2011年3月17日木曜日

この度の天災の意義と意味

昨日は、午前中にやはりというべきか、緊急の電話にて、出社とは相成った。

非常事態とて、いつもとは違う建家である。

いよいよ、赴任者本人であるドイツ人が本国ドイツや東南アジアへ避難を始めていて、このひとたちを送り出すという最後の仕事である。

しかし、この先週末から今日の朝までの閑暇の時間に、ドイツの友人からもらったカレンダーの詩を1ダース、数えてみると、訳していた。

どれも、いい詩である。

こうしてまた、国難のさなかに、詩とはなにかを考えているという次第。

職場で、訳した詩に手を入れていたりなぞした。

全く、詩の世界は、別世界、現実とは別した世界であることが実感され、痛感される。

淡々と職場で仕事をしながら考えたことであるが、昨日の天皇陛下のヴィデオのお言葉を拝見し、また自衛隊という軍隊の活躍をみて、第2次世界大戦、或いは大東亜戦争に敗北して生まれた戦後の歪んだ思考空間、歪(いびつ)な言論空間が、完全に崩壊したということ、この事を感じます。

感じるばかりではなく、思い、考えるのです。

余りに、犠牲が大きすぎますが、これが、今回の天災、即ち、地震、津波、そして福島原発事故の意義だと思います。

さて、その意味は?

それは、その思想的意味、政治的意味、経済的意味、社会文化的意味、文学的意味、詩的意味は、日を追って、自づと、明らかになることでせう。

わたしは、徹頭徹尾、言語の立場から、これらの物事に対処したいと思います。

紅旗征戎は我が事にあらずと嘯(うそぶ)いた10代後半、二十歳に近かった定家の言葉を、何百年も経ても、わたくしは大切にしたいと思います。

あの当時も、社会は混乱、いや戦乱でありましたろうか。

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