2011年7月31日日曜日

入沢康夫さんの講演を聴いて

昨日、ポエトリーラウンジに行って、入沢康夫さんの講演を聞いた。

うまく、まとまるかどうか。

事前にネットの上にある情報を、本当に表層的な知識ではあるが、読んで参加しました。

講演の題は、詩の後ろにあるもの。

講演が始まって、数分もしないうちに、わたしが思ったのは、この詩人がもし一行で、詩とは何かに答える、即ち、詩の定義をするとどのように定義するかとう問いの答えです。それは、

詩は、風土記である。

という定義です。

風土記とは何か、ということになりますが、これは、この詩人の出自である、出雲の風土記が、当然のことながら、最初に思うものとしてあります。

この詩人の作品は、風土記という、出自や由来や縁起といった、古代的な、民俗的な、土俗的な、また民族的な世界を大切にした世界であるということです。

またもうひとつの風土記は、階層をもうひとつ上げた、抽象的な、即ち文藝、詩の風土記、古典に依拠した参照と引用の世界です。

この詩人に、上の二つの意味で、風土記という言葉を使うことは、その出自(松江のご出身)と藝風(と敢えていいませう)からいって、誠にふさわしい。

他方、もうひとつ、

入沢さんが参加者に配付された説明資料は、3つに分かれていて、それぞれの資料の表紙に1,2,3と番号が付されてありました。

わたしは、これを最初不思議に思いましたが、二次会で隣りあった方の持つ「牛の首のある三十の情景」という詩集の構成(構造)をみて、尚更、この詩人の世界がどのような構造を持っているかを知ることができました。

「牛の首のある三十の情景」という詩集は、それぞれ、一寸この数字はいい加減ですが、全30篇の詩が、最初の部分は7つの詩篇のまとまり、次の部分は、4つの詩篇のまとまり、次は8つの詩篇のまとまり、といった具合に構成されているのです。

数字でまとまりを作り、名付けるということと、そのひとつのまとまりが、ひとつの宇宙であるということ。

それから、ひとつの宇宙は、孤立していなくて、隣りあっているその宇宙と往来がある。というよりも、詩人は(また、この詩集を読む讀者は、といってもよいと思いますが)、これらの宇宙を行きつ戻りつすることができる。

このように構成され、つくられている世界でありました。

おもしろいことに、西洋フランスの近代詩を学ばれた方にもかかわらず、これらの宇宙は並立している宇宙なのです。

まるで、俳諧の形式がそうであるように。

(もし西洋流のロゴス(言語)の世界の論理を徹底的に探究すると、行き着く果ては、わたしがよく言いますように、垂直方向の階層構造になります。)

詩作品がそうであるように、入沢さんのお話しも、3つの並列的な宇宙(説明資料)を、行きつ戻りつしながら、詩の本質に触れることをなさり、最初から最後までこの本質から離れることがありませんでした。

誠に、首尾一貫した講義であったと思います。

それでは、詩の本質とは何か。詩の本質は何だと入沢さんはおっしゃたのかといいますと、それが、冒頭に掲げた、わたしが直観的に、入沢さんの言葉や文章から汲んできた詩の定義なのです。

入沢さんの世界は、参照、引用、(ご本人のいう)本歌取り、言葉の真の意味でのパロディーの世界です。

そうして、このことをこの詩人は実に自覚的に、またご自分の出自との関係において、誠に幸せなることに出雲の風土記の関係においても、なさっております。

この行為を、言語の文法の言葉に置き換えると、これは、話法、modeというのです。

入沢さんが、あの豊富な説明資料を以てお話しになった詩の本質とは、文法の言葉で言えば、ひとこと、話法こそ詩の本質だとおっしゃったのです。
(誠に、我が意を強くした次第です。ドイツ語の文法では接続法といいます。これは、また別の機会に。)

話法とは、modeといいますように、mode、モードとは流行(ファッション)でもありますが、その意味は、平たくいえば、頻繁に引用されること、というのがその意味(概念)です。

