今日は、詩のワークショップには、所用あり、残念ながら、行けなかった。
やはり、なんだかんだといって、夕方まで掛かってしまった。
しかし、転んでもただでは起きない、このわたし。
電車に乗って、向こうにある「古代メキシコ、オルメカ文明」の広告写真をみていると、あることに気がついた。
この写真には、このマヤ文明以前の文明の民族のつくった石の仮面、石像の顔が大写して載っているのだが、これをみて、何故人間は、似たもの同士を集めるのだろうと思った。
これらの顔は、この文明の民族の男の典型的な顔のひとつひとつだと思われる。
この顔は、言語、詩の世界ならば、譬喩、特に隠喩(metaphor)というpower(権力)のことを意味する。
論理的な言語形式としては、AはBであると定義すること、何と何が等価であるかを考えることである。
この隠喩とは、あるいは譬喩とは、そもそも、言語の等価原理である。
お金、銭金と同じ淵源から生まれてきているのだ。
この交換原理の、この世界、この世での貫徹を願う詩人は、裏切りという言葉を使って、これを否定的に表現しようとする。
これは、道徳的、倫理的な言葉であり、詩人の考えである。
(これは、前回詩のワークショップにいらした、三角みづ紀さんの言葉を思い出して書いている。)
しかし、詩人は、そのあり方(絶対贈与者)からいって、この言語的交換原理即ち、譬喩を裏切っている。
このようなことを考えた。
ショーペンハウアーが自分の主著の註釈に入れたアリストテレスの言葉はまことに意味深長、意義深いものである。それは、
似たもの同士を集める、これは人類の叡智である
という言葉である。
文字の通りには正確な引用ではないが、これと同じことを言っている。
なぜ、人間は、似せて表現するのであろうか?
なぜ、人間は、似ていることにこんなに感嘆するのであろうか?
これらのことは、すべて、言語は機能であることを証明しているのだ。
ついに、わたしの最後の問いは、何故宇宙はそのように出来ているのか?という問いである。
自分自身の人生を生きるために、自分の言葉を持て。そして、歳とともに、過激になれ。世界を変形させる為に。Have your own words to live your unique life! And be radical as you are getting older in order to transform the world!
2010年11月6日土曜日
2010年10月3日日曜日
芭蕉と西脇順三郎
ご縁があって、芭蕉七部集の冬の日を読むことになった。
誠にむつかしいが、また考えること、読み込むことが面白い。
例えば、冬の日の歌仙の3巻の発句:
つつみかねて月とり落とすしぐれかな
(しぐれは本来は雨かんむりの時雨を使っています。)
これは杜国(とこく)の句であるが、この最初からわからない。
というような調子で、冬の日の3巻と4巻を行きつ戻りつ日が暮れた。
俳諧、連句を読んでいて、はたと思ったことがある。
それは、西脇順三郎の詩に実によく似ているということである。
句と句の関係、繋がり具合が、とてもよく似ていいる。
句と句の呼吸といってもよいと思う。
あるいは、句から句への展開が。
西脇順三郎という詩人にとって詩を書くことは、一人で連句をするようなものだったのだと思う。
そうして、その詩を読むと、その句の連続がそのまま旅であったことも、旅であることもわかる。
今日西脇順三郎の書いた「はせをの芸術」というエッセイ(評論、批評)を読んだが、それによれば、芭蕉は老荘思想を学んだということである。
これは、ビジネス、business、忙しい状態というものの対極にある、全く無為なる境地である。しかして、美あり。文学とはそのようなものである。
追伸:境地! ヨーロッパの白人種たちであれば、認識というであろう。
誠にむつかしいが、また考えること、読み込むことが面白い。
例えば、冬の日の歌仙の3巻の発句:
つつみかねて月とり落とすしぐれかな
(しぐれは本来は雨かんむりの時雨を使っています。)
これは杜国(とこく)の句であるが、この最初からわからない。
というような調子で、冬の日の3巻と4巻を行きつ戻りつ日が暮れた。
俳諧、連句を読んでいて、はたと思ったことがある。
それは、西脇順三郎の詩に実によく似ているということである。
句と句の関係、繋がり具合が、とてもよく似ていいる。
句と句の呼吸といってもよいと思う。
あるいは、句から句への展開が。
