2009年9月15日火曜日

オルフェウスへのソネット1部のIの1連(3)

1章 

I 第1(2)

昨日今日と移動書斎の中でソネットを読む。今日読んで、印刷した枚数でゆくと25枚目までを読んだ。残りは7,8枚というところ。

読んでみて思うことは、悲歌に対して対照的に、この詩はあるということでした。悲歌の自由律、そうして、特に悲歌1番と2番の高潮した緊張あるのに比べて、ソネットは、その名の通りの形式を踏んだ、脚韻正しい、詩行です。

前者がcontractionというならば、後者はrelaxationということができると思います。リルケは、このようにして、悲歌を書きながら、またこのソネットを書きながら、こうして精神の均衡をとったのだと、わたしは思います。

前者が凝縮、緊張ならば、後者は弛緩、緩癒というのでしょうか。勿論、弛緩とはいうのは、対照、対比のために言ったことで、詩そのものは、詩である以上、またドイツ語の詩作の意味する動詞、dichten、ディヒテンの意味する通り、凝縮しております。読んでいて楽しい。

リルケの思想を、その言葉を、文字を使って、イメージに転化、展開する。読んでいて、悲歌とのつながりも散見されました。

読んでいて何が楽しいか。それは、リルケの詩行の省略を読むことの楽しさだということに気がつきました。その最たるものは、悲歌の中に出てくる天使で、悲歌2番の中で歌われる壮大な天使の帰還のイメージは、ある論理的首尾一貫性を悲歌の1番と2番に読み取らなければ、至らないイメージなのですが、この悲歌2番の天使のイメージを知ることは、リルケの詩行の飛躍を知ること、慣れること、つまりリルケを知ること、リルケの呼吸をつかむこと、なのです。そう、思いました。

さて、ソネットの、あらためて、第1連の第1行をみると、

DA stieg ein Baum. O reine Übersteigung!

とある、O reine Übersteigung!は、今日あらためて思い返すと、なにかあること、ある思想を徹底すること、徹底して行うことというように読むことができました。Rein、純粋なという形容詞で、この踏み越えていくことという名詞を限定したリルケの中には、その形容詞の意味からも、リルケの青春の思想が、昇華をして表現されているのだと思わずにはいられません。わたしは、リルケの個人的な人生については、ほとんど無知でありますけれども。

思えば、わたくしも同じことを、この第1連の2行目がいっていることを、踏み超えて進んできたのではないかと思いました。詩の言葉は、奥の細道。

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