2015年8月15日土曜日

Wenn einer fortgeht(もし立ち去るならば):第31週 by Ingeborg Bachmann(1926~1973 )


Wenn einer fortgeht(もし立ち去るならば):第31週 by Ingeborg Bachmann(1926~1973 )    



【原文】

Wenn einer fortgeht, muß er den Hut
mit den Muscheln, die er sommerüber
gesammelt hat, ins Meer werfen
und fahren mit wehendem Haar,
er muß den Tisch, den er seiner Liebe
deckte, ins Meer stürzen,
er muß den Rest des Weins,
der im Glas bliebe, ist Meer schütten,
er muß den Fischen sein Brot geben
und einen Tropfen Blut ins Meer mischen,
er muß sein Messer gut in die Wellen treiben
und seinen Schuh versenken,
Herz, Anker und Kreuz,
und fahren mit wehendem Haar!
Dann wird er wiederkommen.
Wann?
      Frag nicht.



【散文訳】


もし誰かが立ち去るならば、帽子を
夏中かけて集めた貝殻と一緒に、海の中に投げなければならない
そして、風になびく髪をして、車で行くのだ
愛する女性のために用意をした食卓を
海の中に突き落とさなければならない
グラスに残つた葡萄酒の残りを
海に振り撒かなければならない
魚たちに、自分のパンを与へなければならない
そして、一滴の血を、海の中に混ぜなければならない
自分の持つてゐるナイフを、きちんと波々の中に追ひやつて
そして、自分の靴を沈めなければならない
心臓(こころ)、錨(希望の象徴)と十字架
そして、風になびく髪をして、車で行くのだ!
すると、もう一度戻って来ることになる。
いつ?
  尋ねるのは野暮な話だ。




【解釈と鑑賞】


この詩人は、1926年生まれのオーストリアの詩人です。


20世紀のドイツ語圏の最も重要な抒情詩人であり、散文家であるとあります。

1977年より、この詩人を祈念して、インゲボルク・バッハマン賞が創設されてゐます。


もし誰かが立ち去るならば、といふ最初の条件文に対する主文が、~ねばならないといふ文として、幾つも詠まれてゐます。そのやうな形式の詩となつてゐる。

主文の行為は、みな出発するために捨てたり、誰か(魚)に施したりするといふ与へるだけの無償の行為です。

これらの行為は、みな、「心臓(こころ)、錨(希望の象徴)と十字架」を以つて、これらのために行はれ、「風になびく髪をして、車で」出発するのは、そのためであるのです。或いは、立ち去るといふことが、これら3つを必要とするといふこと。

最後の3行、

すると、もう一度戻って来ることになる。
いつ?
  尋ねるのは野暮な話だ。

といふ此の3行に、話者の、旅に出て生きることの確信があるのです。

必ず戻つて来るといふこと。いつといふ未来の時間は確約できないといふこと。それを尋ねることは野暮だといふこと。

これが、立ち去るといふ意味である、と。

してみると、海に捨てたすべての物たちが、帰つて来た時には、再びいつか蘇るかの如くに思はれる。いつとは確約はできないが。


2015年8月13日木曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く7:個体発生は系統発生を繰り返す


三島由紀夫の十代の詩を読み解く7:個体発生は系統発生を繰り返す


三島由紀夫の十代の詩を読み解き、その詩から小説と戯曲への発展生成といふことを思ふと、これが、日本の藝道の歴史を体現してゐるやうに思はれる。何故なら、日本の藝事は、いつもその全体の中の一部が分かれて、独立して出来てきたやうに見えるからです。

この考察の結果からみますと、次のやうに三島由紀夫のジャンル(genre)の創造がなされてゐることが、判ります。

1。詩から、その詩の認識、即ち、繰り返しと其の繰り返しの間に生ずる時差(時間)に美を感じ、叙情を感じたことから、『花ざかりの森』という小説が生まれた。
2。詩『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』という叙事詩から、『花ざかりの森』の論理をすべてひつくり返した『中世の一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』が生まれた。
また、その他の科白を含む複数の詩から、その散文的な会話の在り方から、小説が生まれた。
3。詩『日本的薄暮』から、その歌舞伎的な科白を含む一部が独立して、戯曲が生まれた。

これらのことをもっと簡明に書くと、次のやうになります。

詩=抒情詩→叙事詩→小説
詩=抒情詩→歌舞伎的な科白→戯曲

他方、わたしの狭い知見の範囲ではありますが、日本の藝道を見てみませう。

1。和歌(万葉集)→和歌物語(大和物語、伊勢物語)→源氏物語→物語(小説)
2。連歌→俳諧→俳句
3。仏前に供えるお花→華道
4。薬としての喫茶→茶道

このやうに、日本の藝道は、前の藝術の一部が独立して、一つの新しい藝術のジャンル(genre)が生まれます。

このやうに考へますと、わたしは生物学で教はつた、個体発生は系統発生を繰り返すといふ生物学の法則を思ひます。即ち、生まれる前の赤ん坊が、母なる人の体内で、その個体の上で生物のすべての系統発生を一度くり返して体現するのだといふ法則です。

文学の世界で、三島由紀夫一身の身の上に、この個体発生は系統発生を繰り返すといふ生物学の法則が発現したかのやうに思はれるのです。つまり、三島由紀夫の藝術家としての人生そのものが、日本の文藝の発生の歴史を一身上で繰り返してゐる。それ故に、最晩年の『日本文学小史』(1969年)といふ日本文学史を詩文(和歌)の歴史として、また歌物語の歴史として、自分の言語藝術家の人生のあり方として論じたのではないでせうか。それ故に、最初の章に方法論を置いたのではないでせうか。

この、今私が述べて文字にしてゐる考へそのものは、三島由紀夫は自分では文字にはしてゐないものと思はれますが、対して、安部公房は初期の名作『名もなき夜のために』(1948年)で、三島由紀夫の此の同じ一身上に起る経験を我が事として、次のやうに書いてをります(安部公房全集第1巻、553ページ)。勿論、三島由紀夫の場合と同じ、これは詩人の話です。

「(略)気をつけて見れば、どんな傷からでも、生と死を含めた全存在の傷が成長するのに気づくはずだ。これが貧しい僕にはせい一杯の贈物であるらしい。
 そしてもしそれが役立つものだとすれば、負数の時間を歩むことは丁度人間が胎児のあいだに生物の全歴史を繰返すように、すべての人に繰返される物への復帰の道だと考えてみたらどうだろう。死は生の終わったところにあるのでなく、その二つは常に等量に保たれていてそのあいだの振幅が現世であるように、正数の時間は等量の負数によって僕らを絶えず脱皮させるのではないかと……。この負数の道が、物への没落が、単に傷つき破れた少数のものだけの道ではなく、実に人間そのものが大きな傷であり、その道だと考えるのはもう傷ついたものの自己弁護になってしまうであろうか。僕は知りたい。ものに落ちてゆき、あるいは高まった人びとの叫びが、もう現世にはどどまり得ぬ儚いものにすぎなかったか、ほんとうに現世にとどまることがなかったか?そして反省や疑いや批判や、または嘲りや自虐がもうついて来られぬほど深い物の世界を予感し、無名になった部分だけであえてその中へ落ち沈み、融け去り、いままで自己の外部だとおもっていたものが、突如自分自身であることを主張しはじめるのに驚いた人の、例えば詩人たちの声が、ほんとうに傷ついた人びとの心を覆ってやる力を持たなかったかどうか、知ってみたい。」(傍線筆者)

この連載の第5回で、わたしは、

「これは何か、三島由紀夫の或る種の跛行を思わせる。即ち、小説の淵源に小説を持たずに、やはり詩を持つてゐるといふことから、このやうに考えてくると、その事情はそのまま、安部公房の小説群に通じるものを考えずにはいられない。この二人の大才が、先の戦争の後の時空間に生きて此の跛行を共に強ひられた」

