2015年8月9日日曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)


三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2


       目次

1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材
2。ヘルダーリンとリルケ
3。三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生
4。三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)


              *******


1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材

三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴は、6歳のときに書いた最初の『ウンドウクアイ』(決定版三島由紀夫全集第37巻。以下「決定版第37巻」と略称す。同巻17ページ)に既にあるやうな、言葉、即ち音声と文字の繰り返しによる様式化です。

言葉の繰り返しと、そこに現れる時間の差、即ち時差に美を感じ叙情を感じてゐるのです。

これが、三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴であり、特色です。

さうして、この様式化された様式は、強い対比と対照によつてなされてゐますが、その後小学校に入りますと、その様式化された音声と文字の対比の構図の中に、更に次のやうな自然の素材、もつといへば、自然の構成要素が歌はれるやうになるのです。曰く、

海、山、川、空、鳥、森、泉等々。

詩を読むと直に伝わつて参りますが、これらの形象には、三島由紀夫といふ少年の持つ、生命への強烈な憧れと渇仰があります。

自然の中に、鷲、梟等々の鳥が住み、空を飛んでゐる

さうして、春夏秋冬といふ四季の循環があり、その時間の永遠の繰り返しと其の季節の間(差異)の中で、これらのものが歌われてゐる。

さうして、この自然と四季との関係で、その中にあるのが、三島由紀夫の対比的な様式であつて、それは、これらの自然の構成要素の中に、また外に、生と死、昼と夜、光と闇といつた組み合わせを歌つてゐるのですし、更に、これらの生命に関する対比的な言葉(概念)の配置に加えて、その中に、その外に、金、銀、黒、白、青、赤、臙脂色等々のきらびやかな色彩が、更に廃墟の城やその他の事物が、数多く歌われてゐます。

少年三島由紀夫は、このやうに自分の詩の、言葉の世界を創造したのです。


2。ヘルダーリンとリルケ

三島由紀夫の小説の一端に触れ、また十代の詩を読みますと、三島由紀夫にとつて重要な詩人は、やはり上の詩の書き方に通底し、通用するドイツの詩人ヘルダーリンです。勿論、リルケとハイネも、その蔵書目録を見ますと、好んで読んだことが判ります。

このやうに思つてみるに、当時の十代の少年たちの文学の世界の、詩文に惹かれた若者たちの念頭に主だつてあつたのは、特にリルケとヘルダーリンであつたのでせう。

安部公房は、19歳のときのエッセイ『〈僕は今こうやつて〉』で、「例えばヘルデルリーンをマルテと比較する事が出来るであろうか。それは不可能な事に異いない。第一マルテは方法なのだし、ヘルデルリーンは素材なのだ。これを一緒にして考える事等出来るだろうか。」といつてゐます(安部公房全集第1巻、89ページ下段)。

安部公房は、23歳の時に自費出版した『無名詩集』の最後に『詩の運命ーエッセイー』という文章を置いて、ハイデッガーのヘルダーリン論を引いて、詩人とは何かを論じてをりますので、勿論ハイデッガーも十分に理解をした上で、やはり其の数学的な思考の在り方から実に独特にリルケを自家薬籠中のものとなすのです。

この安部公房の嗜好と志向に対して、三島由紀夫は、リルケのやはり様式に美を感じたことは間違いがありませんが(『薔薇のなかに』といふ15歳の詩があります)、それを十代の詩群の持つ素材としての自然の構成要素の歌い方からいつて、やはりヘルダーリンをより好み、自分に親しいものと実感として思つたものと思はれます。

そして、この自然を歌ふといふ線上に、やはりハイネもゐて、その詩は自然を歌つてゐるし、その自然の構成要素は、リルケの詩での概念化した、いつも存在といふ概念との関係で歌はれる歌ひ方とは異なつてゐて、遥かに素朴であり、自然であり、素直であることから、これがやはり本来三島由紀夫の持つてゐる詩人の素質であり、方向なのだと思はれます。

さういふ意味では、三島由紀夫の思考論理(哲学)の世界に並行的に、これらの詩人の対応関係を考えると、

詩:   リルケ ー ヘルダーリン ー ハイネ
思考論理:哲学  ー 哲学と詩(隠喩)ー 詩(隠喩)

といふ対比を思い描くことができます。

そして、同時に、これらの詩人の詩に、三島由紀夫は、その様式(構造)と隠喩(metaphor)に等しく美を感じたのです。

他方、小説との関係では、

『花ざかりの森』ー『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』
 作品『X』    ー トーマス•マンと森鴎外

