2015年10月18日日曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀


三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀

43歳の三島由紀夫は、『太陽と鉄』といふエッセイで、精神との関係で、言葉の本質的な機能と其の言葉による呪術が一体どのやうなものかについて、次のやうに書いてゐます(新潮文庫版、88~89ページ)。

「前に述べた私の定義を思い出してもらひたい。[註1]私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した(略)」

[註1]

この簡潔な定義に関する、次のやうな「前に述べた私の定義」の詳細な叙述がある。:

「 私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。それといふのも、虚無を汚し、虚無を染めなし、京都の今なほ清い川水で晒されてゐる友禅染のやうに、二度と染直せぬ華美な色彩と意匠で虚無をいろどる言葉は、そのやうにして、虚無を一瞬一瞬完全に消費し、その瞬間瞬間に定着されて、言葉は終り、残るからだ。言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続感の一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少なくとも、「絶対」の医者を待つ間(ま)の待合室の白い巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。そしてその、虚無を一瞬毎に汚すことにより、生の連続感をたえず寸断せねばならぬのと引き代へに、少くとも、虚無を何らかの実質に翻訳するかの如き作用をするのである。」(新潮文庫版の77~78ページに)

この詳細な説明を読みますと、安部公房が言葉と空間の関係をのみ、即ち時間を捨象して、その空間化を考え、即ち現実の諸関係を関数関係に変換して、その関係を形象(イメージ)として表すのに対して、三島由紀夫は常に言葉と時間の関係をのみ考へ、現実の中の時間は捨象せずに、むしろ其の時間の中に「「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無」、即ち時間の刻一刻の、時刻と時刻の間に在る虚無を表して残るのが言葉だといふことがよく解ります。

「生の連続感の一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する」とあるやうに、時間の「一刻一刻の断絶」の此の断絶と其の寸断にこそ、言葉の力が宿るといふ考へです。

この、時間の「一刻一刻の断絶」の此の断絶と其の寸断によつて、従い年月日や時刻を記して始まる冒頭の一行を備へた小説が、すべて、叙事詩としての小説なのです。

それは、いはば、時差に在る追想と追憶の美を求める叙情詩とは裏腹の、丁度貨幣の裏表の関係にあつて表裏一体の、叙事詩のあり方です。

従い、上の引用の前半では、時差、即ち時刻と時刻の隙き間を「現在進行形の虚無」と言っているのです。さうして、

「いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。」

といふ此の言ひ方に、15歳の三島由紀夫の詩『凶ごと』の真意があります。それは、次のやうな詩です。傍線筆者。

「凶ごと

わたしは夕な夕な
窓に立ち椿事(ちんじ)を待つた、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに町並みの
むかうからおしよせてくるのを。

枯れ木かれ木の
海綿めいた
乾きの間(あひ)には
薔薇輝石色に
夕空がうかんできた……

濃(のう)沃度丁幾(ヨードチンキ)を混ぜたる、
夕焼の凶ごとの色みれば
わが胸は支那繻子(じゅす)の扉を閉ざし
空には悲惨きはまる
黒奴たちあらはれきて
夜もすがら争ひ合ひ
星の血を滴らしつゝ
夜の犇(ひしめ)きで閨(ねや)にひゞいた。

わたしは凶ごとを待つてゐる
吉報は凶報だつた
けふも轢死人の額は黒く
わが血はどす赤く凍結した……。

(『Bad Poems』、決定版第37巻、400~401ページ)」


この『凶ごと』と同じ主題の詩を含む詩に、次のやうな詩があります。

1。『枯樹群』(決定版第37巻、368ページ)
2。『鎔鉱炉』(決定版第37巻、396ページ)
3。『古代の盗掘』(決定版第37巻、720ページ)


この詩を読みますと、次のことが判ります。

1。凶ごとは、詩人の高みである高窓(窗)辺にゐると、
2。夕方にやつて来る。
3。夕方の夕焼けの色は、凶ごとの色である。
4。詩人にとつては、凶ごとは吉報である。
5。凶ごとは、轢死人のゐる十字路で、即ち詩人の高みで見るものである。それ故、
6。詩と詩人の論理は倒錯してゐる。しかし、
7。この倒錯が詩として歌はれるときには、轢死人としての詩人は既に地上に降り立ち、殺人者となつてゐる。

さうしてみると、凶ごとといふ詩の倒錯の論理は、いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布」であるといふ其の画布の上に、言葉を定着させるための論理、即ち両極端のものの倒錯的な概念の交換によつて生み出す、時間の始めと終はりの交換、即ち時間の転倒、やはり時間の無化、即ち時間といふ単位の繰り返しの其の合間合間に於ける無時間の創造であるといふことが判ります。

この言葉による無時間の創造を、43歳の三島由紀夫は、「言葉の本質的な機能」と呼び、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」のです。

これが、三島由紀夫の言語観であり、言語の持つ力なのであり、その力を行使した呪術なのです。

この言葉の定義の中で、その最初に機能といふ言葉を使つてゐることは、三島由紀夫は言語とは何かを考へ抜き、その本質に至つた言語藝術家であることを意味してゐます。

この事実は、同じ言語機能論者であつた安部公房と対等、同格に言語の話ができたことと同時に、他方、無時間の空間を言語によつて創造することを一生考へ、時間の空間化を図つた安部公房とは、同じ言語観の接点を共有してをりながら、方向が正反対であることをも意味してゐます。

やはり三島由紀夫は、時間の差異、即ち時差に、他方安部公房は、空間の差異、即ち隙間(非連続体の場合)と歪み(連続体の場合)に、それぞれの世界を対照的に構造化し、構築したのです。


[註1-1]
また、『太陽と鉄』の上記[註1]に引用した直前に、十代の詩人の時代の作品を、さうして特に十七歳といふ年齢を指定してまで、十七歳の詩人三島由紀夫の詩に対する考へ方と其の用ゐる方法が間違へてゐたのだと書き、その方法は、冒頭の定義と[註1]に引用した三島由紀夫による定義に対する詳細な補足説明にある方法とは全く正反対に間違へてゐて、それは何故かといふと、「それは実に「言葉を終らせない」ための営為であつたと云えるのだ」からなのであると云ひ、更に「なぜなら私は、形見としての言葉をモニュメンタルに使はうと望みながら、その方法をまちがへてゐたからである。」と断言してゐる。

さうして更に、それはどのやうに間違へてゐたかを、次のやうに語つてゐます。決定的なことを言はうとすると、やはり隠喩(metaphor)を使はずにはゐられない、ワットオの不可視の林檎論を論ずるのと同じ三島由紀夫がをります。しかし、43歳のこの譬喩を読みますと、譬喩であるだけに、その言葉は凝縮を備へてゐて、生きることを惜しむ三島由紀夫のゐるのです。:

「なぜなら私は、形見としての言葉をモニュメンタルに使はうと望みながら、その方法をまちがへてゐたからである。全知を節約し、むしろ全知をしりぞけ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ねて、自分の持たぬ肉体を持たぬがままに反映させ、あたかも伝書鳩の赤い肢に銀の筒に入れた書信を託するやうに、言葉をして私の憧憬と共に未来から死へと飛び翔たせる作業に専念してゐたからである。それは実に「言葉を終らせない」ための営為であつたと云えるのだが、とまれかくまれ、その営為には陶酔があつた。」(傍線筆者)

といふ此の文章の次に、[註1]に引用した「言葉の本質的な機能」に関する定義が始まるのです。

ここで三島由紀夫の言つてゐることは、遅くとも43歳の此の三島由紀夫の認識するに至つた「言葉の本質的な機能」、即ち「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」此の定義を適用すれば、これによつて、三島由紀夫の最晩年の文学はどうなるかといへば、「全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ねて、自分の持つてゐる肉体を持つてゐるがままに(言葉に)反映させ、あたかも伝書鳩の赤い肢に銀の筒に入れた書信を託するやうに、言葉をして私の憧憬と共に過去から生へと飛び翔たせる作業に専念してゐ」ることになります。