といふことは何故だらうかといふことについて言及してをります。

これは丁度、この二人の若者が、三島由紀夫は20歳で、安部公房は21歳で大日本帝國の敗戦を迎えたといふこと、この事実が大変な事実であつたこと、この事実に堪えることが非常な困難を此の二人の大才に強ひたといふことを意味してゐると、わたしには思はれます。

この敗戦の時期は、丁度ふたりがそれぞれに、詩人から小説家に変貌しようといふ時期に当たつてをります。

その時に、小説から出発せずに、詩人として詩文から出発しなければならなかつたこと、そして詩では現実に対処して、それを美しい言語表現に隠喩(metaphor)を使つて表すことができなかつたといふこと、これがこのふたりの苦難であり、跛行の原因であつたのではないでせうか。勿論、ふたりがさうならば、その他の詩人たちも同様であつた筈です。

この苦しみのときに当たつて、私事を安易に語ることは、安易な人間には容易なことです。

ここに、非常に逆説的に、戦後の詩人たちが戦前との歴史を断ち切つて、私によつて書く私詩を「戦後詩」と呼びました。勿論、すべての詩人たちが安易な詩を書いたとは思ひません。しかし、他方これに反して、徹頭徹尾、ふたりの詩は全くそれを全面的に徹底的に否定する詩であり詩観であつたといふことが、非常に象徴的な戦後の文学の在り方を示してゐます。安部公房がリルケならば、三島由紀夫はヘルダーリンなのですから、それは当然のことといへませう。[註1]

そして、しかし、安部公房の小説は、めづらしくはないことに、往々に小説の中に詩が挿入されて、また写真といふ(安部公房にとつては)詩相当のものが挿入されることによつて、安部公房は日本の歴史と伝統に則つた歌物語(小説)を書き、三島由紀夫は、叙事詩としての小説を、抒情詩としての戯曲を、それぞれ散文の形式を借りて、書いたといふことになります。

「戦後詩」という私詩の詩人たちが詩を書き、他方、戦前に其の独自の詩の世界に閉ぢ籠つて決して私事を歌わなかつたふたりの詩人が、戦後に徹底的に私小説を否定した(今度は)虚構に満ちた小説を書き続けたといふこと、この事実は、日本の敗戦後の日本人の生活意識の、即ち常識の歪みと捻れを表してゐるのではないでせうか。この健康である筈の常識の歪みと捻れは、21世紀の今の世相にまで及んでゐるでありませう。

それ故に、ともに孤立を選び、常に反時代的であり続けたふたりであつたのです。

これが、言語と詩の世界から眺めた、ふたりの戦前戦後の、戦争を境にした二人の姿であり、ふたりに共通する人生の姿であるといふことになります。[註2]


[註1]
1958年10月1日の柾木恭介との対談「詩人には義務教育が必要である」(全集8巻、178ページ)では、安部公房は戦後の詩を読んでゐて、「詩というジャンルはすでに死滅したジャンルだね」と厳しく断言してゐます。それは、リルケの詩とは全く反対に、戦後詩の詩人たちは、形象(イメージ)を私のものだと考へ違いをして詩を書いたからです。リルケにならった安部公房にとつて、言葉によつて生まれる形象(イメージ)は私のものなどでは決してなく、それは生命そのものであり、それを表すのが(実体の無い)関数としての言葉でありました。

[註2]
安部公房は、三島由紀夫とは「言葉による存在」という考えを共有してをりました。これは、1973年に立ち上げた安部公房スタジオ創設時に、三島由紀夫を思ひ出しての前者の演劇論、演技論についての言葉でありますが、当然のことながら、小説もまた言語藝術である以上、同じ考えをふたりは共有してゐたのです。以下、拙論『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、三島由紀夫の世界の読者の理解に供します。

「安部公房は、演劇論について、三島由紀夫と交わした議論を次のように話しています(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)。

「俳優が、言葉による存在(原文傍点)でなければならないのは、戯曲以前の問題なのである。と言っても、べつに驚く者はいないだろう。大半の俳優たちが、戯曲がなくても俳優は俳優だと信じ込んでいる。たしかに、言葉によって存在する(原文傍点)という条件さえ問わなければ、彼らもまた俳優にちがいない。この楽天主義が、ぼくを絶望させてしまうのだ。

 この問題を考えるたびに、しばしば三島由紀夫とかわした演劇論(というほど改まったものではないが)を思い出す。多くの面で、対立することの方が多かったが、言葉を喪った俳優に対する絶望という点では、いつも奇妙なくらい意見の一致をみたものだ。彼は、俳優の舌足らずを戯曲で補おうとして、ますますその結果に絶望し、ぼくは俳優の言語障害をパロディとして利用しようと試み、やはり絶望した。ぼくらはその絶望を酒の肴にして、大いにたのしみ、そのうち彼は演劇そのものに絶望してしまったようだが、ぼくは生きのびて、演劇のグループ結成という自己矛盾にまで足を突っ込んでしまう結果になった。彼が生きていたら、さぞかしあの高笑いを聞かせてくれたことだろう。」

これは俳優に求めた考えではありますが、しかし「言葉による存在」であること、そして「言葉によって存在する」こと、特に後者は戯曲と舞台の、前者は戯曲と舞台のみならず、そのまま小説についての、この二人の言語藝術家の共有する言葉と存在に関する考えであり、接点でありました。小説とは「言葉による存在」を創造すること、戯曲(drama、劇)と舞台は、役者が舞台の上で「言葉によって存在する」こと、そしてシナリオの執筆は、この二つの小説と戯曲について存在を媒介(函数)にして、この二つの領域を接続することだったのです。このことの、この時期の安部公房にとっての意義については、[註6]の安部公房の座談会での発言と[註17]の安部公房の書棚の写真をご覧ください。」


さうして、安部公房は、終生、上の引用に書いた胎内から出ることなく(但し、日本共産党員であつた時代の最初の5年間が言語藝術家としての命の危機でした)、(当然私事である筈の全くない)存在(ザイン)の希求と存在への永劫回帰を、空間的に、また存在論的に、生涯繰り返したのに対して、三島由紀夫は、太陽と鉄の時代(古典主義の時代)に、小説家になると共に、その胎内から外に出て、従い時間的に、(小説『仮面の告白』の最初の一行にある)生まれる前の記憶の美と叙情と其れらの永遠の蘇生と新生を、現実の時間の中にゐる私の現在(ダーザイン)から過去を追想する時差の中に求め、それを(私事ではなく)虚構として繰り返へし表したといふことになります。[註3]

[註3]
胎内にとどまり続けることを、十代の安部公房は「未分化の実存」と呼び、さうして一生涯、このことを考えました。そのやうな私は、存在の中に存在するのです。生きた人間として存在に存在するといふ再帰的な人間のあり方としてあること、これが未分化の実存の人間の生き方です。他方、三島由紀夫は、詩人としては、既に学習院初等科に入学したときに、上の段落に書いた通りの、さうして後年20歳を超えて『仮面の告白』の冒頭の一行に書いた通りの人間であつたわけですから、これを何といふ言葉で、三島由紀夫は呼んだものか。

その人生の最後に『文化防衛論』を著し、「国民文化三特質」の第一番として、三島由紀夫は再帰性を挙げてゐることは、上に述べたことに深く関係してをります。再帰性(形(フォルム))、全体性(本物複製の無分別)、主体性(文化の生命の連続性)。これを、国民に対してではなく、三島由紀夫自身の文学に対して適用すれば、安部公房が「未分化の実存」と呼んだことを、日本の文化の此の三つの特質として三島由紀夫は挙げてゐるばかりではなく、自分自身の文学の特質として、さう呼んでゐるといふことになります。

