2016年4月30日土曜日

リルケの『形象詩集』を読む(連載第12回): 『音楽』(『Musik』)

リルケの『形象詩集』を読む(連載第12回): 『音楽』(『Musik』


【原文】

Was spielst du, Knabe? Durch die Garten gings 
wie viele Schritte, flüsternde Befehle. 
Was spielst du, Knabe? Siehe deine Seele 
verfing sich in den Stäben der Syrinx. 

Was lockst du sie? Der Klang ist wie ein Kerker, 
darin sie sich versäumt und sich versehnt; 
stark ist dein Leben, doch dein Lied ist stärker, 
an deine Sehnsucht schluchzend angelehnt. - 

Gieb ihr ein Schweigen, daß die Seele leise 
heimkehre in das Flutende und Viele, 
darin sie lebte, wachsend, weit und weise, 
eh du sie zwangst in deine zarten Spiele. 

Wie sie schon matter mit den Flügeln schlägt: 
so wirst du, Träumer, ihren Flug vergeuden, 
daß ihre Schwinge, vom Gesang zersägt, 
sie nicht mehr über meine Mauern trägt, 
wenn ich sie rufen werde zu den Freuden. 


【散文訳】

何を演奏しているんだい?子供よ。それは数々の庭園を通り抜けてやって来たよ
数多くの規則正しい行進のように、囁(ささや)いている命令のように。
何を演奏しているんだい?子供よ。お前の魂を見てごらん
お前の魂は、シリンクスの精(ニンフ)の葦笛の管の中に捉えられているよ。

お前は何を餌にしてお前の魂を誘いだそうというのかい?その響きは牢獄のようだし、
その牢獄にあっては、お前の魂は愚図ぐずしているし、そして何かに憧れているのにそれが実現しないで渇(かつ)えているのだよ。というのは、
強いのだから、お前の生命は、しかし、お前の歌が更に一層強いからなのだ
お前の歌は、お前の憧れに、すすり泣きながら、もたれかかっているのだから。―

お前の魂に沈黙を与えるのだ、そうすれば、魂というものはそっと
謂わば故郷に還るように、(河のように)流れ居るものであって且つ数多くのものたちの中へと、戻って来るのであり
その中で、魂は、成長しながら、広くまた聡明にも、生きもしよう
お前が、お前の柔らかな演奏の中へと入るように魂に強いる前に。

魂が翼を羽ばたかせるのにもう疲れてしまうのであれば、それは即ち、
お前、夢見る者よ、お前が、魂の飛翔を蕩尽することになるのだし
その結果、魂の振動が、歌という鋸(のこぎり)によって切り取られてしまって
魂を、もはや二度とは、私の壁を超えて運び出すことはなくなるのだ
もし私が、数々の実際の歓びへと、これから魂を、おいでと呼んで来させようとしても。


【解釈と鑑賞】

次の目次とします。

(1)前の詩との関係
(2)『形象詩集』に歌われる少年像
(3)リルケの庭について
(4)少年の魂について
(5)少年の魂の持つ再帰的な問題の解決について
(6)魂と鳥と存在の関係について
(7)この詩を一言で言えば
(8)次の詩との関係

前の詩との関係
前の詩が、静謐、静寂、静けさという題の詩でありましたから、今度は音楽の音おのする詩を、リルケは置いたのです。

しかも、前の静寂と題した詩では、詩人と乙女の間には遥かな距離があって、その距離の故に、詩人の身振りの立てるさやけき神聖なる音が、乙女の元へと届き、詩人は内部と外部を交換して、宇宙と交感する存在となることができるのでした。詩人も未分化の実存であり、処女である女性、即ち乙女もまた、性愛を男とは交わさぬ、そういう意味では(安部公房の好む言葉を使えば)女性「以前」の状態にある、即ち未分化の実存であるのです。

さて、乙女とは女性の性ですが、他方、この詩の冒頭に歌われる少年とは男性の性が成熟した大人の女性と性愛を交わす「以前」の状態にある男性、いややはり男性「以前」である未分化の実存、即ち生きて存在の中に存在する者だということになります。

リルケは、このような少年という存在を、また自分の人生を振り返って特にその幼年期を人間にとって大変大切な時期だと考えていました。その例を、この『形象詩集』の他にも、リルケの最晩年の二つの傑作『ドウィーノの悲歌』と『オルフェウスへのソネット』より引用して、お伝えします。あなたにリルケの少年観を知って戴くと、それがそのまま安部公房の未分化の実存たる少年像、即ち『けものたちは故郷をめざす』や『終りし道の標べに』といった初期の小説や、最晩年の『カンガルー・ノート』や、また遺作の『飛ぶ男』や『さまざまな父』に登場する少年たちの姿に通じるからです。

