2016年4月16日土曜日

第16週:groteske(グロテスクな女)by Else Lasker-_Schüler(1869-1945)

第16週:groteske(グロテスクな女)by  Else Lasker-_Schüler(1869-1945)





【原文】

Seine Ehehälfte sucht der Mond.
Da sonst das Leben sich nicht lohnt.

Der Lenzschalk springt mit grünen Füssen
Blühheilala über die Wiesen.

Steif steht im Teich die Schmackeduzie.
Es sehnt und dehnt sich Fräulein Luzie.


【散文訳】

自分の伴侶を、月は探してゐる。
といふのは、人生は大抵は報はれないものだから。

春のゴロツキが、青々とした足でぴょんぴょん飛び跳ねて
草原を超えて(草原に)、花咲かりのハイララの花が氾濫してゐる

硬直して池の中に立つてゐるのは、蒲(がま)
ルーシーが憧がれ、そして伸びてゐる。


【解釈と鑑賞】

この詩人は、ドイツ語の詩人です。ユダヤ人で、今Wikipediaを見れば、そのためにドイツを出て、最後はエルサレムの墓地に埋葬されました。モダニズムと表現主義を女性の側から代表する詩人であると紹介されています。以下Wikiの記述です。

ドイツ語のWiki:

英語のWiki:

表現主義の詩人とあるやうに、最初一読して理解が行かぬ詩でした。それは、なぜかといふと、言葉の選択が何か非常に狭い場所にある意味を選択して、何かもっと広い意味を持たせようとしていることと、逆に広い意味の言葉を選択して、何か逆に狭い、限定されて特殊な意味を表現しようとしてゐるからです。連想の幅が非常に広いといふことです。

それから更に気づくことは、文法上の性(gender)を十分に意識して詩を書いてゐる事です。

これらの事を段落ごとに見てみませう。大事な事は、この詩の題名が、グロテスクな女という題名である事です。それも、ドイツ語の原題は、正書法でいへば、die Groteskeとなるところを、無冠詞にして、しかもGroteskeではなく、名詞の最初の文字を小文字にしてgroteskeとしてゐます。

無冠詞であれば、何か儚(はかな)い、所在なげな、放り出されてゐるやうな女といふ感じがします。またその言葉が小文字で始まるのであれば、それは正書法から外れてゐるわけですから、規格外の、社会から外れて、小さく生きてゐるかといふ感じがあるやうに思ひます。

これらの観点から、連を一つ一つ見てみます。

Seine Ehehälfte sucht der Mond.
Da sonst das Leben sich nicht lohnt.
自分の伴侶を、月は探してゐる。
といふのは、人生は大抵は報はれないものだから。

この連の第一行は、男性名詞の月が主語になつてゐます。従い、最初の自分の伴侶とは、品詞の性を思へば、女性名詞である太陽でありませう。それも、最初の伴侶と訳したドイツ語は、直訳すれば婚姻関係の、夫婦の、半分といふ意味ですから、尚一層そのやうに考へることができませう。

二行目のsonstは、大抵はと訳したものですが、もっと突っ込んでいへば、男だけではつまらぬものだからなあ、人生はといふ気持ちがあつて、大抵はそんなものだから、男だけでは、一人やもめでは生きるには割が合わないといふ意味です。

このやうに考へる男を詩にして歌ふ女の詩人はグロテスクだといふのでせうか。

第2連は、

Der Lenzschalk springt mit grünen Füssen
Blühheilala über die Wiesen.
春のゴロツキが、青々とした足でぴょんぴょん飛び跳ねて
草原を超えて(草原に)、花盛りのハイララの花が氾濫してゐる

と訳しましたが、春のゴロツキと訳したLenzschalkは、春がゴロツキだといふ意味です。あるひは、ゴロツキの春といふところです。が、しかし、語構成の順序は、春のゴロツキです。

何故、春はゴロツキで、どうしやうもない男であるのかと言へば、青い足をもつてゐるからであり、日本語でも青い奴といへば、若造で物事の道理を知らない若い男を言ふのと同じやうに、grün(英語のgreen)といふ色もドイツ語では、青二才の青といふ意味があります。さうして確かに、春がLenzといふ男性名詞であれば、その季節は生命が一斉に湧き上がつて、青い色の足でぴょんぴょんと跳ねるがごとくに乱暴粗雑なのでありませう。

