リルケの『形象詩集』を読む(連載第11回) 『Die Stille』『静寂』
【原文】
Hörst du, Geliebte, ich hebe die Hände -
Hörst du: es rauscht…
Welche Gebärde der Einsamen fände
sich nicht von vielen Dingen belauscht?
Hörst du, Geliebte, ich schließe die Lider,
und auch das ist Geräusch bis zu dir.
Hörst du, Geliebte, ich hebe sie wieder…
… aber warum bist du nicht hier.
Der Abdruck meiner kleinsten Bewegung
bleibt in der seidenen Stille sichtbar;
unverzichtbar drückt die geringste Erregung
in den gespannten Vorhang der Ferne sich ein.
Auf meinen Atemzügen heben und senken
die Sterne sich.
Zu meinen Lippen kommen die Düfte zur Tränke,
und ich erkenne die Handgelenke
entfernter Engel.
Nur die ich denke: Dich
seh ich nicht.
【散文訳】
お聴き、恋人よ、わたしは両手を揚げるよ
お聴き、さやかな音が聞こえるよ…
孤独な人々がどんな身振りをしたら、その身振りたちは
たくさんある事物に、自分の立てる音の聞き耳を立てないだろうか?そんな身振りがあるだろうか(いや、事物に聞き耳を立てない身振りなどないのだ)。
お聴き、恋人よ、わたしは両の瞼(まぶた)を閉ぢる
そうすると、ほら、これもまた、お前のところまでさらさら鳴る音となって響くのだ。
お聴き、恋人よ、わたしは再び両の手を揚げる
…しかし、何故お前は此処にいないのだ。
わたしの最も小さな動きの刻印が
絹の沈黙の中にはっきりと留まっているのが見える;
放棄されることとは全くないのだ、最も僅かな動きの発励が
遥かな距離の、その張られた緞帳の中へと自らを押捺することが。
わたしの呼吸の上で、揚がり、そして沈むのは
星々である。
わたしたちの唇へと、水飼場の数々の芳香がやって来て、
そして、わたしは、手首を認識する
遥かに遠い天使たちの。
わたしは、お前のことだけを考えているのだ:お前を、だ。そのお前を
わたしは見ることがなく、見えないのだ。
【解釈と鑑賞】
詩の出だしは、前回が花嫁が花婿に命じることばで始まっているのに引き続いて、やはりその声調を尚響かせて、しかし今回はその役割を交換して、今回は男が、愛する女性に対して、聴け、聴いてくれと命令をし、お願いをしております。
この順序から言っても、この詩の女性も処女であり乙女でありましょう。
さて、しかし、一体この男は、愛する女性に何をよく聴けと命じているのでしょうか。
結論から申しますと、この男は、あるいは詩人と言って良いとおもいますが、この詩人の男の身振りについて歌った、この詩は詩であり、その身振りの立てるさやけき音を聴いてくれと、男は女に命じているのです。
それが、最初の二行目の、
「お聴き、恋人よ、わたしは両手を揚げるよ
お聴き、さやかな音が聞こえるよ…」
という言葉なのです。
これは一体何を言っているのでしょうか。何故、両手を揚げると、さやかな音が聞こえるのでしょうか。この、ドイツ語でいうrauschen、ラウシェンという動詞が、一体ドイツ人にとって、またドイツ民族にとって、その響き通りにどのような意味を持つ言葉であるかを、まづ最初に説明をしてから、両手を揚げることの意味についてお話をします。以下「リルケの『形象詩集』を読む(連載第3回)~『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』Zwei Gedichte zu Hans Thomas Sechzigstem Geburtstage『月夜』~(もぐら通信第34号)」より再掲します。
「さて、「さやけき音」と訳した此のドイツ語では、rauschen、ラオシェンと発音される言葉の説明を致します。何故ならば、この言葉と此の発声の音は、ドイツ人にとっては、大変神聖な尊い言葉であり音であるからなのです。
どの詩人の詩を読んでも、このrauschen、ラオシェンという言葉が出てくると、それだけで一つの世界が生まれるのです。この音は、ドイツの森の中で樹木の葉擦れの音であり、自然の中を流れる潺湲(せんかん)たる川の流れの音なのであり、何か神聖性を宿している事物の立てる音だと詩人が思えば、そこに其のような神聖なる事物として存在が現れるのです。勿論、詩のみならず、散文の世界でも同様です。ドイツ人は何かこう、自然の中で閑(かん)たる中にささやかに響く、何か神聖な感覚を、この言葉と其の響きに、持っているのです。
わたしたち日本人の世界の言葉で言えば、さやさや、さやけさ、皐月(さつき)の此の五月の月の「さ」、早乙女の「さ」に当たるような神聖なる音なのです。この「さ」の音を、そっとあなたの口から息とともに発声してみると、あなたは安部公房スタジオの一員になることができるでしょう。」
つまり、一言で言うと、この身振りの立てる音は、神聖なる音、神聖なる響きなのです。
最初に、この詩に出てくる其のような身振りを挙げてみましょう。次のような身振りが歌われております。4の手首という天使の体の一部を除いてはすべて、人間の男としてある詩人の身振りを歌うための、身体の一部か、またはその身体の一部を使った行為です。
1。両手
2。両目
3。両まぶた
4。手首
5。呼吸
6。唇
そうして、これらの神聖なる音を立てることのできる体の一部を有するのは、孤独な人たちである。いや、あるいは逆に、孤独の人々であればこそ、そのような音を立てることができる。
「孤独な人々がどんな身振りをしたら、その身振りたちは
たくさんある事物に、自分の立てる音の聞き耳を立てないだろうか?そんな身振りがあるだろうか(いや、事物に聞き耳を立てない身振りなどないのだ)。」
とあるのは、その意味なのです。
この行でも、外部と内部は交換されております。お判りでしょうか。普通ならば、孤独な人たちが身振りに聞き耳を立てると書くべきところを、そうではなく、倒立させて、「その身振りたちは/たくさんある事物に、自分の立てる音の聞き耳を立てないだろうか?」と書くのです。
これが、リルケです。
さて、話を両手に戻します。
両手といえば、安部公房が大好きだった、同じ此の『形象詩集』にある「秋」とい詩を読むのが良いでしょう。両手の説明をするのに、私がよく引用する詩です。そうして、ここで歌われている両手の成す窪みは、20代の初めから、そのまま安部公房の存在論の窪みとなっており、『砂の女』の棲む砂の穴という窪みを超えて、一生の、安部公房の本質的な形象(イメージ)の一つとなっています。この窪みがどのような窪みかは、『〈様々な光を巡って〉』(全集第1巻、202ページ下段から205ページ上段5行目まで)をお読み下さい。
「秋
数々の葉が落ちる、遠くからのように
恰(あたか)も、数々の天にあって、遥かな数々の庭が凋(しぼ)み、末枯 (すが)れ
るかの如くに
葉は、否定の身振をしながら、落ちる
そして、数々の夜の中で、重たい地球が落ちる
総ての星々の中から、孤独の中へと。
わたしたちは皆、落ちる。この手が、落ちる。
そして、他の人たちを見てご覧 落ちるということは、総ての人
の中に在るのだ。
そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。」(拙訳)
「そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。」
と、最後にある二行に歌われている両手は、Godとはリルケは言いませんが、唯一者と呼ばれる尊い何ものかであって、その両手によって、平たく言えば、落ちるものすべてが救済されるのです。
このように、この両手は尊い。
同じ両手という言葉を『形象詩集』に探せしますと、全部で33出てきます。33全部を論ずる暇(いとま)がありませんので、今そのうちの幾つかの箇所を見て、上の意味を確かめることにします。
『Die Heilige』(『神聖なる女』)
Da neigte sich die junge Widerrute
in ihren Händen dürstend wie einTier:
jetzt ging sie blühend über ihrem Blute,
und rauschend ging ihr Blut tief unter ihr.