『形象詩集』に歌われる少年像
『形象詩集』には、Knabe(クナーベ)、即ち少年という言葉が出て来る詩が6篇あります。全ての詩篇の名前を以下に挙げて、その最初の幾つかについて解釈を施してみます。それ以外のものは、やはり言葉の量が多いので、ここでは最初の幾つかの詩篇の当該箇所を除き、その例示に留めます。いづれにせよ、リルケという詩人の詩想を知って下さるとありがたく思います。

1。『Die Heilige』(『聖女』)
(1)民(民族)の全体が飢え、渇(かつ)えている時に、飢えることを知らぬ乙女(やはり処女なのです)が、民のために出現する。聖女なる乙女と少年はいつも対語であり、縁語なのであり、概念連鎖の一式なのです。
(2)聖女なる乙女は、星に喩えられている。また、
(3)この乙女は、柳の枝、鞭のように柔らかな枝に喩えられている。
(4)長い行路(旅路)の果てに疲れてしまって、この乙女が思い至るのは、病気の少年がいいて、二人は一度既に夕暮れ時にお互いを見たことがあるという思いである。即ち、(旅、乙女、病の少年、夕暮れ、「既にして」超越論的に会う前にあっていると言うこと)が歌われております。
(5)上の(4)に続いてある詩行をそのまま引きます:Da neigte sich die junge Weidenrute in ihren Händen dürstend wie ein Tier: jetzt ging sie blühend über ihrem Blute, und rauschend ging ihr Blut tief unter ihr.

この詩行の訳は、「リルケの『形象詩集』を読む(連載第11回) 『Die  Stille』『静寂』」(もぐら通信第42号)よりそのまま引用して、解釈と鑑賞の記述とともに以下に示します。

散文訳
すると、若い柳のしなやかな若枝が、お辞儀をした
聖なる女の両手の中で、水を渇望しながら、一匹の獣のように:
今や、女は、花咲きながら、若い柳の血の上を歩んだ
そうして、さやさやという音を立てながら、その血は深く、女の下を行った。
(拙訳)

解釈と鑑賞
この詩でも、両手は、「聖なる女の両手の中で」とあるように、神聖なるものであり、何か生命の蘇りをもたらす窪みとなっています。

安部公房の詩や初期の作品の中に、この獣という言葉が出てきますが、それはすべてこのような両手に深く関係した生命の蘇生の象徴であると理解して差し支えありません。安部公房は、リルケから幾つもの語彙を学び、自家薬籠中のものとしました。
(略)
次は、『Menschen bei Nacht』(『夜のそばの人間たち』)という詩です。
(略)
この詩でも、夜の重たい身振りと聖なる両手は縁語になっています。つまり、いつも対になって出てきます。この夜の重たい身振りと言えば、最晩年の傑作『ドィーノの悲歌』の第1番第1連には、夜は、次のように歌われております。
(略)
身振りと両手は、また夜と繋がっていることになります。そうして、上の最初の二行にあるように、夜は人を無名にする。従い、

身振りー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な人々ー夜ー無名

という概念連鎖になりましょう。

この概念は、両手が其の連鎖の鎖の一つになっている以上、この聖女なる乙女の両手にあってもまた、身振りー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な人々ー夜ー無名の連鎖に連なっていると考えることができますので、次のような連鎖に、この場合は変形させることができましょう。

身振りー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な聖女(乙女)ー夜ー無名
身振りー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な少年ー夜ー無名

この二つの二人の概念連鎖を念頭に、この詩の最後の2行を読んでみましょう。

jetzt ging sie blühend über ihrem Blute,
und rauschend ging ihr Blut tief unter ihr.
今や、女は、花咲きながら、若い柳の血の上を歩んだ
そうして、さやさやという音を立てながら、その血は深く、女の下を行った。

そうすると、上記の概念連鎖は、聖女については、次のように更に増殖します。

聖女:
身振り(お辞儀)ー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な聖女(乙女)ー夜ー無名

少年:
身振りー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な少年ー夜ー無名

少年は病気ですから、横になっているか、床に臥せっているか、いづれにせよ身振りのできない状態なのでありましょう。とすれば、あとはこの連鎖と此の『音楽』という詩との関係を考えると連鎖を満たしていないのは、夜と言うことになりますが、しかし、「二人は一度既に夕暮れ時にお互いを見たことがあるという思いである」のですから、この超越論的な一行に於いて「既にして」夜の到来は必至です。

