2015年7月29日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く3:詩文と散文の関係


三島由紀夫の十代の詩を読み解く3:詩文と散文の関係

先ほど『文化防衛論』を読みました。1968年、昭和43年。三島由紀夫43歳のときの論考です。

巻末の解説を書いている西尾幹二さんは、「国民文化の再帰性と全体性と主体性」が論じられるくだりから、にわかに読みにくくなり、と書いていて、悪文であって学生の作文のようだと酷評ですが、わたしには、この、文化の再帰性、全体性、主体性が論じられることによって、三島由紀夫の文化防衛論がとてもよくわかりました。

この再帰性という概念は、安部公房も共有しています。三島由紀夫は肯定的に国家と文化との関係で主張し、他方、安部公房は否定的に個人と文化との関係で主張するのですが。これはまた後日触れることがあるでしょう。

また、西尾さんのこの発言の前に、この著名な論者は、伊勢神宮の遷宮のオリジナルとコピーの関係を論じた三島由紀夫の文化の再帰性に関するこの発想をさして、オリジナルとコピーという発想は別にめづらしい見方ではないと断じていますが、この同じ論法といますか発想を、この方のお訳しになったショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』の序文として書かれたショーペンハウアー論の中にもみて、当時二十歳のわたしはおかしいなと思ったことがあり、ずっとこころに引っかかっているのでしたが、今三島由紀夫の『文化防衛論』の解説で同じ言葉をみて、この発想は、この西尾さんという方の何か理解できな論理が、この再帰性という概念ではないかと思いました。そうであれば、『意志と表象としての世界』の序文の論文の、当時からもう既に40余年も記憶に残り続けているその一行二行も納得です。

西尾幹二さんのその言はんとする論理は、このような本物と偽物という関係は、いつもほかにもよく言われていて、特別な発想ではではないという言い方ですから、何かそこにはこの方の心理的な複雑があるように思います。どんなに特殊特別でなくても同じ言葉同じ語彙であっても、その人間がその語彙その言葉に持たせる意味は全く独特のものがある筈であるからです。

ショーペンハウアーの説であれば、まさしく三島由紀夫が『文化防衛論』にいう再帰性をこのドイツの哲学者がいうところで、同じ発言、同じ感想を書いているのです。即ち、この再帰性からいかに自己否定をして、そしてそれが矛盾しないかという論理、この論理を西尾幹二さんは理解できないのです。ということが、この三島由紀夫のエッセイの巻末の解説を読んで、40余年ぶりに理解することができました。勿論、言うまでもなく、この方の『意志と表象としての世界』の序文として書かれたショーペンハウアー論は素晴らしいものです。

さて、『文化防衛論』ですが、この天皇像を論じる論理は正しく、そしてその論理はそのまま三島由紀夫の論理であれば、全く天皇という存在(歴代のダーザイン(Dasein)としての歴史的な現在の連続の時間の中の天皇も含み、天照大神に連綿と連らなる天皇なるザイン(Sein))と一体になった、「断絃の時」の無い、古代からの文化的連続の中に存在し(これが全体性ということ、立体的な形式、formのこと)、今此処に生きる(これが主体性という)ことを体現した三島由紀夫の姿です。

この『文化防衛論』は、まだまだ論ずべきことがたくさんありますが、それは後日を期し、掲題に戻って先を急ぎます。

さて、また、この『文化防衛論』は、『裸体と衣装』という 日記体のエッセイ集(新潮文庫)に収められていて、後者の11月25日(火)の記述を読みましたところ(P112~P113)、何故このエッセイの題名があるのか、何故そのような命名にしたのかという理由が自分の言葉で書いてありましたので、この33歳、1958年、既に古典主義の時代に入っていた三島由紀夫の詩と散文(小説)に対する考えがよくわかりました。ここのところは一読に値します。

何故ならば、ここは、三島由紀夫が詩と小説の関係を述べているところだからです。もっと正確にいうと、詩の言葉と小説の言葉の違いを、更にもっといいますと、先だってこの連載の第1回目の詩論に書いた通りに、『花ざかりの森』と『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」のこの二つの小説の、前者から後者への(戦時中の少年であった三島由紀夫が自分の命を救済するために展開した)論理の極端な飛躍の理由と消息が明瞭に書かれているからです(P112)。一度お読みください。

この箇所を読みますと、古典主義の時代の三島由紀夫が20歳までの抒情詩人としての自分を何故贋の詩人と呼んだのかがよくわかります。

これは、ひとつは、小説家としてそのような抒情的な人間である自分、即ち裸形裸体の自分を否定(というよりは、肯定するために否定)したということがわかり、やはりこの贋という形容詞を冠して、そのような裸形の自分自身を護ったということなのです。他方、しかし、小説家とは、その精神が抽象概念という衣装をまとって言葉に直すものである。

これが、この『裸体と衣装』と題したエッセイとエッセイ集の、裸体と衣装の意味なのです。

何故『絹と明察』に岡野という登場人物が出てきて、ハイデッガーやヘルダーリンを論理的に、散文的に表現されてゐて論じるのか、それはやはり、精神が抽象概念という衣装をまとった登場人物の姿、即ち作家の分身の一人なのです。

さて、贋の詩人と自分の十代の抒情詩人を呼んだ三島由紀夫が、更に後年、詩は認識であると知ったと書いたのは何歳の時でありませうか。この時には、当然のことながら、三島由紀夫は二十代の抒情詩人を贋の詩人とは呼ばず、そうではないその後の小説家、散文家としての自分を本物の詩人と、文字にはそう書いてはありませんが、行間にあって、呼んだのだということが、こうして考えて来るとよく解ります。即ち、