この生は、死を含む、死と裏腹にあつて一緒の生でありませう。

即ち、「全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ね」るといふことは、即ち「時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ね」るために「全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ」るといふことは、そのまま死を意味してをり、また、死を含む、死と裏腹にあつて一緒の生を意味してをります。そのことを、三島由紀夫は安部公房との対談『二十世紀の文学』の中で、次のやうに言つてをります。西暦1966年、昭和41年、三島由紀夫41歳、安部公房42歳の2月の対談です。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』より当該箇所を引用して、お伝へします(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html))。:

「三島由紀夫の現実での無時間の生き方は、現実と非現実の二つの平行線を宰領することでしたが、しかし、その死を以って、1970年11月25日に非ユークリッド幾何学の交差点を実現したということ、この世の時間の変化を到頭一回限りの関数の、唯一の絶対的な関数の変化として表現し得た三島由紀夫がおります。こうしてみますと、二人の次の会話は、誠に興味深い。伝統に対する戦略的方法を論ずる二人の会話です。

「安部 やはり蛮族との関係があるのだよ、ソクラテスにも。
 三島 あるけれども、あるいは、ソクラテスは、メトーデを発明しようとしたから、殺されちゃったのかも知れないよ。
 安部 それはそうだな。
 三島 そういう点、そのころのギリシャは日本に似ていると言えるかも知れない。しかし日本ほどストイックな伝統観念は、それほどではなかったかも知れないね。それにしても、僕はしかし、自分が非常に自由だという観念は、伝統から得るほかないのだよ。僕がどんなことをやってもだよ、どんなに西洋かぶれをして、どんなに破廉恥な行動をしてもだね、結局、おれが死ぬときはだね、最高理念をね、秘伝をだれかから授かって死ぬだろう。
 安部 きみ、死ぬときに授かるのか。
 三島 そう、死ぬときに授かる。(笑)
 安部 遅すぎはしないかな。(笑)しかしもう少し詳しく聞きたいのだけれども、僕は率直に言って、伝統という観念がほとんどないのだよ。観念がだよ。(略) 」

さて、しかしまた、話を三島由紀夫の十代の詩作に戻しますと、「それは実に「言葉を終らせない」ための営為であつたと云えるのだが、とまれかくまれ、その営為には陶酔があつた。」「この営為には陶酔があつた」といつてゐるといふことを、次のやうに書いてをります。:

「 あのころの、十七歳の私を無知と呼ばうか?いや、決してそんなことはない。私はすべてを知つてゐたのだ。十七歳の私が知つてゐたことに、その後四半世紀の人生経験は何一つ加へはしなかつた。ただ一つのちがひは、十七歳の私がリアリズムを所有しなかつたといふことだけだ。[註1-1-1]
 もしもう一度あの夏の水浴のやうに私を快く涵(ひた)してゐた全知へ還ることができたらどんなによからう。かくて自分のその年齢の領域を仔細に検分した結果、自分の言葉が確実に「終らせて」ゐる部分はきわめて少なく、その透明な全知の放射能に汚染されてゐる区域はきわめて窄いことを知つた。」

[註1-1-1]
三島由紀夫が、ここで「十七歳の私」といつてゐる年齢が、満年齢ではなく、戦後アメリカ軍に強要された数えの年齢であるとすれば、私のまとめた次の「三島由紀夫の人生の見取り図(v5)」が理解の役に立ちます。即ち、満年齢16歳の歳は、『理髪師』といふ詩を書いた歳であるからです。この詩が三島由紀夫にとつてどんなに重要な詩であるかについては、次の考察をご覧ください。:

(1)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く27:二人の理髪師』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_4.html
(2)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く15:イカロス感覚5:蛇』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_12.html




三島由紀夫は、従ひ、十代の詩の世界へと回帰するために決心したハイムケール(帰郷)の晩年の時代を早くとも開始する39歳の『絹と明察』のときから、遅くとも此のエッセイを書く43歳までの間に、上の引用した自分の十代の詩の、このやうな「検分」を終了してゐたのです。

さうして、「その透明な全知の放射能に汚染されてゐる区域はきわめて窄いことを知つた。」(即ち、三島由紀夫は、この時、十代からの苦しみであつた、自己と言葉の関係にある、自己に対する言葉といふ白蟻の腐食作用を、言葉が自己の言葉に対して働く白蟻の腐食作用を、言葉といふ白蟻の自己の肉体に作用する腐食作用を遁れるものの考へ方と具体的な術(すべ)を知つたといつてゐるのです。)

ここに、「私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」と定義した言葉を、現実のものとする余地が十二分にあることを知つた三島由紀夫がをり、そうであるが故に、十七歳の「う一度あの夏の水浴のやうに私を快く涵(ひた)してゐた全知へ還る」ために、さうして古林尚との死の一週間前のインタビューで率直に、次のやうに述べてゐるのです。:

「ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくはもし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口をいわれようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と思うようになりました」

と率直に述べてゐるやうに、即ち、十代の詩人としての三島由紀夫を45歳の詩人としての三島由紀夫の言葉に反転させた次の言葉が、この最後のインタビューには響いてゐるのです。

全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ねて、自分の持つてゐる肉体を持つてゐるがままに(言葉に)反映させ、あたかも伝書鳩の赤い肢に銀の筒に入れた書信を託するやうに、言葉をして私の憧憬と共に過去から生へと飛び翔たせる」ために、三島由紀夫は、市ヶ谷のバルコニーに立つた。さうして、あの檄文読み、檄を発した。

即ち、あの言葉は、全く非政治的な人間の言葉なのであり、從ひ、日本人の詩の魂の、詩魂の、古代からの、記紀万葉の時代からの、日本人に対する叫び声なのであり、全く文化的な檄の言葉なのです。その詩魂は、『日本文学少史』に明らかに書かれてをります。

さうして、更に『太陽と鉄』と『文化防衛論』に三島由紀夫の書くところの通りに、事実その通りに、三島由紀夫は日本語といふ言葉に命を懸けて私たちを見た、三島由紀夫は私たちに見られた、さうして見返した・見返してゐる者として私たちを尚三島由紀夫は見返してゐるのです。あの『暁の寺』の、時間の向かうの其の隙間に存在して此の今の時間にゐる私たち読者を見返してゐる、あの聖牛のやうに。

三島由紀夫が『太陽と鉄』と『文化防衛論』と『日本文学少史』の3部作で日本人に訴へてゐることは、次のことでありませう。

一つめのエッセイは、我が事、即ち自己と言葉と肉体と、從ひ詩に於ける認識と存在の関係を、自分が何故どのやうに死ぬのか、即ち生きるのか、といふことを、二つ目のエッセイは、日本の国と文化の関係を、三つ目のエッセイは、日本の文化の精華たる詩文の真髄について述べてをります。

さうして、やはりこれら3部作を通る一つの糸、それは、繰り返される様式(フォルム)であり、その様式のもたらす、時間の間(はざま)に存在する美と静寂なのです。

これらを更に、もつと一言でいへば、次のやうになります。

1。先の敗戦後にアメリカによつて忘却を強ひられたことを思い出せ。それは、
2。日本人の文化の有する様式(フォルム)である。
3。様式とは、時間の中の繰り返しであり[註1-1-2]、その繰り返しの間(はざま)にある静寂の静止の頂点[註-1-1-3]にこそ、その真髄がある。

[註1-1-2]
『文化防衛論』の「国民文化の三特質」といふ章で、三島由紀夫は、次の3つの特質を挙げてをります。

(1)再帰性
(2)全体性
(3)主体性

(2)と(3)は、いづれも最初の(1)に収斂される特質です。この再帰性とは、時間の中での繰り返しと其の時間と時間の隙間にある静止と静寂であり、その静止と静寂を保証し保障する様式であるのです。

さうして、この再帰性は、文化が博物館にある遺物のやうに死物としてあるのではなく、生き生きとした私たちの日常の生活の全体性と主体性を恢復しするためには、「文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返して来る、といふ認識に他ならない」のです。

この章の前の「日本文化の国民的特色」では、このやうな繰り返しの様式の典型的な例として、伊勢神宮の遷宮を挙げてをります。

この60年ごとの周年に執りおこなはれる神聖なる古来からの神道の儀式もまた、上に述べたやうに「その繰り返しの間(はざま)にある静寂の静止の頂点」を極め、これを快楽として味はう、私たちの文化的な静寂なの再帰的な創造なのです。