とこのように見て参りますと、

前回の『静寂』という詩と此の『聖女』という詩は、同じ動機(モチーフ)を総て共有しているということができます。

2。『Kindheit』(『子供時代』または『幼年時代』)
この詩には、少年という言葉は出て参りませんが、この題名からして既に子供であることは如何なることかを歌っている詩です。以下にその特徴を、訳し下ろすままに、箇条書きにて列挙します。
(1)学校というところは、少年にとっては、忍耐強く待って、その長い不安に耐える場所であり、そこに在る諸事諸物は鈍いものたちである。それ故に、
(2)少年は孤独である。その時間を過ごすことは大変なことである。だから、
(3)少年は、外へ、戸外へ、通りへ出る。すると、
(4)通りは、水の飛沫(しぶき)を撒き散らし、音が鳴り響くものであり、諸処に幾つもの泉が水を噴き上げていて、そして、
(5)諸処の庭にあっては、世界が、かくも広いものになる。『音楽』という今回論じている詩の冒頭第一行に複数の庭が歌われています。この庭もまた、世界の広くなる筈の庭と解してよいでしょう。つまり、リルケにとって庭とは、いつも世界が広くなる場所であるのです。そうして、
(6)こういったことの総てを通り抜けて、小さな衣装を身にまとって、他の人たちとは全く異なった風に行き、そして行ったのは、何かというと、それは、
(7)「おお、素晴らしい時間」なのであり、「おお、時間を過ごすということ」なのであり、「おお、孤独」なのである。
(8)そして、これら(6)と(7)のこと総ての中を、遠く遥かなところから見遣り、眺め入ること。即ち、
(9)たくさんの男と女を、たくさんの男たちを、たくさんの男たちを、たくさんの女たちを、そしてたくさんの子供達を、これらの者たちは皆違っていて、そして多彩であり賑(にぎ)やかである、ということを見遣ること。つまり、大人たちは、男も女も、子供からは遠く離れていて、大人と子供は画然として異なっていることを、遠く遥かなところから見遣り、その中を眺め入ること。
(11)その大人同士の関係にあるのは、意義のない信頼、夢、恐怖、根拠のない深さである。リルケがここで歌っているのは、夢とあるように、単なる夢を大人は見ていて、夢を大人として見ているのだけでは、少年の思いや願い事や本来持っている何かは成就しないということを言ってるのです。ここでいう意味の夢は、『音楽』の最後の連の二行目にも、夢見る人、英語ならばdreamerとして少年に呼びかけられて、そのような大人のような分化した人間で夢見るのであっては、お前の魂は外に現れないぞと歌われています。即ち、魂が外へと出ることが、少年が何か願ってやまないことの実現であると、リルケは歌っているのです。安部公房の読者であるあなたが男ではなく女であれば、少女として、そうあれと言っているのです。
(12)子供達の遊びは、庭の中でするボール遊び、輪遊び、そしてタイヤ(チューブ)遊びである。庭の中でとあるように、この庭もまた、上の(5)にあるように、世界が広くなる場所なのです。従い、子供は世界を既に持っているとリルケは考えていることになります。これが、子供と大人の大きな違いなのでしょう。
(13)しかし、夕方には静かになって、小さなこわばった足どりで、大人たちの知らぬ一つの世界を広く大きくして庭で遊んだ子供たちも、この薄暮の時間になると、きちんと良い子になって、家に帰ること、即ち、そうすると、
(14)子供の持つものごとに対する理解は、「いつももっと逃れ去り行く理解」ということになってしまい、本当に理解からは離れてしまい、子供は不安になり、重荷を背負うことになる。どんな重荷かは、具体的にはリルケは書いておりません。そうして、
(15)子供は、長い時間、何時間も、大きな灰色の池のほとりにいて、一艘の帆船を持って膝まづいて居ること、即ち、そうやって居ることを忘れないようにするのです。何故ならば、まだ他にも同じような、しかしもっと美しい帆船がいて、それらが幾つもの円環を通って行き、それらの帆船は、小さな蒼白の顔を思わねばならないからです。それは、沈みながら、池の中から外へと現れ出る顔である。それが子供時代であり、子供時代とは何かの罰を受けている、代償を払っているということの譬喩(ひゆ)なのです。

しかし、この子供時代はどこへと行くのだろうか?(大人になることとの関係をどう考えるべきなのだろうか?)この(15)の詩行は理解にむつかいい詩行ですが、しかし、今は此の詩集の題名のままに受け止めておいて、その池と帆船と円環の形象をのみ記憶に留めておきましょう。この詩を論じる段になったならば、そこでまた詳述します。

