リルケの『形象詩集』を読む
(連載第10回)
『Die Braut』『花嫁』
【原文】
Ruf mich, Geliebter, ruf mich laut!
Lass deine Braut nicht so lange am Fenster stehn.
In den alten Platanenalleen
wacht der Abend nicht mehr:
sie sind leer.
Und kommst du mich nicht in das nächtliche Haus
mit deiner Stimme verschließen,
so muss ich mich aus meinen Händen hinaus
in die Gärten des Dunkelblaus
ergießen…
【散文訳】
私を呼んで、愛するあなた、私を大声で呼んで!
あなたの花嫁を、こんなに長く窓辺に立たせっぱなしにしないで。
古い、プラタナスの並木道には
夕暮れがもはや目覚めることはないのよ。
プラタナスの並木道は空っぽなのです。
そして、あなたは、わたしを、あの、夜の、暗い家の中へと
あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば、
私は、私を、私の両手の中から外へと出して
暗い青色の庭々の中へと
注ぎ込まねばならないのです。
【解釈と鑑賞】
この詩の出だしは、花嫁が花婿に命じることばで始まっております。
さうして、この短い小さな詩には、やはり、今まで読んできた詩の中にある、リルケの詩に重要な言葉が並んでます。
花嫁
両手
家
窓
花嫁、即ち処女、乙女
夕暮れ
それから、初めて歌われるのは、
プラタナスの木と
その木で作られている並木道
ということになります。
花嫁と来れば、今までの詩がさうであったように、詩人との関係で見ると、これまで読んで来た詩で乙女を歌った詩を振り返ることになります。連載第6回に『乙女たち』(『Von den Mädchen』)という次の詩を私たちは読んでおります(もぐら通信第37号またはブログ『詩文楽』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/von-den-madchen.html)。この詩を振り返ってから、本題の詩に戻りましょう。上に挙げた言葉から言って、内容に重なるところが多々あるのです。少し長い引用になりますが、本題の詩の理解の助けに、大いになる筈です。
「【散文訳】
I
他の者たちは、長い道々を
暗い詩人たちのところへと行かねばならず
いつも誰かに訊くのだ
詩人が歌っているのを見ませんでしたかと
或いは、琴の弦に両の手を掛けておりませんでしたかと。
ただ娘たちだけが、訊かないのだ
どの橋々が形象たちへと通じているのかを
娘たちは、ただ微笑んでいる、真珠の紐よりも軽く
銀の器に留める其の真珠の紐よりも軽く
娘たちの命の中から、どの扉も入り行くのだ
ある詩人の中へと
そして、世界の中へと。
II
娘たちよ、詩人たちというのは、お前たちから
お前たちが孤独であることを云う、そのことを学ぶ者たちであり
そして、詩人たちは、お前たちに触れて、遥かな距離を生きることを学ぶのだ
夕べ夕べが、偉大な星々に触れて
永遠というものに慣れるように。
どの娘も、詩人という者に身を捧げてはならない
仮令(たとえ)詩人の目が、女性たちに求めたとしても
というのは、詩人は、お前たちを唯娘たちとして考えることができるだけなのであり、即ち、お前たちの両の手の手首の関節の中に感情があれば
金襴緞子を打ち壊すことだろうからなのだ。
詩人というものを、その庭の中で、孤独であるがままにさせて置いてくれ
お前たちを、永遠なる者として迎え容れた其の庭の中で
詩人が日々行く道という道を通つて
影あって待ち受けるベンチの傍で
そして、竪琴の掛かっている部屋の中で。
行け!....暗くなって来たぞ。詩人の五感は求めることが、もはや、ない
お前たちの声と姿を。
そして、道という道を、詩人は愛する、長く、そして空虚に
そうして、暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色は愛さない