すると、若い柳のしなやかな若枝が、お辞儀をした
聖なる女の両手の中で、水を渇望しながら、一匹の獣のように:
今や、女は、花咲きながら、若い柳の血の上を歩んだ
そうして、さやさやという音を立てながら、その血は深く、女の下を行った。
(拙訳)
この詩でも、両手は、「聖なる女の両手の中で」とあるように、神聖なるものであり、何か生命の蘇りをもたらす窪みとなっています。
安部公房の詩や初期の作品の中に、この獣という言葉が出てきますが、それはすべてこのような両手に深く関係した生命の蘇生の象徴であると理解して差し支えありません。安部公房は、リルケから幾つもの語彙を学び、自家薬籠中のものとしました。
次は、『Menschen bei Nacht』(『夜のそばの人間たち』)という詩です。
Auf ihren Stirnen hat gelber Schein
alle Gedanken verdrängt,
in ihren Blicken flackert der Wein,
an ihren Händen hängt
die schwere Gebärde, mit der sie sich
bei ihren Gesprächen verstehen
und dabei sagen sie: Ich un Ich
und meinen: Irgendwen.
夜の星々の上では、黄色の光が
すべての思想、思考を押し退(の)けた
夜の数々の視線の中では、葡萄酒がゆらゆらと輝きを放った
夜の両手にぶら下がるのは
重たい身振りであり、その身振りによって、人間たちは
自分たちが会話をする場合には、自分自身を理解し、
そして、そこで、人間たちはこういうのだ:私と私が
そして、私を、即ち誰かを、と。
(拙訳)
この詩でも、夜の重たい身振りと聖なる両手は縁語になっています。つまり、いつも対になって出てきます。この夜の重たい身振りと言えば、最晩年の傑作『ドィーノの悲歌』の第1番第1連には、夜は、次のように歌われております。
O und die Nacht, die Nacht, wenn der Wind voller Weltraum
uns am Angesicht zehrt -, wem bliebe sie nicht, die ersehnte,
sanft enttäuschende, welche dem einzelnen Herzen
mühsam bevorsteht.
おお、そして夜だ、夜だ、世界空間で一杯になった風が
私たちの顔を食い尽くすならば、誰のために夜は留まらないことがあろうか、憧れ待ち焦がれた夜、個々の心臓の面前に疲れて立っていて
優しく幻滅している夜は。
(拙訳)
身振りと両手は、また夜と繋がっていることになります。そうして、上の最初の二行にあるように、夜は人を無名にする。従い、
身振りー両手ー神聖ーさやけき音ー孤独な人々ー夜ー無名
という概念連鎖になりましょう。
と、このように読んで参りますと、再度次に引く第一連は明らかに理解されるでしょう。
「お聴き、恋人よ、わたしは両手を揚げるよ
お聴き、さやかな音が聞こえるよ…
孤独な人々がどんな身振りをしたら、その身振りたちは
たくさんある事物に、自分の立てる音の聞き耳を立てないだろうか?そんな身振りがあるだろうか(いや、事物に聞き耳を立てない身振りなどないのだ)。
お聴き、恋人よ、わたしは両の瞼(まぶた)を閉ぢる
そうすると、ほら、これもまた、お前のところまでさらさら鳴る音となって響くのだ。
お聴き、恋人よ、わたしは再び両の手を揚げる
…しかし、何故お前は此処にいないのだ。」
しかし、「…しかし、何故お前は此処にいないのだ。」という一行が最後に置かれるのか、これについては、リルケの天使との関係で後述します。
さて、第2連です。
「わたしの最も小さな動きの刻印が
絹の沈黙の中にはっきりと留まっているのが見える;
放棄されることとは全くないのだ、最も僅かな動きの発励が
遥かな距離の、その張られた緞帳の中へと自らを押捺することが。」
「わたしの最も小さな動きの刻印が」とあるのは、男の身振りのことであることは自明です。
そうして、その身振りは刻印されて、「絹の沈黙の中にはっきりと留まっている」というのです。この絹という言葉を、名詞と形容詞を含めて、リルケは此の詩集で、この詩も含み、全部で5つ使っております。例えば、次の詩を。
『Martyrinnen』(『女の殉教者たち』)
Das ist die Stunde, da sie heilig sind,
die stille Jungfrau und das blasse Kind.