3。『Aus einer Kindheit』(『ある子供時代より』または『ある幼年時代より』)
これは題名からして既に少年を含んだ幼年の時代を歌っています。しかもリルケらしいのは、この題名を正確に訳し、少し誇張を施して訳せば、『子供時代の内部より外部へ』または『幼年時代の内部より外部へ』となることです。

どうも、少年は内部と外部の交換に関係があるらしい。さて、この詩の内容を箇条書きにすると、
(1)暗闇は、空間の中にある富のようであった。この一行でわかることは、リルケは、富は時間の中にあるのではなく、空間の中にあると考えていることです。これは、安部公房と同じです。いや、文学の詩の世界では、元々幾何学的に物事を考えていた安部公房が、リルケにこれを教わって開眼したというべきでしょうか。
(2)その暗闇の中に、少年は居る。非常に秘匿されて座って居る。
(3)母親が、その暗闇の空間の中に入って来たときには(これは過去の出来事として言われている)、母親は何か夢の中でのように入って来る。その時、
(4)静寂の、静かな棚で、グラス(硝子)が震えた。
(5)その子供のいる部屋が自分を裏切った、自分の子供が秘密にされていて座っている部屋、その暗闇の空間の中に入ったことを、その部屋が密告したと、母親は感じる。しかし、
(6)母親は子供に接吻をして、問う。”お前はここにいるのかい?”と。そのあとに、
(7)二人は不安な気持ちでピアノの方を見やった。というのは、
(8)幾多の夜々に、母親は一つの歌を持っていて、その歌の中に其の子供は、普通ではなく珍しいほどに深く、囚われていたからである。
(9)子供は非常に静かに座っていた。子供は大きくものを見るのであったが、そのものの観見(かんけん)は、母親の手に掛かっていて、その母親の手は指環によって曲がっていて、恰も其の手が吹雪の中を行くかの如くに、白い鍵盤の上を進んだのであった。

これを見ますと、母親と少年の関係において、

(1)母親との関係では、子供は母親の弾くある曲を共有している。
(2)子供は、その曲の中に深く囚われている。
(3)子供は、暗い闇の中にある部屋に秘匿されるように、密かに、静かに座っている。とすれば、
(4)母親は子供を闇の部屋に秘匿していて、夜毎夜毎に同じ一つの曲をピアノで弾き、息子に聞かせていたということになる。あるいは、母親以外の何かが少年を秘匿したのかもしれない。さて、それが目的かどうかは不明であるが、結果として少年は其の曲の中に深く閉じ籠められて出ることができない。
(5)しかし、母親も、意図的に自分の演奏する音楽の中に少年を閉じ籠める意志があるわけではない。何故ならば、二人でピアノという楽器を不安顔で見遣るからである。即ち、
(6)母と息子たる少年にとって、音楽とは何か、ピアノで演奏される音楽とは一体何を意味するのか

ということになります。即ち、少なくとも、

(7)その演奏者である母親は、少年である息子の部屋の闇の中でピアノを演奏することを止められず、
(8)それを聴く息子である少年(未分化の実存)は、それによって楽曲の中に閉じ籠められる。そして、
(9)その空間は、子供部屋であり、そこには夜と闇があり、その中に子供は秘匿されて、秘密にされて、静かに座っている。

今典拠を示すことができませんが、リルケの言葉で、安部公房の世界にそのまま通じる言葉あります。それは、最も近いものは最も遠く、最も遠いものは最も近いというリルケの言葉です。

上記(7)と(8)のことは、確かに、このリルケの言葉、実は箴言と言いたい位によくできた言葉ですが、このリルケの言葉の思想と詩想を如実に表しております。

再度、ここに至って、今回読んでいる『音楽』という題の詩の第一連を見てみましょう。

Was spielst du, Knabe? Durch die Garten gings 
wie viele Schritte, flüsternde Befehle. 
Was spielst du, Knabe? Siehe deine Seele 
verfing sich in den Stäben der Syrinx. 
何を演奏しているんだい?子供よ。それは数々の庭園を通り抜けてやって来たよ
数多くの規則正しい行進のように、囁(ささや)いている命令のように。
何を演奏しているんだい?子供よ。お前の魂を見てごらん
お前の魂は、シリンクスの精(ニンフ)の葦の管の中に捕えられているよ。

これを、ここで読んでわかることは、この詩では、母親が少年になり、成熟した女性である母親が、未分化の実存たる少年になっていて、この少年が何かを演奏しているということです。このドイツ語の「何を演奏しているんだい?子供よ」という言い方の含意は、次の二つです。

(1)何の楽器を演奏しているのか?
(2)何の曲を演奏しているのか?

