2015年8月18日火曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く8:三島由紀夫の『文化防衛論』と安部公房



三島由紀夫の十代の詩を読み解く8:三島由紀夫の『文化防衛論』と安部公房


三輪太郎氏が『群像』(9月号)に小説『憂国者たち』を発表したとことを聞きました。

この方は、四半世紀前に同じ群像にて、森孝雄名にて『豊饒の海』を論じて群像新人賞を受賞、それだけの時間を沈黙しての、今度は評論ではなく、小説での、しかも別名での登場といふことです。

わたくしは此の小説は未見ですが、既に読んだ友人の言によれば、三輪氏も三島が絶対自決できるとは思つていなかつた、という論点に立つてゐるとのことです。

これは、その読者が一体何歳のときに出逢つた三島由紀夫であり、そのときに得た三島由紀夫像であるのかといふことにかかつてゐるのではないでせうか。

還暦を過ぎたわたしが足を踏み入れた三島由紀夫の世界の三島由紀夫像は、この年齢の像ですから、大方の早熟な三島由紀夫読者とは当然のことながら異なることでせう。

わたしには、三島由紀夫の切腹は、かうして此の世界に足を踏み入れますと、詩人から小説家にならうとした時に、さうして三十代の初めに肉体を鍛え始めたときに、既に定まつていたのだと思はれます。

それは、『太陽と鉄』の冒頭に書いているやうに、言葉が言葉に対して其れ自体が白蟻であつて、胃酸や、銅版画をおかして線刻する再帰的な硝酸の作用を持つといふ考への中にあります。

三島由紀夫が十代で知つた此の言語の(華麗な隠喩を生んだ)本質である再帰性は、そのまま晩年の『文化防衛論』に語る3つの分類の第一に挙げる文化の再帰性となつて現れてをります。

この言葉と文化の再帰性は、同様に『日本文学小史』に詩論としての古代日本文学史に論ぜられている通りです。

すなはち、6歳の運動会を歌つた詩にある繰り返しが、これらの晩年の論考には、そのままあるのです。この6歳の詩『ウンドウクヮイ』を引いて、あなたの解釈と鑑賞に供します。


「ウンドウクヮイ

(一)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ

(二)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」


この詩については、後でもつと、44歳の戯曲『癩王のテラス』や詩集としての『近代能楽集』を論ずるときに引用して、解析します。

さて、この繰り返しの言葉の狭間に存在する美を肯定するか否定するか。もちろん肯定するわけですが、それを三島由紀夫は如何に肯定したかといふことなのです。そして、また、何を如何に否定したのか。

また、この6歳の詩を読みますと、実は繰り返しと繰り返しの間には一文字分の空白が無く、連続した意識のままに繰り返されてゐることが判ります。これが、平岡公威といふ少年の言葉に対する感覚の本質(関係)であるのです。

他方、ここが、安部公房の、恐らくは同じ一桁の年齢のときに詩『夜』とは異なつてゐるところであり、二人の言語藝術家としての違ひを分けたところなのです。勿論、安部公房の場合も、この詩の繰り返へしは、最晩年の『カンガルー・ノート』や、ワードプロセッサーのためのフロッピーディスクに死後見つかつた遺作『飛ぶ男』や『さまざまな父』にまで及んでゐることは、『奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号及び第33号)で詳細に論じた通りです。

三島由紀夫とは誠に対照的なことに、安部公房の繰り返しには、その間にいつも例外なく一文字分の空白があるのです。


「夜

「クリヌクイ クリヌクイ」
  カーテンにうつる月のかげ」


この「クリヌクイ クリヌクイ」といふ、秋冬の焼き栗の呼び声は、ヨーロッパ大陸の西端ポルトガルからユーラシア大陸の東の端の当時の満洲までに亘つて、その季節の風物である栗売りの声なのです。「栗温い、栗温い」といふ此の声が、どのやうに安部公房のその後の作品で、異界へと誘ふ人攫(さら)ひの声で当時からあつたかは、既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』で詳細に論じましたので、ご興味ある方は、この論考をお読み下さい(もぐら通信第32号及び第33号)。

従い、この言葉の再帰性といふ三島由紀夫の文学での論点は、全くそのまま、安部公房の文学に通じてゐることなのです。

三島由紀夫を一度好きになつて別れるためには、三島由紀夫と同質の虚構の世界を創造しなければなりません。三輪さんといふ方の小説の最後は、「三島さん さようなら」と結んでゐるさうですから、これが、この三輪さんといふ方の四半世紀の間堪えた沈黙の意味なのでせう。

それは、小林秀雄の読者が、批評文を書こうとするとぶつかる壁と同じ壁です。小林秀雄も三島由紀夫同様に、詩人です。

『金閣寺』刊行後の対談で、小林秀雄がこの作品を詩だと言つている通りではないでせうか。

何故ならば、主人公は吃りであり、吃りは同じ言葉を繰り返し発声する人間であり、そこに美を主人公は感ずるのであり、或いはそのやうな吃りの主人公を書く三島由紀夫が美を感ずるのであり、そこに叙情が生まれる、それ故のその人物の造形だからです。

三島由紀夫の十代の詩には、鸚鵡や九官鳥や梟といふ、言葉を繰り返す鳥が登場しますし、またその他数多(あまた)の言葉の繰り返へしが、大変よくうたはれてゐるのは、このためです。

閑話休題。

わたしは、安部公房の世界の読者ですので、安部公房の文学の再帰性(形、フォルム)、全体性(本物複製の無分別)、自主性(文化の生命の連続性)をよく知つてをりますので、『文化防衛論』の三島由紀夫のこの分類を、三島由紀夫の死後三島由紀夫とのことを回想して、安部公房は、次の二つの言葉で表してゐることを知つてをります。