このことから自明のやうに、從ひ、全体性とは天皇(すめらみこと)を頂点とする祭政一致のことなのであり、主体性とは、私たちが「文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返して来る、といふ認識に他ならない」といふこと、この生き生きとした認識を、即ち文化の共同体の普通の在り方を、連綿と続く時間の中で、即ち歴史の中で、即ち其の伝統の中で、思ひ出すといふことなのです。

2011年3月11日のあの大震災、あの大津波の後の今を、また今に、思へば、実に当り前のことを、三島由紀夫は述べてゐるのです。この大震災、この大津波の後に、日本人が絆といふ言葉を思ひ出し、今も口にして忘れないでゐることは、記憶に常に新しい。何故ならば、この絆は、死者との絆だからです。

[註1-1-3]
『日本文学少史』の最後の章である第六章「源氏物語」の最後のところから。この章もまた論ずべきことが多々あるも、これだけの引用に惜しくも留めることに致します。:

「私は物語の正午の例証として源氏物語について語らうと思ふ。(略)人があまり喜ばず、又、敬重もしない二つの巻、「花の宴」と「胡蝶」が、私の心に泛んだ。二十歳の源氏の社交生活の絶頂「花の宴」と、三十五歳の源氏のこの世の栄華の絶頂の好き心を描いた「胡蝶」とである。(略)源氏物語に於いて、おそらく有名な「もののあはれ」の片鱗もない快楽が、花やかに、さかりの花のやうにしんとして咲き誇つてゐるのはこの二つの巻である。それらはほとんどアントワーヌ・ワトオの絵を思はせるのだ。いづれの巻も「艶なる宴」に充ち、快楽(ヴォリユプテ)は空中に漂つて、いかなる帰結をも怖れずに、絶対の現在のなかを胡蝶のやうに羽搏いてゐる。
 このやうな時のつかのまの静止の頂点なしに、源氏物語といふ長大な物語は成立しなかつた。(略)」(傍線筆者)

三島由紀夫は、アントワーヌ・ワトオの絵が本当に好きだつた。さうして、その林檎の紅の、緋色の色が。アントワーヌ・ワトオの絵については、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』をご覧ください。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html



言葉とは、そのやうな呪術なのです。

さて、それでは、その呪術のための呪文は何かと言へば、それは既に述べましたやうに、言葉の繰り返しであり、その繰り返しの間の時差に、三島由紀夫は美と叙情を感じるといふことは、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』以下の此の論考で縷々述べて来たところです。

典型的には、名作『金閣寺』の主人公が吃りであつて、吃りとは繰り返し同じ言葉を口せずにはゐられぬ人間であり、その繰り返しの言葉の合間合間の時差、その拍、その虚無に、美と叙情を感ずる人間であり、これを書く三島由紀夫も同様の人間であるからです。

これが、三島由紀夫の叙情詩です。時差の隙間、時差の間の空虚に美と叙情を感じて筆を起こすのが、三島由紀夫の叙情詩としての小説です。[註2]

[註2]
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』より、その[註2]を再掲して、お伝へします。:

「[註2]
安部公房が時間を空間化した作家だというのに対して、三島由紀夫は、空間を時間化した作家だという例を以下に、十代の小説から最後の『豊饒の海』までの間で挙げて、みてみましょう。

まづ『仮面の告白』の最初の有名な冒頭から。しかし、何故それが有名であるのか、何故三島由紀夫の読者であるあなたに訴求する力を持っているのかの説明を、わたしはしたいのです。:

「永いあひだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」

この冒頭の一行にあるように、三島由紀夫の豊かな修辞の言葉は、現在から過去を追憶すること、追憶して現在と過去との差異を意識するところから生成するのです。これは、この論考の本文で後述し、詳述します。

同様に、世に出た最初の作品『花ざかりの森』の冒頭。ここには、隠遁した人間の追憶が語られています。この最初の行を含む段落の其の次の段落の冒頭の最初の一行で、主人公の行為が、追憶という言葉を使って始まり、その意識の有り様の具体的な事柄が、はっきりと語られています。:

「この土地へきてからといふもの、わたしの気持ちには隠遁ともなづけないやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。」

最後の連作『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の冒頭:

「学校では日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もつとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえてゐるだけであつた。」

主人公の追憶、即ち現在と過去との差異を求めるこころから、この全四巻の一連の物語は始まるのです。それでは、第二巻『暁の寺』以下第四巻『天人五衰』までの冒頭はどうでしょうか。

『暁の寺』:「バンコックは雨期だつた。空気はいつも軽い雨滴を含んでゐた。」
『奔馬』:「昭和七年、本多繁邦は三十八歳になつた。/東京帝国大学法科大学に在学中、高等文官試験の司法科に合格し、大学を卒業すると、司法官試験補として大阪地方裁判所詰になり、その後ずつと大阪で暮らしてゐた。」
『天人五衰』:「沖の霞が遠い船の姿を有限に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。」(傍線筆者)

この全四巻のうち、最初の『春の雪』と最後の『天人五衰』の出だしは、従って其の物語の性質は、『花ざかりの森』型、この二つの間にある第二巻『暁の寺』と第三巻『奔馬』は、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』型ということになります。『豊饒の海』の連作は、そのまま三島由紀夫の人生の在り方の変遷と「ハイムケール(帰郷)」を写していることがわかります。

この十代に書いた二つの、三島由紀夫の人生に於いて有している、物語としての典型的な、また本質的に重要な性格については、本文で後述します。ちなみに、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の冒頭は、次のように始まっております。一読、『暁の寺』と『奔馬』に通っていることがお判りでしょう。問題は、この冒頭の殺害とある言葉の意義にあるのです。

 室町幕府二十五代の将軍足利義鳥を殺害。百合や牡丹をゑがいた裲襠(うちかけ)を着た女たちを大ぜいならべた上に将軍は豪然と横になつて朱塗の煙管で阿片をふかしてゐる。」

そうして、この日記には時間のない、日ばかりの、空白の時間ばかりの日記であることに注意を払いましょう。」


これに対して、やはり同じく詩や小説の最初の呪文として、いや繰り返しが無いといふ意味では正確には呪文ではありませんが、「生の連続感の一刻一刻の断絶」を表す場合には数字で此れを示して、従い、年月日や日時や時刻の数字を書いて、この場合には其の作品が叙事詩であることを、三島由紀夫は作品の第一行目に其れを示し置くのです。[註3]

[註3]
このことは、既に次の考察にて詳述しましたので、ご覧ください。:

(1)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html)、及び
(2)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html

上記(1)の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』の[註1]を其のまま引用してお伝えします。:

「さて、三島由紀夫の小説が叙事詩だといふことに関する考えは、私の仮の説であり、仮説です。しかし、十代の次の詩が、丁度、叙情詩、叙事詩、そして小説といふ時間の順序で展開してゆく其の中間状態の移行期の姿を示していて、わたしの仮説は、正しいのではないかと思はれます。

この仮説を証明する其の詩は、13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩です(決定版第37巻、206ページ)[註1]

[註1]
桃葉珊瑚(あをき)といふ題の言葉と、この老いの記の内容との関係を稿を改めて明確にすること。この時期、三島由紀夫は桃の詩を幾つも歌つています。桃と桃色の意味を解く事を後日致します。今ここで少しく考察を加えてをけば、次のやうになります。

桃葉珊瑚(あをき)といふ植物は、「葉は厚くつやがある。雌雄異株。春、緑色あるいは褐色の小花をつけ、冬、橙赤(とうせき)色で楕円形の実を結ぶ。庭木とされ、品種も多い。桃葉珊瑚(とうようさんご)。」[『大植物図鑑』>「アオキ Aucuba japonica 桃葉珊瑚(1034)」:https://applelib.wordpress.com/2009/05/09/1034/

この説明をみますと、三島由紀夫は、この当時楕円形といふ形が好きであつたやうに思はれます。何故ならば、この実は楕円形をしてをり、小説『詩を書く少年』の中で、13歳ではなく15歳といふ年齢設定ではあるものの、主人公の製作する詩集は「ノオトの表紙を楕円形に切り抜いて、第一頁のPoesiesといふ字が見えるやうにしてある」表紙を備えてゐるからです。