衣服のファッションならば、季節に応じて頻繁に引用される柄、色彩、それがモードということになるでしょう。

言葉の世界で、同じことを、話法と日本語には訳しているわけです。

これには、中学校の英語の授業でならった通り、直接話法と間接話法がある。

入沢さんは、若い時から、作者あるいは詩人そのひとと、詩作品の中の一人称、わたしとは、それぞれ異なったもので、同じものではないと主張をし、随分と否定もされてきたことをおっしゃっていましたが、この詩人の意識は話法、modeにありますから、当然のことながら、今このとき、この現在に話しているわたくしと、そのわたくしが語る内容(従属文)の中にいるわたくしとは、一緒のわたくしではないのだという、極々当たり前のことを言ったに過ぎないのです。

わたし流の言い方をすれば、主文の宇宙と、主文が支配する従属文の宇宙は、宇宙が異なるのです。

西洋の言語では、主文が従属文を支配する唯一絶対的な方法は、時間を支配することによります。即ち、時制の一致として教わった行為です。

こうして時制の一致による階層化、即ち機能化を通じて、垂直階層構造のN次元の宇宙をつくる。

主文が現在ならば、従属文も現在か未来。主文が過去ならば、従属文は例外なく過去、あるいは過去形です。

しかし、既に述べたように、この詩人の宇宙は、垂直方向の構造ではありませんので、時制の一致がない。

過去も現在も、いつも生きていて、並立した宇宙を往還することが容易にできるのです。

これは、わたくしたち日本人が無意識に有している宇宙像ではないかと思います。

わたくしたちは、そのような世界に実は住んでいる。

また、少し話の方向を変えて、思ったことは、詩という今の日本語には、ひとびとの使い方をみていると、次の4つの意味、四様の意味があります。

1.詩作品
2.詩制作
3.詩精神
4.詩情(Poesie)

詩というときに、ひとびとは、これらを一緒くたに、ごちゃごちゃに使っています。これが議論の混乱のものだと思います。

さて、入沢さんのお話しは、その用意下さった説明資料のあり方も含めて、またその詩作品も、そのお話しも、一体Poesieという意味の詩については、引用されることにあるのだと言っているのだと思います。

そして、引用されることの構造があるといっている。そこにPoesieがあり、詩作品が成立する契機があるのだとおっしゃっている。

再度、岡田さんが引用(引用!)なさった、入沢さんの文章を引用しますと、

「『詩とは、語を素材とする芸術ではなく、言葉関係自体を、いや、言葉関係自体と作者(または読者)との関係そのものさえをも素材とするといった体の芸術行為である』というところまで論を進めることもできると思う」

こうして、再度この引用された文を読みますと、言葉関係とは、引用すること、引用されること、という関係だということがわかります。

わたしが2日前に書いたブログの言葉でいえば、

言葉の意味は、使い方で定まる。即ち、

引用されたこと(言葉)の意味は、その使い方(Contex)で定まる

ということです

入沢さんは、機能という言葉は一切使いませんでしたが、その講義は終始、このことに触れ、このことから離れませんでした。

これは、今回の講義のスタイルそのものでした。

(出席なさらなかった方は、後日ミッドナイトプレスのHPに説明資料が上梓されるのではないかと思いますので、それをご覧になって下さい。)

そうして、作者と読者の関係も素材とするとおっしゃっているので、これは、話法の話をひとことでいっていると同時に、そのような引用されることの構造を備えた宇宙が、作者と読者も悠々と遊べるようにできている芸術だ、という意味になるでしょう。

講義の最後のところで、岡田さんの宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩の、3月11日以降の読まれ方についての質問に対して、入沢さんのおっしゃたことは、上の芸術観に照らして、当然のことながら、和合亮一という詩人の例を挙げ、ことばはおだやかでしたが、そのような詩は「詩の効用」であって「2次的な」ものであり、詩の本義、本質ではないと明解にひとことでおっしゃたことは、全くその通りのことでした。

最後に、もうひとつ大切なことを付け加えると、「空洞」ということをおっしゃて、詩人は空洞であるとおっしゃる。

そこに、背後から何者かがやってきて、その空洞を満たす。そうして、詩という芸術作品がうまれる。

このことは、講演の最後の方で、出雲の風土の話とご自分の詩作品の話を十分した後に出てきた言葉です。

同じことを、講演の最初では、既に布石を打っていて、外がわにあるものが内側に入るという抽象的な言い方をなさっておりました。

(このように構造が二重になっているのが、入沢さんの思考の世界です。出雲の風土記と、入沢さんの詩作品の抽象化された風土記、といったように。)

