2009年9月22日火曜日

オルフェウスへのソネット1部のソネット2番の第1連

1章 

II

前回のところから。今日少しひっかかって、どうも前回言い残したことがあるらしいと気がついた。それは、

ein Unterschlupf aus dunkelstem Verlangen
mit einem Zugang, dessen Pfosten beben, —
da schufst du ihnen Tempel im Gehör.

という最後の連の、

暗い欲求から生まれた、隠れ場所、避難場所があったのであり、

というところです。

Unterschlupf、隠れ場所、避難場所という言葉のドイツ語は、何かの下をするりとうまく潜り抜けて得た場所という意味なので、何か災厄が来たり、困難に見舞われたりしたときに、するりとその下を潜り抜けて(これがUnterschlupf、ドイツ語の音の通りです)、隠れ家に至るというわけですが、これは、動物たちがやむにやまれず見つけた場所ということなのでしょう。

それが、aus dunkelstem Verlangen、一番暗い欲求から生まれたとあるのはどういうわけかというのが、わたしのひっかかっている疑問です。何もすることができないで、ただ聞いているだけであるから、その受身の状態が招来するのが、最も暗い欲求ということなのか。攻撃することを知らないわけであるから。だから、このソネット1番の動物たちは、普通の動物たちではないということになる。それが、沈黙から生まれてきた、沈黙から出てきた動物たちという言葉の意味なのでしょう。それゆえ、その棲む森は、klar、クラール、清澄で、澄んでいて、解放されている森(der geloeste Wald)ということなのでしょう。禁忌のない森。禁止の命令から解放されている森。そのように理解することにいたしましょう。

(なんだか、こうしてドイツ語のテキスト、あるいは英語のテキストでもよいのであるが、このようにテキストを読んで、解釈して、それをこのように書いているときが一番楽しく、幸せである。このような時間に、詩が生まれるとよいなと思う。最近であった詩で、倉田さんのブログに引用されていた西脇順三郎の詩が素晴らしかった。このような詩を書きたいものだ。この括弧の中の別世界にて、引用を赦されよ。

灯 台 へ 行 く 道
              
                   西 脇 順 三 郎

     まだ夏が終わらない 灯台へ行く道
     岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
     いろいろの人間や小鳥の国を考えたり
     「海の老人」が人の肩車にのって
     木の実の酒を飲んでいる話や
     キリストの伝記を書いたルナンという学者が
     少年の時みた「麻たたき」の話など
     いろいろな人間がいったことを
     考えながら歩いた

                                         )

さて、ソネット2番の話に入ることにしよう。

これも、わからないところだらけで

ある。

まづは、第1連をそのまま引用して

考えてみる。

UND fast ein Mädchen wars und ging hervor
aus diesem einigen Glück von Sang und Leier
und glänzte klar durch ihre Frühlingsschleier
und machte sich ein Bett in meinem Ohr.

最初のUND、ウント、英語でいうANDの意味はいかなるものであろうか。その次に、fast ein Mädchen wars、ほとんど娘である娘がいた、とは、これは何をいっているのだろうか。

最初のそうしてとは、昔々あるところにお爺さんとお婆さんがいましたというときの、once upon a timeであろうか。ほとんど強引に、リルケのこの詩の語り手は、Undといってから、突然、今度は、前のソネットとは脈絡なく(ここまで時系列で読んでくるとそう思われるが)、この、ある娘を登場させる。この娘もしかし、ある娘ではあるが、しかしほとんど娘である、ある娘なのである。これは一体いかならむというのがわたしの問いである。

上の原詩の引用の3行目に、ihre Frühlingsschleier、彼女の春のヴェールとあるので、この女性によって春を暗示してもいることから、この女性は、子供から少女へ、乙女といってよい年齢の女性をいっていると思われる。性未分化の子供から、女性という性へと分化した人間の、ある年齢の女性ということではないだろうか。この彼女の春のヴェールを通じて、この娘は光かがやいているのであるが、その輝きようは、klar、クラール、清澄だといっている。これは、動物たちの棲む森と同じ形容であるから、この娘は、どこか、なにかしら、森の動物たちのように、沈黙、静けさ、静寂に関係しているのではないかと考えることができるし、実際に、そうである。とりあえず、まづこの第1連を散文訳すると、

そうして、ほとんど娘といっていいある娘がいたのであり、そして、歌と七弦琴のこのいくばくかの幸せかの中から外へと出てきたのであるが、この娘は、その春のヴェールを通して清らかに光かがやいており、わたしの耳の中で、自分の寝床をしつらえたのである。

ということになるだろう。

リルケというひとは、わたしの悲歌の論の中でも論じたように、言葉を空間と考えているので、いやもっと正確にいうと、言葉の意味するところをひとつの空間と考えているので、耳の中でも、何事でも起こるといった塩梅なのだ。ここでは、多分美しいと思しき女性が、自分のための寝床をこしらえて、寝てしまうのだ。わたしも、こういう語り手になりたい。

ところで、このうらやましい語り手とは、いかなる者であろうか。リルケではなく、オルフェウスではない。リルケの詩の中に登場する、リルケがこのソネットを歌い始めるやすぐ間髪を入れず登場する語り手である。これに名前をつけることがむつかしい。しかし、どの民族のどの言語であっても、この語り手が同じように登場するのは、何故であろうか。

これは、よくよく考えるべきことであると、わたしは思う。

さて、今日は、少しあれこれと書きすぎたようである。このソネット2番の残りは、また明日といたそう。

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