そして、沈黙した部屋を、詩人は非常に愛する
(詩人が避けて疲れてしまった其の人間たちの中にあっては)
そうして、つまりは、詩人の柔らかな思想は、苦しむのだ
多くのものたちが、お前たちを目にするという感情の中で。
【解釈と鑑賞】
前の詩が乙女についての詩でしたので、この詩も乙女についての詩です。
リルケは、よくこのような連想の繋がりを大切にして、詩を配置します。
第I章では、娘たちがどのような者たちであるかが歌われております。この場合、娘たちというドイツ語の意味は、乙女であり、まだ男を知らぬ生娘という意味であります。
このような純潔の乙女に対して、第II章では、夫を持ったご婦人たち、成熟した女性たちが登場致します。
第I章では、娘たちとはこのような者だということを言い、第II章では、今度は其のように歌った娘たちに向かって、語りかけるのです。
これが、この第I章と第II章の関係です。
乙女というものが、そうなのではなく、詩人という男が乙女という純潔の女性に接すると、遥かな距離という詩人の創作に大変重要な契機を知り、それを詩にすることができるのだと、リルケはいうのです。
だから、
どの娘も、詩人という者に身を捧げてはならない
仮令(たとえ)詩人の目が、女性たちに求めたとしても
というのです。
上の二行目の「女性たち」と訳したドイツ語の言葉の意味は、結婚した女性という意味であり、そういう意味で大人の女性たちという意味、或いはまたそのような世俗の、世の成熟した女性たちという意味です。
しかし、乙女たちは、そうではない。
第I章で、娘たちが詩人の居場所を訊かないのは、そのままに居れば、詩人の方が向こうからやって来るからでありましょう。何故ならば、娘たちは、「どの橋々が形象たちへと通じているのかを」よく知っているからです。
やはりこのような純潔の乙女、即ち性を知らない、或いはもっと小さな子供に近い女性もドイツ語の乙女は言い表しますから、例えば赤頭巾ちゃんのような娘もドイツ語でいう「乙女」(Mädchen)ですから、安部公房の十代の認識の言葉によれば、これらの乙女は未分化の実存として存在に存在しているということになります。
存在に存在していると言い表して明らかなように、娘たちの存在は既にして再帰的なのであり、従い循環する生命を備えているのです。
そのような存在である乙女たちは、詩人の形象の源泉であるのです。この詩集は『形象詩集』と題されておりますので、これからも、乙女たちという主題は歌われることでありましょう。
そのあり方から言っても、既にして「どの橋々が形象たちへと通じているのかを」知っている乙女たちなのです。
橋とは、川に掛かり、こちらの世界から別のもう一つの異界へと渡るための接続です。安部公房が小説の中に挿入する詩に、よく橋を、橋の下を歌うことは、あなたもご存じありましょう。
この同じ接続は、第I章の最後の連では、扉と呼ばれております。
娘たちの命の中から、どの扉も入り行くのだ
ある詩人の中へと
そして、世界の中へと。
この連の詩の歌いかたもまた、順序が倒置されていて、乙女たちの生命が、扉を通って、詩人や世界の中に入って行くというのではなく、扉の方が、乙女たちの生命の中から外へと出てきて、詩人や世界の中に入って行くというのです。外部と内部の交換、これがリルケです。
詩人の次に世界の中へという順序で歌われているのは、リルケの考えで、詩人の中には一個の世界があるからです。これについては『安部公房の変形能力9:ハイデッガー』(もぐら通信第11号)で論じましたので、お読み下さると有難い。
普通には、詩人が扉を通って、乙女たちの生命の中へと歩み入るというか、または世界が扉を通って、乙女たちの生命の中へと入ると表すことでしょう。
しかし、遥かな距離を歌うリルケは、その順序を倒置し、交換して、乙女たちが、詩人の言葉の循環の源泉であることをいうために、この交換と倒置を行うのです。何故ならば、詩人たちは、乙女たちに「触れて、遥かな距離を生きることを学ぶ」からです。
そのような詩人の姿を、
夕べ夕べが、偉大な星々に触れて
永遠というものに慣れるように。
と歌っております。
そうして、「仮令(たとえ)詩人の目が、女性たちに求めたとしても」「どの娘も、詩人という者に身を捧げてはならない」のです。というのは、