それが、その時間だ、二人が神聖なるものである時間だ、
静謐なる若い処女と蒼白の子供の二人が。
Da sind sie wieder wie vor allem Leide
und schlafen arm und haben keinen Ruhm,
und ihre Seelen sind wie weisse Seide,
und von(vor) derselben Sehnsucht beben beide
und fürchten sich vor ihrem Heldentum.
そこでは、二人は、再びすべての苦悩の余りのように、あり
そして、貧しく眠り、そして名声も持たず
そして、二人の魂は、白い絹のようであり、
そして、同じ憧れのために、二人は大きく激しく震えている
そして、二人は、二人が英雄になることを恐れた。
この箇所を読みますと、次のことが判ります。
1。絹は、殉教の魂に関係してあること。
2。絹に喩えられる魂は、名声を求めないこと。
3。殉教という死に関する同じ憧れを二人で共有していること。
4。それがふさわしいのは、処女と子供であること。即ち、安部公房の十代に認識した言葉でいえば、未分化の実存であること。そして、
5。人々の間で、英雄になることを恐れること。
ということになるでしょう。
そうすると、第2連の、
「わたしの最も小さな動きの刻印が
絹の沈黙の中にはっきりと留まっているのが見える」
とあるこの二行を歌う詩中の詩人もまた、死を覚悟した男ということになり、それが「絹の沈黙」ということなのであり、この沈黙の中には、上に挙げた動作があって、これらは皆、死と引き換えに刻印されているのだということになります。
そして、次の二行が、
「放棄されることとは全くないのだ、最も僅かな動きの発励が
遥かな距離の、その張られた緞帳の中へと自らを押捺することが。」
とあるように、繰り返して、その刻印が「放棄されることとは全くない」と歌われています。あるいは、捨てられることはないという意味です。
「遥かな距離の、その張られた緞帳の中へと」あるのも、リルケらしい。
何か二人の男女の間には劇場の緞帳が張ってあるという形象です。その舞台へは、詩人は上がることはできない。その舞台の上へ上がって、処女と性愛を交わすことができないのです。いわば、不能の男と言っても良い。即ち、未分化の実存の一特徴です。
また、女も舞台を降りて、客席にやってくるという気配もない。女もまた、隔てられた遥かな距離の向こうにいて、男と会うことがないのです。今まで見てきたように、これが詩人と処女についての、世間の人ならば倒錯といい、背理というかも知れない、しかし、リルケの思想です。
さうして、この体の身振りは、呼吸ということの上に成り立っている。体は呼吸によって、外部と内部を交換するのです。
リルケによれば、呼吸もまた、風の一種であって、風は分かれることなく、また別れてもまた、空を飛翔する鳥の群れのように常に一つになりますので、これは存在であるというのが、リルケの思想であり形象なのです。
そうして、呼気を交換することによって、呼気によって外部と内部を交換することによって、そうして当然にその自分は体ごと存在になることになって、体は天地と照応し、一体となって息づいてゐる。
このやうに、体は天地の間にある事物と交感する。
それが、
「わたしの呼吸の上で、揚がり、そして沈むのは
星々である。」
という二行の意味です。
この二行では、『秋』という詩で見たような唯一者に、この詩人たる男はなっているようです。この男の息の交換の中で、「星々が揚がり、そして沈む」のですから。
更に、続けて、
「わたしたちの唇へと、水飼場の数々の芳香がやって来て、
そして、わたしは、手首を認識する
遥かに遠い天使たちの。」
と歌いますが、この「わたしたちの唇へと、水飼場の数々の芳香がやって来て」とあるのは、どのような繋がりで、次に此の一行があるのでしょうか。
私たち日本人の感覚でこの最初の一行を読みますと、何か違和感があります。それは、「数々の芳香がやって来」るのが、何故動物の水飲み場である水飼場なのでしょうか。違和感を感じ、おかしいと思ったら、そこに理解の鍵があります。
私たちの感覚では、動物の水飲み場には、「数々の芳香がやって来」ることはないでありましょう。しかし、リルケの世界では何故なにが、そうなのでしょうか。今、インターネットから、この水飼場というTränke(トレンケ)という写真を持ってきて示します。
器の中へと水が注がれるようになっています。
これに牛を置くと、こんな感じになります。
何故これが、この場所に芳香が漂うのかといえば、ドイツ人の連想では、これは泉の類なのです。それは、次の写真を見ればわかります。ドイツ語で泉というBrunnen(ブルネン)で検索して引きました。こんな順番に並べると、動物の水飲み場である水飼場が、泉であることがわかるでしょう。まづ、ヨーロッパの町の中の市場には必ずある型の泉です。
次に個人の庭にあると思しき泉です。
ここまで来ると、動物の水飼場と人間の水飲み場である泉に違いは段々となくなって来ます。次の写真も、Brunnen(ブルネン)で検索したものです。
何故、動物の水飼場に芳香があるのかという問いに戻ります。
オルフェウスへのソネット(第2部)に、次の二つの詩があります。これを読みますと、リルケが泉なるものをどのように考えていたかが、わかります。説明はそれぞれの【解釈と鑑賞】に譲ります。
「XV
O BRUNNEN-MUND, du gebender, du Mund,
der unerschöpflich Eines, Reines, spricht, —
du, vor des Wassers fließendem Gesicht,
marmorne Maske. Und im Hintergrund
der Aquädukte Herkunft. Weither an
Gräbern vorbei, vom Hang des Apennins
tragen sie dir dein Sagen zu, das dann
am schwarzen Altern deines Kinns
vorüberfällt in das Gefäß davor.
Dies ist das schlafend hingelegte Ohr,
das Marmorohr, in das du immer sprichst.
Ein Ohr der Erde. Nur mit sich allein
redet sie also. Schiebt ein Krug sich ein,
so scheint es ihr, daß du sie unterbrichst.