この最初に挙げられてゐる再帰性こそは、この連載の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の人生の見取り図2』の「1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材」で述べましたやうに、

「三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴は、6歳のときに書いた最初の『ウンドウクアイ』(決定版三島由紀夫全集第37巻。以下「決定版第37巻」と略称す。同巻17ページ)に既にあるやうな、言葉、即ち音声と文字の繰り返しによる様式化です。

言葉の繰り返しと、そこに現れる時間の差、即ち時差に美を感じ叙情を感じてゐるのです。」

と書いた、この繰り返しの様式化が、三島由紀夫にとつての再帰性、即ち形であり、フォルムであるのです。いつも此の追憶の時差から生まれる、源泉の感情から湧き出る言葉によつて構成される様式に再帰するのです。

さうして、それがそのまま、全体性(本物複製の無分別)、主体性(文化の生命の連続性)に通じてゐるのです。


このことが、それぞれの人生に於いて、それぞれの一身上で、詩人としての個体発生が藝術の複数のジャンルの系統発生を繰り返したことの、二人の大才に苦痛に満ちた負荷を掛けた原因であり、また同時に結果であり、しかし、その負荷に絶えぬいて全うした二人の人生であつたのだといふことになります。




2015年8月12日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)


三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)



          目次

1。三島由紀夫の戯曲の世界の誕生
2。三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)


              *******


1。三島由紀夫の戯曲の世界の誕生
       

今決定版第37巻の『公威詩集 II』の『朝の歌』(446ページ)まで読み進めたところです。

ここまでの間に、詩から戯曲が生まれた事情を十分に伺はせる詩が5篇あります。以下名前を列挙しますと、

(1)『三 ナイルの辺り』(『聖室からの詠唱』270~271ページ):13歳
(2)『広い庭にすんだ蟋蟀と狭い草間にすんだこほろぎ』(『公威詩集 I』306~309ページ):13歳
(3)『訃音』(『Bad Poems』377~378ページ):14歳
(4)『日本的薄暮』(『Bad Poems』387~388ページ):14歳
(5)『二つの情景』(『公威詩集 II』426~427ページ):14歳

といふ、このやうな詩が、科白を含んでゐて、後年三島由紀夫が「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」と『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)の自筆のあとがきでいつてゐる通りの源になつてゐます。

三島由紀夫は、率直に自分の文学について語つてゐるのです。

これらの詩のうちで、一番三島由紀夫の感情の発露の自然で、さういふ意味では生き生きとしてゐるのが、(4)の『日本的薄暮』の最後の連の3行です。他の詩の科白は、散文の、さういふ意味では小説の会話の科白といつても差し支えない科白の調子になつてをります。以下、『日本的薄暮』の最後の連の3行を。:


「ああいやだ」「しんどおます」
あきあきするとも所詮ぬけられぬ
この潔癖な舞台の夕暮。


この科白の口調と、最後の行に舞台といふ言葉のあることから、この舞台とは、歌舞伎の舞台なのでせう。三島由紀夫が歌舞伎の舞台を舞台といふ言葉に思ひ、さうして「 」に入れる科白が歌舞伎調の科白であること、これが一番戯曲らしい科白の感じを備えてゐるといふことは、やはり注目に値します。

このやうに考えますと、これ以外の連も最初から此の連までもが、やはり一種の韻律を備えてゐて、やはり歌舞伎の舞台の調子に言葉が載つてゐることが判ります。

これが、このまま1956年(昭和31年)に上梓した『近代能楽集』に続ゐていることは、その通りだと思はれます。

前回の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2』にて、三島由紀夫が抒情詩人から叙事詩を書いた画期的な詩が13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩だといひました(決定版第37巻、206ページ)。

さうしてみますと、

(1)12歳で詩人としての本格的な自覚が生じて、その自覚のもとに『HEKIGA』といふ詩集を編み、しかし他方同時に、
(2)13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩の後と、その翌年からは、その意識は既に戯曲と小説の科白に向ひ、
(3)15歳で『少年期をわる』と題した詩を歌つて、「なじまぬ思ひ出にしたしみ、/ぼくらの歌はすがれた。/にせものの悲嘆のかなたに/愛の林はまだうつくしく茂つてゐる。」(昭和15年10月18日)と、現在からそれまでの過去を追想、追憶して、それまでの自分の歌った叙情を「にせものの悲嘆」と呼び、一旦それまでの過去を割り切つてから更に、
(4)この15歳の『少年期をわる』といふ詩の後から、それ以前には詩の中の一部としてあつた戯曲と小説の科白の感覚が全体を備えたものとして、表に出てきて表はされ、
(5)20歳までの間は、詩文散文並存の時期が続き、その後も、
(6)20歳以降の小説と戯曲は、そのまま小説(散文)と戯曲(詩文)といふ併存が、生涯の最後の『豊饒の海』(小説、散文)と『癩王のテラス』(戯曲、詩文)まで続いた

といふことになります。


2。三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)

このやうに三島由紀夫が詩の中に戯曲(詩文:歌舞伎の科白)と小説(散文の会話)の科白を取り入れたことを考慮に入れて、連載の第5回目で行つた三島由紀夫の時代区分を元に、其の時代区分を、2.1(2)のところで、一層作り込みますと、次のやうになります。

1. 1925年~1930年:0歳~5歳:幼年時代:6年間

2. 1931年~1949年:6歳~24歳:遍歴時代:19年間
2.1 1931年~1945年:6歳~20歳: 抒情詩人の時代(ザインの時代:夜と月の時代):15年間

(1)1931年~1937年:6歳~12歳:   少年期1:7年
   ①1937年:12歳:『HEKIGA』:詩人になると自覚して書いた最初の詩集   ②1938年:13歳:『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ日付の入った日記体の叙事詩(『木葉角鴟』206~214ページ)
(2) 1938年~1940年:13歳~15歳:少年期2:3年
   ① 1939年:14歳:『日本的薄暮』(『Bad Poems』387~388ページ) といふ戯曲的科白のある典型的な詩
   ② 1940年:15歳:『少年期をわる』といふ詩(『公威詩集 III』630~631ページ)[註3]
(3) 1941年~1945年:16歳~20歳:詩文散文併存期:5年
   ①1941年:16歳:『花ざかり森』(「リルケ風な小説」)
   ②1943年:18歳:『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(「短い散文詩風の」小説)

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間

といふ叙情詩と叙事詩、詩文と散文、戯曲と小説の関係の成り行きといふことになります。

[註3]
この時期に、『安部公房伝』(安部ねり著。164ページ)に、安部公房が三島由紀夫の幼少年時の苦しみについて語つたといふ「三島由紀夫の死なざるを得ないような幼少期のつらい体験」が三島由紀夫の身に起きたのかと思はれる。



上記の「三島由紀夫の人生の見取り図」を次のやうな図(pdf)にして表しました。ダウンロードは、次のURLへ:





このやうに考えますと、三島由紀夫の詩と戯曲を比較して論じることは、何ら特殊なことではなく、三島由紀夫の文学にとつて、むしろ大切な、重要な、本質的な(essential)ことだといふことになります。

(次回以降のどこかで、適切な契機があれば、十代の三島由紀夫の詩群に現れる様々な形象と共に、できるだけ早い時期に、三島由紀夫のが6歳で書いた最初の詩『ウンドウクアイ』と44歳の戯曲『癩王のテラス』を同列に論じ、また詩集としての『近代能楽集』を論じることに致します。)