詩人は、お前たちを唯娘たちとして考えることができるだけなのであり、即ち、
お前たちの両の手の手首の関節の中に感情があれば
金襴緞子を打ち壊すことだろうからなのだ
からです。
金襴緞子とは、まだ男を知らぬ乙女たちのことを言っているのです。それほどに、それだけで美しい者、それが乙女である。
リルケは、乙女の手首に、男としての性愛を覚えていたのでありましょう。トーマス・マンは、乙女の、手首を含み肘までの腕に、性愛を覚える男でした。それは、fetisch(性愛的な部位執着)といってよいもので、繰り返し、その小説の中に現れます。リルケも同様ではないかと思われます。リルケとマンは、1875年という同じ年の生まれです。
お前たちの両の手の手首の関節の中に感情があれば
金襴緞子を打ち壊すことだろうからなのだ
という意味は、そのような意味なのです。
詩人は、娘たちとは交わってはならないのです。
これを禁欲と呼ぶか、はたまた此の論理を引っ繰り返して、性愛の経験の豊かな、場合によっては娼婦のような、そのような女性をリルケが愛したのかも知れないと想像するかは、ともにあり得ることのように思います。
(略)
さて、詩人と乙女たちの話に戻りますと、以上のことから、詩人というものを、「その庭の中で、孤独であるがままにさせて置いてくれ」と詩人はいう。詩人は乙女たちと交わってはならない。だから、立ち去れというのです。それも、夜がやって来るからです。
夜の闇がやって来れば、「詩人の五感」は娘たちの「声と姿を」「求めることが、もはや、ない」。何故ならば、詩人は、戸外の広い野や森の中に立つ「暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色」を求めるものではなく、同じ闇に在っても、戸内に、その「沈黙した部屋」に求めるものであるからです。
こうして、最後の連の次の行を読みますと、
そうして、暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色は愛さない
そして、沈黙した部屋を、詩人は非常に愛する
(詩人が避けて疲れてしまった其の人間たちの中にあっては)
とあるからには、白い色とは、沈黙のことであり、これはリルケが詩のあちこちに「……」と記号で表した沈黙であり、十代の安部公房が一生の財産とした此の沈黙のことでありましょう。白い色とは、白紙のこと、全くの新(さら)の、無のある場所のこと、存在のある空間の隙間のことにほかならないのです。
これが、安部公房のいう「”物”と”実存”の対話」ということです。
そして、詩人とは、1980年代以降、箱根の仕事場に籠もった安部公房のように、「詩人が避けて疲れてしまった其の人間たちの中に」あることを厭い、嫌って、孤独にいることを選択するのです。
「そうして、つまりは、詩人の柔らかな思想は、苦しむのだ
多くのものたちが、お前たちを目にするという感情の中で。」
と最後の連にある通りに、そのような詩人にとって、純潔の、未分化の実存にある乙女たちが、剥き出しで人々の目に触れるということは、誠に苦痛なのです。
この最後の二行には、何かこう、リルケという男に、やはり、成熟した男としての安部公房が上のエッセイでいうように、揶揄したくなるような弱さを抱えていることがお解りでありましょう。
しかし、このリルケの弱点はまた、安部公房の弱点でもあったのです。
そうでなければ、1970年を境にして、存在の革命を起こすために『箱男』は書かず、また同時に『愛の眼鏡は色ガラス』を、自分の劇団を率いて上演するということはなかったことでありましょう。
安部公房のこころの中には、存在の中に生きる少年が棲んでいるのです。耽読したリルケその人と同じように。
次回は、『飾り彫りのある柱の歌』(『Das Lied der Bildsäule』)です。
やはり、愛が歌われ、循環が歌われております。」
さて、この詩『花嫁』の中の女性は花嫁でありますから、上の『乙女たち』に歌われた女性とは異なり、これから男性たる詩人と性愛を交わし、交わることになっている処女が歌われていることになります。
その女性が、愛する花婿に呼びかけて最初の連の最初の行が始まっている。
しかし、どうも花婿はやって来ない様子です。それ故に、花嫁は大声で私を呼んでくれと言っている。そして、花婿は、花嫁を、その窓辺で待っているままに長い間、そこに居させたままにしている。
