2015年10月25日日曜日

リルケの『形象詩集』を読む(連載第7回):『飾り彫りのある柱の歌』(『Das Lied der Bildsäule』)

 リルケの『形象詩集』を読む(連載第7回)

飾り彫りのある柱の歌Das Lied der Bildsäule』)

~リルケ・戯曲『石の語る日』・大坪都築・ラジオドラマ『棒になった男』・小説『S・カルマ氏の犯罪』~



【原文】

Wer er ist es, wer mich so liebt, daß er
sein liebes Leben verstößt?
Wenn einer für mich ertrinkt im Meer,
so bin ich vom Steine zur Wiederkehr
ins Leben, ins Leben erlöst.

Ich sehne mich so nach dem rauschenden Blut;
der Stein ist so still.
Ich träume vom Leben: das Leben ist gut.
Hat keiner den Mut,
durch den ich erwachen will?

Und werd ich einmal im Leben sein,
das mir alles Goldenste giebt, -
————————————————-
so werd ich allein
weinen, weinen nach meinem Stein.
Was hilft mir mein Blut, wenn es reift wie der
                                                                             Wein?
Es kann aus dem Meer nicht den Einen schrein,
der mich am meisten geliebt.



【散文訳】

それはだれであろうか?、わたしをかくも愛するがために、
自分の愛(いと)しい生命を撥(は)ね付け、退(しりぞ)ける者は。
誰かがわたしのために、海の中で溺れ死ぬならば
わたしは、石から帰還するのだ
生命の中へ、生命の中に入って、わたしが救われるのだ。

わたしは、さやけき音を立てて流れる血に憧れる
石は、かくも静かだから。
わたしは、生命を夢見る。即ち、生命は、良いものだ。
勇気のある者は、誰もいないのか?
その勇気を通り抜けて、わたしが目覚めたいと思う其の者は。

そうして、わたしは、いつか生命の中にあることになれば、
わたしに最も金色(こんじき)のもの総てを与える生命の中に、
――――――――――――――――-

さすれば、わたしは独りで
泣いて、泣いて、わたしの石を求めて泣くことになる。
わたしの血が、何になろう?、もし血が熟するのであれば、
                     葡萄酒のように。

血は、海の中から外へとは、唯一者を大声で呼出すことはできない。
わたしを、一番愛した唯一者を。



【解釈と鑑賞】

前の詩が乙女という未分化の実存にいて、騎士という旅する男との背理的な関係についての詩でしたので、この詩でも引き続き、そのような乙女を愛する詩人の、生との関係にある境涯についての詩となっています。

リルケは、このような連想の繋がりを大切にして、詩を配置します。これによって、互いの詩の間に関係が生まれて、詩集として全体のまとまりをなすのです。

この詩の詩人は、石でできた柱の中に棲んでいる、浮き彫り(レリーフ)の像のひとつなのです。その石の中の、本来は生命のある筈のない像が、言葉を発している。

第1連では、この石に棲む詩人を愛するが余りに、自分が海に沈んで、溺死するものは、誰かと歌っています。海とあるのは、石は水に重く、海に沈むからでありましょう。

さすれば、その人の命を代償にして、この詩人は石の中から、この世の生命の世界へと帰つて来ることができるというのです。そうして、そのことによって、詩人の命は救われる。

第2連では、それほどに、生きた生命の此の世界で、自分の体に血の流れることを憧れることが歌われております。

Rauschen(ラオシェン)という音は、既に『リルケの『形象詩集』を読む(連載第3回)/ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』』の二つの詩のうちの最初の『月夜』という題の詩で、説明した通りです(もぐら通信第34号)。この成熟というリルケの言葉の意味(正確には概念)について、次のように書いたことを再度引用して、その含蓄を味読致しましょう。

「さて、「さやけき音」と訳した此のドイツ語では、rauschen、ラオシェンと発音される言葉の説明を致します。何故ならば、この言葉と此の発声の音は、ドイツ人にとっては、大変神聖な尊い言葉であり音であるからなのです。

どの詩人の詩を読んでも、このrauschen、ラオシェンという言葉が出てくると、それだけで一つの世界が生まれるのです。この音は、ドイツの森の中で樹木の葉擦れの音であり、自然の中を流れる潺湲(せんかん)たる川の流れの音なのであり、何か神聖性を宿している事物の立てる音だと詩人が思えば、そこに其のような神聖なる事物として存在が現れるのです。勿論、詩のみならず、散文の世界でも同様です。ドイツ人は何かこう、自然の中で閑(かん)たる中にささやかに響く、何か神聖な感覚を、この言葉と其の響きに、持っているのです。

わたしたち日本人の世界の言葉で言えば、さやさや、さやけさ、皐月(さつき)の此の五月の月の「さ」、早乙女の「さ」に当たるような神聖なる音なのです。この「さ」の音を、そっとあなたの口から息とともに発声してみると、あなたは安部公房スタジオの一員になることができるでしょう。」

これに対して、石の中は森閑として静かである。

最後の連の

「さすれば、わたしは独りで
泣いて、泣いて、わたしの石を求めて泣くことになる。
わたしの血が、何になろう?、もし血が熟するのであれば、
                     葡萄酒のように。

血は、海の中から外へとは、唯一者を大声で呼出すことはできない。
わたしを、一番愛した唯一者を。」

という言葉をこうして読み解いて参りますと、

わたしという詩人を自己の死と引き換えにするほどに愛してくれるのは、唯一者なのであり、この唯一者が海に溺れて、石の中の静寂に棲む詩人を生命の中へと救済してくれるのでありましょう。