西脇順三郎という詩人にとって詩を書くことは、一人で連句をするようなものだったのだと思う。
そうして、その詩を読むと、その句の連続がそのまま旅であったことも、旅であることもわかる。
今日西脇順三郎の書いた「はせをの芸術」というエッセイ(評論、批評)を読んだが、それによれば、芭蕉は老荘思想を学んだということである。
これは、ビジネス、business、忙しい状態というものの対極にある、全く無為なる境地である。しかして、美あり。文学とはそのようなものである。
追伸:境地! ヨーロッパの白人種たちであれば、認識というであろう。
2010年9月28日火曜日
Grünbeinの詩
ドイツ語圏の現代詩人で、Durs Grünbeinという詩人がいる。
日本語で発音すると、デゥルス・グリューンバイン。現在48歳。日本では全くといっていいほど無名です。そもそも現代の日本では、現代ドイツ詩というものを読むということがない。
ドイツ語のWikipediaは、
http://de.wikipedia.org/wiki/Durs_Gr%C3%BCnbein
英語のWikipediaは、
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Durs_Gr%C3%BCnbein
この詩人の作品のうち、
Vom Schnee oder Descartes in Deutschland
という作品を日本語に翻訳する試みを、のんびりと始めたいと思います。
日本語に訳せば、雪について、またはドイツでのデカルト、という題になるでしょう。
このように、主人公は、デカルト。従僕のジローと一緒に、17世紀は30年戦争のドイツに来て、その冬を迎えています。
さあ、何がどんな展開になるのやら、今から楽しみです。
乞うご期待、です。
日本語で発音すると、デゥルス・グリューンバイン。現在48歳。日本では全くといっていいほど無名です。そもそも現代の日本では、現代ドイツ詩というものを読むということがない。
ドイツ語のWikipediaは、
http://de.wikipedia.org/wiki/Durs_Gr%C3%BCnbein
英語のWikipediaは、
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Durs_Gr%C3%BCnbein
この詩人の作品のうち、
Vom Schnee oder Descartes in Deutschland
という作品を日本語に翻訳する試みを、のんびりと始めたいと思います。
日本語に訳せば、雪について、またはドイツでのデカルト、という題になるでしょう。
このように、主人公は、デカルト。従僕のジローと一緒に、17世紀は30年戦争のドイツに来て、その冬を迎えています。
さあ、何がどんな展開になるのやら、今から楽しみです。
乞うご期待、です。
2010年6月4日金曜日
Hart Craneつれづれ草5
柴田宵曲のふたつの著作を読み終え、昨日今日とまたHart Crane論、「Hart Crane and the homosexual text New Thresholds, New Anatomies」(Thomas Yingling著)を読み始める。
今日は、第4章、男色者の叙情詩という章である。
Craneの手紙から、その叙情性のよってきたるところを、このひとは文芸理論、詩理論(日本語でいう詩論ではない、詩の理論である)をもとに歴史的な文脈と、それを否定したCraneの詩の叙情性を論じるのであるが、その論のいう、まことにわが膝を打つばかりの箇所をそのまま引用して読者諸賢の閲覧と理解に供せむと欲す。
同書108ページから:
But Moore was not the only literary authority Crane seemed unable to please; one of his famous prose statements (where he outlines his poetics as a "logic of metaphor") was written to Harret Monroe in an attempt to explain to her that his poetry was not non-sense, that it was in fact grounded in an explicable theory of language."