何故ならば、『乙女たち』の【解釈と鑑賞】に書きましたように、「詩人は、娘たちとは交わってはならないのです」し、「どの娘も、詩人という者に身を捧げてはならない」からです。
このように此の詩を読み始めますと、これは丁度『乙女たち』を裏返した詩であることがわかります。『乙女たち』の第II章は、詩人が乙女に向かって語る詩であるのに対して、この『花嫁』は、乙女が詩人に向かって語る詩であるのです。
しかし、この詩でも、やはり二人は性的に交わることがない。もしそうなれば、詩人は「お前たちに触れて、遥かな距離を生きることを学ぶ」ことがなくなり、その契機を失うことになり、また「お前たちから/お前たちが孤独であることを云う、そのことを学ぶ者」では、詩人はもはや、なくなってしまうからです。
そうなると、詩人は詩を生むことができなくなる。何故ならば、乙女こそ、性愛を知らない、性の分化しない状態の、まだ不定形のままの、存在に棲んでいる、未分化の実存であるからです。それ故に、この乙女は「花嫁を、こんなに長く窓辺に立たせっぱなしにしないで。」と、詩人である夫になる筈の男に向かって叫ぶことになっているのです。男は永遠に来ない、あるいは、永遠に近づいて来ている。「こんなに長く窓辺に立たせっぱなしに」するほどの長い時間をかけて。
この乙女は窓辺に立っているのですから、従い、存在の部屋の中に、そうして外部と内部の通路である窓辺にいるのです。この窓は、既に此の連載第2回の『Aus einem April』(四月の中から(外へ))でみましたように、リルケにとっての窓は、次のような存在へ通じる、存在と同義と言っても良い、接続の窓であるのでした。これは、このまま安部公房の窓でもあります。[註1]
[註1]
「「すると、静かになるのだ。おまけに、雨が、より微(かす)かな音を立てて通って
行くのだ
数々の石畳の石の、静かに大人しく(少しづつ)暗くなって行く輝きの上を。
総ての物音は、全く潜(もぐ)り込むのだ」
しかし、この夕暮の前に、わたしたちはリルケの窓について考えなければ、夕暮になりません。それは、次のような窓(複数形)です。
「それらの時間から逃れて、遥かな家々の前面に在る
総ての傷ついた 窓々は、びくびくしながら(臆病なことに)、両開きの窓(の両翼)を打ちたたい
ているのだ。」
「それらの時間」とは、その直前にある「より新しい、数々の時間」のことです。
しかし、リルケの窓は、どの窓も、家の前面にあるがために(と読むことができます)、表通りに面しているがために、その時間から逃れたいと思い、逃れるのです。しかし、全ての窓がそうなのではない。傷ついた全ての窓が、そうなのです。
一体これは何を言っているのでしょうか。
そう、文字通りに此の形象のままに、それを受け容れ、わたしたちは理解をすればよいのです。そうして、解釈をしようとすれば、何かと比較をすれば、よいのです。これは、この連載の第1回で、あなたにお伝えした通りです。
わたしの方法は、リルケの他の詩で窓を歌った詩を読み、その窓と此の窓を比較して、この窓を理解するという方法、言って見れば、そのような再帰的な方法です。言葉によって言葉を語らせるという再帰的な方法です。『形象詩集』の中には、窓の出てくる詩には、次のような詩があります。
1。『Die Braut』(『花嫁』)
2。『Martyrinnen』(『殉教者の女達』)
3。『Die Konfirmanden』(『堅信礼を受ける少年達』)
4。『Vorgefuehl』(『予感』)
5。『Die Heiligen Drei Könige Legende』(『聖なる3人の王の伝説』)
6。『Ein Gedichtkreis』のIIIとV(『詩の会』)
7。『Dem Andenken von Paula Becker-Modersohn』(『パウラ・ベッカー-モーダー
ゾーンの思い出に』)
8。『Die Aus dem Hause Colonna』(『コロンナ家から出る女』)
9。『 Der Lesende』(『読む者』)
10。『Der Schauende』(『観る者』)
11。『Die Blinde』(『盲目の女』)