リルケは、安部公房の大好きだった『秋』という詩でも、神(Gott、ゴット)とは呼ばずに、唯一者(Einer、アイナー)と呼んでおりますので、これはやはり、Gott(神)ではなく、何かある者、それも最初の文字を大文字で書き表すに足る唯一の者であり、その意味では絶対の者でありましょう。[註1]

[註1]
安部公房の大好きであったリルケの『秋』という詩です。傍線筆者。

「秋

 数々の葉が落ちる、遠くからのように
 恰(あたか)も、数々の天にあって、遥かな数々の庭が凋(しぼ)み、末枯 (すが)れるか 
 の如くに
 葉は、否定の身振をしながら、落ちる
 そして、数々の夜の中で、重たい地球が落ちる

 総ての星々の中から、孤独の中へと。

 わたしたちは皆、落ちる。この手が、落ちる。
 そして、他の人たちを見てご覧 落ちるということは、総ての人
 の中に在るのだ。

 そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
 その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。」



さて、唯一者が海で溺れ死んだとして、わたしはどうなるのでありましょうか。

「さすれば、わたしは独りで
 泣いて、泣いて、わたしの石を求めて泣くことになる。」

というのです。

「わたしの血が、何になろう?、もし血が熟するのであれば、
                     葡萄酒のように。」

という二行の意味は、こうしてみれば、血は葡萄酒のように成熟するのであり、成熟するとは、同様に上で述べた『月夜』という題の詩では、この成熟というリルケの言葉の意味(正確に言えば概念)は、次のようなものでした(もぐら通信第34号)。

「この最初の一行で、大事なことは、月が熟しているということなのでありました。これは普通の言い方をすれば、その月は満月でありましょう。しかし、リルケは満月という月並みな言葉は使わずに、成熟した月というのであり、この成熟の月は、上でみた性的な感覚を含んで、尚且そのそのような月の中に、夜があるという此の順序なのです。普通ならば、夜の中に月が浮かんでいると歌うことでありましょう。ここでも、リルケは、普通の順序である筈の内部と外部を交換しているのです。

そうして何故この交換が可能であるのか、即ち何故夜の方が、月の光の中に在ることが可能であるのか、その理由は、月に掛かる形容詞である「熟している」という此の形容詞に拠っているのです。

『形象詩集』にあるreif(ライフ)、日本語で熟する、熟しているという形容詞と、reifen(ライフェン)、熟するというreifに関連する動詞を探しますと、これらの言葉を含む詩は、以下の通りに全部で8つ出て参ります。既に、最初に読みました『入口』という詩にも確かにreifen(熟する)という動詞が出ておりました。以下、これらの8つの語と其の詩の名前を列挙してから、その先へと解釈を進めます。

1。『Eingang』(『入口』)
2。『Das Lied der Bildsäule』(『飾り彫りのある柱の歌』)
3。『Abend』(『夕暮』)
4。『Verkündigung Die Worte des Engels』(『布告 天使の言葉』)
5。『Die heiligen drei Könige』(『神聖なる三人の王』)
6。『Das jüngste Gericht aus den Blättern eines Mönchs』(『ある僧侶の手紙の中からの最後の審判』)
7。『Der Sohn』(『息子』)

8。『Die Blinde』(『盲目の女』)

これら8つの詩に歌われてある成熟という言葉の意味を列挙すると、次のようになります。

1。沈黙の中に成熟はあること。言葉は沈黙の中で熟すること。(『Eingang』(『入口』))
2。石でできた彫像の人物像の体の中に血液の流れへの憧れがあつて、それは葡萄酒のように熟成していること。そして、その像を愛する生きた人間がいて、その人間が海に没して死ぬようなことがあれば、石の体を脱して、生命の中に蘇り、救済されること。葡萄酒の成熟とは、沈黙する彫像のこのような思いであること。(『Das Lied der Bildsäule』(『飾り彫りのある柱の歌』))
3。夕暮れに、その人間の生命が不安であり巨大であり成熟するままに委(まか)せておくと、生命はその人間の中で石になる、そのような成熟であること。『Abend』(『夕暮』)
4。その人間の両手は祝福されてあり、その祝福された両手は、女性の手を借りずに成熟して、(衣服の)縁(へり)の中から外に出てきて輝く、そのような成熟であること。そうして、そのような成熟した両手を持つ人間の私(一人称)は、天使が日であり露であるのに対して、樹木であること。(『Verkündigung Die Worte des Engels』(『布告 天使の言葉』))
5。聖母マリアがイエス・キリストを産む其の厩(うまや)に来る三人の王たちは、その長い(羊飼いのするような)旅の途上で其々(それぞれ)の支配している成熟した王国を喪失する其のような成熟であること。そして、その喪失は聖母マリアのような聖なる女性の胎内で起きること。(『Die heiligen drei Könige』(『神聖なる三人の王』))
6。その人間の成熟した愛を、光の中から生まれる朝は決して創造しないこと。同様に叫び声からは、成熟した愛は生まれないこと、さやけき音、さやさやという音、川の水音ならば潺湲(せんかん)たる流れの音から成熟した愛は生まれること。(『Das jüngste Gericht aus den Blättern eines Mönchs』(『ある僧侶の手紙の中からの最後の審判』))
7。雌馬は早朝の露の中で強くなり、そのように在る雌馬の血管の中には力と高貴が眠っていて、この馬は騎乗者が乗ることによって其の重さを成熟させる其のような成熟であること。(『Der Sohn』(『息子』))
8。世界は、事物、物の中で花咲き成熟すること。(『Die Blinde』(『盲目の女』))