「今の私は、二十六歳の私があれほど熱情を持った古典主義などという理念を、もう心の底から信じてはいない。
 自分の感受性をすりへらして揚棄した、などというと威勢がいいが、それはただ、干からびたのだと思っている。そして早くも、若さとか青春とかいうものはばかばかしいものだ、と考えだしている。それなら「老い」がたのしみか、これもいただけない。
 そこで生まれてくるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。これこそ私にとって真になまなましく、真にエロティックな唯一の観念かもしれない。その意味で、私は生来、どうしても根治しがたいところの、ロマンチックの病いを病んでいるのかもしれない。二十六歳の私、古典主義者の私、もっとも生の近くにいると感じた私、あれはひょっとするとニセモノだったかもしれない。
 してみると、こうして縷々書いてきた私の「遍歴時代」なるものも、いいささか眉唾物めいて来るのである。」(『私の遍歴時代』の最後の文章。新潮文庫、196〜197ページ)傍線筆者。

これは、晩年の時代、現存在へのハイムケール(帰郷)の時代から、その前の古典主義の時代をみて、小説家としての自分のあり方を贋物だという三島由紀夫の言葉です。

やはり、この最後の時代では、最初の幼年期と抒情詩人の時代をロマンチックの時代と呼び、あまつさへ病いとまで隠喩を使って呼んでいる。隠喩をつかうということは、三島由紀夫にとっては決定的なことであることを意味しています。三島由紀夫は、核心を、ここは若い時代の安部公房と全く同じですが、詩人でありますから、非常にpoeticになって、隠喩をつかう以外にはなく、論理では表現することが否応なく出来ないのです。

この「自分の感受性をすりへらして揚棄した、などというと威勢がいいが、それはただ、干からびた」のだと言っている古典主義の時代を、ダーザインへの回帰の時代、即ち晩年の1969年、昭和44年、44歳のときに、『日本文学小史』では、大伴家持が「「防人の情(こころ)と為(な)りて思を陳(の)べて作る歌一首」、いわば優雅な宮廷の抒情詩人がフィクションとして作った一首を、対照の面白さのためにあげておこう。」と言って、家持の長歌と反歌を引用した後で、次のように言っています。

「 家持のこの歌を手前に置いて、彼方に防人の歌を置くと、濾過された文学的言語というものが、切実な感情をいかに模し、それをいかに別なものに変えるかという典型的な実例が透かし見られる。実はここに、のちの古今集の発想の源があり、歌からは「切実な感情」の粗野が避けられて、むしろ歌は、切実な感情を表現するには自ら切実な感情を味わってはならない、という古典主義のテーゼへ導かれてゆくのである。」(『小説家の休暇』所収『日本文学小史』新潮文庫、254〜255ページ)太文字原文は傍点。傍線は筆者。

このことは、この通りのことを、古典主義の時代、ゾルレンの時代に、三島由紀夫はトーマス・マンから教わったということを言っているのであり、しかし、自分は日本人であって、やはりドイツ人ではなく、その酷薄な論理と認識には、とても堪えられないと言っているのです。マンの『トニオ・クレーガー』のご一読をお勧めします。三島由紀夫の世界とそつくりで、驚くことでしょう。しかし、その世界は、三島由紀夫の区分でいう古典主義の時代の三島由紀夫なのです。

この家持を引いて日本文学史を古代の記紀万葉から論じる三島由紀夫は、専ら日本文学史を論じる関心の中心は、詩文の日本文学史であって、散文の日本文学史ではないと言っているのです。

それほどに、晩年の三島由紀夫は、十代の抒情詩人に戻りたかったし、戻ろうと考え、そうして死という言葉に、16歳で書いた『花ざかりの森』の最後では一重の鍵括弧を付して「死」と書く以外にはない未経験の死であったものを、この年齢の晩年には既にその死は鍵括弧を取り払われて十分に自己の肉体に親しく、実際の死として書くことができるほどに、それを病とまで隠喩を使っていうほどになっているのです。

こうしてみますと、20歳までの抒情詩人の自分を贋の詩人と呼んだ時期の三島由紀夫は、間違いなく古典主義の時代の三島由紀夫に違いありません。

そうして、ダーザインの時代の三島由紀夫は、過去であるゾルレンの時代の小説家たる自分を振り返って、それを今度は贋の小説家だというのです。

これが、三島由紀夫の贋という言葉の使い方です。

対して、安部公房は、その人間なり有機物なり無機物が存在になったときに、即ちリルケの純粋空間と同じ時間の無い空間(差異)の中の上位接続に至ったものになったときに、そのものを贋という形容詞を冠して呼ぶことは、わたしが安部公房論の諸処に書いた通りです。

安部公房は、空間的に、存在論的に、そのように贋という言葉を用いるのに対して、このように三島由紀夫は、時間的に、今いる場所(ダーザイン)から過去を追想して、振り返ってみたときに、今いる場所(ダーザイン)にある自分の意識と異なる過去の時期の自分のあり方を贋と呼ぶのです。

そのように起伏に富んだ三島由紀夫の心底に流れて止まない川(バッハ)又は河(シュトローム)である20歳までの抒情詩人としての三島由紀夫の詩を論ずることは、こうして考えてみますと、自然に、古典主義の時代も含み、小説や戯曲という散文領域の作品に通じており、それらの作品を論ずるときに、三島由紀夫の詩群は、その重要なる根拠になることを、読者に示しております。


(続く)




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