2011年8月5日金曜日

Raetsel(謎々):第32週

Raetsel(謎々):第32週

by Gerhard Ruehm (1923年2月12日、ウイーン生まれ)


【原文】

ich schaue es an:
es ist kein mann:
ich schaue genau:
es ist keine frau.
es ist kein tier,
es ist kein stein.
fuer eine blume
ist es zu fein,
fuer etwas grosses
ist es zu klein
und ein geraet
kann es nicht sein.


【散文訳】

わたしはそれを見る。
それは男ではない。
わたしはよく見る。
それは女ではない。
それは動物ではない。
それは石ではない。
一輪の花にしては
それは繊細すぎる。
大きなものにとっては
それは小さすぎ、
そして、それは
(測定)器具ではない。


【解釈】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Gerhard_R%C3%BChm



一輪の花にしては
それは繊細すぎる。

と訳した箇所は、

一輪の花にとっては
それは繊細すぎる

と訳すことが可能で、そうすると、次の行との接続、流れが円滑になります。

しかし、そう訳すと、この「~にしては」とか「~のくせに」という感じがでなくなります。

それでは、

大きなものにとっては
それは小さすぎ、

とあるのを、

大きなものにしては
それは小さすぎる

となって、これも一寸変な日本語の訳になる。

謎々だから、それでもよいのかな。

今、この詩を改めて読んでいて、蜜蜂かなとか、冬の日の窓に生まれる霜の形象かなとか
いろいろ考えましたが、そうしてみると、この詩の論理は、否定論理和という論理で書かれている
詩だということに思い至りました。

同じ論理を、碧眼録の孫引きで読んだことがあります。

禅宗の坊さんも、このロジックを前にして、宇宙の本質を考えたのでしょう。

今思い出せば、碧眼録の文章は、眼前にあるものの名前をひとつひとつ挙げて、それを次々に否定してゆく文章でした。

例えば、それは、樹木ではない、窓ではない、机ではない、畳ではない、風ではない、空気ではない、といったようにです。

しかし、この論理では、ついには答えはでないことは、明らかです。

しかし、この問いに答えようとする努力は、何を意味することになるかというと、無限とは何かという問いに直面し、否定の形から、これに答えるに至るでしょう。

それから、やはり、同じく否定形を通じて、それは何かという問いに答えることになる。

と、このように考えて来ると、この詩の謎々の答えは、ここで否定されているもの以外のすべて、ということになるでしょう。

(すべてとは何か?ですが。)

Wikipediaをみると、この詩人は、詩文と音(聴覚芸術)を結びつけるこころみをした詩人だとあります。

それ以外にも、いろいろな芸術分野と言語表現との境界を活躍の場にしてきた詩人ということです。

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