これらを一連なりにすれば、成熟は、沈黙の内部にあり、石像の内部の像の持つ生命への思いにあり、自己の命を投げ出す誰かの無償の愛によって救済されるという願いであり、縁(周辺)から輝き出る両手(安部公房の大好きだったリルケの『秋』という詩に歌われている、落下するすべてのものを優しく受け止める唯一者(神)の両手))であり、その両手を持つ人間は樹木であり、神聖なる存在の誕生の祝福のために所有する王国の喪失を代償とする其のような王の手にするものであり、聖なる女性の胎内で起こるものであり、それは夜に在る愛であり、さやけき音の内部から生まれる愛であり、雌馬が騎乗者の重さを成熟させることなのであり、事物の内部で世界が熟する其の成熟である、という意味になるでしょう。」

上の列挙した中で、この詩に一番当てはまるのは、

「3。夕暮れに、その人間の生命が不安であり巨大であり成熟するままに委(まか)せておくと、生命はその人間の中で石になる、そのような成熟であること。『Abend』(『夕暮』)」

という生命と石と成熟の関係でありましょう。

従い、

「わたしの血が、何になろう?、もし血が熟するのであれば、
                     葡萄酒のように。」

という二行の意味は、血がそもそもそのように人間の中で石になるわけですから、これは、やはり「わたしの血」だと主張しても、それはなるべくしてそうなるわけですから、今単に憧れて、生命の中へと入ることを願っていても、いづれは同じになるという意味になります。

従い、血がそのような定めになっているからには、

「血は、海の中から外へとは」、「わたしを、一番愛した唯一者を」大声で呼出すことはできない」のです。

リルケの海は、それだけで存在する再帰的な存在ですから、即ち、海の水は決して別れることがなく、また別れても再び必ず一つになる、1になる、即ち存在でありますから、さうしてこの概念と形象を安部公房はそのまま受け入れて自己のものとなし、後々の小説(『洪水』『水中都市』その他)や安部公房スタジオの舞台(『水中都市』)に生きるわけですけれども、そこで溺れて死ぬことになる唯一者の形象こそは、リルケと安部公房の共有した詩人の像なのであり、自己の死によつて、生命が蘇えり、宇宙が賦活され、世界が蘇生するという詩想なのです。

してみると、

「わたしの血が、何になろう?、もし血が熟するのであれば、
                     葡萄酒のように。」

という此の二行の意味は、詩人はいづれは其の血が成熟して石になるのであるから、海に沈むことは必定、それは詩人の運命なのであり、そうであるならば、やはり、「血は、海の中から外へとは」、「わたしを、一番愛した唯一者を」大声で呼出すことはできない」のです。

ここでもまた、従い、わたしと唯一者とは、再帰的な関係にあることが歌われております。
さらに、そうすれば、「血は、海の中から外へとは」、「わたしを、一番愛した唯一者を」大声で呼出すことはできない」とは、詩人であるわたしは、石の浮き彫りの姿で静寂の時間の無い世界にいて、既に唯一者の名前を沈黙の中に呼び出すことのできる者であるという意味になりましょう。

もし些か図式的な、解りやすい言い方をしてみれば、石に棲む詩人は実存の者(未分化の実存)、海は存在であり、海に没して溺れ死んだ唯一者は、他者の命のために自己を犠牲にしてまでして存在になった実存者であるということができましょう。これは、安部公房のあらゆる作品の主人公のこころの根底にある考えかた、無償の、無名の人間の生き方です。

さて、従いまた、そうして、詩人と唯一者は二つの者ではない。

海がそうであるように、もし石が安部公房の小説に出てきたら、それは此のリルケの石であり、存在(海)を思っているのです。

リルケの石の中に一人静寂の空間にいる詩人と生命と海と没落(海に沈んで溺死すること)と救済のことが、その根底にあるのです。

今全集の第30巻で検索をして、石の文字のある題名の作品を探しますと、1960年の小説『石の眼』、同じ年の戯曲『石の語る日』があります。これらも、このリルケの詩の詩想の構図を根底に置いて展開した作品だということができるでしょう。例えば、後者の最後の合唱を:

「大内 その日まで
    人々は石のように
    孤独だった。
 合唱 自分が 石であったために
    他人までが 石にみえ
    それで自分は
    一人だと思っていた
 大内 しかし
    一つの石が
    もはや石ではないことが分かったとき
 合唱 自分も
    石の呪縛から解放される
    石から解きはなたれた人間の
    その輝かしい頬の色
 大内 石の外にあったものが
    石になり
    石がもはや
    石でなくなった今日
 合唱 僕らはもう一人ではない
    僕らはもう一人ではない
    闘いに
    もはや
    敗北はありえない

 (登場人物全員現れ大合唱となる。スライド、国会をとり囲む大群衆となる)
 全員 石の外にあったものが 石になり 石がもはや 石でなく
    なった今日 僕らはもう一人ではない 僕らはもう一人で
    はない 闘いに もはや 敗北はありえない」

安部公房の前期20年は、小説家としては『終りし道の標べに』以来、社会と存在の関係をどう考えるかに苦しんだ時代ですから、そうしてみれば、この合唱とはいえ、詩というべき此の歌の意味は明らかでありましょう。