Mooreというひとは、Marianne Mooreという女性の編集者のことで、CraneのThe Wine Menagerieという詩に大幅に手を加えた編集者である。最初の連ふたつを削除し、その他文言を替えたのだという。Craneがなにもいえなかったのは貧しかったから、お金がなく、お金が欲しかったからである。と、そう書かれている。そうだろうと思う。それに、この編集者には男色者の詩のレトリック、修辞学は理解できなかっただろう。しかし、Craneの詩に魅力を感じていたこともまた事実であり、この詩人も世話になったことではあるのだ。
端的にいって、it (his poem) was in fact grounded in an explicable theory of languageということは、その通りだと思う。Craneの詩は、確かにin an explicable theory of languageに書かれている。わたしがこの詩人の詩を理解したのも、唯単純にウエブスターという辞書をひいて、この詩人の使う言葉ひとつひとつの概念に戻って考えたからである。
詩人はどんなに愚かであっても、嘘をつかない。
もうひとつは、同書109ページ:
Craneが、男色者としての自分の詩を自己検閲をしたということ、社会にその内容、意義と意味を知られることを極度に恐れたということである。
His letters from Ohio refer several times to the "Ulysses situtation" - "terrible to think on" (Letters, 72). "It is my opinion that some fanatic will kill Joyce sometime soon for the wonderful things said in Ulysses" (letters, 95).
Joyceのユリシーズの中の"the wonderful things"とは、男色のことについて書いてあることをいっているのだと思われる。
この引用の前後にある著者の文章とCraneの言葉の引用は、非常にこの詩人の社会に対する恐れを表していて、的確だと思う。その分、この詩人の詩は階層が深く、多重の掛け言葉に満ちていて、理解が難しい。
もうひとつ、ページが相前後するが、ページ106:
著者が論じていうには、Craneの詩の核心にあるのは、the textuality of subjectivityだといっていることである。これが、男色詩人の叙情詩の問題だといっている。
柿沼徹さん、またfiさんが論じていることに多いに関係あることなり、とそう思うのです。敢えて言えば、言語と主観の問題、主観の持つ言語との関係におけるその性質ということになりましょう。
(性質とわたしは言ったが、そうであれば、性質はまた言語なる関数の一要素なり。被演算の対象なり。)
わたしがHart Craneの詩に惹かれるのは、男色詩人であることではなく、それとは無関係に、結果としてこの詩人の有する表現の到達した一般性、普遍性、即ち主観と言語の関係のあらわれにあるのだな、そのあらわれ方の普遍性に。
2010年5月8日土曜日
Hart Craneつれづれ草4
4月27日はHart Craneの命日である。1932年4月27日に、メキシコからニューヨークに向かう船の上から海に身を投げ、33歳の若さで亡くなった。
船の名前は、SS Orizaba。当時のことなので蒸気船です。
手もとにあるCraneの全作品の収録された詩集の一番最初に「C 33」(C, one space 33)という詩が載っています。これは、多分10代の作品。この題名から考える通り、Craneは、もう既にこのときに自分の人生が33歳で終わるのだということを見通していたのではないかと思われるほどです。
わたしの天才の定義は、若年にしてそのひとの人生を見通すひとが天才だという定義なのですが、Craneは、確かに天才なのだと思います。
この詩には、既に後年の詩集にある、男色者として詩を暗号化して書いております。今読んでいる論文、Hart Crane and the homosexual textによれば、Crane若年の折、詩人を男色に誘惑したのはan old manだと、後年詩人自らが言っているということですが、そのような経験をして詩を既に10代で書いたのだということになります。
その他、Craneが私信で書いている好きな男のどこがどのように好きかとういときの言葉は、実に生々しく、男色とはまさしく男性同士の性行為であることを如実にしめしています。それは、男女の性行為とは格別に異なる素晴らしい経験なのだと思います。一寸引用しますと、
I can remember happily. With .... you must think of someone . . . with a face not too thin, but with faun precision of line and feature. Crisp ears, a little pointed, fine and docile hair almost golden, yet darker, - eyes that are a little heavy - but wide apart and usually a little narrowed, - aristocratic (English) jaws, and a mouth that is just mobile enough to suggest voluptuousness. A strong rather slender figure, negligently carried, that is perfect from flanks that hold an easy persistence to shoulders that are soft yet full and hard. A smooth and rather olive skin that is cool - at first.
