第12週:Rezept(レシピ)by Wlofgang Hildesheimer(1916-1991)
【原文】
Rezept
Feiertägliche Gäste kocht man am besten
In einem großen Topf von Eisen, auf dessen
Blankgescheuerter Außenwand man male.
Man male kühn, in strotzenden Farben,
Die sieben Menschenalter und, wenn noch Platz ist,
Ein kleines Haus, -
(このブログの機能上、うまく上の6行の隣に置くことができませんが、原文では、上の6行の右隣に少し空白を置いて、次の6行が一行一行対応するやうに置かれてをりますので、合わせて鑑賞下さい。あるひは、それぞれの詩をひとつのまとまりとして考へて、上の詩が主たる詩であれば、次の詩は補助詩として読むこともできます。)
Und zwar gesehen durch die Brille eines Kochs
Aus Leidenschaft; eines Kochs, der vor Selbstgekochtem
So wenig zurückschreckt wie vor festlichen Gästen, -
Der Topf ist gross, doch fehlt der Deckel.
Auch einen Boden hat er nicht. Und dadurch gleicht sich
Alles wieder aus.
【散文訳】
祝祭日に来るやうな客たちを料理するのに一番いいのは……a
鉄の大きな鍋の中であり、その鍋の……b
ぴかぴかに光るまで磨いた外側の壁の上に、絵を描くのだ。……c
思ひ切つて大胆に描くのがいい、はち切れる色彩をたくさん使つて……d
七つの代々を、そして、まだ描く余地があるならば、……e
一軒の小さな家をー……f
(このブログの機能上、うまく上の6行の隣に置くことができませんが、原文では、上の6行の右隣に少し空白を置いて、次の6行が一行一行対応するやうに置かれてをりますので、合わせて鑑賞下さい。あるひは、それぞれの詩をひとつのまとまりとして考へて、上の詩が主たる詩であれば、次の詩は補助詩として読むこともできます。)
a. なるほど、確かに、料理人のメガネを通して見た風情であるのだが
b. 情熱から。自分自身で料理された料理人の情熱から(そのように見た風情であるのだが)。
c. お祝ひに招待された客たちの前でのやうに、それほどに驚いて身を引くことがなく
d. この鍋は大きいが、しかし、蓋がないのだ。
e. この鍋は底もまたないのだ。そして、それによって、
f. すべてが再び相殺になつて、元の木阿弥。
【解釈と鑑賞】
この詩人は、ドイツの詩人です。
前回の詩にご婦人の日常に接するものの一つとして料理のレシピが歌はれてゐたので、今度もそのつながりでせうか、題名そのものがレシピといふ題名の詩が選ばれました。
主たる詩の方を読めば、この大きな鍋は7代に亘つて代々使はれるものなのでせう。さうして、それぞれの代で、何か新しい料理上の工夫もなされて、料理も、レシピの根底は変わらずに、しかし、斬新なものになつて行くかのやうです。
他方、今度は補助詩である二つ目の(原文では右隣の)6行を読めば、この主たる詩は、料理人の眼鏡を通してみた景色であって、それも自分で自分を料理してしまった料理人の情熱に発したものであるといふのです。
「c. お祝ひに招待された客たちの前でのやうに、それほどに驚いて身を引くことがなく」といふ一行の意味は、このやうに見て参りますと、その料理人は、そのやうに眼鏡を通してそのやうな情景を見てゐても、なんら驚くことがなく、その驚き方の様子は丁度、何かお祝ひごとに招待されてやつて来る客たちのやうに驚かないと言つてゐるのです。
さて、この料理人の目にする大きな鉄の鍋、これを使つて料理をつくるわけですが、ところが、この鍋には蓋もなければ鍋底もない。外側に7代に亘る人間たちが描かれてゐるだけである。だけであるといひませうか、そのやうな鍋である。
從ひ、そもそも料理をすることは、この鍋ではできないといふことになつてゐて、それは遂には、何故かといふと、すべてが再びご破算になつて、7代もなにもへつたくれもなくなつてしまふからだといふのです。
しかし、そもそもを考へて、主たる詩の方の最初の一行を改めて読みますと、これは「祝祭日に来るやうな客たちを料理する」ための鍋なのでありました。
人間たちを料理するための鍋ですから、鉄でできてゐて、大きくなければならず。また確かに情熱も大いに必要でありませうし、さうでなければ、とてもやつてゐられないでせうし、それにそもそも此の料理人は、まづ自らが自らを料理した料理人であるといふ料理人であるのです。
この上の段落の最後の自分を自分で料理したという料理人であることが、主たる詩と従たる詩の並列してならんで読むことのできる、そのあとのすべての詩行を成り立たせてゐる理由であると、わたしは思ひます。
ご破算の大きな鍋。安部公房ならば、方舟さくら鍋、とでも名付けたでありませうか。さくら鍋と言へば、これは馬肉でありますから、鍋の中には馬が登場して、安部公房の世界が始まつたかも知れません。
このやうに更に考へて来ますと、このやうな大きな鍋とは、自分で自分を料理した此の料理人のことであるのかも知れません。つまり、何でも、時間を超えて、料理してしまふ大鍋。
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