次回は、三島由紀夫の使った記号の意味するものと題して、十代の三島由紀夫が詩の中で頻繁に使用してゐる次の記号を論じます。

特に1、2、6、7の記号の使い方は、最晩年にまで及ぶ小説と戯曲とエッセイの中でも、重要な意味を持ってをります。


1。「………」(点線)
2。「―――」(実線)
3。「”  ”」(引用符)
4。「( )」(丸括弧)
5。「「 」」(一重鉤括弧)
6。「《 》」(二重山括弧)
7。「『 』」(二重鉤括弧)


(続く)


2015年8月9日日曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)


三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2


       目次

1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材
2。ヘルダーリンとリルケ
3。三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生
4。三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)


              *******


1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材

三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴は、6歳のときに書いた最初の『ウンドウクアイ』(決定版三島由紀夫全集第37巻。以下「決定版第37巻」と略称す。同巻17ページ)に既にあるやうな、言葉、即ち音声と文字の繰り返しによる様式化です。

言葉の繰り返しと、そこに現れる時間の差、即ち時差に美を感じ叙情を感じてゐるのです。

これが、三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴であり、特色です。

さうして、この様式化された様式は、強い対比と対照によつてなされてゐますが、その後小学校に入りますと、その様式化された音声と文字の対比の構図の中に、更に次のやうな自然の素材、もつといへば、自然の構成要素が歌はれるやうになるのです。曰く、

海、山、川、空、鳥、森、泉等々。

詩を読むと直に伝わつて参りますが、これらの形象には、三島由紀夫といふ少年の持つ、生命への強烈な憧れと渇仰があります。

自然の中に、鷲、梟等々の鳥が住み、空を飛んでゐる

さうして、春夏秋冬といふ四季の循環があり、その時間の永遠の繰り返しと其の季節の間(差異)の中で、これらのものが歌われてゐる。

さうして、この自然と四季との関係で、その中にあるのが、三島由紀夫の対比的な様式であつて、それは、これらの自然の構成要素の中に、また外に、生と死、昼と夜、光と闇といつた組み合わせを歌つてゐるのですし、更に、これらの生命に関する対比的な言葉(概念)の配置に加えて、その中に、その外に、金、銀、黒、白、青、赤、臙脂色等々のきらびやかな色彩が、更に廃墟の城やその他の事物が、数多く歌われてゐます。

少年三島由紀夫は、このやうに自分の詩の、言葉の世界を創造したのです。


2。ヘルダーリンとリルケ

三島由紀夫の小説の一端に触れ、また十代の詩を読みますと、三島由紀夫にとつて重要な詩人は、やはり上の詩の書き方に通底し、通用するドイツの詩人ヘルダーリンです。勿論、リルケとハイネも、その蔵書目録を見ますと、好んで読んだことが判ります。

このやうに思つてみるに、当時の十代の少年たちの文学の世界の、詩文に惹かれた若者たちの念頭に主だつてあつたのは、特にリルケとヘルダーリンであつたのでせう。

安部公房は、19歳のときのエッセイ『〈僕は今こうやつて〉』で、「例えばヘルデルリーンをマルテと比較する事が出来るであろうか。それは不可能な事に異いない。第一マルテは方法なのだし、ヘルデルリーンは素材なのだ。これを一緒にして考える事等出来るだろうか。」といつてゐます(安部公房全集第1巻、89ページ下段)。

安部公房は、23歳の時に自費出版した『無名詩集』の最後に『詩の運命ーエッセイー』という文章を置いて、ハイデッガーのヘルダーリン論を引いて、詩人とは何かを論じてをりますので、勿論ハイデッガーも十分に理解をした上で、やはり其の数学的な思考の在り方から実に独特にリルケを自家薬籠中のものとなすのです。

この安部公房の嗜好と志向に対して、三島由紀夫は、リルケのやはり様式に美を感じたことは間違いがありませんが(『薔薇のなかに』といふ15歳の詩があります)、それを十代の詩群の持つ素材としての自然の構成要素の歌い方からいつて、やはりヘルダーリンをより好み、自分に親しいものと実感として思つたものと思はれます。

そして、この自然を歌ふといふ線上に、やはりハイネもゐて、その詩は自然を歌つてゐるし、その自然の構成要素は、リルケの詩での概念化した、いつも存在といふ概念との関係で歌はれる歌ひ方とは異なつてゐて、遥かに素朴であり、自然であり、素直であることから、これがやはり本来三島由紀夫の持つてゐる詩人の素質であり、方向なのだと思はれます。

さういふ意味では、三島由紀夫の思考論理(哲学)の世界に並行的に、これらの詩人の対応関係を考えると、

詩:   リルケ ー ヘルダーリン ー ハイネ
思考論理:哲学  ー 哲学と詩(隠喩)ー 詩(隠喩)

といふ対比を思い描くことができます。

そして、同時に、これらの詩人の詩に、三島由紀夫は、その様式(構造)と隠喩(metaphor)に等しく美を感じたのです。

他方、小説との関係では、

『花ざかりの森』ー『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』
 作品『X』    ー トーマス•マンと森鴎外

といふことになるのではないでせうか。


3。三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生

かうしてみると、三島由紀夫の小説の世界は、やはり古典主義時代に意志的に自分のものとしようとしたトーマス・マンや森鴎外から始まるのではなく、自分自身で16歳のときに書いた『花ざかりの森』に発するといふことになります。即ち、15歳で『少年期をわる』といふ詩を書いて、その関心が半ば小説に向かひ、16歳で書いた『花ざかりの森』といふ、詩の世界の延長から生まれた小説が、その源の作品だといふことになり、この作品からその後の小説群が生まれたといふことになります。

(これは何か、三島由紀夫の或る種の跛行を思わせる。即ち、小説の淵源に小説を持たずに、やはり詩を持つてゐるといふことから、このやうに考えてくると、その事情はそのまま、安部公房の小説群に通じるものを考えずにはいられない。この二人の大才が、先の戦争の後の時空間に生きて此の跛行を共に強ひられたといふことについては、稿を改めて論じたいと思ひます。)

安部公房の小説群は、その中に往々にして詩や写真(安部公房にとつては詩作相当の行為であつた)が挿入されてゐることから言つて、これは古代からの歌物語、即ち大和物語や伊勢物語の伝統の上にあると理解することができるのに対して、三島由紀夫の小説群は叙事詩へ、またやはり同様に戯曲群は、最後に引用する三島由紀夫自身の言葉によつて、従い、やはり大和物語や伊勢物語の伝統の上にある歌物語ではないかと考えることができます。

三島由紀夫は、死の前年に『日本文学少史』といふ日本文学史を書いてをります。さうして、これは見かけ上未完に終わつてゐるやうに見えますが、しかし、最後の章で『源氏物語』といふ世界文学史の上でも大いなる歌物語を論じれば、第1章で最初に既に『方法論』を論じたのであれば、三島由紀夫にとつては、日本語と日本人による文学とは何かについて語ることは、もはや十分であつたのではないでせうか。

さて、三島由紀夫の小説が叙事詩だといふことに関する考えは、私の仮の説であり、仮説です。しかし、十代の次の詩が、丁度、叙情詩、叙事詩、そして小説といふ時間の順序で展開してゆく其の中間状態の移行期の姿を示していて、わたしの仮説は、正しいのではないかと思はれます。

この仮説を証明する其の詩は、13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩です(決定版第37巻、206ページ)[註1]

[註1]
桃葉珊瑚(あをき)といふ題の言葉と、この老いの記の内容との関係を稿を改めて明確にすること。この時期、三島由紀夫は桃の詩を幾つも歌つています。桃と桃色の意味を解く事を後日致します。今ここで少しく考察を加えてをけば、次のやうになります。

桃葉珊瑚(あをき)といふ植物は、「葉は厚くつやがある。雌雄異株。春、緑色あるいは褐色の小花をつけ、冬、橙赤(とうせき)色で楕円形の実を結ぶ。庭木とされ、品種も多い。桃葉珊瑚(とうようさんご)。」[『大植物図鑑』>「アオキ Aucuba japonica 桃葉珊瑚(1034)」:https://applelib.wordpress.com/2009/05/09/1034/]