しかし、この詩の第一行に「それは数々の庭園を通り抜けてやって来たよ」とありますので、このように数々の庭園を渡って来るのは、やはり楽器ではなく、楽曲でありましょう。

さて、少年は何かの曲を演奏している。そうして、演奏している少年の魂は、古代ギリシャ神話のシリンクスという妖精、アルカディアという楽園を流れる河の精が、パンという半獣半神の神に捕らわれようとして、それから逃れるために葦笛に変身をする其の葦笛という楽器の管の中に捕えられているというのです。つまり、少年よ、お前の魂は、シリンクスの妖精の変身した葦笛の管の中に捕らわれているのと同じだというのです。

このパンとシリンンクスという動機(モチーフ)は、ヨーロッパの中では知られた動機であるようで、ルーベンスという画家に、次の絵があります。



これを見ますと、やはりどこか河のそばのようで、しかも葦が生い茂っている場所での出来事です。葦笛の写真をインターネットより引いてみます。



また、パンの神がシリンクスである葦笛を吹いて、曲を演奏している次のような図柄もありますので、そのように変身を強いた者によって、あまつさえ、不本意にも演奏される其のような美しい女性という含意もあることになります。



このように考えて来て、この『ある子供時代より』という詩の意味することを、『音楽』という今回の詩と比較をしてみますと、古代ギリシャの神話を踏まえながら、その上に、ニンフという美しい神的な成熟した魅力ある女性を、未分化の実存たる少年に、パンの神という半獣半神の男性を、成熟した女性である母親にと交換して、立場を入れ替えて、この詩を書いているということになります。

何故詩人はこのような交換をするのかといえば、私の考えでは、安部公房がリルケに教わった内部と外部の交換もそうですし、これが一番典型的な例ですが、つまり余剰が、その交換によって生まれるからです。部外の意味が生まれる。それがまさしく、リルケの此の『音楽』に歌われている曰く言い難い何か、即ち此の詩の富ということになります。

以下、関係する詩篇の名前だけを簡略に示し、先を急いで、第一連の、もう少し続けての解釈に参ります。

3。『少年』(『Der Knabe』)
4。『詩の会』(1899年と1906年)(『Ein Gedichtkreis (1899 und 1906) 』)
(1)II(第II章)
(2)IV(第IV章)
5。『パウラ・ベッカーモーダーゾンに在っては』(『Dem Andenken von Paula Becker-Modersohn』)
6。『一つの題名のついた9つの紙葉』(『Neun Blätter mit einem Titelblatt』Titelblatt)

リルケの庭について
さて、第一連の第一行にも庭が複数形で歌われています。この庭については、既に『乙女たち』と『花嫁』という前の二つの詩で考察したところです。再度リルケの庭についての箇所を引用して思い出し、理解を深めたいと思います。

後者の詩では、庭は次のように歌われておりました。少し長い引用になりますが、庭がどのような文脈(context)、即ちどのような他の(庭以外の)言葉との関係、即ち概念連鎖の中にあるのかを思い出して下さい。

「やはり、この花嫁は、処女として存在の部屋の内部にいるのですから、未分化の実存として、そこにいて、交われば恐らくは自分自身の死を齎(もたら)すことになる筈の花婿を待っているのです。何故、そうできるかといえば、

「古い、プラタナスの並木道には
夕暮れがもはや目覚めることはないのよ。
プラタナスの並木道は空っぽなのです。」

とあるように、この行に対応する『乙女たち』の行を読みますと、

「そして、詩人たちは、お前たちに触れて、遥かな距離を生きることを学ぶのだ
夕べ夕べが、偉大な星々に触れて
永遠というものに慣れるように。」

とあることから判るように、「夕暮れがもはや目覚めることはない」ということは、「夕べ夕べが/偉大な星々に触れて/永遠というものに慣れるように」なって、夕暮れは永遠に慣れてしまい、夕暮れは永遠に来ないということを言っているのです。即ち、二人が交わって、性愛を交わす夜の時間は、この存在の部屋には、訪れて来ないのです。それ故に、

「そして、あなたは、わたしを、あの、夜の、暗い家の中へと
あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば、」

即ち、永遠にやって来ないあなた、即ち永遠にやって来ているあなたが、存在の部屋の中にではなく、現実の「あの、夜の、暗い家の中へと」「あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば」、今度は逆に、