これら11の詩に歌われているリルケの窓についても、これを論ずるだけで一冊の本ができることでしょう。今、ざっとこれらの詩の中の窓を打ち眺めて見ると、次のような特徴のある窓だということがわかります。それは何故そうなのかという問いは、今横においておくことにします。
1。表通りに面していること。(『Die Braut』(『花嫁』))
2。表通りには、並木道や家並みと言ったような、何か整然たるものが並んでいること
3。上記2の整然たるものは、古いものであること。(『Die Braut』(『花嫁』))
4。その古い整然たるものの中では、夕暮は目覚めることなく、やって来ることはなく、夕暮れになることはない。(『Die Braut』(『花嫁』))
5。その窓辺には、女性であれば、処女(をとめ)が立っていること。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
6。その処女は、声を立てずに、沈黙の言葉を話すこと。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
7。男であれば、それは少年であること。(安部公房ならば未分化の実存といったでしょう)(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
8。処女も少年も、その窓辺では、謂わば眠っていて、夢を見ているような状態にあること。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
9。この時には、窓は音を立てないこと。即ち、窓は安心して、静かにしていること。(『Martyrinnen』(『殉教者の女達』))
10。或いはまた逆に、社会の中で宗教的な神聖なる儀式が執り行われて、例えば少年の様に在る物(Ding=Thing)の存在が祝福される折には、窓は通りに面していても、自づから開いて、輝くこと。(『Die Konfirmanden』(『堅信礼を受ける少年達』))
11。風が到来すれば、物が動くこと。その際には、窓も動き、震えること。それ以前には、塵(ちり)すらも、重たいこと。(『Vorgefuehl』(『予感』))
12。驚くべきことには、『Die Heiligen Drei Könige Legende』(『聖なる3人の王の伝説』)という詩には、『さまざまな父』に登場する父と「週一度の手伝い」に来る「《ケーキ屋のおねえ》」が歌われていることです。前者は呪詛を吐き、夜に通りを歩く父親であり、後者はその父親が窓辺に来て呪詛の言葉を吐くことを恐れる週一回勤務でやって来る女性(助産婦)です。そのような父親の通りすがる窓ということになります。この窓もやはり、上記1の窓です。
13。窓の向こうにではなく、窓そのものの中、内(内部)に居れば、記憶を喪うこと。何もかも忘れることができること。『Ein Gedichtkreis』のIII(『詩の会』))
14。窓は、多分夕暮という時間の隙間(差異)を通じて、やはり夜と密接に結びついていること。(『Ein Gedichtkreis』のIII(『詩の会』))
15。窓が高い所にある窓であれば、時間も輝いて在ること。(『Dem Andenken von Paula Becker-Modersohn』(『パウラ・ベッカーーモーダーゾーンの思い出に』))
16。上記の1から15のような窓が開く際には、変形して、扉(ドア)の開くように、家の敷居までもの高さ(低さ)にまで開くこと。それは、実際に事実として、草原や道(共に複数形)を備えた公園であること。窓は、そのような公園である。この公園は、「問題下降に拠る肯定の批判」で18歳の安部公房が提唱した「遊歩場」という抽象的な上位接続の道を思わせます。この道は、やはり、こうしてみると、そのような道は、上記13にあるリルケの窓の内部、窓そのものの内にあったのです。
17。少年は、恰も窓辺に居るようであること。その窓辺は、貧救院のすべての窓の開く前の、四月の朝のように、少年の居る窓辺であること。
18。窓辺では垂直に立っているよりは、水平に横になる場所であること。(『Der Schauende』(『観る者』)
19。窓辺で、外に雨の降る時には、風の音も聞こえないので、例えば本も重たいこと。上記11を参照のこと。(『Der Schauende』(『観る者』))
20。窓の外で風が激しく吹けば吹くほど、例えばそれが木々を揺らすほどの嵐であれば、窓は不安を覚える窓であること。しかし、そうなればこそ、遥か遠くの物の言葉を聞くことができること。それは喜びであり、その遠い物の言葉は、姉や妹やそれに相当する親しく看護して呉れる女性と共に一緒にいて、愛することのできる遥かに遠い物であり、その言葉がやって来るのであること。(『Der Schauende』(『観る者』))
21。上記20の風は、嵐という強い風であれば、それは変形する者であること。森や時間の中を通り抜け、吹き抜けると、それらとそれらの中にある物をすべて変形して、時間のないものにしてしまうということ。(『Der Schauende』(『観る者』))
22。「わたしの鳥達は、裏通りではたはたと羽を打って飛ぶことになり、見知らぬ窓(複数形)に止まって傷つくのだ」という、鳥にとっては其のような窓であること。(『Die Blinde』(『盲目の女』))鳥は、高さの中を飛翔するが故に、そうして無心であることによって、存在となっている動物の一つなのであり、群れをなして飛んでいるにも拘わらず、また群れがものに当たって別れることがあっても、自然にまた一つの飛翔に還ることのできる、無時間の空間を生きる生き物なのでした。風もまた、リルケの世界では、鳥と同じ能力を有する存在なのでした。(『ドィーノの悲歌』『オルフェウスへのソネット』)
と、このように『形象詩集』の中の窓を一覧すれば、リルケの歌った窓がどのような窓であるかは、明らかです。
さて、以上の1から22を念頭において、再度、
「それらの時間から逃れて、遥かな家々の前面に在る
総ての傷ついた
窓々は、びくびくしながら(臆病なことに)、両開きの窓(の両翼)を打ちたたいて
いるのだ。」
という箇所を読んでみましょう。
しかし、リルケの窓は、どの窓も、家の前面にあって、表通りに面しているがために、その外部の時間から逃れたいと思い、逃れるのです。しかし、全ての窓がそうなのではない。傷ついた全ての窓が、そうなのです。何によって傷ついているのかと言えば、上記22のことで言えば、鳥の知っている窓であるからだということになるでしょう。
鳥とは存在になることのできている動物ですから、存在が知っている窓は、すべて傷ついているということになります。存在の知っている窓は、何によって傷つけられるのでしょうか。
それは、上の引用の直前にある次の行、
「しかし、長い、雨の降り続いている数々の午後の後に
黄金色(こがねいろ)に太陽の光の射し渡った
より新しい、数々の時間がやってくるのであり」
と謳われている其の午後の時間によって傷つけられるのです。
一体これは何を言っているのでしょうか。
ここで、この窓が「びくびくしながら(臆病なことに)、両開きの窓(の両翼)を打ちたたいているのだ。」と言われていることを思い出して下さい。
ここでは、雲雀という鳥ー飛翔ー窓の両翼ー打ちたたいて翼をばたばたさせること、という連想が働いているのです。ドイツ語では、観音開きの扉や窓のことを、窓の翼と呼んで、(鳥の)両翼と同じ言葉を以って言うのです。
こうしてみれば、ドイツ語の世界では、窓が観音開きの、両開きの窓であれば、それは玄関の扉(ドア)と全く同じ意味を持つということになります。上記16に書いたリルケの(ドイツの)窓の特性を思い出して下さい。安部公房は此の窓を理解したのです。安部公房の窓は観音開きの窓なのです。こうしてみますと、安部公房が奉天で見た窓は、日本国内の団地の窓は大いに異なり、団地の窓は安部公房の窓にはなり得ない窓であることがよく解ります。少年安部公房にとっての奉天の窓の意義と意味については、詳細は『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号と第33号)をお読み下さい。
ここで、上記22に書いた「わたしの鳥達は、裏通りではたはたと羽を打って飛ぶことになり、知らぬ窓(複数形)に止まって傷つくのだ」とあるように、リルケの詩の世界では、鳥は存在になる能力を有する生き物であり、存在になった鳥であり、存在である鳥にとっては、存在の窓ではない窓は、その窓に止まると、そのような傷つけられる窓であることを考えて下さい。