【散文訳】
おお、泉の口よ、お前与える者よ、お前、尽きることなく
一つのもの、純粋なものを話す者よ―
お前、水の、流れる顔の前の、大理石の仮面よ。そして、背景には
水道橋からの由来、由緒がある。ずっと遠くから来て墓場の傍らを過ぎ、
アペニン山脈の崖から、水道橋は、お前に、お前の伝説を運んで来るのだが、
その伝説は、次に、お前の顎の黒く歳をとることの傍を通り過ぎて、顎の前の
器の中へと落ちるのだ。これは、眠りながら差し出された耳、お前がいつも
話しをその中にする大理石の耳だ。
大地の耳。かくして、ただ自分自身とだけ、耳は話をする。もし壺が押し入れられたら、
お前が耳のしていることを中断したと、耳には見えることだろう。
【解釈と鑑賞】
前のソネットの後半、即ち第3連と第4連の詩想を受け継いでいるのでしょう。これは、噴水の水流れ出る泉の口を巡るソネットです。
アペニン山脈から流れてくる水もオルフェウス、写真などでみるとよくイタリアなどの市場にある噴水などの水の装置についている、水の流れ出る口もオルフェウス、そして、その水を受ける器もオルフェウス。
この詩想は、次のソネットにQuelle、クヴェレ、源泉、泉として、やはり、受け継がれています。
【原文】
XVI
IMMER wieder von uns aufgerissen,
ist der Gott die Stelle, welche heilt.
Wir sind Scharfe, denn wir wollen wissen,
aber er ist heiter und verteilt.
Selbst die reine, die geweihte Spende
nimmt er anders nicht in seine Welt,
als indem er sich dem freien Ende
unbewegt entgegenstellt.
Nur der Tote trinkt
aus der hier von uns gehörten Quelle,
wenn der Gott ihm schweigend winkt, dem Toten.
Uns wird nur das Lärmen angeboten.
Und das Lamm erbittet seine Schelle
aus dem stilleren Instinkt.
【散文訳】
何度も何度も、私たちによって、引き裂かれるように引き開けられても、
神というものは、治癒する場所であるのだ。わたしたちは、鋭い者たちだ。
何故ならば、わたしたちは知っているから。しかし、神は明朗で且つ分かち与える。
純粋な、清められたお布施でさへ、神は、微動だにせず、放たれて何もない端に対立して位置する以外の仕方では、神の世界の中へと取り入れない。
ただ死者だけが飲むのだ
ここの、わたしたちによって聴かれている源泉の中から
神が死者に沈黙しながら合図をするときにはいつでも
わたしたちには、喧騒のみが提供される。
そして、羊は、静かな本能から
自分の鈴を懇願して得るのだ。
【解釈と鑑賞】
何か、前のソネットといい、このソネットといい、それまでのソネットと調子が違っている。変な言い方かも知れないが、極度に思弁的ではないときの、リルケの言葉の美しさが現れている。
第1連の「引き裂かれるように引き開けられて」と訳した、aufgerissen、アウフゲリッセンは、瘡蓋(かさぶた)をとるのは、きっとそれに当たることだと思う。いかにも、そんな感じがする。
人間は知りたいと欲する。知ることは、傷つき、出血し、瘡蓋のできる行為なのだ。しかし、これに対して、神は明朗であり、与える。明朗とは、第2部ソネットXI第4連では、精神に冠して使われた形容詞でもありました。より明朗なる精神は死をも受け入れ、新しい世界を創造する。それは、神に一歩なりとも近づく精神のありかたなのでしょう。
第2連は、神様に奉納するのに、そのお布施もまづ清められ純粋になる必要がある。そのようなお布施、喜捨でさへも、神という空間が自らの中へ受け容れる仕方があるのだ。それが、「微動だにせず、放たれて何もない端に対立して位置する」という仕方、方法です。「放たれて何もない端」とは、直線を描くのに、ある点から発して直線を描く様子を想像してみると、その他方の点が無限に続く様子を思い描くことができれば、それは「放たれて何もない端」ということになるでしょう。他の端があるのですが、それは制限を受けていない、無限である。神はその他の端に立って均衡をとることによって、ものごとの全体を現す。均衡あるこの世界を創造する。そうしていながら、神は微動だにしない。微動だにしないとは、相対的なものではないのです。
第3連には、神と死者とわたしたち人間の関係が歌われています。「わたしたちによって聴かれている源泉」とは、第1部ソネットVIII第1連を思い出すとよいのではないでしょうか。そこでは、
NUR im Raum der Rühmung darf die Klage
gehn, die Nymphe des geweinten Quells,
wachend über unserm Niederschlage,
daß er klar sei an demselben Fels,
der die Tore trägt und die Altäre.
【散文訳】
賞賛することという空間の中でのみ、悲嘆は行くことが
ゆるされる。悲嘆とは、涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフであり、
わたしたちの落下が、門を担い、祭壇を担っている同じ岩のところで、
清澄であると思って(清澄であることを)見張っているのだ。
とあり、わたしたちは源泉から流れ出る水の流れに譬えられています。
確かに、わたしたちは源泉の音を聞いているのです。
そうして、死者たちは、わたしたちの生からその(変ないいかたかも知れませんが)命を得ているのだと歌われています。死者が、わたしたちの生の源泉から飲むとは、そのような意味でしょう。神は、死者に、わたしたちの生の源泉から飲むように合図をし、そうして、死者は飲む。
この死者に対して、という意味で、第4連最初の一行最初の一語の原文では、「わたしたちには」が配置されているのでしょう。強意のための倒置です。
わたしたちには、喧騒のみが提供される。
これは、死者の世界は、静かな世界だと対比的に省略的に言っている。第4連最後の、
そして、羊は、静かな本能から
自分の鈴を懇願して得るのだ。
とは、一体何を言っているのでしょうか。