この説明をみますと、三島由紀夫は、この当時楕円形といふ形が好きであつたやうに思はれます。何故ならば、この実は楕円形をしてをり、小説『詩を書く少年』の中で、13歳ではなく15歳といふ年齢設定ではあるものの、主人公の製作する詩集は「ノオトの表紙を楕円形に切り抜いて、第一頁のPoesiesといふ字が見えるやうにしてある」表紙を備えてゐるからです。

しかし、いづれにせよ『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ《EPIC POEM》(叙事詩)を読みますと、その主題は、ある老いた人間の死と、その理由の誰にも知られない無償の自己犠牲によつて起こる生命の蘇生といふ主題ですから、この桃葉珊瑚(あをき)に永遠に繰り返され、冬の季節の後に到来する春に再び此の世に現れる強い生命力をみてゐたことは間違いありません。

さうすると、同様に此の時期歌ふことの多かつた桃についても、その形状と色彩と其の色艶に、同様の魅力を覚えたゐたことが判ります。桃を巡る形象は、夏であり、青空であり、泉であり、川の流れであり、その青色を映す湖であり、青色そのものである海であり、これらの歌われる春と夏の季節であり、また夜であり、月であり、月の光であり、黒船であり、とかうなつて来ると季節の秋もあり、夜に響く谺(こだま)といふ繰り返しの声があり、また桃の果樹園であり、桃林なのです。

『奔馬』で、この物語の最後に主人公が死を求めて、夜の海へと駆ける場所は、桃の果樹園ではなく、蜜柑畑といふ果樹園です。最晩年の三島由紀夫が蜜柑といふ果実と其の果樹園といふ場所、それも夜の海を前にした言はば庭園といひ庭といふことのできるやうな場所に何を表したのか。


これは、その副題といふべき最初の行に「老いの記」と書かれていて、この叙事詩が「老いの記」といふ叙事詩《EPIC POEM》であることが示されてゐる。これは誠に『花ざかりの森』と同じ物語の設定です。

さうして、この日記は、人生の老いといふことから、冬といふ季節を設定して、日記の形式で「十二月X日」「一月X日」「二月X日」といふ冬の季節の月の単位でのみの日付がかかれていて、それが同じ月の中でもみな「X日」として表記されています。

これは、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』にあるやうな、すべての日記が「□月□日」とひとしなみに書かれていて無時間の日記である叙事の小説になつてゐるのと、月の日付が明示されてゐることが異なつています。しかし、叙事詩としての体裁は、18歳の時のこの小説に、この詩は其のまま通つています。[註2]

[註2]
このやうに日付を書いて表す日記体のエッセイ、即ち『小説家の休暇』『裸体と衣装』(共に通じて30歳から44歳までのエッセイ)といふ作品は、三島由紀夫にとつては、この詩の世界からみると、やはり叙事詩そのものではなくとも、叙事といふことから事実を叙して、散文的な詩を書くといふつもりが意識のどこかにあつたのではないかと推測されます。

また、かうしてみますと、『花ざかりの森』の主人公は、現在から過去への追想をしながら、言はば其の記憶の中の無時間に生きる人物であるのに対して、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』では、「□月□日」と書かれる無時間の日々を生きる人物を造形したといふことができるかも知れません。時間と話者の関係を、三島由紀夫は引つくり返して小説を製作した。この転倒が、そのまま殺人者(芸術家)と航海者(行動家)の対比的な両極端の人間の創造になつた。

時間、主人公(複数)、作品の構造化、この三つの関係を、下記で述べる時代区分でいふと、1938年~1940年(13歳~15歳)の少年期2の三島由紀夫は、詩から移つて、小説を書くために考えたといふことになります。


『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の収録されてゐる『花ざかりの森•憂国』(新潮文庫)の自筆のあとがきに、三島由紀夫は此の18歳の作品について、次のやうに書いています。この時、昭和43年、西暦1968年、三島由紀夫43歳。

「この短い散文詩風の作品にあらわれた殺人哲学、殺人者(芸術家)と航海者(行動家)との対比、などの主題には、後年の私の幾多の長編小説の主題の萌芽が、ことごとく含まれてゐると云つても過言ではない。しかもそこには、昭和十八年といふ戦争の只中に生き、傾きかけた大日本帝国の崩壊の予感の中にいた一少年の、暗澹として又きらびやかな精神世界の寓喩がびつしりと書き込まれてゐる。」

この言葉にある通りに、この小説は、その後の小説の範型となつています。十代の詩との関係で、それがどのやうに『豊饒の海』にまで至つてゐるかは、既に此の論の連載の第1回に論じた通りです。

さて、従い、15歳の『少年期をわる』を書いて、少年期の終わりを自覚して、そこから叙情詩のみならず、小説を志した三島由紀夫が、最初に書いた16歳の『花ざかりの森』の「隠遁ともなづけたいやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心」を持つ年齢不詳の主人公の、言はば無時間に棲む人間による(現在から過去への)追想を主題として、(1)詩人としての高みと(2)「生(いのち)がきわまつて独楽の澄むやうな静謐、いわば死に似た静謐」を持つ(やはり無時間の)空間の存在を主張した、この詩的な「リルケ風の」小説と、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』といふ日付を表示した、従い叙事詩である、しかし今度は時間の無い小説は、ふたつながら、このことはそのまま、叙情詩人から20歳までの間並行して二つの領域の作品を書いて、20歳から小説家として身を立てようといふ三島由紀夫の人生の前段の10代の文学の姿を明瞭に示してゐるのです。


4。三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)

ここで、決定版第37巻所収の詩を読んで、6歳から12歳までの文字通りに画期的な詩の名を挙げ、また此の時期の上の二つの小説の名前を挙げてみると、次のやうになります。(一つ一つの詩については、その前後の詩も含めて、稿を改めて論じます。)

→12歳の詩集『HEKIGA』:詩人になると自覚して書いた詩群(叙情詩)の製作
→13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ叙事詩
→15歳の『少年期をはる』といふ詩
(『少年期をはる』以後の小説を目指す一年。以後20歳迄の詩文散文併存期)
→16歳の『花ざかり森』(「リルケ風な小説」)
→18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(「短い散文詩風の」小説)
→20歳以降の小説と戯曲

さうして、連載の第2回目で行つた三島由紀夫の時代区分を元に、更に上の事情を取り入れて、其の時代区分を、もう少し精細にまとめますと、次のやうになります。

1. 1925年~1930年:0歳~5歳:幼年時代:6年間

2. 1931年~1949年:6歳~24歳:遍歴時代:19年間
2.1 1931年~1945年:6歳~20歳:抒情詩人の時代(ザインの時代:夜と月の時代): 15年間
(1)1931年~1937年:6歳~12歳:少年期1:7年
   ①1937年:12歳:『HEKIGA』:詩人になると自覚して書いた詩集の製作
   ②1938年:13歳:『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ叙事詩
(2) 1938年~1940年:13歳~15歳:少年期2:3年
   ①1940年:15歳:『少年期をわる』といふ詩(『公威詩集 III』)[註3]

(3) 1941年~1945年:16歳~20歳:詩文散文併存期:5年
   ①1941年:16歳:『花ざかり森』(「リルケ風な小説」)
   ②1943年:18歳:『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(「短い散文詩風の」小説)

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間

といふ叙情詩と叙事詩、詩文と散文の関係の成り行きといふことになります。

[註3]
この時期に、『安部公房伝』(安部ねり著。164ページ)に、安部公房が三島由紀夫の幼少年時の苦しみについて語つたといふ「三島由紀夫の死なざるを得ないような幼少期のつらい体験」が三島由紀夫の身に起きたのかと思はれる。