といふことになるのではないでせうか。


3。三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生

かうしてみると、三島由紀夫の小説の世界は、やはり古典主義時代に意志的に自分のものとしようとしたトーマス・マンや森鴎外から始まるのではなく、自分自身で16歳のときに書いた『花ざかりの森』に発するといふことになります。即ち、15歳で『少年期をわる』といふ詩を書いて、その関心が半ば小説に向かひ、16歳で書いた『花ざかりの森』といふ、詩の世界の延長から生まれた小説が、その源の作品だといふことになり、この作品からその後の小説群が生まれたといふことになります。

(これは何か、三島由紀夫の或る種の跛行を思わせる。即ち、小説の淵源に小説を持たずに、やはり詩を持つてゐるといふことから、このやうに考えてくると、その事情はそのまま、安部公房の小説群に通じるものを考えずにはいられない。この二人の大才が、先の戦争の後の時空間に生きて此の跛行を共に強ひられたといふことについては、稿を改めて論じたいと思ひます。)

安部公房の小説群は、その中に往々にして詩や写真(安部公房にとつては詩作相当の行為であつた)が挿入されてゐることから言つて、これは古代からの歌物語、即ち大和物語や伊勢物語の伝統の上にあると理解することができるのに対して、三島由紀夫の小説群は叙事詩へ、またやはり同様に戯曲群は、最後に引用する三島由紀夫自身の言葉によつて、従い、やはり大和物語や伊勢物語の伝統の上にある歌物語ではないかと考えることができます。

三島由紀夫は、死の前年に『日本文学少史』といふ日本文学史を書いてをります。さうして、これは見かけ上未完に終わつてゐるやうに見えますが、しかし、最後の章で『源氏物語』といふ世界文学史の上でも大いなる歌物語を論じれば、第1章で最初に既に『方法論』を論じたのであれば、三島由紀夫にとつては、日本語と日本人による文学とは何かについて語ることは、もはや十分であつたのではないでせうか。

さて、三島由紀夫の小説が叙事詩だといふことに関する考えは、私の仮の説であり、仮説です。しかし、十代の次の詩が、丁度、叙情詩、叙事詩、そして小説といふ時間の順序で展開してゆく其の中間状態の移行期の姿を示していて、わたしの仮説は、正しいのではないかと思はれます。

この仮説を証明する其の詩は、13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩です(決定版第37巻、206ページ)[註1]

[註1]
桃葉珊瑚(あをき)といふ題の言葉と、この老いの記の内容との関係を稿を改めて明確にすること。この時期、三島由紀夫は桃の詩を幾つも歌つています。桃と桃色の意味を解く事を後日致します。今ここで少しく考察を加えてをけば、次のやうになります。

桃葉珊瑚(あをき)といふ植物は、「葉は厚くつやがある。雌雄異株。春、緑色あるいは褐色の小花をつけ、冬、橙赤(とうせき)色で楕円形の実を結ぶ。庭木とされ、品種も多い。桃葉珊瑚(とうようさんご)。」[『大植物図鑑』>「アオキ Aucuba japonica 桃葉珊瑚(1034)」:https://applelib.wordpress.com/2009/05/09/1034/

この説明をみますと、三島由紀夫は、この当時楕円形といふ形が好きであつたやうに思はれます。何故ならば、この実は楕円形をしてをり、小説『詩を書く少年』の中で、13歳ではなく15歳といふ年齢設定ではあるものの、主人公の製作する詩集は「ノオトの表紙を楕円形に切り抜いて、第一頁のPoesiesといふ字が見えるやうにしてある」表紙を備えてゐるからです。

しかし、いづれにせよ『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ《EPIC POEM》(叙事詩)を読みますと、その主題は、ある老いた人間の死と、その理由の誰にも知られない無償の自己犠牲によつて起こる生命の蘇生といふ主題ですから、この桃葉珊瑚(あをき)に永遠に繰り返され、冬の季節の後に到来する春に再び此の世に現れる強い生命力をみてゐたことは間違いありません。

さうすると、同様に此の時期歌ふことの多かつた桃についても、その形状と色彩と其の色艶に、同様の魅力を覚えたゐたことが判ります。桃を巡る形象は、夏であり、青空であり、泉であり、川の流れであり、その青色を映す湖であり、青色そのものである海であり、これらの歌われる春と夏の季節であり、また夜であり、月であり、月の光であり、黒船であり、とかうなつて来ると季節の秋もあり、夜に響く谺(こだま)といふ繰り返しの声があり、また桃の果樹園であり、桃林なのです。