もし羊がわたしたち人間を意味しているとしたら、わたしたちの本性はやはり静寂を求めているのであり、喧騒をではなく、その帰属する静かな空間に鳴り響く鈴の音を求めているのだと解釈することができます。あるいは、羊を人間としてとるのではなく、文字通りの動物だとして、人間の姿と対比させて、そう歌ったと解釈することもできます。やはり、動物に対するリルケの詩想からいって、後者ととることがよいかも知れません。」
さて、ここまで来ると、「わたしたちの唇へと、水飼場の数々の芳香がやって来」る理由がおわかりでしょう。
そうして、リルケがここでも、「わたしたちの唇」が水を飲むために水飼場へ行くのではなく、「水飼場の数々の芳香」の方が「わたしたちの唇へ」とやって来るとあるように、外部と内部を交換して、一行の詩文を生成しているのです。この交換と倒置によって差異が生まれ、その差異に存在を招来する。この場合、存在とは、息を吐いたり吸ったりしている当の体を持つ男自身だということになります。即ち、こうして詩人は未分化の実存として、この世に其のような存在としてあることができるのです。
この体の身振りは、呼吸ということの上に成り立っている。体は呼吸によって、外部と内部を交換するのです。
さて、このように、体は天地と照応し、一体となっていきづいてゐる。
このように、体は天地の間にある事物と交感する。即ち、自分自身が、天地の媒介者、接続者、即ち天地の間を取り持つ函数になるからです。
それ故に、その次に、
「そして、わたしは、手首を認識する
遥かに遠い天使たちの。」
と歌うことができるのです。
天使たちも確かに「遥かに遠い」。しかし、何故「自分自身が、天地の媒介者、接続者、即ち天地の間を取り持つ函数になる」と、「遥かに遠い天使たちの」「手首を認識する」ことになるのでしょうか。[註1]
[註1]
「リルケの『形象詩集』を読む(連載第6回)『乙女たち』『Von den Mädchen』」(もぐら通信第37号)のなかのIIに「詩人は、お前たちを唯娘たちとして考えることができるだけなのであり、/即ち、お前たちの両の手の手首の関節の中に感情があれば/金襴緞子を打ち壊すことだろうからなのだ。」という、乙女の手首に関する一節がある。手首という接続には感情があってはならないのです。感情でなければ、論理です。
結論を言いますと、リルケの天使とは、接続者だからです。
「悲歌の天使について考えてみましょう。
天使とはどのような存在かについては、悲歌2番の第2連に、それが歌われています。それは、第1連の最後に、わたしという一人称が、天使に向かって、お前たちは何者なのだと問う、その問いに答える形で、第2連が歌われています。この2連目は、わたしの自問自答の回答ともとることができますし、またリルケという作者が顔を出して、その回答をしたというふうにもとることができます。あるいは、その合唱とも。
第1連は、悲歌1番の第1連の冒頭と同じく、天使に対する呼びかけという形式をとっています。この呼びかけという形式は、悲歌10篇を通じて、繰り返しあらわれる、悲歌にとって大切な形式となっています。リルケの人生のうちの晩年の10年をかけて、リルケはこの声調を維持することに苦心したということなのでしょう。悲歌1番を受けて、悲歌2番の第1連の最初は、次のように始まります。
どの天使も恐ろしい。そして、それでもなお、わたしにはつらいことだが、わたしは、お前たち、魂の鳥たち、しかし、魂をほとんど殺してしまう鳥たちであるお前たちを歌い、お前たちに歌うのだ、お前たちについて知ることを求めながら。(大天使と睦まじかったあの)トビアスの日々は、どこへ行ってしまったのだろうか。最も輝ける者のうちのひとりが、簡素な家の戸口に立っていた、旅の姿に身をやつして、従いもはやそれ以上恐ろしくはない姿になって。(彼が興味津々、好奇の念を以って外を眺めやった通りに、若者が若者に。)
もし大天使、この危険な天使が今現れて、星々の背後で、一歩を以ってただ踏みにじるだけで、そうしてこちらに向かって足踏み鳴らして来るならば、いったいどうなることであろうか。すなわち、そもそもの本来の心臓、そもそもの本来のこころが、翼を高く掲げて開き、打ち下ろして、わたしたちをたたき殺すことだろう。(そうやって、わたしたちを殺そうと思えばいつでもできるのに、そうしない)お前たちは、一体、何者なのだ。
この最後のわたしの問いに答えるのが、第2連の次の天使に関する説明です。
天使とはこういうものだということを、列挙、例示して、歌っています。ここに列挙されているものに共通することは何でしょうか。それがわかれば、この悲歌の中で歌われている天使の意味もわかりますし、何故わたしが天使を強く求めるのかが、その天使に抱く自己の死に対するわたしの恐怖心とは裏腹に、わかるということになります。最初に挙げられた名前は、次のようなものです。
Frühe Geglückte、フリューエ・ゲグリュックテ
これが、詩中に出て来るわたしやわたしたちとの関係で、一体どのような意味を持つか、どのような言葉と、このFrühe Geglückte、フリューエ・ゲグリュックテは、対照的に歌われているかは、既に前回述べたところです。
これは、天使たちは、その生まれた後の早い時期に、その生を奪われることのなかった、幸いなるものたちという意味です。このものの言い方を、どうしても最初にこの言葉としておきたいと思ったリルケの心中を想像してください。わたしに対して、そうであるが故に、まったくそれは最高の完全な存在だと、このひとことで言いたいのだと思います。生きた人間であるわたしやわたしたちとは対極的に。わたしたちが創造するには、リノスの秘密を必要とする(悲歌1番の最後の連を)が、そんな秘密を必要としない天使たち。
また、前回見たように、このFrühe という副詞を、その次に続く語との関係から、手塚訳、古井訳のように、宇宙の創造の早期という意味で理解をすることもできます。わたしは、リルケは、ここでは、これらふたつの意味を掛け合わせていると思います。ですから、宇宙創成の始めに、また自身の揺籃期に、成功した、祝福されたものたちというふたつの意味で考えることにします。
2連目の全体を訳します。そうして、天使とはどのような存在かについて、考えてみましょう。
宇宙創成の始めに、また自身の揺籃期に、成功した、祝福されたものたち、お前たち、創造の、甘やかされるかと思うぐらいに恵みを受けたものたち、高貴な山々の山脈(あるいは高貴さの山脈、または高貴の行列、隊列)、すべての創造行為の、夜明けの日の出の赤に染まった、美しい、(ぎざぎざの)刃のような山頂(さんてん)、花咲く神性の花粉、光の関節、数多くの通路、数多くの階段、数多くの玉座、王座、本質の中から直接生まれた数々の空間、最上の歓喜の中から直接生まれた数々の盾、烈しく魅了された感情の、数々の陶酔の擾乱、そうして、突然、不意に、天使は、個々バラバラになって、数々の鏡となるのだ。その数々の鏡は、流れ出た、そもそもの本来の美を、またふたたび、そもそもの、本来の顔の中へと汲み戻す、創造して、そもそもの、本来の顔の中へと取り返すのだ。
