考えられていると解釈することができます。人間の世の、悪いたくらみや奸智、不安ということから、静かにしていたのではない動物たち。

そのような動物たちのために、オルフェウスは、その竪琴と歌声で、聞こえる寺、聴覚の中に寺を建立したのだというのです。この寺はちょっとやそっとでは動かず、壊れない建物と考えるべきなのでしょう。