1。文化の自己完結性の確信
2。言葉によって存在すること

この二つを、安部公房は三島由紀夫と共有していたといつてゐるのです。[註]

1と2は同じことの言い換へであつて、前者が成り立つためには、後者でなければなりませんし、後者であることによつて、前者が成り立ちます。即ち、言葉は言葉からしか生まれず、従い、文藝は文藝からしか生まれないのです。文藝は、政治からも経済からも生まれるものではありません。

従い、安部公房の此のふたつのいづれに焦点を当てるにせよ、このふたつは、そのまま三島由紀夫の分類になつています。次のやうに考へて下さい。

1。文化の自己完結性の確信(形、フォルム、本物複製の無分別、文化の生命の連続性)
2。言葉によって存在すること(形、フォルム、本物複製の無分別、文化の生命の連続性)

さて、このやうに、安部公房と三島由紀夫の間を行き来するといふことが、既にして安部公房的であることに、わたしは気づきます。

わたしの身の回りにゐる安部公房の読者は、三島由紀夫を読んでをりますし、その作品を素晴らしいと言つてをりますが、しかし、他方、私のお会ひする三島由紀夫の世界の読者の方々は、どうも安部公房の読者ではないやうです。

それは、何故かを考へることは、これはこれで興味ふかいことだと思はれます。

誤解を招くことを承知であへて譬(たと)へれば、先の戦争の後、丁度ふたりはそれぞれの人生に於いて詩人から小説家に変貌しようと苦心をしてをり、このことに成功した時から、三島由紀夫は戦後の時間を右脚だけで歩き、他方、安部公房は戦後の空間を左脚だけで歩かうとしたやうに見えます。

勿論、前者の左脚は透明に存在し、後者の右脚も透明に存在したのです。

この透明なそれぞれの右と左の脚を一つにして共有してゐたことの事実の表明が、安部公房の上に引用したふたつの事実であるのだと、わたしは思ひます。

この連載の第5回と第7回で、わたしは、

「これは何か、三島由紀夫の或る種の跛行を思わせる。即ち、小説の淵源に小説を持たずに、やはり詩を持つてゐるといふことから、このやうに考えてくると、その事情はそのまま、安部公房の小説群に通じるものを考えずにはいられない。この二人の大才が、先の戦争の後の時空間に生きて此の跛行を共に強ひられた」

といふことは何故だらうかといふことについて言及してをります。

これは、第7回の「個体発生は系統発生を繰り返す」といふ回答の他にある、もうひとつの、文化と言葉の視点からの、回答であるといふことになりませう。



[註]
以下『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、このふたつのことをお伝へします。少し長い引用となりますが、お読み下さい。:

[註24]
三島由紀夫の場合には、三島が現実に対して起こることを期待していたのは、左翼の過激派が暴徒化し警察力で抑えられない場合、自衛隊が治安出動することであり、更に、治安出動した自衛隊は憲法9条の改正を撤兵条件にし、国軍の地位を獲得するというシナリオでした。楯の会は警察力が潰えて自衛隊が治安出動するまでの間隙を自らの命を張って埋めるという目的を持って訓練していたと聞きます。そして、暴徒に素手で立ち向かい殺されることを本望としていました。

これが、三島由紀夫の描いたシナリオでした。

安部公房の場合には、安部公房が現実に対して起こることを期待していたのは、1957年に日本に革命が起きるという幻想でした。当時安部公房と親しかった画家、池田龍雄は、次のように回想しています。

「「もうすぐ、革命は近いよ」と、それが起こる可能性の年まで示して囁かれたときには、さすがに眉に唾を付けたものである。しかし、どこかでその気になっていたらしく、「1957年」という数字を読み込んだ暗号めいた文言が、わたしの当時の日記に残されているのは可笑しい。」(『安部公房を語る』所収の「詩的発明家--安部公房」、144ページ。あさひかわ社刊)

安部公房にも、同様にシナリオがありました。それは、専ら言語の側から描かれた革命のシナリオでした。

しかし、わたしが思わずにはいられないことは、このような天才と呼ぶべき、当時も今でも日本を代表する言語藝術家たちが、揃いも揃って、現実を信じすぎて、藝術の世界を踏み出して、現実と生きた人間に裏切られ、その命を喪い、また喪う危機に遭うことを承知で、みづから求めて死地に向かうということです。

このような三島由紀夫を自分の同類、即ち「戯曲以前に」「俳優が言葉による存在(原文傍点)でなければならない」(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)ということを十分深く理解していた三島由紀夫に対する安部公房の言葉が、やはり『反政治的な、あまりに反政治的な』にありますので、これを引用して、紹介します(全集第25巻、374下段~375ページ)。これは、三島由紀夫の死後6年経って、やっと書くことのできた、安部公房による鎮魂の文章です。

「ふと思う。ぼくらには案外根深い共通項があったのかもしれない。文学的にも思想的にも違っていたし、日常の趣味も違っていた。ぼくがカメラ・マニヤなら、彼は時計マニヤだった。ぼくが大の蟹好きなら、彼は大の蟹嫌いだった。しかし、ある種の存在(もしくは現象)に対する嫌悪感では、完全に一致していたように思う。いつか銀座のバーで飲んでいたとき、とつぜん二人同時に立ち上がってしまったことがある。同時にトイレに駆けこもうとしたのだ。理由に気付いて、大笑いになった。某評論家が入って来たところだった。
 ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。それが有効な武装だったかどうかは、今は問うまい。安易な非政治的文化論の臭気に耐えるほど、鼻づまりの楽観主義者になるには、いささか純粋すぎたのだ。文化的政治論も、政治的文化論も、いずれ似たようなものである。

 反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない。((以上傍線筆者)




0 件のコメント: