三島由紀夫の十代の詩を読み解く7:個体発生は系統発生を繰り返す
三島由紀夫の十代の詩を読み解き、その詩から小説と戯曲への発展生成といふことを思ふと、これが、日本の藝道の歴史を体現してゐるやうに思はれる。何故なら、日本の藝事は、いつもその全体の中の一部が分かれて、独立して出来てきたやうに見えるからです。
この考察の結果からみますと、次のやうに三島由紀夫のジャンル(genre)の創造がなされてゐることが、判ります。
1。詩から、その詩の認識、即ち、繰り返しと其の繰り返しの間に生ずる時差(時間)に美を感じ、叙情を感じたことから、『花ざかりの森』という小説が生まれた。
2。詩『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』という叙事詩から、『花ざかりの森』の論理をすべてひつくり返した『中世の一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』が生まれた。
また、その他の科白を含む複数の詩から、その散文的な会話の在り方から、小説が生まれた。
3。詩『日本的薄暮』から、その歌舞伎的な科白を含む一部が独立して、戯曲が生まれた。
これらのことをもっと簡明に書くと、次のやうになります。
詩=抒情詩→叙事詩→小説
詩=抒情詩→歌舞伎的な科白→戯曲
他方、わたしの狭い知見の範囲ではありますが、日本の藝道を見てみませう。
1。和歌(万葉集)→和歌物語(大和物語、伊勢物語)→源氏物語→物語(小説)
2。連歌→俳諧→俳句
3。仏前に供えるお花→華道
4。薬としての喫茶→茶道
このやうに、日本の藝道は、前の藝術の一部が独立して、一つの新しい藝術のジャンル(genre)が生まれます。
このやうに考へますと、わたしは生物学で教はつた、個体発生は系統発生を繰り返すといふ生物学の法則を思ひます。即ち、生まれる前の赤ん坊が、母なる人の体内で、その個体の上で生物のすべての系統発生を一度くり返して体現するのだといふ法則です。
文学の世界で、三島由紀夫一身の身の上に、この個体発生は系統発生を繰り返すといふ生物学の法則が発現したかのやうに思はれるのです。つまり、三島由紀夫の藝術家としての人生そのものが、日本の文藝の発生の歴史を一身上で繰り返してゐる。それ故に、最晩年の『日本文学小史』(1969年)といふ日本文学史を詩文(和歌)の歴史として、また歌物語の歴史として、自分の言語藝術家の人生のあり方として論じたのではないでせうか。それ故に、最初の章に方法論を置いたのではないでせうか。
この、今私が述べて文字にしてゐる考へそのものは、三島由紀夫は自分では文字にはしてゐないものと思はれますが、対して、安部公房は初期の名作『名もなき夜のために』(1948年)で、三島由紀夫の此の同じ一身上に起る経験を我が事として、次のやうに書いてをります(安部公房全集第1巻、553ページ)。勿論、三島由紀夫の場合と同じ、これは詩人の話です。
「(略)気をつけて見れば、どんな傷からでも、生と死を含めた全存在の傷が成長するのに気づくはずだ。これが貧しい僕にはせい一杯の贈物であるらしい。
そしてもしそれが役立つものだとすれば、負数の時間を歩むことは丁度人間が胎児のあいだに生物の全歴史を繰返すように、すべての人に繰返される物への復帰の道だと考えてみたらどうだろう。死は生の終わったところにあるのでなく、その二つは常に等量に保たれていてそのあいだの振幅が現世であるように、正数の時間は等量の負数によって僕らを絶えず脱皮させるのではないかと……。この負数の道が、物への没落が、単に傷つき破れた少数のものだけの道ではなく、実に人間そのものが大きな傷であり、その道だと考えるのはもう傷ついたものの自己弁護になってしまうであろうか。僕は知りたい。ものに落ちてゆき、あるいは高まった人びとの叫びが、もう現世にはどどまり得ぬ儚いものにすぎなかったか、ほんとうに現世にとどまることがなかったか?そして反省や疑いや批判や、または嘲りや自虐がもうついて来られぬほど深い物の世界を予感し、無名になった部分だけであえてその中へ落ち沈み、融け去り、いままで自己の外部だとおもっていたものが、突如自分自身であることを主張しはじめるのに驚いた人の、例えば詩人たちの声が、ほんとうに傷ついた人びとの心を覆ってやる力を持たなかったかどうか、知ってみたい。」(傍線筆者)
この連載の第5回で、わたしは、
「これは何か、三島由紀夫の或る種の跛行を思わせる。即ち、小説の淵源に小説を持たずに、やはり詩を持つてゐるといふことから、このやうに考えてくると、その事情はそのまま、安部公房の小説群に通じるものを考えずにはいられない。この二人の大才が、先の戦争の後の時空間に生きて此の跛行を共に強ひられた」
といふことは何故だらうかといふことについて言及してをります。
これは丁度、この二人の若者が、三島由紀夫は20歳で、安部公房は21歳で大日本帝國の敗戦を迎えたといふこと、この事実が大変な事実であつたこと、この事実に堪えることが非常な困難を此の二人の大才に強ひたといふことを意味してゐると、わたしには思はれます。
この敗戦の時期は、丁度ふたりがそれぞれに、詩人から小説家に変貌しようといふ時期に当たつてをります。