しかし、いづれにせよ『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ《EPIC POEM》(叙事詩)を読みますと、その主題は、ある老いた人間の死と、その理由の誰にも知られない無償の自己犠牲によつて起こる生命の蘇生といふ主題ですから、この桃葉珊瑚(あをき)に永遠に繰り返され、冬の季節の後に到来する春に再び此の世に現れる強い生命力をみてゐたことは間違いありません。

さうすると、同様に此の時期歌ふことの多かつた桃についても、その形状と色彩と其の色艶に、同様の魅力を覚えたゐたことが判ります。桃を巡る形象は、夏であり、青空であり、泉であり、川の流れであり、その青色を映す湖であり、青色そのものである海であり、これらの歌われる春と夏の季節であり、また夜であり、月であり、月の光であり、黒船であり、とかうなつて来ると季節の秋もあり、夜に響く谺(こだま)といふ繰り返しの声があり、また桃の果樹園であり、桃林なのです。

『奔馬』で、この物語の最後に主人公が死を求めて、夜の海へと駆ける場所は、桃の果樹園ではなく、蜜柑畑といふ果樹園です。最晩年の三島由紀夫が蜜柑といふ果実と其の果樹園といふ場所、それも夜の海を前にした言はば庭園といひ庭といふことのできるやうな場所に何を表したのか。 」



さて、このやうな呪文を、三島由紀夫は一体どのやうに作品の冒頭第一行に使つてゐるのかを見てみませう。

呪文とは同じ言葉の繰り返しです。

繰り返しと其の形象があれば、それは叙情詩であり、時間の数字で始まれば、それは叙事詩である。前者は、そのまま後年三島由紀夫の其の種の小説のままに、同時に其れは戯曲になりゆき、後者は叙事としての小説に其のままなりゆく。[註4]

[註4]
三島由紀夫は、『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)の同じ上の自筆のあとがきで、20歳以降の小説と戯曲の関係と展開について、次のやうにいつています。

「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」

この率直な言葉を活かして考へますと、20歳以降の小説と戯曲は、そのまま小説(散文)と戯曲(詩文)といふ併存が、生涯の最後の『豊饒の海』(小説、散文)と『癩王のテラス』(戯曲、詩文)まで続いたといふことになります。



今手元ある小説の名前を次のやうに、三島由紀夫の年齢順に列挙して、叙情詩としての小説と叙事詩としての小説を識別してみませう。そのあとで、それぞれの範疇にある小説の中から10篇づつを選んで、その冒頭の数行も引きうつし、実際を見ることにします。

1。叙情詩としての小説
(1)『彩絵硝子』:1940年11月:15歳
(2)『苧菟と瑪耶』:1942年7月:17歳
(3)『みのもの月』:1942年11月:17歳
(4)『祈りの日記』:1943年6月:18歳
(5)『仮面の告白』:1949年7月:24歳
(6)『親切な機械』:1949年11月:24歳
(7)『遠乗会』:1950年8月:25歳
(8)『禁色』:1951年1月~1953年8月:26歳~29歳
(9)『椅子』:1951年3月:26歳
(10)『卵』:1953年6月:28歳
(11)『鍵のかかる部屋』:1954年7月:29歳
(12)『詩を書く少年』:1954年8月:29歳
(13)『沈める滝』:1955年1月~4月:30歳
(14)『牡丹』:1955年7月:30歳
(15)『金閣寺』:1956年1月~10月:31歳
(16)『十九歳』:1956年3月:31歳
(17)『鏡子の家』:1959年9月:34歳
(18)『スタア』:1960年:35歳
(19)『苺』:1961年9月:36歳
(20)『月』:1962年8月:37歳
(21)『雨のなかの噴水』:1963年8月:38歳
(22)『切符』:1963年8月:38歳
(23)『剣』:1963年10月:38歳
(24)『豊饒の海』の第一巻『春の雪』:1965年9月~1967年1月:40歳~42歳
(25)『豊饒の海』の第二巻『暁の寺』:1968年9月~1970年4月:43歳~45歳

2。叙事詩としての小説
(1)『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』:1943年8月:18歳
(2)『頭文字』:1948年6月:23歳
(3)『訃音』:1949年7月:24歳
(4)『怪物』:1949年12月:24歳
(5)『果実』:1950年1月:25歳
(6)『死の島』:1951年4月:26歳
(7)『江口初女覚書』:1953年4月:28歳
(8)『海と夕焼け』:1955年1月:30歳
(9)『新聞紙』:1955年3月:30歳
(10)『橋づくし』:1956年12月:31歳
(11)『百万円煎餅』:1960年9月:35歳
(12)『憂国』:1961年1月:36歳
(13)『帽子の花』:1962年1月:37歳
(14)『魔法瓶』:1962年1月:37歳
(15)『美しい星』:1962年1月~11月:37歳
(16)『葡萄パン』:1963年1月:38歳
(17)『真珠』:1963年1月:38歳
(18)『絹と明察』:1964年1月~10月:39歳
(19)『豊饒の海』の第三巻『奔馬』:1967年2月~1968年8月:42歳~43歳
(20)『蘭陵王』:1969年11月:44歳


これら二つの詩の種類の延長にある小説に対して、第三の小説があります。第三の小説は、三島由紀夫にとつては、三島由紀夫の好む語彙を用ゐれば「快楽(けらく)」そのままの世界、即ち詩の世界そのものなのであつて、敢へて呪文を最初に唱へる必要がなく、直かに足を踏み入れることのできる世界です。

それらは、最初から、三島由紀夫の詩人としての高みを保証し保障する高みから話が始まります。または、作品第一行に三島由紀夫の布置する其の言葉そのものが、詩人の高みを表してゐるのです。

従ひ、形式は異なつてゐても、実質的には、三島由紀夫の心情の中では、1の叙情詩型の小説と3の第三の小説とは分かち難いものであつたに違ひない。

3。第三の小説
(1)『花ざかりの森』:1941年9月~12月:16歳
(2)『玉刻春』:1942年12月:17歳
(3)『世々に残さん』:1943年3月:18歳
(4)『岬にての物語』:1946年11月:21歳
(5)『盗賊』:1947年12月~1948年11月:22歳~23歳
(6)『慈善』:1948年6月:23歳
(7)『火山の休暇』:1949年11月:24歳
(8)『牝犬』:1950年12月:25歳
(9)『美神』:1952年12月:27歳
(10)『不満な女たち』:1953年7月:28歳
(11)『志賀寺上人の恋』:1954年10月:29歳
(12)『水音』:1954年11月:29歳
(13)『商ひ人』:1955年4月:30歳
(14)『山の魂』:1955年4月:30歳
(15)『女方』:1957年1月:32歳
(16)『午後の曳航』:1963年9月:38歳
(17)『月澹荘綺譚』:1965年1月:40歳
(18)『命売ります』:1968年5月~10月:43歳
(19)『豊饒の海』の第四巻『天人五衰』:1970年7月:45歳


しかし、これらの三つの、三島由紀夫の型の冒頭に共通してゐることは、この現在の地点に立つて過去を振り返り、追想し追憶することを、言葉の繰り返しによる時差として生み出し、そこに美と叙情を招来することにあるのです。

これが、この考察の冒頭に引いた『太陽と鉄』の三島由紀夫自身の定義の言葉を借りれば、

1。叙情詩とは、時間の繰り返しの中で「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」を歌ふこと、即ち、繰り返しの呪文の言葉の合間の拍、拍子、空白の時差を生み出すことなのであり、
2。叙事詩とは、年月日を入れ、時刻を入れて其の一瞬を特定し、「あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術」である。

といふことなのです。

まづ、叙情詩としての小説からみてみませう。傍線を施したところが、繰り返しを意味する言葉であり、その形象なのです。さうして、それが空間的な形象であれば、それを直ちに時間的な形象で、三島由紀夫は、その空間性を打ち消す。最初の『彩絵硝子』が其の例です。

(1)『彩絵硝子』:1940年11月:15歳
「化粧売り場では粧つた女のやうな香水壜がならんでゐた。人の手が近よつてもそれはそ知らぬ顔をしてゐた。彼にはそれが冷たい女たちのやうにみえた。範囲と限界の中の液体はすきとほつた石にてゐた。壜を振ると眠つた女の目のやうな泡が湧き上がるが、すぐ沈黙即ち石にかへつて了ふ。」