Execuse this long catalog - (Letters 126-27)
このようなエロエィックな対象が男から見た男なのでしょう。
その他にも、詩に書いているような、男色者特有の隠語で書いている性行為もあって、次のような箇所は、全くTo Brooklyn Bridgeを読んでいるのと全く径庭がありませぬ。男色者の言葉の世界それが、社会に認められずに離反しているがゆえに一層、また隠語で話され書かれている分だけ、一層そのまま詩になっているのだと思います。
And I have been able to give freedom and life which was acknowledged in the ecstasy of walking hand in hand across the most beautiful bridge of the world, the cables enclosing us and pulling us upward in such a dance as I have never walked and never can walk with another. (Letters 181)
男色者同士の性行為、肛門性交のqueを橋、bridgeに譬えている。これはこのまま暗号化された、Craneの詩文になっていると思います。
と、このようにあれこれとHart Craneのことと、その文学を思うことで、今日の供養といたしませう。
船の名前は、SS Orizaba。当時のことなので蒸気船です。
手もとにあるCraneの全作品の収録された詩集の一番最初に「C 33」(C, one space 33)という詩が載っています。これは、多分10代の作品。この題名から考える通り、Craneは、もう既にこのときに自分の人生が33歳で終わるのだということを見通していたのではないかと思われるほどです。
わたしの天才の定義は、若年にしてそのひとの人生を見通すひとが天才だという定義なのですが、Craneは、確かに天才なのだと思います。
この詩には、既に後年の詩集にある、男色者として詩を暗号化して書いております。今読んでいる論文、Hart Crane and the homosexual textによれば、Crane若年の折、詩人を男色に誘惑したのはan old manだと、後年詩人自らが言っているということですが、そのような経験をして詩を既に10代で書いたのだということになります。
その他、Craneが私信で書いている好きな男のどこがどのように好きかとういときの言葉は、実に生々しく、男色とはまさしく男性同士の性行為であることを如実にしめしています。それは、男女の性行為とは格別に異なる素晴らしい経験なのだと思います。一寸引用しますと、
I can remember happily. With .... you must think of someone . . . with a face not too thin, but with faun precision of line and feature. Crisp ears, a little pointed, fine and docile hair almost golden, yet darker, - eyes that are a little heavy - but wide apart and usually a little narrowed, - aristocratic (English) jaws, and a mouth that is just mobile enough to suggest voluptuousness. A strong rather slender figure, negligently carried, that is perfect from flanks that hold an easy persistence to shoulders that are soft yet full and hard. A smooth and rather olive skin that is cool - at first.