「私は、私を、私の両手の中から外へと出して
暗い青色の庭々の中へと
注ぎ込まねばならないのです。」

と、この花嫁は歌うことになるのです。

『乙女たち』によれば、この同じ箇所は、詩人の側から次のように歌われておりました。

「詩人というものを、その庭の中で、孤独であるがままにさせて置いてくれ
お前たちを、永遠なる者として迎え容れた其の庭の中で」

即ち、この庭に、恰も水のように「私」を「注ぎ込」むのであれば、水は常に1になり、別れてもいつも一つになる全体、即ち存在でありますから、この乙女は、一つの庭でだけではなく、存在となって複数の「暗い青色の庭々の中へと」我が身を注ぎこむことになります。

何故そのような献身が可能であるかといえば、

「古い、プラタナスの並木道には
夕暮れがもはや目覚めることはないのよ。
プラタナスの並木道は空っぽなのです。」

とあるように、その心は、永遠に来ない夕暮れ、あるいは永遠に夜になることはない夕暮れ、即ち昼と夜の間、その差異にある時間、即ち時差であり隙間である時間には、「プラタナスの並木道は空っぽ」だからなのであり、それは何故空っぽかといえば、『乙女たち』によれば、

「行け!....暗くなって来たぞ。詩人の五感は求めることが、もはや、ない
お前たちの声と姿を。
そして、道という道を、詩人は愛する、長く、そして空虚に
そうして、暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色は愛さない
そして、沈黙した部屋を、詩人は非常に愛する」

とあるように、空虚な「古い、プラタナスの並木道」は、詩人の愛する「道という道」、道々であるからであり、それは、存在への接続の通路であり、トンネルであるからであり、それ故に『乙女たち』によれば、

「ただ娘たちだけが、訊かないのだ
どの橋々が形象たちへと通じているのかを」

と歌われている、この「橋々が」「通じている」「形象たちへと」至るための、これは全く同じ(乙女たちが訊く必要のないほどに自明の)「空っぽ」の「古い、プラタナスの並木道」であるからです。

「空っぽ」の「古い、プラタナスの並木道」は、「橋々が」「通じている」「形象たちへと」、即ち存在から、時間を脱して生まれる形象に至るための、同じ接続なのです。」

これを読むと分かるように、青い数々の庭は、

ー窓ー部屋ー沈黙ー存在ー水ー乙女ー庭ー詩人ー夕暮ー橋ー並木道ー

という連鎖の中にあります。

青いという色が既に、これらの連鎖を意味している、即ち含んでいるのでした。

しかし、この『音楽』にある庭には、どうも上の連鎖のうちの、窓や部屋や沈黙といった大切な要素が意識されておりません。時間もまた、夕暮かどうかもわかりません。

本来は、『花嫁』や『乙女たち』の詩に歌われたような庭であることができる筈ですが、そうはなりません。そうはなっていない理由は、ひとえに、少年が自ら演奏する曲によって、その魂が「シリンクスの精(ニンフ)の葦笛の管の中に捉えられている」からだということになります。

少年の魂について
さて、これが少年にとっての現実だとして、そのままに理解をして、第2連を眺めますと、

「お前は何を餌にしてお前の魂を誘いだそうというのかい?その響きは牢獄のようだし、
その牢獄にあっては、お前の魂は愚図ぐずしているし、そして何かに憧れているのにそれが実現しないで渇(かつ)えているのだよ。というのは、
強いのだから、お前の生命は、しかし、お前の歌が更に一層強いからなのだ
お前の歌は、お前の憧れに、すすり泣きながら、もたれかかっているのだから。―」

とありますので、少年の魂は、この曲の韻律の響きは牢獄のようであり、その調べによって謂わば籠の中のように閉ぢ籠められている状態ですので、これを脱して、外へ出たいとねがっている。

この連の最後の二行を見ますと、何かこの歌、この曲は、少年の生命を喰い物にしているように見受けられます。決して肯定的にではなく、明朗にではなく、反対に否定的に、消極的に、少年の魂の抱く脱出したいといふ憧れに「すすり泣きながら、もたれかかっている」のですから。

韻律を持った楽曲は、未分化の実存である少年の魂を、その意に反して、その音色という牢獄の中に閉ぢ籠めてしまう。少年の魂は、否応なく、そうなってしまう。

それ故に、第一連の第二行には「数多くの規則正しい行進のように、囁(ささや)いている命令のように」その曲が鳴り渡ると歌われているのでしょう。少年の魂は、「規則正しい行進」や、「囁(ささや)いている」とはいえ、そのような「命令」の調子には従うことができないし、そうしたくはない。