更に、三島由紀夫は、『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)の同じ上の自筆のあとがきで、20歳以降の小説と戯曲の関係と展開について、次のやうにいつています。

「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」

この率直な言葉を活かして考へますと、20歳以降の小説と戯曲は、そのまま小説(散文)と戯曲(詩文)といふ併存が、生涯の最後の『豊饒の海』(小説、散文)と『癩王のテラス』(戯曲、詩文)まで続いたといふことになります。[註4]

[註4]
この詩文と散文の関係は、そのまま安部公房の場合であれば、詩文(小説中の詩と写真)と散文(小説と戯曲)といふ関係に見ることができます。どこまでも相似たる二人です。

上記の自筆のあとがきの後に続けて、三島由紀夫は次のやうに述べてゐます。

「もう一つの戦時中の作品『花ざかりの森』を、これと比べて、私はもはや愛さない。一九四一年に書かれたこのリルケ風な小説には、今では何だか浪漫派の悪影響と、若年寄のような気取りばかりが目について仕方がない。十六歳の少年は、独創性へ手をのばさうとして、どうしても手が届かないので、仕方なしに気取っているようなところがある。」

しかし、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』に比べて、「私はもはや愛さない」といふ此の言葉の理由は、『太陽と鉄』といふ1968年、43歳、最晩年のエッセイを読みますと、そこには「言葉に蝕まれている」肉体があつて、その間鍛えてきて造型して獲得した「なんら対象の要らない、一つの透明無比な力の純粋感覚の只中にいる」ことを可能にする筋肉の集合である肉体が、欠けてゐるからでありませう。

しかし、どう考えても、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』は、『花ざかりの森』から生まれたのですから、この時に此の言葉を書かねばならなかつた三島由紀夫の苦しみを、わたしたち読者は思ひ、それが何であり、それが何故かを思ふべきでありませう。何故ならば、死の丁度ひと月前の日付を以って、三島由紀夫は『東文彦作品集』を刊行し、そのあとがきを書き、そこに『花ざかりの森』の最後にも書かれている同じ静寂と静謐を以つて、この文学上の親友を褒め称へ、同じ年齢の若者たちのために、次のやうに書いてゐるからです。

「現在の藝術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けている。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な兆候ではないか、と考える者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の青少年の魂の底から、埋もれていた何ものかを掘り起こす機縁になることを、私は信ずる。

昭和四十五年十月二十五日」(『東文彦作品集』序)


このやうに考えますと、三島由紀夫の詩と戯曲を比較して論じることは、何ら特殊なことではなく、三島由紀夫の文学にとつて、むしろ大切な、重要な、本質的な(essential)ことだといふことになります。

次回以降のどこかで、適切な契機があれば、十代の三島由紀夫の詩群に現れる様々な形象と共に、できるだけ早い時期に、三島由紀夫が6歳で書いた最初の詩『ウンドウクアイ』と44歳の戯曲『癩王のテラス』を同列に論じ、また詩集としての『近代能楽集』を論じることに致します。

(続く)





2015年8月1日土曜日

Der gelbblaue Tag(黄色がかった青色の日):第30週 by Jana Leitel(1977~ )


Der gelbblaue Tag(黄色がかった青色の日):第30週 by Jana Leitel(1977~ )  





【原文】

Der gelbblaue Tag
Fiel kopfüber in den See
Nun glatter Spiegel


【散文訳】

黄色がかつた青色の日は
頭を超えて、湖の中へと落ちた
さて、これで、滑らかなる鏡とはなる


【解釈と鑑賞】


この詩人は、1977年生まれのドイツの詩人です。

この詩人のWikipediaはなく、実に今様に、この詩人はフェイスブックにページを持つてをります:



わたしも早速、いいね!を押して、友達の申請を致しました。

まさか、日本の国に、自分の詩を訳しているブログがあるとは、夢にも思わなかったでありませう。

この投稿の後に、ご本人に連絡をとつてみようと思ひます。

1977年生まれといひますから、38歳の詩人、若い詩人です。

この詩は何か俳句めいた感じが致します。

おそらくは、頭を超えてといふところに着眼があるのではないでせうか。

さうして、その日が鏡になつたといふことにも。


2015年7月31日金曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く4:三島由紀夫の蔵書目録の語ること

三島由紀夫の十代の詩を読み解く4:三島由紀夫の蔵書目録の語ること


「三島由紀夫書誌」という瑤子夫人が編んだ三島由紀夫の蔵書目録から、以下の抜粋を卑見する機会を得たので、以下に其の抜粋を転記し、わたくしの感想を付して、読者にお届けします。

以下引用です:

ハイデッガー:
「ハイデッガー選集」3ヘルダーリンの詩の解明 
手塚富雄・上田貞夫・斉藤信治・竹内豊治訳 理想社 S37・6・30(改訂版) 

「存在と時間 中」
桑木務訳(岩波文庫)岩波書店 S38・8・10重

ハイネ:
「ハイネ・浪漫派」
石中象治訳(春陽堂世界文庫)春陽堂 S22・8・15

ヘルダーリン:
「ヘルダーリン全集」全4巻
手塚富雄・生野幸吉訳 河出書房新社 S28・3・15~S44・2・20

「ヘルダーリン詩集」
吹田順助訳(集英社コンパクト・ブックス)」 集英社 S39・9・30

「ヒューペリオン」
吹田順助訳(独逸ロマンチック叢書) 青木書店 S18・3.10

リルケ:
「神様の話」
谷友幸訳 白水社 S15・10・25

「神について」
大山定一訳 養徳社 S24・10・25

「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」
塩谷太郎訳 昭森社 S16・4・30

「最後の人々」
高安国世訳 甲文社 S21/7/15

「ドイノの悲歌」
芳賀檀訳 ぐろりあ・そさえて S15・3・10

「薔薇ーリルケ詩集」
堀辰雄・富士川英郎・山崎栄治暇由紀夫訳 人文書院 S28・11・15

「マルテの手記」
大山定一訳 白水社 S15・2・10

「マルテの手記」
大山定一訳 養徳社 S25・4・5

「リルケ書簡集」
全5巻 矢内原伊作・高安国世・谷友幸・富士川英郎訳 養徳社 S24・12・30~S26・2・1

「若き詩人への手紙」
佐藤晃一訳 地平社 S21/3/25

トーマス・マン:
「ベニスに死す」S24
「恋人ロッテ」S26
「トオマス・マン短編集」S25
「トニオ・クレーゲル」高橋義孝訳 S24
「非政治的人間の考察」 S43、44
「ブッデンブロオク一家」成瀬無極訳 S24
「魔の山」全3巻揃 S24
「ヨゼフとその兄弟たち」2若いヨゼフ S33

以上が、詩とドイツ語ドイツ文学に深く関係する三島由紀夫の蔵書です。

奥方が、このような目録を作成するということが、素晴らしい。安部公房の真知夫人はその時間なく、安部公房の死後6カ月後に、一緒に死ぬようにして死んでしまった。死因は癌とのことですが、わたしにはそれほど愛した夫であったと思います。

さて、教えて戴いた、蔵書目録は、実に多弁です。以下思うままに。

1。ハイネ
22歳のときに出たハイネの本を持っているということ。これは、やはりこの時期は、詩人から小説家に変身しようという時期ですから、やはり十代で読み、書き写して、自分で日本語の雅文に翻訳するほどに好きであったハイネの詩をもう一度、今度は外から眺めてみたかったのでありませう。即ち、他人の言葉で、散文的に。

2。ヘルダーリン
28歳から39歳までの間の発刊のものを持っているということ。これは古典主義の時代から、ぎりぎり晩年の初年にかかっています。いづれにせよ、このヘルダーリンの詩への欲求が強かったのです。貴重な事実です。