Execuse this long catalog - (Letters 126-27)
このようなエロエィックな対象が男から見た男なのでしょう。
その他にも、詩に書いているような、男色者特有の隠語で書いている性行為もあって、次のような箇所は、全くTo Brooklyn Bridgeを読んでいるのと全く径庭がありませぬ。男色者の言葉の世界それが、社会に認められずに離反しているがゆえに一層、また隠語で話され書かれている分だけ、一層そのまま詩になっているのだと思います。
And I have been able to give freedom and life which was acknowledged in the ecstasy of walking hand in hand across the most beautiful bridge of the world, the cables enclosing us and pulling us upward in such a dance as I have never walked and never can walk with another. (Letters 181)
男色者同士の性行為、肛門性交のqueを橋、bridgeに譬えている。これはこのまま暗号化された、Craneの詩文になっていると思います。
と、このようにあれこれとHart Craneのことと、その文学を思うことで、今日の供養といたしませう。
2010年4月21日水曜日
Goodbye Yellow Brick Road
Hart Craneの論文を読んでいるせいか、Elton Johnのこの歌を思い出す。
そう思って考えてみれば、Brickとは陽物であるからして、Brick Roadとは既に男色の道という意味である。
Hart Craneの詩の中に色の形容詞を探したが、yellowは無かった。この色にElton Johnなどどういう意味を持たせたのか。
Goodbyeも、男色詩人が使うときには意味がありそうだ。Hart Craneもある詩の中でこの言葉を用いている。
Hart Craneを読みながら、このようなことを考えてみよう。
男色詩人の詩の世界は、実にassociation、連想、概念連鎖が豊かです。幾重にも掛けられる意味の世界。何故人間はこういうことに惹かれるのだろうか。
これが宇宙のありかただからだろうな、というのが、このごろのわたしの感想です。
一つの詩文は、そのままで宇宙の構造が現れていると思う。
(どのように?どうやって?なぜ?)
(しかし、このようなことが何故amoralやimmoralなことになるのであろうか。(それは、すべて主体と客体の関係の問題だ。))
インターネットの世界でこの歌の原詞と和訳を見つけたので転載します。
いい歌だと思います。
When are you gonna come down?
When are you going to land?
I should have stayed on the farm,
I should have listened to my old man.
いつになったら離れるつもり?
いつになったら落ち着くんだい?
僕はあのまま農場にいるべきだったんだ
おやじの言うことを聞いとけばよかった
You know you can't hold me forever,
I didn't sign up with you.
I'm not a present for your friends to open,
This boy's too young to be singing the blues.
僕をずっとつなぎ止めておくのは無理な話
契約書にサインしたわけじゃなし
僕は友達のための贈り物じゃあないからね
子供の僕がブルースを歌うのは十年早いな
So Goodbye Yellow Brick Road,
Where the dogs of society howl.
You can't plant me in your penthouse,
I'm going back to my plough.
だから、さよなら黄色いレンガ道
「上流」のやつらが遠吠えする街よ
ペントハウスなぞに根を生やす気はない
僕は僕の大地に戻るんだ
Back to the howling old owl in the woods,
Hunting the horny back toad.
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road.
もう一度、森で鳴く、懐かしい梟のもとへ
イボ蛙を捕りに行こう
ああ、やっと決心できた。僕の明日は
黄色いレンガ道の彼方にあるんだ
What do you think you'll do then?
I bet that'll shoot down your plane.
It'll take you a couple of vodka and tonics
To set you on your feet again.
それでこれからどうする気?
君の飛行機は撃ち落とされること請け合い
また元気に立ち直るまでには
ウォッカ・トニックが何杯必要かな?
Maybe you'll get a replacement,
There's plenty like me to be found.
Mongrels, who ain't got a penny
Sniffing for tit-bits like you on the ground.
僕の替りは、そりゃあ、いるかもね
探せば僕みたいのはいっぱいいるだろうし
地べたでくんくん、君みたいなご馳走を
嗅ぎ回ってる一文無しの雑種の犬どもがね
So Goodbye Yellow Brick Road,
Where the dogs of society howl.
You can't plant me in your penthouse,
I'm going back to my plough.
だから、さよなら黄色いレンガ道
「上流」のやつらが遠吠えする街よ
ペントハウスなんかに根を生やす気はない
やるべき仕事に戻るんだ
Back to the howling old owl in the woods,
Hunting the horny back toad.
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road.