リルケの詩にあるようには、石に対するに海はありませんが、それがここでは存在としてあるべき筈の社会であるのでしょう。しかし、海に溺死する唯一者である筈の登場人物の自己を、安部公房は一体どのように救済したのか。

安部公房が、この作品を書いたのは1960年10月26日。日本共産党を除名されるのは、翌年1961年9月6日。ほぼ1年後です。

19歳の安部公房がエッセイ『〈今僕はこうやって〉』でリルケに教わって認識するに至った動態的な外部と内部の交換が復活し、蘇生して、息を吹き返すまでに、さうして、詩人が唯一者として砂の海(存在)に没して、溺死して、自己を恢復するまで、即ち1962年6月8日の転回的傑作『砂の女』、即ち社会的関係の中に明確に存在を求める決意をした此の傑作が書かれるまで、この作品迄あと2年。

安部公房全集をみますと、安部公房は生涯に二つの弔辞を読んでおります。

一つは、勿論存在の中での師として仰ぎ、存在の中で師弟の礼をとった石川淳のための弔辞[註2]、もうひとつは、大坪都築というラジオ・ドラマの世界で一緒に仕事をした友人のための弔辞です。

後者は、次のようなものです(全集第17巻、287ページ)。傍線筆者。

「弔辞-–-大坪都築追悼

  君の死は、私にとっても、単に身近な友人の死という以上の大きな出来事でした。私もまた君によって、ラジオの世界の本当の面白さを教えられた一人だったからです。君に演出してもらった「棒になった男」いらいラジオは私の仕事のなかの、かけがえのない重要な部分になりました。それにつけても、悔やまれてならないのは、あれ以来、君と一緒に、ほとんど仕事らしい仕事をしていないことです。たぶん、私たちが、互いに尊重し合いすぎていたせいかもしれません。それほど、君の死もまた、耐えがたく重いものでした。いま、君と最後の別れを告げるにあたって、私は、大きな支柱が一本折れてしまったような不安と虚ろさをおぼえずにはいられません。
 しかし、これだけは約束できるように思うのです。君の残した仕事は、ながくラジオの世界に生きつづけることでしょう。生きることは死ぬことよりも難しいといわれますが、とりわけ困難なこの時代を、君は見事に生きたのです。生死の貸借表のうえでは、君はいまなお、生きつづけているというしかありません。私たちは、まだここ当分君のことを、生きている者のように語りつづけることでしょう。
  昭和三十八年八月五日」

わたしは、この弔辞の「しかし、これだけは約束できるように思うのです。」という転調の言葉の調子に、十代の安部公房が、成城高校時代の哲学談義を交わした親しき友、中埜肇に宛てた手紙の調子を感じます。

この友人は、間違いなく、『棒になった男』のラジオドラマ化をするに当たって、安部公房に何か、十代の表立って詩人の時代のことに触れていた友人であったのでしょう。

この友人への弔辞には、石川淳の弔辞のような、存在に関係する安部公房の典型的な語彙と形象の言葉は現れてはおりませんが、この友人はもし仮に(仮にです)言えるとしたら、それは、存在の中の友人(安部公房の論理ではこのような友人は遠く遥かに離れている以外にはあり得ませんが、そうだとしても)といいえるかも知れないという程の、身近にいた、大切な友人であったのでありましょう。

そうして、この1950年代の後半の時期に、ラジオ・ドラマは、それほどに安部公房にとっては大切な領域の仕事であった。

この弔辞を読んで判ることは、次のようなことです。

1。この友人がそのような友人であったということ。
2。ラジオドラマ『棒になった男』は、安部公房にとって、詩の世界を思わせるような科白の劇の世界であったということ。
3。やはりここでも、安部公房は人間の生死を「貸借対照表」と言っているように、正と負で数学的に、しかし譬喩(ひゆ)として、従い詩的に、考えていること。この友人との関係を、詩の世界との関係で考えていること。[註3]

[註2]
『奉天の窓の暗号を解読する(後篇)』(もぐら通信第33号)より、該当部分を引用します。

「[註41]
これらのことを考えて参りますと、安部公房の師、石川淳の葬儀の場で安部公房の読んだ弔辞の、次の言葉が思い出されます。この弔辞に使われている語彙は、この論考をここまで書いて参りますと、実に安部公房好みの語彙が選択されており、その世界に石川淳を、いつもの陰画の呪文を唱えて結界を張り、蘇生させて、呼び出したいという安部公房の強い思いが伝わって参ります。

そうして、ここで石川淳との関係を深海の中での関係として述べていることは、そのまま『無名詩集』の(既にこの論考で読んだ)『心』や、同じ詩集の『防波堤』や『孤独より』の「其の七」という詩や、『水中都市』や『第四間氷期』や、安部公房スタジオの『イメージの展覧会』の布(存在)や『水中都市(GUIDEBOOK III)』の布(存在)や『人命救助法』の水(存在)の形象(イメージ)や『S・カルマ氏の犯罪(GUIDEBOOK IV)』の砂漠(存在)、即ち裏返しの海(存在)の形象や『仔象は死んだ(イメージの展覧会)』の布(存在)で安部公房が表現した存在の中での師弟関係であったといっているのです。

