私の宇宙論は、言語機能論である。
言語は機能だという論である。
さて、掲題の問いを立てて、考えることがあるのであるが、その問いに対する答えは、3つある。
1. 原因
2. 理由
3. 由来、由緒
1の原因を述べても回答がでない。それは、原因と結果の連鎖に囚われて(文字通りに)、時間の中で1次元の思考しかできないからです。
第1原因などというものを仮定しても駄目だ。
その原因は直ちに何かの結果であることから、その原因の原因を求めることになるからだ。
時間の軸の上だけで考えても、過去と未来に原因と結果の連鎖が無限に続くだけで答えが出ない。
2の理由を求めると、答えがでそうに思う。それは、理のある由来という意味であろうからだ。
しかし、この問いは、目的を考えることに傾きそうなところがある。
つまり、宇宙が何故こうあるかというと、それにはこのような目的があるからだ、というものである。
それから、やはり原因をいいそうになる傾きがあるとも思う。
こういったことに煩わされないでいいのが、3つめの答え方で、由来や由緒という言葉を使って答えることだと思うが、如何か。
と、まあ、このように短い時間の中でいろいろ考えたのだが、青い鳥の話ではないが、やはり答えは身近にあった。
何とあっけない答えだろう。
それは、概念である。
この宇宙は概念に由来するのだ。
最初に概念があって、どちらが先かわからないが、しかし現象は時間の中で現れるだろうから、まづ最初にふたつの概念があって、それがひとつになった。
つまり、論理演算でいう論理積が生まれた。掛け算の答えだ。これも概念だ。新しい概念が生まれた。これが3つめの概念だ。
この概念が生まれることで、宇宙はまた更に広がって、種々多様なものが生まれた。
そして、同じ事を、ある概念がそのひとつの宇宙の中で、またその宇宙の外にある別の概念と結びついて(交わって)、新しい宇宙をつくっている。
ということが永遠に繰り返される。(永遠にというのは、既にひとつの次元を前提にしているので、その中では永遠に続くように見えるということです。つまり、その次元の外側が常にあるということ。)
(ことばで書くと、余りにも易しい。)
このときにある規則を、わたしは唯一の普遍言語規則といっている。
概念は、全く論理的なもので、生きた知性、生命であるから、宇宙を創造した最初にあるのは(あったのではなく、いまもある)、そのような知性、そのような生命であると考えてよいのであろうか。さて、どう考えたらよいものか。
ということを、今考えている。
こういうことを考える人間は変人であろうか。どうであろう。
孔子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なりと。
若いときは、激しくこの言葉に惹かれた。そうして、そう生きたと思う。
どうも、ここに書いたことが道ならば、わたしは、もうそろそろ早くに死んでしまうのであろうか。
50代になると、友の中にも亡くなるものもいて、確かに、いつ死んでもおかしくはないということになっているのではないかと思われる。
このごろ考えるのは、今のうちに遺書を書いておいて、その遺書には、本居宣長がそうしたように、墓の図と墓碑銘を書いておくというものである。
この宇宙は、概念に由来する。
この答えは、概念がいつ生まれたかを問わないのだ。
その問いを問えば、また時間の連鎖の中に思考が紛れて答えを見失う。
この宇宙の由緒は、概念にある、と考えることである。
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