(2)『苧菟と瑪耶』:1942年7月:17歳
「苧菟(おつとお)は瑪耶(まや)を見た。その日から彼は瑪耶に恋した。
 お互ひの魂のまはりをささやきながらとび交はす小鳥のやうに、かれらは多分それをみたのにちがひない。おそらくそれは、ふしぎに明るく、しづかにためらひがちに縺れあつたひとつの季節のやうにして来たのだ。……」

小鳥は、十代の三島由紀夫の詩に登場する素材の一つです。何故ならば、小鳥の囀りは、同じ調子で同じ鳴き声を繰り返し繰り返すからです。

さうして、「……」が、現在から過去への追想、追憶を示し、その記憶の中で物語が始まることを意味してゐます。詳細は、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』で論じた通りです。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html

(5)『仮面の告白』:1949年7月:24歳
永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。それを言ひ出すたびに大人たちは笑ひ、しまひには自分がからかはれてゐるのかと思つて、(略)」

これも、現在から過去への追想、追憶を最初に示し、即ち時間の差異、その空白を示し、即ち普通の人間が忘却して表立つた記憶にすらない其の「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」といふ無意識の記憶の中で物語が始まることを意味してゐます。

「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」といふ一文の意味するところは、「永い間」「言ひ張つてゐた」とある以上、やはり繰り返し、この同じ言葉の呪文を唱へたといつてゐるのです。


また、三島由紀夫の文字の選択は、「永い間」とあつて、「長い間」ではないのであり、「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」といふことを、この文字の選択は示してをります。

(8)『禁色』:1951年1月~1953年8月:26歳~29歳
康子は遊びに来るたびに馴れ、庭さきの籐椅子に休んでゐた俊輔の膝の上へ、平気で腰を下ろすやうなことをするまでになつた。このことは俊輔を欣ばせた。」

「俊輔を欣ばせた」た理由は、やはり遊びに来ることの繰り返しであり、対象となるものが、自分自身にある親しさをもたらすことであるからです。

その季節は、上の最初の段落の次に来るやうに、「恰も夏である」そのやうな季節でなければならないのです。夏もまた、そのやうな季節として、十代の詩に親しく繁く歌はれた素材であり動機(モチーフ)です。

(11)『鍵のかかる部屋』:1954年7月:29歳
「きよう、社会党内閣が瓦解した。内紛でつぶれたのである。二三日前の新聞が、すでに総辞職を予報してゐた。」

「二三日前」といふことから、現在から過去を追想追憶すると解して、抒情詩に入れました。

(12)『詩を書く少年』:1954年8月:29歳
「詩はまつたく楽に、次から次へ、すらすらと出来た。」

三島由紀夫の詩そのもののである繰り返しによる出しです。

(15)『金閣寺』:1956年1月~10月:31歳
幼時から父は、私によく、金閣のことを語つた。

これもまた繰り返しです。この小説刊行後との対談で、小林秀雄が、この作品について、「……で、まあ、僕が読んで感じたことは、あれは小説つていうよりむしろ抒情詩だな。」といふ評言は正鵠を射てゐるのです(『小林秀雄 美の形ー『金閣寺』をめぐってー三島由紀夫』)。

(17)『鏡子の家』:1959年9月:34歳
みんな欠伸(あくび)をしてゐた。これからどこへ行かう、と峻吉が言つた。」

あくびは伝染し、繰り返されるものでありませう。さうして、同じ発声がなされるのではないでせうか。

(23)『剣』:1963年10月:38歳
「黒胴の漆に、国分家の双葉竜胆の金いろの紋が光つてゐる。」

双葉竜胆の紋とは、次のやうな繰り返しの模様、即ち対称性を備えた文様です。



この同じ形象に、三島由紀夫の好きであつたダリの描いたキリストの磔刑の十字架の絵があります。

即ち、この紋の図柄で、三島由紀夫が一番魅かれるものは、十字の交差した中心にある円形の場所にあるのです。

この場所には、繰り返しの中にあつて、時間のない積算の値の存在する、さういふ意味では『天人五衰』の最後の月修寺の庭前にあるのと同じ、三島由紀夫が終生求め続けてやまなかつた静謐静寂の空間が、否、時差があるからです。このことについては、次の考察をご覧ください。:

1️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html

2️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html

また、三島由紀夫が楕円形が好きであつたことについては、[註1]をご覧下さい。

(24)『春の雪』:1965年9月~1967年1月:40歳~42歳:
「学校では日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もつとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえてゐるだけであつた。

叙情詩とは、時間の繰り返しの中で「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」を歌ふこと、即ち、繰り返しの呪文の言葉の合間の拍、拍子、空白の時差を生み出すことなのであるといふ三島由紀夫の定義の通りに、空白の記憶の時差が、ここで最初に措かれてをります。

從ひ、これから先の話は、必然的に、空白の記憶の時差から生まれる繰り返しの話に成るのです。即ち、自然に、永劫回帰の、殊に『暁の寺』では、唯識論の意匠を纏ふた転生輪廻の話に成るのであり、『天人五衰』の最後の「……」で終り、更にまた繰り返されて、『春の雪』の上の冒頭に永劫回帰するのです。

(25)『暁の寺』:1968年9月~1970年4月:43歳~45歳
「バンコックは雨期だつた。空気はいつも軽い雨滴を含んでゐた。」

云ふまでもなく、雨期もまた、毎年繰り返されるものでありませう。

次に、叙事詩としての小説をみてみませう。冒頭は、すべて時間に関する数字で始まるので、詳細な説明は不要でありませう。

(1)『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』:1943年8月:18歳
⬜︎⬜︎
 室町幕府二十五代の将軍足利義鳥を殺害。」

⬜︎⬜︎日」で判る通りに、時間の無い空白の時差に書かれた日記です。

(3)『訃音』:1949年7月:24歳
「ものの三四十分にわたるパイプの手入れがすんだ。愛用の象牙のパイプである。」

もし付言すれば、パイプ煙草を吸ふといふ行為も、スパスパと、またゆつくりと、同じ呼吸と音の繰り返しでありませう。

(8)『海と夕焼け』:1955年1月:30歳
文永九年の晩夏のことである。のちに必要になるので附加へると、文永九年は西暦千二百七十年である。

(10)『橋づくし』:1956年12月:31歳
陰暦八月十五日の夜、十一時半にお座敷が引けると、小弓とかな子は、銀座板甚道(いたじんみち)の分桂家(わけかつらや)へかえつて、いいで浴衣(ゆかた)に着かへた。」

(11)『百万円煎餅』:1960年9月:35歳
「「おばさんとの約束は九時だつたかね」
 と建造がきいた。」

(12)『憂国』:1961年1月:36歳
昭和十一年二十八日、(すなはち二・二六事件突破第三日目)、近衛歩兵一聨隊勤務武山信二中尉は、事件発生以来親友が叛乱軍に加入せることに対し懊悩を重ね、皇軍相撃の事態必至となりたる情勢に痛憤して、四谷区青葉町六の自宅八畳の間に於いて、軍刀を以て割腹自殺を遂げ、麗子夫人も亦夫君に殉じて自刃を遂げたり。」

(15)『美しい星』:1962年1月~11月:37歳
十一月半ばのよく晴れた夜半すぎ、埼玉県飯能市の大きな邸(やしき)の車庫から、五十一年型のフォルクスワーゲンがけたたましい音を立てて走り出した。」

(18)『絹と明察』:1964年1月~10月:39歳
「岡野が駒沢善次郎にはじめて会つたのは、昭和二十八年九月一日、京都嵐山の或る割烹旅館の朝食の席である。」

(19)『奔馬』:1967年2月~1968年8月:42歳~43歳
昭和七年、本多繁邦は三十八 歳になつた。/東京帝国大学法科大学に在学中、高等文官試験の司法科に合格し、大学を卒業すると、司法官試験補として大阪地方裁判所詰になり、その後ずつと大阪で暮らしてゐた。」