これは、すべてリルケに学んだ存在という概念なのです。何故ならば、海の水は、どんなに物に衝突して離れても、また向こう側で必ず一つになるもの、即ち存在であるからです。([註12]の提灯や入籠構造を備えた器であなたに示した言語の形象を思い出して下さい。)リルケが同じ性質を有するものとして褒め称え、荘厳した存在に、風があり、人間の風である息があり(息が機縁となって人間の内部と外部が交換されるから)、動物としては、空を飛ぶ鳥と其の鳥の群れがあります。これらに共通していることは、分かれ別れても一つになるということなのです。それから、植物、循環して生き、垂直に成長して無時間の空間を生きる植物である木や花が、風と同様に、リルケの純粋空間に生きる生き物なのです。自然がそうであり、動物や植物がそうであれば、一体人間はどうなのでしょうか。存在としての人間が、即ち繰り返し循環しながら無時間の純粋空間に果てしなく垂直に成長して行く存在である人間がいるのではないでしょうか。それが、すべての安部公房の主人公たちなのです。リルケが『オルフェウスへのソネット』で歌った神的な青年、即ち自己を喪失して刻一刻果てしなく変身を続けて存在の中に隠れ続けて、誰にも知られることのないオルフェウスのような(垂直方向に樹木のようにいつまでも成長し続ける)存在が、即ち差異(時間の無い純粋空間)に棲む人間たちが、すべての安部公房の主人公たちなのです。

こうしてみますと、安部公房がリルケに学んだ存在の概念は誠に深く深く、安部公房のこころに生きております。

さて、長くなりましたが、存在の中での師弟関係を読んだ、安部公房の弔辞です。傍線筆者。

「 いわゆる弔辞をのべるつもりはありません。弔辞というものは、ナメクジにかける塩のようなものです。危険なもの、不穏なものを消してしまうための呪文にすぎません。
 石川さんには危険で不穏な存在のままでいてほしい。石川さんが亡くなったという実感がまるで湧いてこない、この気分をそのままに維持しておきたいのです。文壇という村構造に異議申したてをつづけ、潜水作業中の孤独な作家に酸素を送る仕事を引き受けた石川さんになお休息は許されない。石川さんのポンプから送られてくる救命用酸素を待つ者はいまなお跡を絶たないのです。
 ぼくも石川さんの救命ポンプに救われ、はげまされた一人です。(略)

 (略)あるべき表現を「精神の運動」と言いきった石川さんは、孤独な深海作業者のための命綱であっただけでははなく、自分自身もまた孤独な深海作業者だったのです。
 そして救命ポンプは現に作動中です。
    一九八八年一月二二日
                            安部公房」」

[註3]
安部公房は初期の名作『名もなき夜のために』(1948年)で、同様の考えを、次のやうに書いてをります(安部公房全集第1巻、553ページ)。

「(略)気をつけて見れば、どんな傷からでも、生と死を含めた全存在の傷が成長するのに気づくはずだ。これが貧しい僕にはせい一杯の贈物であるらしい。
 そしてもしそれが役立つものだとすれば、負数の時間を歩むことは丁度人間が胎児のあいだに生物の全歴史を繰返すように、すべての人に繰返される物への復帰の道だと考えてみたらどうだろう。死は生の終わったところにあるのでなく、その二つは常に等量に保たれていてそのあいだの振幅が現世であるように、正数の時間は等量の負数によって僕らを絶えず脱皮させるのではないかと……。この負数の道が、物への没落が、単に傷つき破れた少数のものだけの道ではなく、実に人間そのものが大きな傷であり、その道だと考えるのはもう傷ついたものの自己弁護になってしまうであろうか。僕は知りたい。ものに落ちてゆき、あるいは高まった人びとの叫びが、もう現世にはどどまり得ぬ儚いものにすぎなかったか、ほんとうに現世にとどまることがなかったか?そして反省や疑いや批判や、または嘲りや自虐がもうついて来られぬほど深い物の世界を予感し、無名になった部分だけであえてその中へ落ち沈み、融け去り、いままで自己の外部だとおもっていたものが、突如自分自身であることを主張しはじめるのに驚いた人の、例えば詩人たちの声が、ほんとうに傷ついた人びとの心を覆ってやる力を持たなかったかどうか、知ってみたい。」(傍線筆者)


戯曲『石の語る日』から小説『砂の女』までの此の二年間の距離を縮めることに預かって力のあったのが、全く誰によっても論ぜられることがありませんが、この大坪都築という友人であり、この親しき友人との共同で制作したラジオ・ドラマ『棒になった男』(1957年)であるのです。

さて、しかし、話をまだ此の『石の語る日』という戯曲に焦点を当てて考えますと、この戯曲の最後の合唱には、はや次の通り、安部公房の詩が再び芽吹いております。それは、全員の合唱という形式で、次の詩を歌うからです。

「石の外にあったものが 石になり 石がもはや 石でなく
 なった今日 僕らはもう一人ではない 僕らはもう一人で
 はない 闘いに もはや 敗北はありえない」」

この最後尾におかれた詩には、奉天の安部公房が恐らくは一桁の学齢のときに書いた『夜』と題した「クリヌクイ クリヌクイ」と繰り返す呪文の言葉と同様の、この詩の同じ言葉の繰り返しの間(ま)、その隙間にある一文字分の空白のあることが、それを物語っております。

この最後の合唱の詩から、『砂の女』の中で砂の女が歌う、

「ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
 何んの音?
 鈴の音

 ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
 何んの声?
 鬼の声」
(『砂の女』全集第16巻、156ページ)

という、差異を設けて存在を招来するための呪文の繰り返しの此の詩まで、もう距離がほとんどないということができます。

もう一度、この一文字分の空白が、詩人である安部公房にとってどんなに必須であり不可欠であり本質的なものであったかを、『奉天の窓の暗号を解読する(後篇)』(もぐら通信第33号)より引用して、記憶を新たにしたい。