外側にあるものが詩人の内側に入り、詩人はそれを言葉に変換して、外に作品として表す。

この詩人を囲んでいる、また詩人の背後、後ろにあるものが、講演のテーマでありましたが、それが何者であるかについて話すことが、この講演の最初から最後まで、入沢さんの話されたことです。

その存在を出雲の風土の中に求められ、不思議の、霊威ある存在が詩制作には必要だといっていらっしゃる。

興味深いことは、ご自身は近代フランス文学を勉強され、また履歴を拝見すると、Edgar Allan Poe(これはわたしの好きな作家でもあります)の著作もおありになるのに、Poeが大鴉という自作を使って、如何に詩人は詩制作においては、インスピレーション、霊感などいうものを使わずに、全くの論理で、結論から因果の連鎖を逆にたどってきて最初の一行から書き始めるかということを説くのに対して、入沢さんという詩人は、霊感、霊威の力を積極的にみとめていること、

つまり、近代の西洋人の近代詩の境域を、否定するというよりも、はるばると超えてしまって、古代的な、古典的な、という意味は即ち引用豊かな霊感霊威に満ちた詩の世界を主張なさっていることに、わたしは素晴らしいものを感じました。

主張といいましたが、そのお話しは、淡々として、誠に齢を重ねるとこのように淡々と、何ということもなく、自然に、自分の言葉で、何も否定することなく、豊かなお話しができるのかと、思い、感嘆致しました。

さて、こうして考えてみると、詩の後ろにあるもの。

これは、詩作品の後ろにあるもの、

とうい意味でもあり、

詩人の後ろにあるもの、

という意味でもあり、

詩精神の後ろにあるもの、

という意味でもあり、

詩情(Poesie)の後ろにあるもの、

という意味であることがわかります。

入沢さんという方は、上の問いすべてに回答なさってくださったと思います。

もし敢えて申し上げれば、後ろ、背後という言葉の選択に、この詩人の独特の、用語選択の感覚があると思います。

お話しの様子、具体的なその姿勢を拝見していると、それは、入沢康夫という個人ひとりの背後なのではなく、人間ひとりひとりの背後に、霊威があるといっていると理解されました。

そうして、複数ある宇宙の往還をわたしたちに許していて、あるいは保証し、保障していて、わたしたちは、詩作品を書くことができる。

と、入沢さんは、このようにおっしゃたのです。

(と、このように最後の一行を書くと、それまでの文章はすべて引用文になります。こうして、わたしは2次元の文章を書いたことになる。)

P.S.

入沢さんが、この詩を書いたことで、ああ自分は詩をこれから先も書いて行けると確信し、得心し、、納得し、安心したとそうおしゃった、この詩人の記念碑である詩を引用し、掲げます。

これは、民謡です。否定形を使って言えば、これは、民謡以外のなにものでもありません。と、いうことになるでせう。

(引用はじめ)

失題詩篇

心中しようと 二人で来れば
 ジャジャンカ ワイワイ
山はにつこり相好くずし
硫黄のけむりをまた吹き上げる
 ジャジャンカ ワイアイ

鳥も啼かない 焼石山を
心中しようと辿っていけば
弱い日ざしが 雲からおちる
 ジャンジャカ ワイワイ
雲からおちる

心中しようと 二人で来れば
山はにっこり相好くずし
 ジャジャンカ ワイワイ
硫黄のけむりをまた吹き上げる

(以下略)
(第一詩集「幸せ それとも不幸せ」の冒頭作)

(引用おわり)


この詩を書いたときの、入沢さんは、相当な苦しみの中にいらしたと思います。

また、失題詩篇という、失題という形容を冠したことが、素晴らしい。

入沢さんのお話しは、テーマを失ったような話でありながら、即ち、最後のところで、ご本人曰く、まったく感覚的で、論理を欠いた話を致しましたとおっしゃておりながら、実は、全く正反対に、実に論理的な骨格の明瞭なお話しをなされたことでした。

入沢さんが、もしフランス語文法と話法のことを、ご自分の詩作品、詩作法(詩制作)の関係で知ったら、ああ、と声をあげることでせう。

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