自由が丘の西村文生堂なる古書店に行って、今日、「Hart Crane and the homosexual text New Thresholds, New Anatomies」(Thomas E. Yingling著)というHart Crane論を買うことができた。
書き込みの全くないきれいな古書でした。誠に感謝です。
この著者と通信ができるといいなあと思っていたのですが、事前にインターネットで調べると、既に1992年に亡くなっている。このひとも男色者であって(とはいえ家庭も構えていたことは、この本の序文で知るところですが)、AIDSで亡くなったのだと思われる、そのような書き方をしてありました。
早速読み始めると、やはり、このひとがgayであったごとく、論文中に男色者の隠語が入っておりました。普通のひとは、普通に読めば、なんということもなく読み過ごしてしまう隠語です。
わたしのHart Crane論の読者であるならば直ちにきづくところです。
それは、英語の定冠詞のa、でありました。例えば序文で、次のように使う。
著述に協力してくれた友人たちの名前を挙げ(それも多分男色者なのだと思います)、その名前を主語として、
...must stand in here for a longer list of faculty at the University of Pennsylvania who brought me to some understanding of my own stake inthe critical act. May they accept this book as, in some measure, a return in kind.
この文のsome understandingのsome、in some measureのsomeは、辞書によれば、語源的には、sameと同じ意味で、homosという意味であることから、この友人たちにそっと男色者の隠語を使って、異性性愛者には全く隠して、わからぬようにして、御礼を述べたのでありましょう。
some understandingとは、男色者としての理解、男色者についての理解という意味になるでしょうし、in some measureは、男色者の基準ではという意味を隠しているのです。あるいは男色者の流儀ではという意味になるでしょうか。そのお返しだというのです。
また本文に入って6ページ目に、
It is not, that is, that sexuality in Whitman is not intertexual with (and thus not simply a screen for) these other concerns.
この文のa screenも、定冠詞がついていることから当然としても、screenの裏の意味は、To The Brooklyn Bridgeの第3連にあったthe same screenと同じで、男色者の使用する性具を指しているのです。
また、この文の次の段落の2行目(同じ6ページ)には、
I refer to Whiteman here because his poetry is "frankly and directly sexual" in a way that Crane's more often is not, and therefore the historical critical silence on it is that much more obvious.
とある、この文のin a way。これは上のin some measureと同じ意味です。Chaplinesqueの第4連にも、この同じin a wayが出てきておりました。それは、男色者の流儀で、処刑をする(男色の性愛の行為の絶頂に達して死の状態になること)のは、決して金儲け、金のためではなく、純粋な行為なのだと歌っているところです。
それから、125ページにも次のような文があります。Hart Craneが詩集White BuildingのエピグラムにランボーのEnfanceからの一行を引用していることを指摘している次の文、
The section of "Enfance" Crane quoted is in fact a map of slippages and unsettled identities leading not to some resolution of crisis but dissolving in a forbidding and inhuman wasteland.
ここにある不定冠詞はみな男色者の暗号だと考えることができます。それから、someも。
まだ全体を読んではいませんが、このような男色者の世界の暗号を、この著者は決して表の世界に文字で書き表し、註釈することがないと思います。読めば、解る者には解る、それを楽しめるように書いてあるということなのです。
興味深く思ったことは、この論者が、Hart Craneを論ずるに当たって、まづアメリカ文学の詩の批評の歴史と傾向に触れて、それを批判する形で文章を書き始めていることでした。それは、もちろんアメリカ文学の中で不当に無視されてきた、この男色詩人達の詩のテキストを豊かに読むために必要な批判ではあるのですが。
読み進めながら、思うところ、発見を、Hart Craneつれづれ草としてあらわすことにいたします。
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