この女性の詩人は、從ひ、対極にある静謐を求めてゐるのでせう。

花盛りのハイララの花とあるハイララの写真を掲げます。これはハワイの踊りの花の首飾りで有名な其の花であると見えます。これが静謐な何か静かで、詩人の心を慰さめるものの代表です。





Steif steht im Teich die Schmackeduzie.
Es sehnt und dehnt sich Fräulein Luzie.
硬直して池の中に立つてゐるのは、蒲(がま)
ルーシーが憧がれ、そして伸びてゐる。


Steifという第一行冒頭の副詞を、硬直してと訳しましたが、この女性詩人が表現主義と呼ばれる詩作をするのであれば、また一般的にいつても詩の一行は多義性はもとよりあるものですから、これを情緒に寄せて、頑なにと訳すことも場合に(文脈に)よつて十分に可能です。文脈といふのは、あなたの解釈次第といふ意味です。

最初の行の主語であるdie Schmackeduzieとは、手元の木村・相良の辞書にもなく、ネットの翻訳辞書のサービスに訳されず、二つの言語の間に落ちてゐる名詞ですが、これはどういふ植物かと言へば、日本語でいふ蒲(がま)の穂を持つた、蒲のことと思はれます。ここでもこの詩人は文法的な性を意識してゐて、この蒲は女性名詞なのです。

ドイツ語の世界から持つて来たdie Schmackeduzieの写真です。





日本語の世界から持つて来た蒲の写真です。




Steif steht im Teich die Schmackeduzie.
Es sehnt und dehnt sich Fräulein Luzie.
硬直して池の中に立つてゐるのは、蒲(がま)
ルーシーが憧がれ、そして伸びてゐる。

この最後の行のルーシーと英語風に訳した乙女の名前は、正しくはドイツ語ではルツィエと呼びます。このルーシーまたはルツィエといふ女性の名前は、広くヨーロッパに流布してゐて、ドイツ語のWikiによれば、次のやうな名前です。

Luzie ist ein weiblicher Vorname.
Ursprünglich vom lateinischen Lux (Gen. Lucis, f.) herkommend, zu dt. „das Licht“, ist die Schreibweise mit Z die germanische Variante des Namens mit dieser Bedeutung, wie sie zum Beispiel in Deutschland und Skandinavien Verwendung findet. Diese Variante ist nicht zu verwechseln mit romanischen Varianten des Namens, wie etwa Lucia (ital.) oder Lucie (fr.). Im Abschnitt Varianten des Artikels "Lucia" finden sich weitere, zumeist romanische Varianten.

ルツィエといふ女性の名前は、光を意味してゐます。英語のWikiではもつと次のやうに書いてあります。

Lucy is an English and French feminine given name derived from Latin masculine given name Lucius with the meaning as of light (born at dawn or daylight, maybe also shiny, or of light complexion). Alternative spellings are Luci, Luce, Lucie. Lucy is also an American, Australian, Canadian, English, Irish, Scottish, Welsh and French surname.


これを読みますと、”as of light (born at dawn or daylight, maybe also shiny, or of light complexion)ありますから、やはり夜明けの光か、夕暮れの光か、何か明確な昼と夜の間にある曖昧模糊としてある時間を意味するLuzie、ルツィエ、ルーシーでなければならなかつたのでありませう。それ故にこそ、上に述べましたやうに、この詩の題名のgroteskeは、無冠詞でなければならず、

無冠詞であれば、何か儚(はかな)い、所在なげな、放り出されてやうな女といふ感じがします。またその言葉が小文字で始まるのであれば、それは正書法から外れてゐるわけですから、規格外の、社会から外れて、小さく生きてゐるかといふ感じがあるやうに思ひます。

と上で書いた通りの女性を歌つてゐるのです。

しかしまた、of light complexionありますから、複雑精妙な光を放つ存在でも、このgroteskeは、あるのでありませう。

しかしそれでもなお、月は太陽を求め、春はハイララの花を求め、これらは自然の男女の一対の姿であるのに対して、最後の連では、人間の女性であるルーシーは、光の存在として、華やかにではなく、池の中に凝つとして堪えて、頑なにあるまでにも、しかし、それらの一対のあり方を求めて、これを憧れ、身の丈を伸ばしてゐるのだ。

これが、この詩の解釈といふことになりませう。

現代にも十分に通じる詩だと思ひます。

もし当時と異なる解釈があり得るとしたら、この女性と男性の関係を全て交換しても、ひよつとしたら此の詩が成り立つといふのが、今時のご時勢であるかも知れぬといふところでありませうか。




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