2016年3月8日火曜日

第10週:Wenn es nur einmal so ganz stille wäre(もしたった一度でもこのやうに静かであるならば)by Rainer Maria Rilke(1875-1926 )


 第10週:Wenn es nur einmal so ganz stille wäre(もしたった一度でもこのやうに静かであるならば)by Rainer Maria Rilke(1875-1926 )





1900年頃のリルケ


【原文】

Wenn es nur einmal so ganz stille wäre,
Wenn das Zufällige und Ungefähre 
verstummte und das nachbarliche Lachen,
wenn das Geräusch, das meine Sinne machen,
mich nicht so sehr verhinderte am Wachen-

Dann könnte ich in einem tausendfachen
Gedanken bis an deinen Rand dich denken
und dich besitzen (nur ein Lächeln lang),
um dich an alles Leben zu verschenken
wie einen Dank.



【散文訳】

もしたった一度でもこのやうに静かであるなら
もし偶然のものと曖昧なものが
黙るならば、そして、隣にある笑ひが、
もし、私の五感の立てるさやけき音が
私の目覚めることを、かくも非常に妨げることがないのであるならー

さうしたなら、私は千倍の
思想思念の中で、お前の縁(へり)に至るまで、お前のことを考へて
さうして、お前を所有する(ただ一度の微笑の時間の長さだけ)ことができるかも知れない
お前を、全ての命に対して贈り物と成すために
感謝を贈り物と成すやうに


【解釈と鑑賞】


この詩人は、著名なドイツの詩人です。



この詩にも、リルケらしい言葉が出て参ります。

1。静けさ
2。さやけき音
3。千倍
4。縁(へり)

さうして、これらの言葉に関係して、

5。命
6。贈りもの
7。感謝

リルケが生涯求めたものの一つが、静けさです。

この静けさがどうやつて生まれるのかと言へば、それは、私の五感の立てるさやけき音によるのです。

この詩では、リルケはdas Geräuschと、名詞を使つてゐますが、動詞として使ふ時には、es rauschtと言ひ、rauschen、ラウシェンといふ動詞として表します。

さやけき音、さやさやといふ音が、リルケにとつて、またドイツ民族にとつて、どのやうな音であるのかについては、以下「リルケの『形象詩集』を読む(連載第3回)~『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』Zwei Gedichte zu Hans Thomas Sechzigstem Geburtstage『月夜』~(もぐら通信第34号)」より再掲します。

「この、ドイツ語でいうrauschen、ラウシェンという動詞が、一体ドイツ人にとって、またドイツ民族にとって、その響き通りにどのような意味を持つ言葉であるかを、まづ最初に説明をしてから、両手を揚げることの意味についてお話をします。以下「リルケの『形象詩集』を読む(連載第3回)~『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』Zwei Gedichte zu Hans Thomas Sechzigstem Geburtstage『月夜』~(もぐら通信第34号)」より再掲します。


「さて、「さやけき音」と訳した此のドイツ語では、rauschen、ラオシェンと発音される言葉の説明を致します。何故ならば、この言葉と此の発声の音は、ドイツ人にとっては、大変神聖な尊い言葉であり音であるからなのです。

どの詩人の詩を読んでも、このrauschen、ラオシェンという言葉が出てくると、それだけで一つの世界が生まれるのです。この音は、ドイツの森の中で樹木の葉擦れの音であり、自然の中を流れる潺湲(せんかん)たる川の流れの音なのであり、何か神聖性を宿している事物の立てる音だと詩人が思えば、そこに其のような神聖なる事物として存在が現れるのです。勿論、詩のみならず、散文の世界でも同様です。ドイツ人は何かこう、自然の中で閑(かん)たる中にささやかに響く、何か神聖な感覚を、この言葉と其の響きに、持っているのです。

わたしたち日本人の世界の言葉で言えば、さやさや、さやけさ、皐月(さつき)の此の五月の月の「さ」、早乙女の「さ」に当たるような神聖なる音なのです。この「さ」の音を、そっとあなたの口から息とともに発声してみると、あなたは安部公房スタジオの一員になることができるでしょう。」


このさやさやいふ音を、身振り手振りとの関係で、まさに歌つた詩が『形象詩集』にありますので、お読みください。


また、リルケの千倍といふ言葉の使ひ方をみますと、『形象詩集』第2巻第1章の最初に置かれた『飾り文字』と題する詩は、次のやうなものです。これをご覧になると、千倍と縁(へり)といふ言葉が縁語であることが判ります。


Gieb deine Schönheit immer hin
ohne Rechnen und Reden.
Du schweigst. Sie sagt für dich: Ich bin.
Und kommt in tausendfachen Sinn,
kommt endlich über jeden.

お前の美をいつも放棄し、犠牲にせよ
計算も議論もすることなく。
お前は沈黙する。美はお前のために、こう言うのだ:わたしは存在する。
すると、美は、千倍の意義を以って、やって来る
遂に、一人ひとりの人間を超えて、やってくるのだ。


千倍であるといふ事は、何かを、それがお前と呼ばれる二人称の相手であれ、その極限までを考へることである。さうして、一個の人間の限界を踏み越えることであるといふことなのです。

何故この詩のカレンダーの編者が、この詩を、この月の詩として選んだのか。それは、やはり春になつて、小川が流れ、さやさやと音立てて水が流れ始めるからではないでせうか。







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