そうであれば、
「それらの時間から逃れて、遥かな家々の前面に在る
総ての傷ついた
窓々は、びくびくしながら(臆病なことに)、両開きの窓(の両翼)を打ちたたいて
いるのだ。」
という詩行の意味は、とてもよく理解されることでしょう。」
やはり、この花嫁は、処女として存在の部屋の内部にいるのですから、未分化の実存として、そこにいて、交われば恐らくは自分自身の死を齎(もたら)すことになる筈の花婿を待っているのです。何故、そうできるかといえば、
「古い、プラタナスの並木道には
夕暮れがもはや目覚めることはないのよ。
プラタナスの並木道は空っぽなのです。」
とあるように、この行に対応する『乙女たち』の行を読みますと、
「そして、詩人たちは、お前たちに触れて、遥かな距離を生きることを学ぶのだ
夕べ夕べが、偉大な星々に触れて
永遠というものに慣れるように。」
とあることから判るように、「夕暮れがもはや目覚めることはない」ということは、「夕べ夕べが/偉大な星々に触れて/永遠というものに慣れるように」なって、夕暮れは永遠に慣れてしまい、夕暮れは永遠に来ないということを言っているのです。即ち、二人が交わって、性愛を交わす夜の時間は、この存在の部屋には、訪れて来ないのです。それ故に、
「そして、あなたは、わたしを、あの、夜の、暗い家の中へと
あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば、」
即ち、永遠にやって来ないあなた、即ち永遠にやって来ているあなたが、存在の部屋の中にではなく、現実の「あの、夜の、暗い家の中へと」「あなたの声で閉じ籠めるためにやってくるのでないのであれば」、今度は逆に、
「私は、私を、私の両手の中から外へと出して
暗い青色の庭々の中へと
注ぎ込まねばならないのです。」
と、この花嫁は歌うことになるのです。
『乙女たち』によれば、この同じ箇所は、詩人の側から次のように歌われておりました。
「詩人というものを、その庭の中で、孤独であるがままにさせて置いてくれ
お前たちを、永遠なる者として迎え容れた其の庭の中で」
即ち、この庭に、恰も水のように「私」を「注ぎ込」むのであれば、水は常に1になり、別れてもいつも一つになる全体、即ち存在でありますから、この乙女は、一つの庭でだけではなく、存在となって複数の「暗い青色の庭々の中へと」我が身を注ぎこむことになります。
何故そのような献身が可能であるかといえば、
「古い、プラタナスの並木道には
夕暮れがもはや目覚めることはないのよ。
プラタナスの並木道は空っぽなのです。」
とあるように、その心は、永遠に来ない夕暮れ、あるいは永遠に夜になることはない夕暮れ、即ち昼と夜の間、その差異にある時間、即ち時差であり隙間である時間には、「プラタナスの並木道は空っぽ」だからなのであり、それは何故空っぽかといえば、『乙女たち』によれば、
「行け!....暗くなって来たぞ。詩人の五感は求めることが、もはや、ない
お前たちの声と姿を。
そして、道という道を、詩人は愛する、長く、そして空虚に
そうして、暗い山毛欅(ぶな)の木々の下の白い色は愛さない
そして、沈黙した部屋を、詩人は非常に愛する」
とあるように、空虚な「古い、プラタナスの並木道」は、詩人の愛する「道という道」、道々であるからであり、それは、存在への接続の通路であり、トンネルであるからであり、それ故に『乙女たち』によれば、
「ただ娘たちだけが、訊かないのだ
どの橋々が形象たちへと通じているのかを」
と歌われている、この「橋々が」「通じている」「形象たちへと」至るための、これは全く同じ(乙女たちが訊く必要のないほどに自明の)「空っぽ」の「古い、プラタナスの並木道」であるからです。
「空っぽ」の「古い、プラタナスの並木道」は、「橋々が」「通じている」「形象たちへと」、即ち存在から、時間を脱して生まれる形象に至るための、同じ接続なのです。
ここまで来ると、もう全く安部公房の小説の世界と変わりがありません。
プラタナスの並木道
これはプラタナスの並木道ですが、しかし、並木道とは、ご覧の通りに、そのままトンネルであることがお判りでしょう。『S・カルマ氏の犯罪』で最後に主人公がマネキンのY子という未分化の実存の女に手を引かれてさ迷い逃げるあのトンネルのような薄暗い廊下ですし、『方舟さくら丸』の最後にも、やはり同様に、未分化の実存たる女性に