(20)『蘭陵王』:1969年11月:44歳
八月二十日、私どものやつてゐる盾の会は、新入会員の卒業試験ともいふべき小隊戦闘訓練を、炎天下の富士の裾野で行つた。」

さて、次は、第三の小説、即ち、最初から、三島由紀夫の詩人としての高みを保証し保障する高みから話が始まる、そのやうな小説の冒頭をみてみませう。

(1)『花ざかりの森』:1941年9月~12月:16歳
「この土地へきてからといふもの、わたしの気持ちには隠遁ともなづけないやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。(略)さうした気持ちを抱いたまま、家の裏手の、狭い苔むした石段をあがり、物見のほかにはこれといつて使ひ途(みち)のない五坪ほどの草がいちめんに生いしげつて高台に立つと、わたしはいつも静かなうつけた心地といつしよに、来し方への燃えるやうな郷愁をおぼえた。」

三島由紀夫の豊かな修辞の言葉は、現在から過去を追憶すること、追憶して現在と過去との時間の差異を意識するところから生成するのです。

世に出た最初の作品『花ざかりの森』の上の冒頭の「(略)」と省略したところ迄の最初の一行は、このことを語つてをります。ここには、隠遁した人間の追憶が語られていて。この最初の行を含む段落の其の次の段落の冒頭の最初の一行で、主人公の行為が、「いくたびもわたしは、追憶などはつまらぬものだとおもひかへしてゐた。」とあるやうに、追憶という言葉を使って始まり、その意識の有り様の具体的な事柄が、はっきりと語られています。

さうして、「(略)」とした後の、家の裏手の山に登るのは、これは既に論じたやうに、詩人の高みに登るのであり、これは既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』で論じた通りです。再度、この論から[註4]を以下に引用して、その意義をお伝へします。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html

「[註4]
『近代能楽集』の『卒塔婆小町』を見ますと、やはり登場する此の詩人の言葉として、作者は其の詩のよって来る由来を卒塔婆小町に向かって次のように語っております。

「このベンチ、ね、このベンチはいわば、天まで登る梯子なんだ。世界一高い火の見櫓なんだ。展望台なんだ。恋人と二人でこれに腰かけると、地球の半分のあらゆる町の燈(あかり)が見えるんだ。例えば僕が(ト、ベンチの上に立上がり)僕がこうして一人で立ってたって、何も見えやしない。……やあ、むこうのほうにもベンチが沢山見える。懐中電気をふりまわしている奴が見える。ありゃあお巡りだな。それから焚火が見える。乞食が火に当たっている。……自動車のヘッドライトが見える。……やあ、すれちがった。むこうのテニスコートのほうへ行っちまった。ちらっと見えたぞ、花をいっぱいに積んでいる自動車だよ。……音楽会のかえりかな。それともお葬式の。(ベンチより下りて腰かける)......僕に見えるのは、せいぜいこれだけさ。」という、やはり戦後の東京を眺めて景色の中のものの名前を列挙する其の科白、そうして其れは実は現実の景色ではないという此の科白は、そのまま『天人五衰』のあの冒頭から延々と続く高い灯台から眺めた海の景色、即ち学習院初等科の二階の教室から眺めた外界の景色と其の列挙の仕方に同じものであることが、よく判ります。

また、同じ詩人としての高みを、感情の問題として、その高みという垂直方向の差異から生まれる源泉の感情を、悲劇の定義との関係では、崇高さとして、次のように言っています(『太陽と鉄』)。

「 私の悲劇の定義においては、その悲劇的パトスは、もっとも平均的な感受性が或る瞬間に人を寄せつけぬ特権的な崇高さを身につけるところに生まれるものであり、決して特異な感受性がその特権を誇示するところには生まれない。したがって言葉に携わる者は、悲劇を制作することはできるが、参加することはできない。しかもその特権的な崇高さは、厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要があった。」(傍線筆者)

この箇所は、詩人としての特権的な高みである崇高さと「一定の肉体的な力を具えた平均的感性」の関係を述べた重要なところです。この特権的な崇高という詩人の高みは、「厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要」があったのであれば、ここで三島由紀夫は詩人である自己とボディビルや剣道に向かう自己との関係の均衡について語っているのです。

他方そうして、やはり、この高みという垂直方向の(地上との)差異は、高さでありますので、その均衡点には、時間は存在しないのです。高さ(隠喩)に時間はない。学習院初等科の二階の教室にいて外界を眺めて景色を叙する詩人三島由紀夫にとって、教室の内部には時間は存在しなかったことを意味しています。人と公の空間においては、三島由紀夫が詩人である限りは、自らが現実と非現実を宰領する関数となって無時間を生きる小学生三島由紀夫の姿です。

この註で上に引用した『卒塔婆小町』の箇所に続いて、もう少し先へ行きますと、次のような会話が、詩人と卒塔婆小町の間で交わされております。

「詩人 いや、今僕の頭に何かひらめいた。待って下さい。(目をつぶる、又ひらく)ここと同じだ。こことまるきりおんなじところで、もう一度あなたにめぐり逢う。
 老婆 ひろいお庭、ガス燈、ベンチ、恋人同士……
 詩人 何もかもこことおんなじなんだ。そのとき僕もあなたも、どんな風に変わっているか、それはわからん。
 老婆 あたくしは年をとりますまい。
 詩人 年をとらないのは、僕のほうかもしれないよ。
 老婆 八十年さき……さぞやひらけているでしょうね。
 詩人 しかし変わるのは人間ばっかりだろう。八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。
 老婆 そのころこんな静かなお庭が、東京のどこかに残っているか知らん。
 詩人 どの庭も荒れ果てた庭になるでしょう。
 老婆 そうすれば鳥がよろこんで棲みますわ。
 詩人 月の光はふんだんにあるし……
  老婆 木のぼりをして見わたすと町じゅうの燈(あか)りがよく見えて、まるで世界中の町のあかりが見えるような気がす
    るでしょう。
 詩人 百年後にめぐり会うと、どんな挨拶をするだろうな。
 老婆 「御無沙汰ばかり」というでしょうよ。
    (二人、中央のベンチに腰かける)
 詩人 約束にまちがいはないでしょうね。
 老婆 約束って?
 詩人 百日目の約束です。」(傍線筆者)

1956年、三島由紀夫31歳のときの、この会話に、既に『豊饒の海』があると、わたしが言っても、誰も反対はしないでありましょう。また、「八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。」という菊の花は、これも勿論、我が国の国民が外国に出かけるときに持参する旅券に日本人としての国籍と身分を保証し、実際に其の命を保障してくれている天皇家の家紋であることも、いうまでもないことでありましょう。

大切なことは、何故詩人が卒塔婆小町である老婆と、このような会話を交わすのかということなのです。」

この『卒塔婆小町』の詩人が詩人の高みから眺める景色を『花ざかりの森』では、上の引用に続けて、次のやうに、三島由紀夫は書いてをります。:

「この真下の町をふところに抱いてゐる山脈にむかつて、おしせまつてゐる湾(いりうみ)が、ここからは一目にみえた。朝と夕刻に、町のはづれにあたつてゐる船着場から、ある大都会とを連絡する汽船がでてゆくのだが、その汽笛の音は、ここからも苛だたしいくらいはつきりきこえた。夜など、灯(ひ)をいつぱいつけた指貫ほどな船が、けんめいに沖をめざしてゐた。それだのにそんな線香ほどに小さな灯のずれやうは、みてゐて遅さにもどかしくならずにはゐられなかつた。」

この同じ海の景色は、 最後の小説『天人五衰』の冒頭に、夜ではなく論理を反転させて昼のこととして、延々と描かれる素晴らしい快楽(けらく)の景色として、読者は読むことができる僥倖を得るのです。

(4)『岬にての物語』:1946年11月:21歳
「その性向は乾燥し寿(いのち)衰えつつも、今なほ根強く残つてゐるが、幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費やすことをも惜しまぬやうな性質(たち)であつた。」

(5)『盗賊』:1947年12月~1948年11月:22歳~23歳
「極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として身を全ふすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、現代の綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。彼の固く閉ざされた心の暗室は、古い物語にある古城や土牢の役割をつとめる。彼と他人との間ん心の溝は、古(いにし)への冒険者が泳ぎわたつた暗い危険な堀割ともなるであらう。」