これが、リルケが天使とは一体何者であるかを歌い、回答した連のすべてです。天使とは一体何なのでしょうか。これらの列挙された言葉の中に共通している意味、いや意義とは一体なんでしょうか。これらは、一体何を言っているのでしょうか。
わたしは、それは、一言で言うと、天使という存在は、接続するという機能を持っていると、リルケは言っているのだと思います。ひとつひとつ見てみましょう。これは、リルケが天使について、どのように連想していったかというそのプロセスを追体験することでもあるのです。
まづ、Frühe Geglückte、フリューエ・ゲグリュックテ。これが最初です。この表現の意味するところは、上に述べた通り。
次に、お前たち、創造の、甘やかされるかと思うぐらいに恵みを受けたものたち。最初のFrühe Geglückte、フリューエ・ゲグリュックテを言い換えた表現。
ここまでは、いいと思います。天使は、そのように恵まれた、天恵を授かった存在なのです。
3つ目に来るのは、Höhenzüge、へーエン・ツューゲ。高貴な山々の山脈(あるいは高貴さの山脈)。しかし、これはやはり掛け言葉で、その意は、また高貴の行列、隊列。前者の意味でも、山と山との接続。後者の意味で解釈すると、どこからかどこかまでを、行く。ふたつの地点を接続する。Züge、ツューゲという語は、ziehenという動詞から生まれた語で、その意味は、引っ張る、引っ張り寄せるという意味ですから、このことからも、接続するという意味は生まれてくることでしょう。このZüge、ツューゲは、また悲歌2番の第3連で出てきます。既にここに布石をリルケは置いているのです。
また単数形のZugは、悲歌4番第1連2行目から3行目に、wie die Zugvögel、渡り鳥のZug、編隊、隊列として出てきますが、それは、編隊を組むことのできる鳥たちは、わたしやわたしたちのように孤独ではなく、お互いに意思疎通をして、親密に生きているということをいうための比喩なのですが、この話しはまた悲歌4番を読むときの話にとっておいて、さて、悲歌2番に眼を向けますと、その第1連にて、詩人が天使をやはり、fast tödliche Vögel der Seele、魂の鳥たち、しかし、魂をほとんど殺してしまう鳥たちと、鳥に譬えて呼びかけていることは、詩作と表現の上では、深い意味のあることなのです。天使たちは、鳥たちのように、一つになることができるのです。これは、こころにとめておいて下さい。後ほど、悲歌2番第3連で、天使たちが、この宇宙の最上位の自分たちの空間に、すなわちもともとの天使というものに、天上をめがけて、編隊を組んで、列をなして、渦になって帰還するところがあります。そこに出てくるのです。しかし、さて、その深い意味は何でしょうか。考えてみましょう。リルケの空間論に通ずるのです。
4つ目は、すべての創造行為の、夜明けの日の出の赤に染まった、美しい、(ぎざぎざの)刃のような山頂(さんてん)。この山頂の線は、間違いなくHöhenzüge、へーエン・ツューゲです。しかも、日の出の赤に染まった美しさを備えている至高の線、稜線、あるいは山脈線。天と地との間にいて、美しくそれらを繋ぐもの。
5つ目は、花咲く神性の花粉。花咲くという動詞、blühenをみると、わたしが今この稿を書いていて思い出すのが、悲歌8番第1連の14行から16行目にかけての、次の箇所です。
Wir haben nie, nicht einen einzigen Tag, den reinen Raum vor uns, in den die Blumen unendlich aufgehen.
わたしたちは、唯一つの日たりとも、一日として、わたしたちの前に純粋な空間を持つことは決してないのだ。その空間の中へと、花々が果てしなく咲き広がって、上昇してゆくという空間を。
植物の行為は、リルケにとっては、純粋な行為です。それは、この前後の文から考えると、植物は、動物や噴水と同じで、例えば、見られることを意識していない、美しくさいているということを意識していないから、それは純粋なのだと理解することができます。これに触れると、悲歌1番第1連にあった、次の箇所、
目ざとい動物たちは、わたしたちが、この解釈された世界の中で、どんなところであれ棲みかとしているところでは、余り信頼がおけないということに既に気づいている
に触れることになります。何故、わたしたちは、この解釈された世界では、そうなのだろうか。これは、またこの話にどこかで必ずなりますので、またそのときのためにとっておきます。
閑話休題。さて、そのように、また当然のことながら、花咲く神の性質、神性を、純粋に自分が媒介者、媒体となって、神聖な花々を咲かせること、これが天使の務めであるといっています。
6つ目は、Gelenke des Lichtes、ゲレンケ・デス・リヒテス、光の関節です。関節ということから、既に接続するという意味です。光の何かと何かを接続する、繋ぐ。それは、赤と紫とか、青と赤とか、光の色と色を、あの光の諧調の間を繋ぐ存在という意味に理解することができます。ほかにも理解のしようがあるかも知れません。
7つ目は、関節ということから、Gänge、ゲンゲ、数々の廊下、通路という意味。
8つ目は、通路から、階段へ。数々の階段。これも接続するもの。最上位の階層から最下位の階層までをも接続する。従って、次は、その階段の一番上に位置するもので、
9つ目では、玉座、王座です。これも、天と地上を繋ぐものという理解ができるでしょう。
10番目は、Räume aus Wesen、ロイメ・アウス・ヴェーゼン。Ausは、リルケの好きな言葉です。それは、内側から外側へと直接出てくるという意味の前置詞だから。玉座ということから、Räume、ロイメを、宮殿の中の部屋ととることもできますが、しかし、ここでは、リルケは、Wesen、ヴェーゼンから生まれたということをいっていますので、言葉の遊び、連想は、そのように考えておいて、ここでは、やはりそのまま、数々の空間と考えることがよいと思います。天使は、空間なのです。この理解は、重要です。次は、
11番目で、Schilde aus Wonne、シルデ・アウス・ヴォンネ、最上の歓喜の中から直接生まれた数々の盾です。