手を引かれて逃げる脱出通路であるのです。即ち上位接続線です。この上位接続線を通って、前者は砂漠という存在へ、後者は透明な、という意味では「既にして」従い超越論的に存在になっている現実へと、主人公は脱出するのです。
トンネルという迷路の通路、次の贋の現実へと承知の上で通う胎内潜り、これは、明らかにバロックの感覚と論理の象徴です。
この論理と感覚、この上位接続線を未分化の実存の女性と遁走する道行きについては、「もぐら感覚」の連載物の一つとして改めて論じます。
さて、安部公房の文学は、このように、接続と変形の文学なのです。これが、「”物”と”実存”に関する対話のようなものだった。」とある、安部公房のリルケ理解、叙情的情緒的な詩の読み方なのではなく、論理的に読んだ安部公房のリルケ理解なのです(全集第12巻、465~466ページ)。
最後に第一連の、
「私は、私を、私の両手の中から外へと出して」
とある、この両手のことについてお話して、この考察を終わりにします。
この『形象詩集』には、全部で34の両手が出て参ります。今、これを一挙に例示して論ずることはせずに、そのうちの一例を挙げて、上の一行の理解に供したいと思います。それは、安部公房の大好きであった『秋』という題名の詩です。これは、そのまま、この両手は、安部公房の文学の世界の『窪み』になり、ゆくゆくは『砂の女』の存在の窪み、即ち存在の女の住まう砂の穴、あの凹の形象に結実したもの、その原形が、この詩に歌われている両手の窪みです。詳細は『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第6号)で論じましたので、この号をご覧ください。
「秋
数々の葉が落ちる、遠くからのように
恰(あたか)も、数々の天にあって、遥かな数々の庭が凋(しぼ)み、末枯 (すが)れる
かの如くに
葉は、否定の身振をしながら、落ちる
そして、数々の夜の中で、重たい地球が落ちる
総ての星々の中から、孤独の中へと。
わたしたちは皆、落ちる。この手が、落ちる。
そして、他の人たちを見てご覧 落ちるということは、総ての人
の中に在るのだ。
そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。」
即ち、この詩にあるような、詩人の命を救う唯一者の両手である乙女として自己から抜け出して、上で解釈しましたように、
「暗い青色の庭々の中へと
注ぎ込まねばならないのです。」
これを乙女の生と呼ぶか死と呼ぶものか。
これらの庭々が、「暗い青色」をしているには、その理由のあることでしょう。これからの詩を読み解きながら、その考察は進めることに致します。しかし、ここで解ることは、乙女の側から見て詩人との性愛の交換を求めるならば、生と死と此の境域である場所、即ち庭にある色、庭の色が「暗い青色」をしているということです。
『箱男』に次の箇所があります。安部公房がどれほどリルケの詩を、自分で忘れるほどに自分のものとなしたことか。
「いま君が見つめているのは、机の上の、厚い板ガラスの切口だ。距離感もなく、何処にも属していない、純粋な青。多少緑がかった無限遠の青。逃亡の誘惑に満ちた、危険な色。君はその青の中に溺れて行く。なかに全身を沈めてしまえば、そのまま永遠にでも泳ぎつづけられそうだ。この青い誘いを、これまでに何度か受けたことを思い出す。汽船のスクリューから湧き立つ波の青……硫黄山の廃鉱跡の溜り水……ゼリー状の飴に似せた青い殺鼠剤……行き先の当てもなしに一番電車を待ちながら見る菫色の夜明け……自殺幇助協会、と言って聞こえが悪ければ、精神的な安楽死クラブから配布される、愛の眼鏡の色ガラスだ。そのガラスは、熟練した技術者が細心の注意をはらって剥ぎ取った、厳冬の太陽の薄皮で染められている。その眼鏡をかけた者だけに、往きだけで帰りがない列車の、始発駅が見えるのだ。
もしかすると、君は、箱に深入りしすぐたんじゃないかな。手段にすぎなかった箱に、中毒しかけているのかもしれない。たしかに箱も、危険な青の発生源だと聞いている。」(全集第24巻、94ページ)
次回は『Die Stille』、『静寂』です。