古城は、三島由紀夫の十代の詩の素材であり、重要な詩の舞台です。何故ならば、古城には塔があり、その一番上へは階段を上つて至る「階段室」があり、更に此の小さな部屋には、窗(まど)といふ文字で三島由紀夫が特別に表した、詩人の高みを保証し保障して、死ぬことなく安全に外界を眺めることのできる高窓があるからです。それは、上記(1)『花ざかりの森』で述べた通りです。

また、土牢については、『金閣寺』を出した後の、上に引用した小林秀雄との対談で、この小説のモデルとなつた男の牢屋での病気の発覚と、仮釈放後の死について、次のやうに三島由紀夫は述べてをります。:

「(略)今年の春、死んで……。でも、僕、人間がこれから生きようとする時牢屋しかない、といふのが、ちよつと狙いだつたんです。ジャン・ジュネの小説なんか、牢屋の中だけで生きてゐるでせう。四十年か五十年生きるといふことは、牢屋の中にゐるといふことですからね。ゐくら書いたつて、ああいふ奴には敵はないから、そこまでで止めちやつたけど、死刑にはどうせならなかつたでせうしね、もし生きてたら、七十になつても、八十になつても、牢屋の中にゐたかも知れない。

この発言に対して、小林秀雄は、沈黙を以て答へてをります。

この発言にある牢屋は、『岬にての物語』の冒頭の牢屋とは対極にある、三島由紀夫が『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の主人公の殺人者が地上に降り立ち、この地盤の上、または水盤の上で生きて行かうとした、時差(時間)の遍在する此の水平面の上にある、多数の時間の在る牢屋です。

この牢屋に関する三島由紀夫の持つ時間と此の世の考へ方については、次の論考で詳細に論じましたので、ご覧下さい。:

1️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論としての『絹と明察』(1):殺人者たち』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_22.html
2️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_58.html

この世の時間に生きることは牢屋に生きることだといふ三島由紀夫の認識は、そのまま安部公房の認識と形式的な論理の骨組みは全く同じです。互ひに誠に相似たる二人です。安部公房は地下生活者であるもぐらに自らを擬しました。地下の穴倉もまた牢屋でありませう。

対談集『源泉の感情』に所収の二人の対談『二十世紀の文学』は誠に面白く、二人の友情とすら言ひたい情が通つてをります。安部公房のいふ通りに、接点は共有してゐるが、しかし、全く正反対の方向の二人ではあるのですけれど、そこでする議論が誠に面白い。一読をお薦めします。

(13)『商ひ人』:1955年4月:30歳
「天使園修道院はH市郊外のいちばん高い丘のいただきに在る。」

三島由紀夫の詩人としての高みを保証し保障する高みの言葉は、やはり「いちばん高い丘のいただき」にある修道院なのです。

(16)『女方』:1957年1月:32歳
「増山は佐野川万菊の芸に傾倒してゐる。国文科の学生が作者部屋の人になつたのも、元はといへば万菊の舞台に魅せられたからである。」

いふまでもなく歌舞伎の世界は、三島由紀夫にとつては、最初から詩の世界そのものであります。上記[註3]と、以下の論考をお読みください。:

(1)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html)、及び
(2)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html

(17)『午後の曳航』:1963年9月:38歳
「おやすみを言ふと、母は登(のぼる)の部屋のドアに外側から鍵をかけた。火事でも起こつたらどうするつもりだらう。もちろんそのときは一等先にこのドアをあけると母は誓つてゐるけれど、もしその時木材が火でふやけ、塗料が鍵穴をふさいだら、どうするつもりだらう。窓から逃げるか。しかし窓の下は石のたたきで、この妙にノッポの家の二階は絶望的に高かつた。

ここには、高窓(窗)があり、「絶望的に高」い「ノッポの家の二階」に、その、詩人としての高みを保証し保障する窗はあるのです。

(18)『月澹荘綺譚』:1965年1月:40歳
「私は去年の夏、伊豆半島南端の下田に滞在中、城山の岬をめぐる遊歩路がホテルから程よい道のりなので、しばしば散歩をした。滞在の第一日には岬の西側をとほり、強い西日を浴びながら、角を曲る毎に眺めを一変させる小さな入江入江を愉しんで歩いた。」

現在から過去を追想する最初の言葉で始まつてをります。さうしてなほ、更に、岬といふ事から、この一人称で語る話者は、殺人者として降り立つた詩人の見る水盤の彼方へと、詩人がいつも出発する場所の一つに立つてゐるのです。



さうしてまた、ホテルとふ建物は、三島由紀夫にとつては塔と同じやうに高い建物であつて、そこには多数の窗(まど)があるのです。

(19)『命売ります』:1968年5月~10月:43歳
「……羽仁男は、目をさまして、まはりがひどく明るいので、天国にゐるのかと思つた。しかし、後頭部にきつい頭痛が残つてゐる。天国で頭痛がするわけはあるまい。
 まづ見えたのは、磨ガラスの大きな窓だつた。何も飾りのない窓で、あたりがむやみに白つぽい。」

「……」最初の記号が既に追想であり、追憶となつてをります。さうして、やはり高窓があり、何故ならば、詩人三島由紀夫にとつては、ホテルや病院といふのは、高い建物であり且つ窓のある、即ち十代で何度も歌つた高窓のある塔の類であるからなのです。

さうして、そこは確かに、地上ではなく、「天国にゐるのかと思」ふほどの別の世界なのであり、この世の物語ではないお話になつてゐます。

(20)『天人五衰』:1970年7月:45歳
「沖の霞が遠い船の姿を有限に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。」(傍線筆者)

この出だしの一行もまた、追憶と追想の一行です。

さうして、「沖はきのふよりも澄み」とあるやうに、今日の現在から過去を振り返つて、その差異を設定して、美と叙情の物語、即ち繰り返しの、時間の隙間に存在する物語を招来するのです。

加へて、殺人者として降り立つた詩人の見る水盤の彼方も、また対照的に陸の地盤の彼方の山々の稜線もまた、他の小説の場合と同様に書かれてをります。

さて最後に、三島由紀夫が「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」と言つてゐる、前者、即ち詩の延長である戯曲の冒頭を見てみませう。

詩の延長である以上、その冒頭はやはり繰り返しの呪文と其の時差で始まつてゐる筈です。

(1)『近代能楽集』
   ①「邯鄲」:1950年10月:25歳
   ②「綾の鼓」:1951年1月:26歳
   ③「卒塔婆小町」:1952年1月:27歳
   ④「葵上」:1954年1月:29歳
   ⑤「班女」:1955年1月:30歳
   ⑥「道成寺」:1957年1月:32歳
   ⑦「熊野」:1959年4月:34歳
   ⑧「弱法師」:1960年7月:35歳
(2)『白蟻の巣』:1955年9月:30歳
(3)『薔薇と海賊』:1958年5月:33歳
(4)『熱帯樹』:1960年1月:35歳
(5)『癩王のテラス』:1969年7月:44歳


以下、上の作品の冒頭です。

(1)『近代能楽集』
   ①「邯鄲」:1950年10月:25歳
    「菊 (声きこゆ)ほんたうにまあ、よくお越し下さいました、お坊つちやま。
     次郎(声きこゆ)十年ぶりだね、菊や、十年ぶりだね

   ②「綾の鼓」:1951年1月:26歳
    「岩吉 (老小使。箒で掃除してゐる。窓のところまで掃いて来て)どいた、どいたあんたはまあ、足許の五味を庇つてゐるやうだぞ。」

   ③「卒塔婆小町」:1952年1月:27歳
    「老婆 ちゆうちゆうたこかいな、ちゆうちゆうたこかいな、……

「……」といふ記号は、これを最初に措いて、現在から過去への追想、追憶を示し、その記憶の中で劇が始まることを意味してゐます。

   ④「葵上」:1954年1月:29歳
    「光 (旅行鞄を下げ、レインコートを着たまま、看護婦に案内されて入つて来る。美貌の青年。声をひそめて)よく眠つてゐますね
     看護婦 ええ、よくお寝つてゐらつしやいます
     光 普通の声で話しても目をさましませんか。
     看 ええ、お薬が利いてますから、一寸やそつと、大きな音を立てたつて。
     光 (葵の寝顔をぢつと見下ろして)静かな寝顔だ
     看 今は静かな寝顔をしてゐらつしやいます