「[註38]
ここまで来ると、もうこの『砂の女』の前身の短編小説の題名が『チチンデラ ヤパナ』という題名であって、「チチンデラ」と「ヤパナ」という二つの名詞の間に一文字の空白のあることから、これは安部公房の呪文なのであり、この呪文を唱えて登場するニワハンミョウ(Cicindela Japana)が、主人公のためであるばかりではなく、読者のあなたのための案内人であることも、この案内人が導く先の砂の穴が、差異に存在する存在であることも、その女が存在の女であり、『燃えつきた地図』の窓(奉天の窓)の向こうの部屋(存在)の中に存在する依頼人の女と同じ性質の女であることも、よく得心が行くことでしょう。

この作品の題名に安部公房が暗号化して隠した作品は、他にも探すと出て参り、そのこころが解ります。例えば、この一連の表通りの作品群とは少し時間が相前後致しますが、1950年代の後半、1957年に発表したラジオ・ドラマ『キッチュ クッチュ ケッチュ』という児童向けのシナリオの此の題名にも、安部公房がマルクス主義と日本共産党という閉鎖空間から脱して、再度自分の小説家としてのスタートラインである『壁』所収のシュールレアリズムのあの軽い文体、即ち形象(イメージ)だけがあって、言葉そのものに意味という実体のない文体を再興しようとして其のように名付けた安部公房のこころが、よく解ります。『キッチュ クッチュ ケッチュ』という呪文を唱えて、マルクス主義と日本共産党に奪われた自己と子供のこころを蘇生させようとしたのです。実際に此のドラマは、子供が空を飛び、様々な冒険を重ねる『S・カルマ氏の犯罪』や『バベルの塔の狸』と同様のシュールレアリズムの作品になっています。

また、このようにして『チチンデラ ヤパナ』が学名の英文字で「Cicindela Japana」と、二語の間に一文字の空白を有する名前であるならば、同様に『デンドロカカリヤ』という題名も、実は「Dendrocacalia crepidifolia」と言うように、二語の間に一文字の空白を有する名前であるから、安部公房はこの小説を着想したのだということが判ります。これが安部公房の着想であり、発想であり、いつも差異に着目するときに、安部公房は発想と想像力が豊かになり、名作を物する作家なのです。この短編小説の最後にも、やはり此の名前の英文字の立て札が立てられて、話が終わっております。」

更に、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)にて、この間の安部公房の変化を次のように、わたしは書きましたので、引用して再掲します。

大坪都築とのラジオドラマ『棒になった男』は、1957年11月29日の発表であることを念頭において、引用をお読み下さい。

「[註23への註]
『猛獣の心に計算機の手を』を書いた1955年2月25日から、柾木恭介との1958年10月1日の対談「詩人には義務教育が必要である」で「詩は破滅したジャンルだ」(全集8巻、187ページ)と断言するまでの間に何があったのか。このときには、この詩を否定する断言によって、完全にマルクス主義と日本共産党から脱している。

従い、1957年2月15日の紀行文『東欧を行くーハンガリア問題の背景』の第1章「出発」で「コミュニストである私」と自分のことを呼び(全集第7巻、28ページ)、ソヴィエトによるハンガリーの反共産党の運動を武力によって弾圧した事実を「だから私は、ソ連軍の介入を原則的に支持したい」(全集第7巻、105ページ上段)と言って肯定する安部公房と、この1958年10月1日の柾木恭介との対談までの2年の間に、安部公房が正気に戻る何かの事件が、『猛獣の心に計算機の手を』を書いた後に、安部公房のこころの中で、更に起こったのだと考えらえる。

そうして、その対談の後から1962年の『砂の女』刊行の1年前、1961年9月6日に除名されるまでの間、或いは遅くとも『砂の女』完成までの、3年から4年の間に、詩人長田弘の指摘する、存在に関する考え方の変質が、これも、何かの理由、何かの事件によって起こったのです。それ故に『砂の女』が生まれました。

[註18]の表をみてこのことを考えますと、この事情は、次のようになると思います。

社会的な関係の中に存在を探求して、その果てまで行き着くと物事がいつもそうであるように、極端から極端に振り子が振れて、世界が反転して、その関係が引っくり返って、安部公房は今度は、存在(関係概念)の中に社会的関係を発見したのです。

『砂の女』で至った存在と社会の関係を根底からひっくり返して、社会的関係の中に存在を求めるのではなく、存在の中に社会を求めることを決心するのです。その第1作が、『箱男』です。

『箱男』は国家や社会から「逃げ出してしまった者の世界、失踪者の世界、ここに住んでいるという場所を持たないくなった者の世界を描こうとし」て(『国家からの失踪『日本読書新聞』のインタビューに答えて』。全集第21巻、429ページ下段)、安部公房の作家活動の前期20年の究極の場所(『燃えつきた地図』)に至ったわけですから、これは、安部公房の、人間としての思考論理の必然です。物事を徹底的に考え抜くと必ず、人間はそうなります。

そうして、これは、このまま、存在という関係概念の中に劇場を求めることでもありますから、安部公房スタジオの創設は、そのまま、リルケの純粋空間への回帰であり、1970年から最晩年までの小説と戯曲の方向となるのです。