その時に、小説から出発せずに、詩人として詩文から出発しなければならなかつたこと、そして詩では現実に対処して、それを美しい言語表現に隠喩(metaphor)を使つて表すことができなかつたといふこと、これがこのふたりの苦難であり、跛行の原因であつたのではないでせうか。勿論、ふたりがさうならば、その他の詩人たちも同様であつた筈です。
この苦しみのときに当たつて、私事を安易に語ることは、安易な人間には容易なことです。
ここに、非常に逆説的に、戦後の詩人たちが戦前との歴史を断ち切つて、私によつて書く私詩を「戦後詩」と呼びました。勿論、すべての詩人たちが安易な詩を書いたとは思ひません。しかし、他方これに反して、徹頭徹尾、ふたりの詩は全くそれを全面的に徹底的に否定する詩であり詩観であつたといふことが、非常に象徴的な戦後の文学の在り方を示してゐます。安部公房がリルケならば、三島由紀夫はヘルダーリンなのですから、それは当然のことといへませう。[註1]
そして、しかし、安部公房の小説は、めづらしくはないことに、往々に小説の中に詩が挿入されて、また写真といふ(安部公房にとつては)詩相当のものが挿入されることによつて、安部公房は日本の歴史と伝統に則つた歌物語(小説)を書き、三島由紀夫は、叙事詩としての小説を、抒情詩としての戯曲を、それぞれ散文の形式を借りて、書いたといふことになります。
「戦後詩」という私詩の詩人たちが詩を書き、他方、戦前に其の独自の詩の世界に閉ぢ籠つて決して私事を歌わなかつたふたりの詩人が、戦後に徹底的に私小説を否定した(今度は)虚構に満ちた小説を書き続けたといふこと、この事実は、日本の敗戦後の日本人の生活意識の、即ち常識の歪みと捻れを表してゐるのではないでせうか。この健康である筈の常識の歪みと捻れは、21世紀の今の世相にまで及んでゐるでありませう。
それ故に、ともに孤立を選び、常に反時代的であり続けたふたりであつたのです。
これが、言語と詩の世界から眺めた、ふたりの戦前戦後の、戦争を境にした二人の姿であり、ふたりに共通する人生の姿であるといふことになります。[註2]
[註1]
1958年10月1日の柾木恭介との対談「詩人には義務教育が必要である」(全集8巻、178ページ)では、安部公房は戦後の詩を読んでゐて、「詩というジャンルはすでに死滅したジャンルだね」と厳しく断言してゐます。それは、リルケの詩とは全く反対に、戦後詩の詩人たちは、形象(イメージ)を私のものだと考へ違いをして詩を書いたからです。リルケにならった安部公房にとつて、言葉によつて生まれる形象(イメージ)は私のものなどでは決してなく、それは生命そのものであり、それを表すのが(実体の無い)関数としての言葉でありました。
[註2]
安部公房は、三島由紀夫とは「言葉による存在」という考えを共有してをりました。これは、1973年に立ち上げた安部公房スタジオ創設時に、三島由紀夫を思ひ出しての前者の演劇論、演技論についての言葉でありますが、当然のことながら、小説もまた言語藝術である以上、同じ考えをふたりは共有してゐたのです。以下、拙論『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、三島由紀夫の世界の読者の理解に供します。
「安部公房は、演劇論について、三島由紀夫と交わした議論を次のように話しています(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)。
「俳優が、言葉による存在(原文傍点)でなければならないのは、戯曲以前の問題なのである。と言っても、べつに驚く者はいないだろう。大半の俳優たちが、戯曲がなくても俳優は俳優だと信じ込んでいる。たしかに、言葉によって存在する(原文傍点)という条件さえ問わなければ、彼らもまた俳優にちがいない。この楽天主義が、ぼくを絶望させてしまうのだ。
この問題を考えるたびに、しばしば三島由紀夫とかわした演劇論(というほど改まったものではないが)を思い出す。多くの面で、対立することの方が多かったが、言葉を喪った俳優に対する絶望という点では、いつも奇妙なくらい意見の一致をみたものだ。彼は、俳優の舌足らずを戯曲で補おうとして、ますますその結果に絶望し、ぼくは俳優の言語障害をパロディとして利用しようと試み、やはり絶望した。ぼくらはその絶望を酒の肴にして、大いにたのしみ、そのうち彼は演劇そのものに絶望してしまったようだが、ぼくは生きのびて、演劇のグループ結成という自己矛盾にまで足を突っ込んでしまう結果になった。彼が生きていたら、さぞかしあの高笑いを聞かせてくれたことだろう。」
これは俳優に求めた考えではありますが、しかし「言葉による存在」であること、そして「言葉によって存在する」こと、特に後者は戯曲と舞台の、前者は戯曲と舞台のみならず、そのまま小説についての、この二人の言語藝術家の共有する言葉と存在に関する考えであり、接点でありました。小説とは「言葉による存在」を創造すること、戯曲(drama、劇)と舞台は、役者が舞台の上で「言葉によって存在する」こと、そしてシナリオの執筆は、この二つの小説と戯曲について存在を媒介(函数)にして、この二つの領域を接続することだったのです。このことの、この時期の安部公房にとっての意義については、[註6]の安部公房の座談会での発言と[註17]の安部公房の書棚の写真をご覧ください。」