もう一度、森で鳴く懐かしい梟のもとへ
イボ蛙を捕りに行こう
ああ、やっと決心できた。僕の明日は
黄色いレンガ道の彼方にあるんだ
(http://www.asahi-net.or.jp/~rj5y-okr/zz/worx/yellow.html)
そう思って考えてみれば、Brickとは陽物であるからして、Brick Roadとは既に男色の道という意味である。
Hart Craneの詩の中に色の形容詞を探したが、yellowは無かった。この色にElton Johnなどどういう意味を持たせたのか。
Goodbyeも、男色詩人が使うときには意味がありそうだ。Hart Craneもある詩の中でこの言葉を用いている。
Hart Craneを読みながら、このようなことを考えてみよう。
男色詩人の詩の世界は、実にassociation、連想、概念連鎖が豊かです。幾重にも掛けられる意味の世界。何故人間はこういうことに惹かれるのだろうか。
これが宇宙のありかただからだろうな、というのが、このごろのわたしの感想です。
一つの詩文は、そのままで宇宙の構造が現れていると思う。
(どのように?どうやって?なぜ?)
(しかし、このようなことが何故amoralやimmoralなことになるのであろうか。(それは、すべて主体と客体の関係の問題だ。))
インターネットの世界でこの歌の原詞と和訳を見つけたので転載します。
いい歌だと思います。
When are you gonna come down?
When are you going to land?
I should have stayed on the farm,
I should have listened to my old man.
いつになったら離れるつもり?
いつになったら落ち着くんだい?
僕はあのまま農場にいるべきだったんだ
おやじの言うことを聞いとけばよかった
You know you can't hold me forever,
I didn't sign up with you.
I'm not a present for your friends to open,
This boy's too young to be singing the blues.
僕をずっとつなぎ止めておくのは無理な話
契約書にサインしたわけじゃなし
僕は友達のための贈り物じゃあないからね
子供の僕がブルースを歌うのは十年早いな
So Goodbye Yellow Brick Road,
Where the dogs of society howl.
You can't plant me in your penthouse,
I'm going back to my plough.
だから、さよなら黄色いレンガ道
「上流」のやつらが遠吠えする街よ
ペントハウスなぞに根を生やす気はない
僕は僕の大地に戻るんだ
Back to the howling old owl in the woods,
Hunting the horny back toad.
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road.
もう一度、森で鳴く、懐かしい梟のもとへ
イボ蛙を捕りに行こう
ああ、やっと決心できた。僕の明日は
黄色いレンガ道の彼方にあるんだ
What do you think you'll do then?
I bet that'll shoot down your plane.
It'll take you a couple of vodka and tonics
To set you on your feet again.
それでこれからどうする気?
君の飛行機は撃ち落とされること請け合い
また元気に立ち直るまでには
ウォッカ・トニックが何杯必要かな?
Maybe you'll get a replacement,
There's plenty like me to be found.
Mongrels, who ain't got a penny
Sniffing for tit-bits like you on the ground.
僕の替りは、そりゃあ、いるかもね
探せば僕みたいのはいっぱいいるだろうし
地べたでくんくん、君みたいなご馳走を
嗅ぎ回ってる一文無しの雑種の犬どもがね
So Goodbye Yellow Brick Road,
Where the dogs of society howl.
You can't plant me in your penthouse,
I'm going back to my plough.
だから、さよなら黄色いレンガ道
「上流」のやつらが遠吠えする街よ
ペントハウスなんかに根を生やす気はない
やるべき仕事に戻るんだ
Back to the howling old owl in the woods,
Hunting the horny back toad.
Oh I've finally decided my future lies
Beyond the yellow brick road.