このように考えてきますと、少年の魂は、詩人の眼からみますと、やはり再帰的であるというほかはない。世間の目に見えるいつもの言葉で言えば、自己撞着、自己矛盾であると、そう思われるのではないでしょうか。そうして、世の人は、この名前で其の様子を呼んで、それが本当は一体何であるのかを忘れてします。

しかし、詩人は忘れない。何故ならそれは、見かけはそう呼ばれていても、それは言語の本質に由来する、この世の流行の中に生きた人間として、存在に生きるものの真の姿、即ち未分化の実存だからです。

そうして、そのような人間の一人である詩人のところへと、数々の庭を通り抜けて少年の曲が響き渡って来るとある以上、この詩の話者である詩人は、少年からはやはり詩人らしく、遥かな距離を以て、少年からは遠いところにいるものと見えます。

しかし、折角この遥かな距離が、少年という未分化の実存と、それを解する詩人との間に、お互いにありながら、その音色は詩人のところへは、さやけき音、rauschen(ラオシェン)という音としては響いては来ないのです。

前回の詩『静寂』にあっては、詩人のささやかな身振りが、そのままさやけき音を立てて、やはり(少年と同様に)未分化の実存である、性愛を知らぬ乙女のところへと響き渡り、届くのでした。リルケは、丁度それと正反対の詩をここで書いたということになります。ですから、『静寂』ではなく、『音楽』なのでしょう。

少年の魂の持つ再帰的な問題の解決について
しかし、一体どうやったら、少年の魂は、その再帰的な自己との関係に起きているこの問題を解決して、静寂を得ることができるのでしょうか。

第3連に進みます。

第3連を読みますと、少年の魂がこの世、時間が河のように流れているものの中に帰ってくるには、沈黙が必要だ、それがあって初めて魂は流行の中にいることができると言っています。

としてみますと、少年の魂は、この世の(仮にこの世としておきますが)時間の中にある流行の中に戻って、大きく成長することは当然のことながら、出来ていて、その力があって、そのためには、その流行という流れの中に沈黙、音のない世界がなければならないというのです。

この沈黙が、第1連と第2連で歌われていた再帰的な少年の問題の解決というわけです。

時間の中に音のない沈黙の世界を創造する。そこに静寂の世界を創造する。これが、リルケの願ったことであり、また安部公房が終生、その作品に実現したいと心密かに願っていたことだと、私は考えています。後者による其の達成は、死後に箱根の仕事場のワードプロセッサーから発見されたフロッビーディスクの中にあった『さまざまな父』や『飛ぶ男』に十二分に見ることができます。これらの作品世界は、余りに静謐です。リルケならば、安部公房よ、お前は散文で、自己の文体(style)で、お前の其の詩的散文の様式(style)で、到頭、純粋空間を創造したなと賛嘆し、賞賛することでしょう。

さて、第4連、最後の連です。

魂と鳥と存在の関係について
リルケの詩の世界では、魂は鳥に譬(たと)えられて、よく歌われます。つまり、魂には、天使と同様に、翼があるのです。そうして、鳥とは、群れて高い空を飛び、いつも意思疎通を緊密にしていて互いに親密に理解しあえる動物であり、同時に、また従い、離れてもまた自由自在に一つに、一体に、即ち1に、即ち存在になることのできるものですから、リルケの世界では、鳥は、純粋空間に存在することのできる動物の、典型的な生き物の一つなのです。

即ち、魂もまた存在に深く関わる、それも大人ではなく少年の、存在に生きる魂なのです。

リルケ最晩年の傑作二つのうちの一つ『ドィーノの悲歌』より、魂が如何に鳥のように翼を以て飛翔するか、その箇所を引用してお伝えします。それは、悲歌2番で、天使が如何に恐ろしい存在かということをいった後にやって来る箇所です。

ここには、

天使ー死ー鳥ー魂

という概念連鎖があります。

Jeder Engel ist schrecklich. Und dennoch, weh mir,
ansing ich euch, fast tödliche Vögel der Seele,
wissend um euch. Wohin sind die Tage Tobias,
da der Strahlendsten einer stand an der einfachen Haustür
zur Reise ein wenig verkleidet und schon nicht mehr furchtbar;