これは、否定的な、negativeな接続と理解しましょう。天使は、危険から身を護ってくれる存在でもあるということになります。しかし、詩中の一人称によれば、それは逆にわたしたちを滅ぼす危険な存在ということになっています。天使が護るのは、詩中にいう複数2人称のわたしたちではないのです。
12番目は、前の最上の歓喜という言葉から連想されて、Tumulte strürmisch entzückten Gefühls、トゥムルテ・シュトゥルミッシュ・エントツュックテン・ゲフュールス、烈しく魅了された感情の、数々の陶酔の擾乱。感情においても、その陶酔という形で、何かと何かが一体となる、その役目を果たすのが天使だというのです。
しかし、そのあとに、突然、不意に、天使たちは、上の挙げたような最上位の階層の言葉で形容されている世界から、この地上、わたしたちのいるこの次元、この世に現れるのです。そうして、この世界では、天使たちは、鏡に化身、変身して、その姿を現しているのです。これが、わたしたちの日常に存在している天使の異名です。
高次元の存在は、下の階層の次元に降りてくるに従い、複数のものに分かれて行き、その姿を下位のものの姿に変じるのです。リルケは、そのことを歌っています。そうして、その姿は、高次元にいるものと、その下の次元にいるものとでは、同じものをみても全く異なるのです。
悲歌10番第6連、4行目から6行目にある次の箇所も同じことを歌っています。
Zeigt ihm die hohen Tränenbäume und Felder blühender Wehmut,(Lebendige kennen sie nur als sanftes Blattwerk)
悲嘆の女性は、彼に、背丈の高い涙の木々と、花咲くこころの痛み、傷心の数ある野原を示す(活き活きとしている者たちは、花咲く傷心を、単なる柔らかな花びらとしてしか知ることがない。)
さて、しかし何故天使は、いつも突然、この世、この世界に現れるのでしょうか。悲歌1番第1連の冒頭を思い出してください。このように歌われています。
Es nähme einer mich plötzlich ans Herz
もしひとりの天使がわたくしを突然、不意に、その心臓、その胸にかき抱いたならばとあります。
悲歌2番のこの、天使が鏡に姿を変じて出現するところで、またしてもplötzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に現れるのです。今、わたしは二つの側から説明することができます。
まづ天使の側からみると、そうしてそれはリルケの願いであり、リルケの宇宙を思うことなのですが、天使という存在は、あらゆる空間を一息で、間髪をいれずに、目指す次元へと到達することができるということが、ひとつ。その存在は、時間とは無関係なのです。それが、天使です。
もうひとつは、わたしたち、この解釈された世界(悲歌第1連13行目)の中に、in der gedeuteten Welt、イン・デア・ゲドイテテン・ヴェルト、生きていますが、これは時間の中に生きているということから、変化をするので、その1行前の1連12行目では、目ざとい動物たちには、自分たちの住処としている場所にあっては、余り信頼がおけない、信頼性がないと見抜かれているのです。
それでは、そのように見抜く動物とは、どのような存在でしょうか。ここで思い出しただけでも、人間とはまた反対の能力を持っていることが察せられます。動物は、変化、時間を見ないのでしょう。それは、また、悲歌8番第1連に歌われておりますので、そこに至って、更に先を考えることにいたしましょう。
さて、この解釈されて世界に住むわたしたちですが、そのような変化の中で、そうして、時間ということから、繰り返される、反復される時間と、その中での反復される、わたしたちの行為ということから、いつもそうやって生きているわたしたちには、そのような繰り返しの外にいる存在は、いつも突然やってくるのです。そのように見えるということなのです。
また、このようにも考えます。実は、わたしたちは、時間の中では、実に単純なことに、ほとんどの場合、原因と結果の連鎖性と、目的と手段の連鎖性の中でのみ生活しているのです。連鎖性とは、原因が結果を生み、またその結果が原因となってあらたな結果を生むということ。同様に目的と手段の連鎖性も、そのような連鎖になっています。文字通りに、これは連鎖、繋がった鎖であります。これがわたしたちの、繋げられた日常生活です。行為も意識も。そのように、わたしたちの意識と行為も、反復される時間の中にあります。
しかし、天使は、上で見てきたように、そのような時間のある世界、連鎖性の世界の外に、リルケの想像した(また創造した)究極の空間、最上位の空間に存在している。そこの場所からこの世界に出現するのは、時間にとらわれていないが故に、plötzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もないということになるのです。
リルケが悲歌の中で、他にも幾つもあるこのplötzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もなくという副詞の使う、その使い方を見ると、あるものが、ある空間から別の空間に時間に無関係に移動するときに、それをはっきりとするために、この副詞を使っています。また、他の悲歌を読んでいて出てくることでしょうから、またその時に触れることにしましょう。
しかし、このようにplötzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もなくという副詞を使うということは、リルケは、一つの空間に少なくとも一つの時間が存在していると考えていたことになります。これをどのような空間的な表象に転化するか、これがリルケの詩をむつかしく見えさせている原因だと思います。この議論もまた追々と。
さて、この天使論の最後にいうべきことがあります。それは、天使は鏡に姿を変じて、何をしているのかということです。これは、天使の使命(もし神が天使の僕であるならば)であり、天使がほかの次元の中に現れて遂行し、果たすべきその具体的な接続機能のことです。
もう一度鏡に変身した天使たちの姿に戻ります。悲歌2番第2連の最後は、次のようでした。
その数々の鏡は、流れ出た、そもそもの本来の美を、またふたたび、そもそもの本来の顔の中へと汲み戻す、創造して顔の中へと取り返すのだ。
ここで、何故わたしが悲歌2番の第1連をも訳したのかがお解りいただけると思います。
第1連の最後は、次のようでした。
そもそもの本来の心臓、そもそもの本来のこころが、翼を高く掲げて開き、打ち下ろして、わたしたちをたたき殺すことだろう。
これは、心臓が天使の翼を持っているように想像されます。