さうして、安部公房は、終生、上の引用に書いた胎内から出ることなく(但し、日本共産党員であつた時代の最初の5年間が言語藝術家としての命の危機でした)、(当然私事である筈の全くない)存在(ザイン)の希求と存在への永劫回帰を、空間的に、また存在論的に、生涯繰り返したのに対して、三島由紀夫は、太陽と鉄の時代(古典主義の時代)に、小説家になると共に、その胎内から外に出て、従い時間的に、(小説『仮面の告白』の最初の一行にある)生まれる前の記憶の美と叙情と其れらの永遠の蘇生と新生を、現実の時間の中にゐる私の現在(ダーザイン)から過去を追想する時差の中に求め、それを(私事ではなく)虚構として繰り返へし表したといふことになります。[註3]
[註3]
胎内にとどまり続けることを、十代の安部公房は「未分化の実存」と呼び、さうして一生涯、このことを考えました。そのやうな私は、存在の中に存在するのです。生きた人間として存在に存在するといふ再帰的な人間のあり方としてあること、これが未分化の実存の人間の生き方です。他方、三島由紀夫は、詩人としては、既に学習院初等科に入学したときに、上の段落に書いた通りの、さうして後年20歳を超えて『仮面の告白』の冒頭の一行に書いた通りの人間であつたわけですから、これを何といふ言葉で、三島由紀夫は呼んだものか。
その人生の最後に『文化防衛論』を著し、「国民文化三特質」の第一番として、三島由紀夫は再帰性を挙げてゐることは、上に述べたことに深く関係してをります。再帰性(形(フォルム))、全体性(本物複製の無分別)、主体性(文化の生命の連続性)。これを、国民に対してではなく、三島由紀夫自身の文学に対して適用すれば、安部公房が「未分化の実存」と呼んだことを、日本の文化の此の三つの特質として三島由紀夫は挙げてゐるばかりではなく、自分自身の文学の特質として、さう呼んでゐるといふことになります。
この最初に挙げられてゐる再帰性こそは、この連載の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の人生の見取り図2』の「1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材」で述べましたやうに、
[註3]
胎内にとどまり続けることを、十代の安部公房は「未分化の実存」と呼び、さうして一生涯、このことを考えました。そのやうな私は、存在の中に存在するのです。生きた人間として存在に存在するといふ再帰的な人間のあり方としてあること、これが未分化の実存の人間の生き方です。他方、三島由紀夫は、詩人としては、既に学習院初等科に入学したときに、上の段落に書いた通りの、さうして後年20歳を超えて『仮面の告白』の冒頭の一行に書いた通りの人間であつたわけですから、これを何といふ言葉で、三島由紀夫は呼んだものか。
その人生の最後に『文化防衛論』を著し、「国民文化三特質」の第一番として、三島由紀夫は再帰性を挙げてゐることは、上に述べたことに深く関係してをります。再帰性(形(フォルム))、全体性(本物複製の無分別)、主体性(文化の生命の連続性)。これを、国民に対してではなく、三島由紀夫自身の文学に対して適用すれば、安部公房が「未分化の実存」と呼んだことを、日本の文化の此の三つの特質として三島由紀夫は挙げてゐるばかりではなく、自分自身の文学の特質として、さう呼んでゐるといふことになります。
この最初に挙げられてゐる再帰性こそは、この連載の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の人生の見取り図2』の「1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材」で述べましたやうに、
「三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴は、6歳のときに書いた最初の『ウンドウクアイ』(決定版三島由紀夫全集第37巻。以下「決定版第37巻」と略称す。同巻17ページ)に既にあるやうな、言葉、即ち音声と文字の繰り返しによる様式化です。
言葉の繰り返しと、そこに現れる時間の差、即ち時差に美を感じ叙情を感じてゐるのです。」
と書いた、この繰り返しの様式化が、三島由紀夫にとつての再帰性、即ち形であり、フォルムであるのです。いつも此の追憶の時差から生まれる、源泉の感情から湧き出る言葉によつて構成される様式に再帰するのです。
さうして、それがそのまま、全体性(本物複製の無分別)、主体性(文化の生命の連続性)に通じてゐるのです。
このことが、それぞれの人生に於いて、それぞれの一身上で、詩人としての個体発生が藝術の複数のジャンルの系統発生を繰り返したことの、二人の大才に苦痛に満ちた負荷を掛けた原因であり、また同時に結果であり、しかし、その負荷に絶えぬいて全うした二人の人生であつたのだといふことになります。
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