【散文訳】
どの天使も恐ろしい。そして、それでもなお、わたしにはつらいことだが、わたしは、お前たち、魂の鳥たち、しかし、魂をほとんど殺してしまう鳥たちであるお前たちを歌い、お前たちに歌うのだ、お前たちについて知ることを求めながら。(大天使と睦まじかったあの)トビアスの日々は、どこへ行ってしまったのだろうか。最も輝ける者のうちのひとりが、簡素な家の戸口に立っていた、旅の姿に身をやつして、従いもはやそれ以上恐ろしくはない姿になって。(彼が興味津々、好奇の念を以って外を眺めやった通りに、若者が若者に。)〔拙訳〕


ここでは、天使たちが「魂の鳥たち」と呼ばれています。そうして、「魂の鳥」である天使は、「魂をほとんど殺してしまう」、天使を鳥に譬えれば、そのように恐ろしい鳥であるというのです。

この、天使に備わる恐ろしさ、物凄さという性質は、この悲歌に特有なもので、最晩年のリルケの至った天使像なのです。これについては、既に『リルケの天使論:ドィーノの悲歌の天使像』と題して、私の詩のブログ「詩文楽」にて論じてありますので、ご興味のある方はご覧くださいると有難く思います。:http://shibunraku.blogspot.jp/2009/07/blog-post.html

さて、魂が、天使と同様に二つの翼を持ち、天翔るものだとして、しかし、この第4連、この最後の連に歌われている少年の魂は、そうではなく反対に、羽ばたくことに疲れ切っているのです。それは、


Wie sie schon matter mit den Flügeln schlägt: 
so wirst du, Träumer, ihren Flug vergeuden, 
daß ihre Schwinge, vom Gesang zersägt, 
sie nicht mehr über meine Mauern trägt, 
wenn ich sie rufen werde zu den Freuden. 
魂が翼を羽ばたかせるのにもう疲れてしまうのであれば、それは即ち、
お前、夢見る者よ、お前が、魂の飛翔を蕩尽することになるのだし
その結果、魂の振動が、歌という鋸(のこぎり)によって切り取られてしまって
魂を、もはや二度とは、私の壁を超えて運び出すことはなくなるのだ
もし私が、数々の実際の歓びへと、これから魂を、おいでと呼んで来させようとしても。

とあるからですし、またそのように魂を疲弊させるようなお前、曲を奏でる少年よ、それによって自らの魂を葦笛の中に閉じ籠めている少年よ、お前は単なるdreamerであり、夢見る者に過ぎないのだというのです。上記の「2。『Kindheit』(『子供時代』または『幼年時代』)」の(11)で見た、次のことを思い出してください。

その大人同士の関係にあるのは、意義のない信頼、夢、恐怖、根拠のない深さである。リルケがここで歌っているのは、夢とあるように、単なる夢を大人は見ていて、夢を大人として見ているのだけでは、少年の思いや願い事や本来持っている何かは成就しないということを言ってるのです。ここでいう意味の夢は、『音楽』の最後の連の二行目にも、夢見る人、英語ならばdreamerとして少年に呼びかけられて、そのような大人のような分化した人間で夢見るのであっては、お前の魂は外に現れないぞと歌われています。即ち、魂が外へと出ることが、少年が何か願ってやまないことの実現であると、リルケは歌っているのです。安部公房の読者であるあなたが男ではなく女であれば、少女として、そうあれと言っているのです。

あなたが男であれば少年の魂を、女であれば少女の魂を思い出せ。

この詩を一言で言えば
少し解釈を拡張してみて、これはこれでやはり語弊も生まれるかも知れませんが、しかし、この詩全体を、第4連を中心にして、思い切って散文的に大胆に要約すると、次のようになるでしょう。

少年よ、お前の魂の振動は、「規則正しい行進のように、囁(ささや)いている命令のように」有る歌という、沈黙を壊してしまう、そのような鋸(のこぎり)によって切り取られてしまっているぞ
単なる夢見る者であることを止めよ
それでは、折角、少年よ、未分化の実存よ、お前と遥かな距離を設けて
私はこうして堪えに堪え、待ちに待っているというのに
お前の魂の天翔るのを、しかし、
お前の魂は飛翔することなく
私がお前の魂に呼びかけて、早くこっちへやって来いと言っても
お前の魂は、少年よ、私という詩人のところへやって来て
あの歓び、この歓びとあるものを、そうやってお前と共に楽しむことを楽しみにしているものを
私の庭にあるこの四囲の壁を超えて、やって来ることができないではないか
何も知らずに、少年であることの深い意義を知らずに
そのままでいて、いいものか?
答えは、否である。

と、そうリルケは、いや此の詩の話者である詩人は歌っているのです。

次の詩との関係
少年ー魂ー翼ー憧れー庭

という連想連鎖から、当然のことに、次の詩は『天使』となります。








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