もう一度、森で鳴く懐かしい梟のもとへ
イボ蛙を捕りに行こう
ああ、やっと決心できた。僕の明日は
黄色いレンガ道の彼方にあるんだ
(http://www.asahi-net.or.jp/~rj5y-okr/zz/worx/yellow.html)
2010年4月16日金曜日
トーマス・マンの闇について

詩の定義(多義性ある一文)と詩の非政治性について、あることから、引き続き自ら問うたこのふたつの関係を考えてみた。
現実の社会は、その権力者は、あるいは政府は(仮に国民国家、近代の国家ー日本も同様ーを考えると)、何かについてのコンテクストをひとつに限定したい、収斂させたいと考え、実行する。それが支配ということだと思う。法律の体系などというのは、その最たるものではないか。それは所有慾を前提にした所有を正当化するための、言語で記述され、ひとつひとつの言葉が定義されたシステムである。
これに対して、あるいは反して、詩は言葉の本来の性質と言語の構造に従うので、ひとつの文からして多義的であることをあたりまえとしている。
ここに詩が、政治と衝突する契機がある。散文家は、ことばを手段として政治的な批判をすることができるが、詩人は、言葉そのものの多義的な構造に忠実ならむとするので、破格文法的な表現であれ、文法的な表現であれ、その詩人のことばが現実に直接触れたときに生まれる表現が詩だという形をとるのではないだろうか。それはどのような詩の姿をとるのであるだろうか。
以前あるブログで言及した同じトーマス・マン論を移動書斎で読んでいるのだが、マンが、第1次世界大戦のときに書いた文章でFeldpost、訳せば戦場通信という文章がある。Feldは英語でfield、postはpostです。
ここで、マンは、戦時下において芸術家の自由とは何か、芸術家の運命とは何かを問うて、その問いに答えて曰く、それはGleichnis(似ていること)、すなわち比喩に生きることだというのがその答えなのだ。一例を挙げようといって、これがそのひとつだと、その語調からいって断定的に(いささか格好良く)、Soldarish zu leben, aber nicht als Soldatと言っている。訳せば、兵士的に(つまり兵士の比喩として)生きること、しかし(実際の)兵士としては生きないこと、だ。
このせりふの前提には、当時ドイツの作家たちが同様の問題を論じたときのテーマがあったようで、それはKunst als Krieg、戦争としての藝術という考え方があるといっている。芸術家が作品をつくることは、実際に血を流す戦争、血を流して戦場で倒れる兵士と同様の、そのような営為なのだという主張である。そのような議論をしたものであろう。
そのことによって、芸術家は戦争に参加するのかしないのか。
マンがいう兵士的に生きるが兵士としてはいきないという文は、いまこの年齢のわたしが読むと、これは明らかに詭弁だと思う。
今日上に置いた写真は、わたしの持っているトーマス・マン短編集に収められている、わたしがよく言及するマン18歳のときの散文の小作品、Visionを本文右側の隣のページにそれを図解したわたしの絵である。よく見えないかも知れない。うまく見えるとよいが。
主人公の周囲は闇である。夜。ある部屋にいて、主人公は椅子に座り机に向かっている。ランプが点いていて、そのランプからの光が円錐形をなしている。主人公は闇の中にいて、闇の中からその明るい円錐形の中を覗き見ている。そこを舞台にして、ふたつのものが過去の記憶の中から姿を現す。ひとつは、聖杯であり、もうひとつは女性の白い手と腕、青い血管が息づいているエロティックな女性の腕です。それが聖杯のそばにある。このような図を写真の中に読むことができるでしょうか。
従いまた、この男は男性としては性的には無能力者だということになります。実際マンの同性愛の傾向は抜きがたい。(同じ典型的な芸術家をわたしはHart Craneというアメリカの詩人にみますが、こちらはもっと現実的に、つまり肉体として男色者でした。)