『奔馬』で、この物語の最後に主人公が死を求めて、夜の海へと駆ける場所は、桃の果樹園ではなく、蜜柑畑といふ果樹園です。最晩年の三島由紀夫が蜜柑といふ果実と其の果樹園といふ場所、それも夜の海を前にした言はば庭園といひ庭といふことのできるやうな場所に何を表したのか。


これは、その副題といふべき最初の行に「老いの記」と書かれていて、この叙事詩が「老いの記」といふ叙事詩《EPIC POEM》であることが示されてゐる。これは誠に『花ざかりの森』と同じ物語の設定です。

さうして、この日記は、人生の老いといふことから、冬といふ季節を設定して、日記の形式で「十二月X日」「一月X日」「二月X日」といふ冬の季節の月の単位でのみの日付がかかれていて、それが同じ月の中でもみな「X日」として表記されています。

これは、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』にあるやうな、すべての日記が「□月□日」とひとしなみに書かれていて無時間の日記である叙事の小説になつてゐるのと、月の日付が明示されてゐることが異なつています。しかし、叙事詩としての体裁は、18歳の時のこの小説に、この詩は其のまま通つています。[註2]

[註2]
このやうに日付を書いて表す日記体のエッセイ、即ち『小説家の休暇』『裸体と衣装』(共に通じて30歳から44歳までのエッセイ)といふ作品は、三島由紀夫にとつては、この詩の世界からみると、やはり叙事詩そのものではなくとも、叙事といふことから事実を叙して、散文的な詩を書くといふつもりが意識のどこかにあつたのではないかと推測されます。

また、かうしてみますと、『花ざかりの森』の主人公は、現在から過去への追想をしながら、言はば其の記憶の中の無時間に生きる人物であるのに対して、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』では、「□月□日」と書かれる無時間の日々を生きる人物を造形したといふことができるかも知れません。時間と話者の関係を、三島由紀夫は引つくり返して小説を製作した。この転倒が、そのまま殺人者(芸術家)と航海者(行動家)の対比的な両極端の人間の創造になつた。

時間、主人公(複数)、作品の構造化、この三つの関係を、下記で述べる時代区分でいふと、1938年~1940年(13歳~15歳)の少年期2の三島由紀夫は、詩から移つて、小説を書くために考えたといふことになります。


『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の収録されてゐる『花ざかりの森•憂国』(新潮文庫)の自筆のあとがきに、三島由紀夫は此の18歳の作品について、次のやうに書いています。この時、昭和43年、西暦1968年、三島由紀夫43歳。

「この短い散文詩風の作品にあらわれた殺人哲学、殺人者(芸術家)と航海者(行動家)との対比、などの主題には、後年の私の幾多の長編小説の主題の萌芽が、ことごとく含まれてゐると云つても過言ではない。しかもそこには、昭和十八年といふ戦争の只中に生き、傾きかけた大日本帝国の崩壊の予感の中にいた一少年の、暗澹として又きらびやかな精神世界の寓喩がびつしりと書き込まれてゐる。」

この言葉にある通りに、この小説は、その後の小説の範型となつています。十代の詩との関係で、それがどのやうに『豊饒の海』にまで至つてゐるかは、既に此の論の連載の第1回に論じた通りです。

さて、従い、15歳の『少年期をわる』を書いて、少年期の終わりを自覚して、そこから叙情詩のみならず、小説を志した三島由紀夫が、最初に書いた16歳の『花ざかりの森』の「隠遁ともなづけたいやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心」を持つ年齢不詳の主人公の、言はば無時間に棲む人間による(現在から過去への)追想を主題として、(1)詩人としての高みと(2)「生(いのち)がきわまつて独楽の澄むやうな静謐、いわば死に似た静謐」を持つ(やはり無時間の)空間の存在を主張した、この詩的な「リルケ風の」小説と、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』といふ日付を表示した、従い叙事詩である、しかし今度は時間の無い小説は、ふたつながら、このことはそのまま、叙情詩人から20歳までの間並行して二つの領域の作品を書いて、20歳から小説家として身を立てようといふ三島由紀夫の人生の前段の10代の文学の姿を明瞭に示してゐるのです。


4。三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)

ここで、決定版第37巻所収の詩を読んで、6歳から12歳までの文字通りに画期的な詩の名を挙げ、また此の時期の上の二つの小説の名前を挙げてみると、次のやうになります。(一つ一つの詩については、その前後の詩も含めて、稿を改めて論じます。)

→12歳の詩集『HEKIGA』:詩人になると自覚して書いた詩群(叙情詩)の製作
→13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ叙事詩
→15歳の『少年期をはる』といふ詩
(『少年期をはる』以後の小説を目指す一年。以後20歳迄の詩文散文併存期)
→16歳の『花ざかり森』(「リルケ風な小説」)
→18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(「短い散文詩風の」小説)
→20歳以降の小説と戯曲