もっとも、書籍の発行年と、三島由紀夫が購入した歳とのづれはありませうが、しかし、この作家のエッセイを読みますと、刊行されたら、やはりすぐ買って読んだのではないかな。と、そう思います。

3。リルケ
意外であったのは、リルケをこれだけ所有し、読んでいたということです。これは、安部公房の側からみますと、三島由紀夫が安部公房と対等にリルケについての議論ができ、自説を主張できたという、実に有力な資料です。その議論も、わたしには想像することができるように思います。
これも、いづれ書くことにします。いや、さうなります。

4。トーマス・マン
高橋義孝訳の『トニオ・クレーゲル』がある。これをお読みになると、古典主義時代の三島由紀夫の考えがよくわかります。

これらの発行年をみますと、23歳から44歳までということであり、従い、やはり古典主義の時代、即ち詩人を脱して小説家になろう、散文家になろうという時期の始まりから、死の前年、前々年までの間、三島由紀夫はマンを読んだということになります。

ゾルレンの時代にマンを読み、森鴎外を読んで、これらの作家に倣った。いづれもドイツ文学の世界の文豪たちです。

これも、誠に偶然の一致(と、ここまでなると誠に必然であるかと思われますが)であることに、わたしは最近ドイツの本屋から『ヨゼフとその兄弟たち』の第1巻を引いた所です。全4巻なので、毎月1冊づつ買って行く楽しみとしているのです。一冊一冊は本当に小さい本ですが、長編小説です。これも何かの暗合かとおもはれる。

かうしてこれらの発行された年代をみますと、やはり三島由紀夫は、勿論十代でマンの名前は知っていたことは間違いがありませんが、実際に読むことを深くしたのが、古典主義の時代であること、しかも死の直前の歳まで続いていることが、大変興味深いのです。

何故ならば、『非政治的な人間の考察』とは、第一次世界大戦にあたって、その戦争を経験しながら、マンが言語の人間としてある其の世界の側から戦争と世界と人間を眺めて書いた長大なエッセイであるからです。思考記録といっても勿論構いません。
実は、この本も、上のヨゼフの本と一緒に、ドイツから買ったマンの本のもうひとつなのです。これも何かの暗合かとおもはれる。

マンも三島由紀夫と一緒で、静謐なるvisionを求め、静寂の空間を生涯求めた作家ですから、この考察の書は、三島由紀夫に言語による表現の世界の本質を(本人は既にして十代で知っていたものを)更に一層晩年の最後に知ることを得て、こころの支えとした作品であらうと、わたしには思はれます。

しかし同時に、このことは、その言語藝術家にある欠陥を露わにすることに成ります。わたしはこれを以前書いたことがあります。題して、『トーマス・マンの闇について』:



三島由紀夫は非政治的な人間であり、文化の人であった。マンも同様の考察をしている筈です。読んでから、またあなたにお話いたしませう。

三島由紀夫の『文化防衛論』に通ずる考察が、そこには展開されていることでせう。

『文化防衛論』の核心にある3つの鍵語(キーワード)、すなはち再帰性、全体性、主体性といふ分類は、マンらしいと思えばマンらしいのです。

もうひとつの対概念のキーワード、すなはち、見るものと見られるもの、これはもマンに通じています。

さて、それはそれとして、上記の蔵書目録のこれらのことを、三島由紀夫の3つの時代に合わせて並べて、年表を作成し、後日詩文楽に上梓します。これで、この作家の何かが、相当なことが伝わることでありませう。

わたしのできることは、かうして書いてまいりますと、次のことになりませう。

1。言語の本質論(言語機能論)の観点から、三島由紀夫の世界を論じること
2。安部公房の側からみた三島由紀夫の姿を語ること、また、
3。二人が共有したドイツ語とドイツ文学の世界を、三島由紀夫の読者に紹介し、解説すること

この3つのことでありませう。そのやうに思います。これらのことを念頭に置いて、この連載を続けます。

いや、更に、

4。先の戦争のあとの呆けた此の日本人の眼を覚まさせるために、痛棒を喰らわせ、あの禅道場の座禅の場の素人たちに、言語の警策でもって音立てて肩を打ち、生に対する覚悟をさせるという、そのやうな闇の人間の役割を演ずることだと思っております。

この警策の音は、三島由紀の辞世の歌の一つ目にある通りに、鞘走る凛乎たる音、時差を伝えて当人を覚醒させる音でありたいものです。三島由紀夫の文学のやうに。



2015年7月29日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く3:詩文と散文の関係


三島由紀夫の十代の詩を読み解く3:詩文と散文の関係

先ほど『文化防衛論』を読みました。1968年、昭和43年。三島由紀夫43歳のときの論考です。

巻末の解説を書いている西尾幹二さんは、「国民文化の再帰性と全体性と主体性」が論じられるくだりから、にわかに読みにくくなり、と書いていて、悪文であって学生の作文のようだと酷評ですが、わたしには、この、文化の再帰性、全体性、主体性が論じられることによって、三島由紀夫の文化防衛論がとてもよくわかりました。

この再帰性という概念は、安部公房も共有しています。三島由紀夫は肯定的に国家と文化との関係で主張し、他方、安部公房は否定的に個人と文化との関係で主張するのですが。これはまた後日触れることがあるでしょう。

また、西尾さんのこの発言の前に、この著名な論者は、伊勢神宮の遷宮のオリジナルとコピーの関係を論じた三島由紀夫の文化の再帰性に関するこの発想をさして、オリジナルとコピーという発想は別にめづらしい見方ではないと断じていますが、この同じ論法といますか発想を、この方のお訳しになったショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』の序文として書かれたショーペンハウアー論の中にもみて、当時二十歳のわたしはおかしいなと思ったことがあり、ずっとこころに引っかかっているのでしたが、今三島由紀夫の『文化防衛論』の解説で同じ言葉をみて、この発想は、この西尾さんという方の何か理解できな論理が、この再帰性という概念ではないかと思いました。そうであれば、『意志と表象としての世界』の序文の論文の、当時からもう既に40余年も記憶に残り続けているその一行二行も納得です。

西尾幹二さんのその言はんとする論理は、このような本物と偽物という関係は、いつもほかにもよく言われていて、特別な発想ではではないという言い方ですから、何かそこにはこの方の心理的な複雑があるように思います。どんなに特殊特別でなくても同じ言葉同じ語彙であっても、その人間がその語彙その言葉に持たせる意味は全く独特のものがある筈であるからです。

ショーペンハウアーの説であれば、まさしく三島由紀夫が『文化防衛論』にいう再帰性をこのドイツの哲学者がいうところで、同じ発言、同じ感想を書いているのです。即ち、この再帰性からいかに自己否定をして、そしてそれが矛盾しないかという論理、この論理を西尾幹二さんは理解できないのです。ということが、この三島由紀夫のエッセイの巻末の解説を読んで、40余年ぶりに理解することができました。勿論、言うまでもなく、この方の『意志と表象としての世界』の序文として書かれたショーペンハウアー論は素晴らしいものです。

さて、『文化防衛論』ですが、この天皇像を論じる論理は正しく、そしてその論理はそのまま三島由紀夫の論理であれば、全く天皇という存在(歴代のダーザイン(Dasein)としての歴史的な現在の連続の時間の中の天皇も含み、天照大神に連綿と連らなる天皇なるザイン(Sein))と一体になった、「断絃の時」の無い、古代からの文化的連続の中に存在し(これが全体性ということ、立体的な形式、formのこと)、今此処に生きる(これが主体性という)ことを体現した三島由紀夫の姿です。