   ⑤「班女」:1955年1月:30歳
    「実子 (独白)むだになつたは、むだになつたはこれだけの苦労が。」

   ⑥「道成寺」:1957年1月:32歳
    「主人 ごらんください。古今東西稀なる衣装箪笥。およそ実用といふものを超越した代物。……」

この「……」といふ記号を最初に措いて、現在から過去への追想、追憶を示し、その記憶の中で劇が始まることを、即ち繰り返しの始まることを既に冒頭で意味してゐます。この記号に三島由紀夫が割り当てた意味の詳細は、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』で論じた通りです。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html

さうして付言すべきは、この骨董屋の主人の最初の口上が、定型的な繰り返しの文句からなつてゐる香具師の口上であるといふ事です。さうして、その後には、複数の金持ちの男女の客たちが、衣装箪笥にある自分たちの所有する衣装の数を自慢するために、何着衣装が収納されてゐるか、その数を言ひ合ふ科白が来て、これも三島由紀夫好みの数字の時系列的な羅列による繰り返しの呪文が舞台で発声される仕儀となつてをります。

更に先へ参りますと、これらの客たちが競売で競ひ声高に発声する箪笥の値段が、数字として時系列的な羅列による繰り返しの呪文となつて舞台で発声されるのです。この数字を挙げて呼ぶ声の、即ち繰り返しの合間の拍の空虚が、三島由紀夫の美を感じ、従ひ抒情を感ずる時間の空白なのです。これは、何度云つても言ひ過ぎることはありません。

   ⑦「熊野」:1959年4月:34歳
    「宗盛 (大実業家。五十歳位)え?そろそろ出かけようぢやないか?けふを外したらあの丘一目千本の花見は、また来年のばしにしなくちやならんのだ。どの新聞の予想を見たつて、来週の日曜まで花は保つまいと書いてある。平日の花見なんかできるのは失業者だけだから、要するに今年の花は今日かぎりといふわけだよ。なあ?......それにあれだけの花を見られるのは、くりかへして言ふやうだが、今年が最後だ。」

この花見に誘ふ宗盛の科白には、詩人の高みの宿る丘があり、また「……」といふ追憶の中で、「今年が最後だ」といふ科白が「くりかへし言ふ」といふ言葉をまで使つて、いはれてゐるのです。

   ⑧「弱法師」:1960年7月:35歳
    「級子 (四十歳をこえた美貌の和服の女)ひどく蒸しますのね。こんな風で、扇風器もござゐませんし……(一同沈黙。級子仕方なしに笑つて)何しろ御承知のとほり、家庭裁判所といふところは、予算も雀の涙ほどですし、私ども調停委員と申しましても、名前は立派なようでござゐますけれど。……(一同沈黙。ややあつて)どうぞ。お話しになつて。喧嘩の場所ぢやござゐませんのですから、ここは。
     川島 まことに……まことに思ひがけませんでした。かうして俊徳の実の御両親にお目にかかることにならうとは。……あれから十五年、……十五年でございますからなあ

この科白もまた、「……」といふ追憶の中で、「まことに……まことに」という科白と「十五年」といふ科白がくりかへし言はれてゐるのです。

(2)『白蟻の巣』:1955年9月:30歳
  「真夏の朝。(略)そばの椅子で、すでに身仕度をすませた妻の啓子が、良人の寝顔をぢつと見戍(ままも)つてゐる。百島は二十七八、妻は二十歳くらゐである。啓子急にしめやかに泣き出す
   百島 (目をさまして、あたりを見まわし、妻の泣いてゐるのに気づく)おや、泣いてゐるね。何だい、朝つぱらから。」

ト書きにある「しめやかに」といふ副詞に、舞台で演じる女優の忍び泣くやうな、さうして、しくしくと繰り返しの泣き声があり、百島の科白の「泣いてゐるね」といふ言葉が、既に其の繰り返しを前提に発せられてゐる。即ち、この劇もまた、繰り返しと其の隙間の時差で始まつて、幕が開くのです。

(3)『薔薇と海賊』:1958年5月:33歳
  「帝一 あなたニッケル姫でせうさうでせう(三十歳なるに子供つぽき口調)......隠してもだめ。僕ちやんと知つてゐるんだもの。あなたニッケル姫でせう。そら、笑つてる。きつとニッケル姫なんだ。」

(4)『熱帯樹』:1960年1月:35歳
  「郁子 小鳥さん、可愛い小鳥さんあなたも今日一日の命だは。今夜からはそんなにいらいら啼かずに、安らかに眠りをたのしむことができるのよ。」

(5)『癩王のテラス』:1969年7月:44歳
  「子供C (Bに)おーい。まだ見えないか
   子供B (バナナを食べながら)まだだよ。道の上には何も。
   子供A しーつ
       (――--間)
   子供C (Bに)まだだよ見えるのは入道雲だけだ。
   子供C 遅いなあ。
   子供A しーつ


これ以外にもある三島由紀夫の戯曲、『鹿鳴館』の、『黒蜥蜴』の、『サド侯爵夫人』の、『朱雀家の滅亡』の、『わが友ヒットラー』の、さうしてこれら以外の戯曲の冒頭の一行を、ご自分で吟味なさることは、興味深い事実となりませう。

特に『近代能楽集』の各作品の冒頭の入り方を、上のやうに列挙してみて判ることは、確かに三島由紀夫のいふ通りに、戯曲は少年時代の詩の延長であるといふことであり、典型的な例では、短編小説『女方』の冒頭にあるやうに、古典藝能である歌舞伎の世界の言葉を小説の冒頭に措けば、その小説は直ちに詩の世界と変ずる程に、塔や窗(まど)と同格の、その世界は、正(まさ)しく三島由紀夫の詩の世界の言葉なのであり、そのやうにある三島由紀夫の意識なのだといふことです。

この意義に於いても、詩集としての『近代能楽集』を論ずることは、三島由紀夫の文学の全体にとつて、さうして從ひ、逆に其の論の成果を以て照らして見ることは、三島由紀夫の小説にとつても、誠に興味深いことであり、その結構(構造)も含めて、このことについては、稿を改めて論じます。

以上のことが、上に記した註記も含めて、三島由紀夫の自らいふ、呪文と秘儀の次第です。[註5]

[註5]
『太陽と鉄』に次のやうに、三島由紀夫は次のやうに書いてをります。:

「私が何一つ自分の日常生活について語らぬところに留意してもらひたい。私はただ、幾度かかうして私の携わつた秘儀についてのみ語らうと思ふのだ。」(新潮文庫版『太陽と鉄』、85ページ)

三島由紀夫は、このエッセイでは、まとめると、次のところで、呪文、咒文や秘儀といふ言葉を使つてをります。:

(1)78ページ:「終わらせる、といふ力が、よしそれも亦虚構にもせよ、言葉には明らかに備わつてゐた。死刑囚の書く長たらしい手記は、およそ人間の耐えることの限界を超えた永い待機の期間を、刻々、言葉の力で終わらせようとする咒術なのだ。」
(2)85ページ:
「私が何一つ自分の日常生活について語らぬところに留意してもらひたい。私はただ、幾度かかうして私の携わつた秘儀についてのみ語らうと思ふのだ。
 駆けることも亦、秘儀であつた。」
(3)86ページ:「人が狂躁と罵るやうな私の生活がかうして続いた。ジムナジアムから道場へ、道場からジムナジアムへ。そのたびの、運動の直後の小さな蘇りだけが、何ものにもまさる私の慰謝になつた。たえず動き、たえず激し、たえず冷たい客観性から遁れ出ること、もはやかうした秘儀なしには私は生きて行けないやうになつた。そして言ふまでもなく、一つ一つの秘儀の世界の裡には、必ず小さな死の模倣がひそんでゐた。」
(4)89ページ:「私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」
(5)109ページ:「私は久しく出発といふ言葉を忘れたゐた。致命的な呪文を魔術師がわざと忘れようと努めるやうに、忘れてゐたのだ。」









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