さうして、連載の第2回目で行つた三島由紀夫の時代区分を元に、更に上の事情を取り入れて、其の時代区分を、もう少し精細にまとめますと、次のやうになります。

1. 1925年~1930年:0歳~5歳:幼年時代:6年間

2. 1931年~1949年:6歳~24歳:遍歴時代:19年間
2.1 1931年~1945年:6歳~20歳:抒情詩人の時代(ザインの時代:夜と月の時代): 15年間
(1)1931年~1937年:6歳~12歳:少年期1:7年
   ①1937年:12歳:『HEKIGA』:詩人になると自覚して書いた詩集の製作
   ②1938年:13歳:『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ叙事詩
(2) 1938年~1940年:13歳~15歳:少年期2:3年
   ①1940年:15歳:『少年期をわる』といふ詩(『公威詩集 III』)[註3]

(3) 1941年~1945年:16歳~20歳:詩文散文併存期:5年
   ①1941年:16歳:『花ざかり森』(「リルケ風な小説」)
   ②1943年:18歳:『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』(「短い散文詩風の」小説)

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間

といふ叙情詩と叙事詩、詩文と散文の関係の成り行きといふことになります。

[註3]
この時期に、『安部公房伝』(安部ねり著。164ページ)に、安部公房が三島由紀夫の幼少年時の苦しみについて語つたといふ「三島由紀夫の死なざるを得ないような幼少期のつらい体験」が三島由紀夫の身に起きたのかと思はれる。



更に、三島由紀夫は、『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)の同じ上の自筆のあとがきで、20歳以降の小説と戯曲の関係と展開について、次のやうにいつています。

「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」

この率直な言葉を活かして考へますと、20歳以降の小説と戯曲は、そのまま小説(散文)と戯曲(詩文)といふ併存が、生涯の最後の『豊饒の海』(小説、散文)と『癩王のテラス』(戯曲、詩文)まで続いたといふことになります。[註4]

[註4]
この詩文と散文の関係は、そのまま安部公房の場合であれば、詩文(小説中の詩と写真)と散文(小説と戯曲)といふ関係に見ることができます。どこまでも相似たる二人です。

上記の自筆のあとがきの後に続けて、三島由紀夫は次のやうに述べてゐます。

「もう一つの戦時中の作品『花ざかりの森』を、これと比べて、私はもはや愛さない。一九四一年に書かれたこのリルケ風な小説には、今では何だか浪漫派の悪影響と、若年寄のような気取りばかりが目について仕方がない。十六歳の少年は、独創性へ手をのばさうとして、どうしても手が届かないので、仕方なしに気取っているようなところがある。」

しかし、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』に比べて、「私はもはや愛さない」といふ此の言葉の理由は、『太陽と鉄』といふ1968年、43歳、最晩年のエッセイを読みますと、そこには「言葉に蝕まれている」肉体があつて、その間鍛えてきて造型して獲得した「なんら対象の要らない、一つの透明無比な力の純粋感覚の只中にいる」ことを可能にする筋肉の集合である肉体が、欠けてゐるからでありませう。

しかし、どう考えても、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』は、『花ざかりの森』から生まれたのですから、この時に此の言葉を書かねばならなかつた三島由紀夫の苦しみを、わたしたち読者は思ひ、それが何であり、それが何故かを思ふべきでありませう。何故ならば、死の丁度ひと月前の日付を以って、三島由紀夫は『東文彦作品集』を刊行し、そのあとがきを書き、そこに『花ざかりの森』の最後にも書かれている同じ静寂と静謐を以つて、この文学上の親友を褒め称へ、同じ年齢の若者たちのために、次のやうに書いてゐるからです。

「現在の藝術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けている。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な兆候ではないか、と考える者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の青少年の魂の底から、埋もれていた何ものかを掘り起こす機縁になることを、私は信ずる。

昭和四十五年十月二十五日」(『東文彦作品集』序)


このやうに考えますと、三島由紀夫の詩と戯曲を比較して論じることは、何ら特殊なことではなく、三島由紀夫の文学にとつて、むしろ大切な、重要な、本質的な(essential)ことだといふことになります。

次回以降のどこかで、適切な契機があれば、十代の三島由紀夫の詩群に現れる様々な形象と共に、できるだけ早い時期に、三島由紀夫が6歳で書いた最初の詩『ウンドウクアイ』と44歳の戯曲『癩王のテラス』を同列に論じ、また詩集としての『近代能楽集』を論じることに致します。

(続く)





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