この『文化防衛論』は、まだまだ論ずべきことがたくさんありますが、それは後日を期し、掲題に戻って先を急ぎます。

さて、また、この『文化防衛論』は、『裸体と衣装』という 日記体のエッセイ集(新潮文庫)に収められていて、後者の11月25日(火)の記述を読みましたところ(P112~P113)、何故このエッセイの題名があるのか、何故そのような命名にしたのかという理由が自分の言葉で書いてありましたので、この33歳、1958年、既に古典主義の時代に入っていた三島由紀夫の詩と散文(小説)に対する考えがよくわかりました。ここのところは一読に値します。

何故ならば、ここは、三島由紀夫が詩と小説の関係を述べているところだからです。もっと正確にいうと、詩の言葉と小説の言葉の違いを、更にもっといいますと、先だってこの連載の第1回目の詩論に書いた通りに、『花ざかりの森』と『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」のこの二つの小説の、前者から後者への(戦時中の少年であった三島由紀夫が自分の命を救済するために展開した)論理の極端な飛躍の理由と消息が明瞭に書かれているからです(P112)。一度お読みください。

この箇所を読みますと、古典主義の時代の三島由紀夫が20歳までの抒情詩人としての自分を何故贋の詩人と呼んだのかがよくわかります。

これは、ひとつは、小説家としてそのような抒情的な人間である自分、即ち裸形裸体の自分を否定(というよりは、肯定するために否定)したということがわかり、やはりこの贋という形容詞を冠して、そのような裸形の自分自身を護ったということなのです。他方、しかし、小説家とは、その精神が抽象概念という衣装をまとって言葉に直すものである。

これが、この『裸体と衣装』と題したエッセイとエッセイ集の、裸体と衣装の意味なのです。

何故『絹と明察』に岡野という登場人物が出てきて、ハイデッガーやヘルダーリンを論理的に、散文的に表現されてゐて論じるのか、それはやはり、精神が抽象概念という衣装をまとった登場人物の姿、即ち作家の分身の一人なのです。

さて、贋の詩人と自分の十代の抒情詩人を呼んだ三島由紀夫が、更に後年、詩は認識であると知ったと書いたのは何歳の時でありませうか。この時には、当然のことながら、三島由紀夫は二十代の抒情詩人を贋の詩人とは呼ばず、そうではないその後の小説家、散文家としての自分を本物の詩人と、文字にはそう書いてはありませんが、行間にあって、呼んだのだということが、こうして考えて来るとよく解ります。即ち、

「今の私は、二十六歳の私があれほど熱情を持った古典主義などという理念を、もう心の底から信じてはいない。
 自分の感受性をすりへらして揚棄した、などというと威勢がいいが、それはただ、干からびたのだと思っている。そして早くも、若さとか青春とかいうものはばかばかしいものだ、と考えだしている。それなら「老い」がたのしみか、これもいただけない。
 そこで生まれてくるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。これこそ私にとって真になまなましく、真にエロティックな唯一の観念かもしれない。その意味で、私は生来、どうしても根治しがたいところの、ロマンチックの病いを病んでいるのかもしれない。二十六歳の私、古典主義者の私、もっとも生の近くにいると感じた私、あれはひょっとするとニセモノだったかもしれない。
 してみると、こうして縷々書いてきた私の「遍歴時代」なるものも、いいささか眉唾物めいて来るのである。」(『私の遍歴時代』の最後の文章。新潮文庫、196〜197ページ)傍線筆者。

これは、晩年の時代、現存在へのハイムケール(帰郷)の時代から、その前の古典主義の時代をみて、小説家としての自分のあり方を贋物だという三島由紀夫の言葉です。

やはり、この最後の時代では、最初の幼年期と抒情詩人の時代をロマンチックの時代と呼び、あまつさへ病いとまで隠喩を使って呼んでいる。隠喩をつかうということは、三島由紀夫にとっては決定的なことであることを意味しています。三島由紀夫は、核心を、ここは若い時代の安部公房と全く同じですが、詩人でありますから、非常にpoeticになって、隠喩をつかう以外にはなく、論理では表現することが否応なく出来ないのです。

この「自分の感受性をすりへらして揚棄した、などというと威勢がいいが、それはただ、干からびた」のだと言っている古典主義の時代を、ダーザインへの回帰の時代、即ち晩年の1969年、昭和44年、44歳のときに、『日本文学小史』では、大伴家持が「「防人の情(こころ)と為(な)りて思を陳(の)べて作る歌一首」、いわば優雅な宮廷の抒情詩人がフィクションとして作った一首を、対照の面白さのためにあげておこう。」と言って、家持の長歌と反歌を引用した後で、次のように言っています。

「 家持のこの歌を手前に置いて、彼方に防人の歌を置くと、濾過された文学的言語というものが、切実な感情をいかに模し、それをいかに別なものに変えるかという典型的な実例が透かし見られる。実はここに、のちの古今集の発想の源があり、歌からは「切実な感情」の粗野が避けられて、むしろ歌は、切実な感情を表現するには自ら切実な感情を味わってはならない、という古典主義のテーゼへ導かれてゆくのである。」(『小説家の休暇』所収『日本文学小史』新潮文庫、254〜255ページ)太文字原文は傍点。傍線は筆者。

このことは、この通りのことを、古典主義の時代、ゾルレンの時代に、三島由紀夫はトーマス・マンから教わったということを言っているのであり、しかし、自分は日本人であって、やはりドイツ人ではなく、その酷薄な論理と認識には、とても堪えられないと言っているのです。マンの『トニオ・クレーガー』のご一読をお勧めします。三島由紀夫の世界とそつくりで、驚くことでしょう。しかし、その世界は、三島由紀夫の区分でいう古典主義の時代の三島由紀夫なのです。

この家持を引いて日本文学史を古代の記紀万葉から論じる三島由紀夫は、専ら日本文学史を論じる関心の中心は、詩文の日本文学史であって、散文の日本文学史ではないと言っているのです。

それほどに、晩年の三島由紀夫は、十代の抒情詩人に戻りたかったし、戻ろうと考え、そうして死という言葉に、16歳で書いた『花ざかりの森』の最後では一重の鍵括弧を付して「死」と書く以外にはない未経験の死であったものを、この年齢の晩年には既にその死は鍵括弧を取り払われて十分に自己の肉体に親しく、実際の死として書くことができるほどに、それを病とまで隠喩を使っていうほどになっているのです。

こうしてみますと、20歳までの抒情詩人の自分を贋の詩人と呼んだ時期の三島由紀夫は、間違いなく古典主義の時代の三島由紀夫に違いありません。

そうして、ダーザインの時代の三島由紀夫は、過去であるゾルレンの時代の小説家たる自分を振り返って、それを今度は贋の小説家だというのです。

これが、三島由紀夫の贋という言葉の使い方です。

対して、安部公房は、その人間なり有機物なり無機物が存在になったときに、即ちリルケの純粋空間と同じ時間の無い空間(差異)の中の上位接続に至ったものになったときに、そのものを贋という形容詞を冠して呼ぶことは、わたしが安部公房論の諸処に書いた通りです。

安部公房は、空間的に、存在論的に、そのように贋という言葉を用いるのに対して、このように三島由紀夫は、時間的に、今いる場所(ダーザイン)から過去を追想して、振り返ってみたときに、今いる場所(ダーザイン)にある自分の意識と異なる過去の時期の自分のあり方を贋と呼ぶのです。

そのように起伏に富んだ三島由紀夫の心底に流れて止まない川(バッハ)又は河(シュトローム)である20歳までの抒情詩人としての三島由紀夫の詩を論ずることは、こうして考えてみますと、自然に、古典主義の時代も含み、小説や戯曲という散文領域の作品に通じており、それらの作品を論ずるときに、三島由紀夫の詩群は、その重要なる根拠になることを、読者に示しております。


(続く)