この円錐形の光の世界でおこることは、闇の中にいる男は制御することができません。ただbegierig(熱心に)見ていることができるだけです。この熱心にというドイツ語に、わたしはマンの性欲、倒錯した性を感じます。単に熱心というだけではない、もっとエロティックな欲情ともいうべき熱情なのです。しかし、その対象、そのエロスを、外にいる男は所有することができないのです。作品、すなわち言語組織体は、そこで自己の意志を以って自己増殖する。マンが繰り返し述べているところです。どの作品もそうやって生まれる。
わたしは、この作品のいわんとしているところ、あらわしているところは、芸術家の、およそ言語にかかわる芸術家、散文家であろうと詩文家、詩人であろうと、そのようなひとの姿を真率にあらわしていると思っております。
このような構造を持った世界を前に、マンはただ倒錯的に、冒頭に述べたような普通の社会価値観からみれば、転倒した価値観をもって、そこにいるのです。マンを詩人に置き換えてみましょう。詩人が詩人であるのは、作品とこのような関係を持ったときだけです。わたしはそう思います。
昼の、明るい、周囲がそのようである場所で、目の前に起こる現実的な事件に対し、その人間はその事件を制御することが同様にできません。できませんが、それを周囲に闇があり、目の前で起きる言葉の自己増殖と同様だと敢て思いなし、そう考えて、現実の事件、すなわちこの場合は戦争も作品だとし、更に作品の比喩だとして考え違いをすると、詩人の言葉は力を喪失します。それどころか上で大人のマンが示しているように、無残なことになる。
上の論文を読んでいると、マンのBBCでのドイツ民族への呼びかけ(形式的には、ドイツ人に対する反戦のスピーチということになるのでしょうが。こうしてみると反戦などとはいい加減な言葉だ。自分は反戦詩人ではないといっている金子光晴の素晴らしさよ。金子光晴は自分をそのようにいう人たちを嗤っている)は、文字にしたそのたのエッセイなどの散文でそうであるように、言葉の意味、すなわち概念を整理しなおすということを、自分が納得するようになるまで繰り返すだけで、実際に現実に働きかけ、何かを動かすことばにはなっていないと論文の筆者は言っています。これはマンについては、第2次世界大戦時の文章も同様だといっています。
このことは、上のVisionの主人公の姿を見れば明らかなのですが、結婚をして(これをマンは, Ich bin verwirklicht、わたしは現実化したといっています。それまでの青年期のマンは、闇の中にいる人間、現実には死んでいる、死者としているような存在と考えているのでしょう)、国民国家の一員でもある生身の人間としては、戦争も不幸にして経験しなければならない、そのときに芸術家としてどうするか。
マンの失敗から受け取るべきわたしたちの教訓は、詩人が政治的なものに触れて言葉を発するときには、くれぐれも比喩を使うことに慎重でなければならないというものです。比喩はまた言語の本質から生まれるものです。(それでは言語とは何かという問いを問うことになりますが、これは詩誌tabに以前書かせていただいたので、ここでは敢て触れません。)
そして、詩人は比喩を使わずに詩を書くことができない。ここに、非常時の場合の陥穽、落とし穴があります。
闇の中にいて詩を書く場合には強みであるものが、昼の明かりの中に自分自身がいて、暗い世界に見る事件について政治的に発言するときには、その言葉が比喩を使うために逆に威力を失うのです。なんという皮肉でありましょう。前者の言葉は、政治力学と全く無縁ですが、後者の言葉は煽動の言葉となるでしょう。
わたしが詩に惹かれるのは、それが前者の言葉だからです。ひとによってみれば倒錯した、価値の転倒が当たり前の、目の前の光ある世界に対しては全くの無能力者の、18歳のマンが書いたVisionの世界のありよう、これが詩の世界の、というよりもまた言葉による表現の世界の何たるかをあらわしているのだと思います。
ある人に問われた問い、何故お前は詩を選んだのかという問いに対する答えは、今回うまくかけている文章だとは思いませんが、このような理由ではないかと思います。
ああ、それからもうひとつ。以上のべきたったことに大いに関係があるのですが、戦争の起源と性愛の起源とは、言語という観点からみると、これらは全く同じものなのです。(また、言語とは何かでありますが。)そうしてみると、詩人の政治や戦争に対する無能力な姿を、また性的にも政治的にも、もし論じるとすると、ここからもっと論を展開することができると思います。
登録:
投稿 (Atom)