この場合、1970年11月25日の三島由紀夫の市ヶ谷での死が、その振り子を更に大きく振らせる原因をなしました。」

この引用を整理して、時系列で、この間の作品を並べてみますと、

1955年2月25日:『猛獣の心に計算機の手を』
1957年2月15日:紀行文『東欧を行くーハンガリア問題の背景』
1957年6月3日:ラジオ・ドラマ『キッチュ クッチュ ケッチュ』
1957年11月29日:大坪都築とのラジオドラマ『棒になった男』
1958年10月1日:柾木恭介との対談「詩人には義務教育が必要である」
1960年10月26日:戯曲『石の語る日』
1961年9月6日:日本共産党を除名される
1962年6月8日:『砂の女』

ということになります。

そうして、この作品の時系列的な配列の中にあるラジオドラマ『棒になった男』に挿入されている詩を読みますと、この仕事で、安部公房は完全に詩人として息を吹き返したことが判ります。

それゆえに、1958年10月1日:柾木恭介との対談「詩人には義務教育が必要である」に於いて「おれの考えでは、詩というジャンルはすでに破滅したジャンルだね。」という最高に辛辣な発言があるのです。(安部公房の詩の評価規準はリルケです。このリルケの詩の規準から見て、もはや戦後の詩というジャンルは破滅したといっているのです。)

このように、このラジオ・ドラマは、安部公房にとって非常に重要な位置を占める里程標(マイルストーン)というべき作品なのであり、この作品が、ラジオ・ドラマという藝術の範疇(カテゴリー)にあることは、銘記さるべきことだと、わたしは思います。[註4]

[註4]
安部公房の子供向けラジオドラマについて。

安部公房は、次のような子供向けのラジオドラマを書いています。

 1 キッチュ クッチュ ケッチュ     1957.6.3-21     (全集第7巻、209ページ)
 2 おばあさんは魔法使い           1958.1.2        (全集第8巻、221ページ)
 3 豚とこうもり傘とお化け          1958.12.31      (全集第9巻、371ページ)
 4 ひげの生えたパイプ              1959.5.11-9.4   (全集第10巻、7ページ)
 5 くぶりろんごすてなむい          1960.1.1        (全集第11巻、331ページ)
 6 お化けの島                      1960.12.25      (全集第12巻、469ページ)
 7 時間しゅうぜんします            1962.1.2        (全集第15巻、399ページ) 


これを見ますと、共産党員であった10年間の時代の後半の5年間に集中しているという特徴のあることがわかります。これには、やはり何か理由のあることでしょう。これは、追々考えて参りたいと思います。

安部公房全集第30巻の「放送目録」をみますと、最初のラジオドラマは、1954年3月の「人間を喰う神様」です。ということは、どうも、安部公房は1950年代の大体中頃からラジオドラマを書き始めたということになります。

この「放送目録」を打ち眺めますと、安部公房のラジオドラマは、次のようになっていることがわかります。

(1)新たにラジオドラマとして創作した作品
(2)自分の小説をもとに、それをラジオドラマにした作品

この2種類のラジオドラマがあります。

子供向けのラジオドラマは、前者になります。

安部公房は、子供向けラジオドラマをどのように考えていたのでしょうか。それのわかる言葉が、「放送目録」に次のように作者自身の言葉として言われています(全集第30巻、667ー668ページ)。これは、最初の子供向けラジオドラマ『キッチュ クッチュ ケッチュ』について語ったものです。

「大人の見た子どもの夢ではなくて、りくつぬきに楽しんでいただけるような、楽しい童話の国にお連れしたいとハリキっています。」

また、

「ブン子ちゃんは、学校でならったことをさっそく応用していみせるので、ドロボウさがしはこんがらがるばかり、世の中の仕組みを知らないからなんです。人間が成長していくのに、こうして世の中の仕組みを知っていくのは大切なことです。」

これらの言葉から、安部公房は、子供向けのラジオドラマを、童話だと考えていた事、またこの童話を通じて、読者である子供達に世の中の仕組みを知ってもらいたいと思っていたことがわかります。

安部公房は、童話という子供向けのお話について、ドナルド•キーン先生との対談『反劇的人間』の中で、後年、次の様な考えを述べています(全集第24巻、256ページ上段)。1973年、安部公房49歳。

「(略)ぼくがリヤ王だのオイディプースだのと言ったのは、忠兵衛(筆者註:近松門左衛門の『冥土の飛脚』の主人公)でもいいんだけれど、要するに平均値を尊重するというモラルと、同時に平均をはずれたものを造りだして、平均をはずれたものの悲劇を描くということによって、いまのみんなの置かれている平均的状況というものに、想像力のなかで窓を開けてやる、というか、抜け道をつくってやるということですね。
 これは高級な小説、文学だけじゃなく、お伽ばなしとか童話とか伝説とか、すべてにそういう要素があると思うのです。お伽ばなしとか伝説とかそういうものを含めて―これは必ずしも悲劇とは限らない。「桃太郎」でもいい―そういう日常生活の外に、あるプロットを設定することで、平均値を意識しないでいる場合はいいが、平均値を意識したとたんに、非常にそこには苦悩が、つまり恐ろしさみたいなものが生まれますね。それに窓を開けてやるという作用です。」(傍線筆者)

安部公房がここで使っている窓という言葉にいかなる意味を籠めて言っているのか、その深い意味は、既に『もぐら感覚5:窓』で論じましたので、もぐら通信第23号にてお読み下さるとありがたく思います。:http://goo.gl/6YoXiX

