第18週:18_Als ob im Singen die Wörter...(恰も言葉たちが…)by Patrizia Cavalli(1949 - )
【原文】
Als ob im Singen die Wörter
Das Natürliche Denken fänden
Für Worte schon bereit
Doch dem Gesang nicht voraus.
【散文訳】
恰も歌ふことの中に言葉たちが
自然に考へることを
きちんとした言葉のために既にもう見つけてゐるかの如くに
しかし、声を出して歌うことを前提とはせずに恰もそのやうに見つけてゐるかの如くに。
【解釈と鑑賞】
この詩人は、イタリアの詩人です。
イタリア語のWikiです:
https://it.wikipedia.org/wiki/Patrizia_Cavalli
これはいい詩です。
私は日本人ですから、ことさら小さくて短いものが良いと思うのかも知れませんが、つまりは短い小さな言葉に含蓄があるのです。私は、このことを好ましいと思ふ。
ドイツ語の言葉という意味のWort(ヴォルト)には二つの複数形があり、一つは此の詩の一行目にあるWörter(ヴェルター)、もう一つは、三行めにあるWorte(ヴォルテ)です。
前者は、個々のバラバラにある言葉を意味しますが、他方、後者は、木村・相良の独和辞典を引けば、
「(思想・感情の表現としての連関する)語、言葉:語句、文章、話、談話」とあります。有言実行などという場合の有言は、後者です。それで「きちんとした言葉」と訳した次第です。
このことを知ると、この詩のドイツ語訳者もよく此処のところを心得てゐてさう訳したのですから、一層この詩の味はひが深まることでせう。
この詩は、als ob(恰も~の如くに)という、ドイツ語の文法でいふ接続法II式、英語の文法でいふ仮定法の非現実話法で書かれてゐて、主文がありません。從ひ、冒頭に述べたやうな含蓄がある、ある深い興趣を感じるのです。さう思つてみれば、確かに俳句の世界にも和歌の世界のものの言ひ方に通じてゐます。
さうしてまた、その文法上の形式からして、これは現実のことではなく、時間のない無時間の現実の中の実際の様子なのです。
となると、この詩に歌はれてゐる事は、個々バラバラの言葉たちが、歌を歌ふことの中にまとまりのある言葉を、しかし其処に自然のままに思考すること、そのやうな思考、思惟を見つけ、さうすると、バラバラ個々の言葉がひとつのまとまりのある意味を成す言葉になる。「しかし、声を出して歌うことを前提とはせずに恰もそのやうに見つけるが如くに」見つけるのです。
さて、恰も言葉がさうだとして、さうなるとして、あなたは一体どのやうな主文を成すのか、これを考へよと、この詩は、その空白の余韻の中で、この詩の終はつたあとで、更に読者に問ひかけてゐるのです。勿論、その主文は、実際の時間の中に生きてゐるあなたの意志によつて書かれるべき一行なのです。
さうしてみると、実は事情は反対であつて、どの詩もまた、この詩の4行を、あなたの詩の前に、その空白の既にして在る(さういふ意味では超越論的な)余韻に存在するのだと、この詩はいつてゐる事になります。この詩の最後の「。」を「、」に変えて、次のやうな詩を誰もが毎日日常の中で成す、即ち作為なく詩を自分自身が生きたままに歌ふことができるでせう。
(恰も歌ふことの中に言葉たちが
自然に考へることを
きちんとした言葉のために既にもう見つけてゐるかの如くに
しかし、声を出して歌うことを前提とはせずに恰もそのやうに見つけるが如くに、)
私は今日この原稿を書いてゐる。
僕は、あの嫌な行きたくない学校へ行くのだ。
あたいは、あなたが好きなのよ。
俺だって、お前のことが嫌いぢやないのさ、だから怒るなつて。
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