奇妙なことですが、リルケは、決して、天使の個別の心臓、天使の個別の美、天使の個別の顔を歌っているのではありません。このように、所有代名詞を使わずに、つまり彼の手とか、彼女の脚といった、主語に関係のある指示をすることなく、そうはしないで、必ず、定冠詞と形容詞と名詞という組み合わせで、体の各部位の名を、そうして必ず、eigen、アイゲン、そもそもの、本来の、固有のという意味の形容詞をつけて呼ぶのです。これは一体どういうことなのでしょうか。リルケは何をいいたいのでしょうか。
リルケは、あくまでも天使の存在の完全性をいいたいがために、そのような表現をしたのだということです。天使は、もともとの、オリジナルの、固有の美をその身に備えているのです。上の天使の異名の列挙の中にあった通りです。そうして、また、天使は、本来の顔も、そもそもの心臓も持っているのです。それは、個々の天使の顔や心臓ではありません。(この理解が、わたしが手塚訳や古井訳と異なるところです。)
わたしたちは、毎日朝、鏡を見ますが、そうして、見るのはいつも、自分の髪、自分の眉、自分の目、自分の鼻、自分の口、自分の顔だけです。しかし、そのときリルケの天使は、その存在の全体を使って、この世に流れ出た本来の美を、再び創造して、そもそもの、本来の顔の中に汲み戻すという仕事をしているのです。
さて、何故、天使は、そんなことができるのでしょうか。それは、上に列挙した天使の異名のひとつにあったように、天使は、本質の中から直接生まれ出た、従って、宇宙の最上位の空間だからです。つまり、ドイツ語でSpiegel、シュピーゲル、鏡とリルケが言っているものは、鏡面のみならず、その奥に映っている空間も含めて、リルケは鏡といっているのです。天使は、空間なのです。
もし、あなたが毎朝鏡をみて、その向こうに映ずる空間が、鏡面も含めて天使のこの世での姿だと知って、見て、もし何か恐れ、恐怖心に由来する感情を少しでも抱いたとしたら、それは、悲歌の中の一人称のわたしと同じ、天使に対する感情を共有したということなのです。
天使のみならず、この同じ空間という考えは、悲歌のあちこちに出てきます。人間ひとりも空間です。部屋はもちろん空間、しかし、それから春という季節も空間なのです。そうでなければ、悲歌2番3連を理解することができませぬ。
次回は、悲歌2番第3連を読みたいと思います。これは一体何を言っているのか。
しかし、その前に、悲歌2番第1連で、今回、上で次のように訳した箇所の解釈に挑戦し、それから、悲歌2番第3連、リルケの空間論に進みたいと思います。
(彼が興味津々、好奇の念を以って外を眺めやった通りに、若者が若者に。)
この括弧の中の文は、一体何を言っているのでしょうか。
〔補足1〕
この世での変化ということを、リルケは悲歌の中でもよく、流れるという動詞を使って表現しています。上の鏡の姿の天使の行うことについても、流れ出た(entströmen)―entという前綴は、リルケの愛好する前綴ですー固有の、そもそもの美を、天使は創造して、自分の中へと汲み戻すとあります。悲歌2番の最後の連にも、その表象が出てまいります。
さて、この天使の表象を見ると、顔もひとつの空間なのです。ものが出入りをする。リルケの不思議の世界、です。
〔補足2〕
大事なことを上で言うのを忘れました。それは、悲歌1番第1連で、願望、祈願の形で、一人称のわたしが叫び声を上げて、天使にどのように何を求めたのかということです。
どのように求めたか、それは、ドイツ語の原文では、文字通りに接続法という方法によって、天使に何かを求めたのです。それは、英語では過去形から作る非現実話法という言語規則です。わたしは、現実の世界にはいない存在に向かって、その最高位の階層の存在との接続を、そのように叫んだのです。
一体わたしは何を、何と何を接続してくださいと叫んだのでしょうか。その問いに対する答えが、この悲歌10篇ということなのでしょう。少しづつ、慌てず、読んで参りたいと思います。」
さて、こうして、私たちは、
「わたしたちの唇へと、水飼場の数々の芳香がやって来て、
そして、わたしは、手首を認識する
遥かに遠い天使たちの。
わたしは、お前のことだけを考えているのだ:お前を、だ。そのお前を
わたしは見ることがなく、見えないのだ。」
と歌われている5行の意味を深く理解することができました。
この5行を見ますとと、この詩人たる男の恋人は、天使と同じ存在であると男は考えていることがわかります。存在への接続者、それが処女であり、乙女であり、詩人にとっての未分化の実存たる、異性を超えた(何故ならば性愛を交わさないから)関係にある男女だというのです。
それゆえに、最後の行には、「そのお前を/わたしは見ることがなく、見えないのだ。」と言って、終わるのです。
愛する男は、愛する処女を見ることができないのです。
これが、これらが、リルケの詩想であり、思想なのです。
そうして、安部公房は、リルケを決して叙情的に、また情緒的に読んだのではなく、この通りに全く論理的に、リルケを理解したのです。
これが、「”物”と”実存”に関する対話」という安部公房の言葉の意味なのです。[註2]
[註2]
安部公房の自筆年譜によれば、昭和18年(西暦1943年)に「ただリルケの『形象詩集に耽溺した』」とあり、昭和22年(1947年)の項には「手垢にまみれたリルケの『形象詩集』がついてまわっていた。いつの間にか、リルケ調の詩を書きはじめていた。それは詩というよりも、”物”と”実存”に関する対話のようなものだった。」とあります(全集第12巻、465~466ページ)。
また、最後に最初に戻れば、『Martyrinnen』(『女の殉教者たち』)に訳しましたように、
Das ist die Stunde, da sie heilig sind,
die stille Jungfrau und das blasse Kind.
それが、その時間だ、二人が神聖なるものである時間だ、
静謐なる若い処女と蒼白の子供の二人が。
とあるわけですから、また『ドゥイーノの悲歌』のXVIの最後の連でも、【解釈と鑑賞】に書きましたように、同じ静謐と静寂があるわけですから、この『Die Stille』(『静寂』)という題名の意味も、こうしてここまで読んで参りますと、あなたには十分に理解できているのではないかと思います。
『ドゥイーノの悲歌』はリルケ最晩年48歳の傑作、この『形象詩集』はリルケ27歳の、やはりこのように素晴らしい詩集。とすれば、この間同じ主題と動機(モチーフ)に形象を与え続けたリルケもまた、安部公房と同様に、若年に於いて完成していた言語藝術家の一人と言えましょう。
次回は『Musik』(『音楽』)です。