ここで言っていることは、平均値を大きく逸脱して、極端な話を造り、その平均値の生活から脱出する道を創造するということ、その脱出口が、窓であるという考えです。

窓という言葉については、既に安部公房は10代の『無名詩集』の時代から、この言葉を概念化し、その詩の中にも使って参りましたので、よく知っての言葉であり、従い、『キッチュ クッチュ ケッチュ』を書いた、この1957年、安部公房33歳のときにも、よく知った上で、この言葉を使っていることを覚えておくことにしましょう。

これが、子供向けの、安部公房のラジオドラマの考え方なのです。安部公房という作家が童話を書こうと思ったら、ラジオドラマになったというところが特殊、特徴のあることだということになります。それが何故なのかは、ひとつひとつの作品を読み解くことで、判るのではないかと思います。

そうして、子供達に世の中の仕組みを教えるとともに、そこからの脱出口である窓の所在を教えるということ。そのような童話になるのでしょう。



以下、この作品からの詩を引用してお伝えします。これらの詩を読めば、安部公房が完全に息を吹き返したという意味がお分かりでしょう。透明なる上位接続、即ち存在を意味する一文字分の空白は、勿論、正確に置かれております。

「月は よごれた 弁当箱の色
 うつむいて 街は 渦まき
 今日もまた 男が一人
 棒になって 姿を消した」

「街は千の目玉を伏せて立ち
 男は棒になって横たわる
   道ばたの
   溝の中……」

「月は セメント色の空に 忘れられ
 棒は溝の中に 忘れられた
 街は うつむいて 渦をまき
 少年は 消えた父親を さがすのだ」

「夜が湧きだす 溝の中に
 男は棒になって 横たわり
 棒の形に とじこめられて
 身動きもできず 心配なのだ
 もし 体のどこかが
 痒くなりでもしたら
 どうしよう……」

「夜が湧きだす 溝の中に
 棒になった男が 倒れていると
 盲とびっこが、やってきて
 ひろって 行った」

「夜が湧きだす 溝の中から
 棒になった男が ひろわれて行き
 すると変な男たちがやってきて
 しきり行方を かぎまわる

 (……かわってヨロイ戸の重いきしみ)

 やがて デパートが あくびする
 さびた 蛇腹の まぶたを閉ざす
 すると少年が駆け出してきて
 街に……おびえる……

 (よろい戸がしまる)

 棒は 誰かに 持ち去られ
 少年は
 消えた父親を
 さがすのだ……」

「空は防腐剤をまいた沼の色によごれ
 地獄の男たちは行ってしまった
 冷たくしめった地面の上に
 棒になった男をほうりなげて
 確認はされたが登録はされず
 男は棒の形にとじこめられて
 身動きもできず心配なのだ
 もし体のどこかが
 痒くなりでもしたら
 どうしよう……」

「夕暮の 白い 三日月
 セメント製の なまくらナイフ
 成長しすぎた 運命のしっぽ
 姿をかえて 棒になった男
 確認はされたが
 登録はされず
 棒の形にとじこめられて
 暗い地面に 横たわる彼」

この作品中の詩は、安部公房の主題が満載の詩です。如何に、安部公房はリルケを自家薬籠中のものとなしたか。そうして、それはまた、このラジオ・ドラマが、安部公房の詩の復活としても、如何に重要な作品であったかを示しています。その主題を列挙します。

1。失踪
2。迷路としての渦巻く存在の街
3。千の目玉を持つという存在の街
4。棒という閉鎖空間:『箱男』の箱に等しい棒という存在、即ち「投影体」
5。溝という周辺部、縁(へり)の、接続点の、そして、穴である溝
6。その溝から湧き出る夜:接続点から生まれる夜と闇
7。盲とびっこという異形の者:夜の世界にこそ相応しい者たち
8。誘拐:人さらいという、安部公房の終生の主題のひとつ
9。幕の開く音、閉まる音(鎧戸の開閉の音):時間的な接続の音:『箱男』『密会』
10。襞、隙き間(「蛇腹の まぶた」):安部公房の世界認識である差異
11。失踪した父親:『棒になった男』その他:存在になった透明な父親:贋の父親
12。沼、底なし沼:『鴉沼』、エッセイ『アリスのカメラ』の奉天の沼、『方舟さくら丸』の便器
13。乞食未満の男:「確認はされたが登録はされ」ない人間、即ち、未分化の実存
14。夕暮という縁(へり)の、周辺の、昼と夜を接続する時間。時間的な接続点
15。三日月:エッセイ『笑う月』の主題。夜の闇の中の、宙に浮いている(全体を欠いた)何かの一部。次の16の「運命の尻尾」と同じ形象。即ち、夜の闇には時間が存在しないと安部公房が考えていたということがわかる。
16。相反するものの透明なる上位接続(「セメント製の なまくらナイフ/成長しすぎた 運命のしっぽ」:硬いものと柔らかいもの(なまくら)、時間の中
で(予測不可能な、従い未決定の状態である)過剰になったこととと、(この世での時間とは無関係に)最初から決定されている(時間とは無関係にある)尻尾という(尻尾の帰属している当の全体を示すには)不足のもの

話が随分と遠いところまで行きました。

最後に此の『飾り彫りのある柱の歌』に戻って、この詩をこうしてあらためて読みますと、『砂の女』の最後の場面を思い出し、砂の穴という存在の中に留まることを決意した仁木順平と、妊娠して砂の穴の外に運び出される砂の女との関係を考えながら読むことは、安部公房がリルケから何を学び、この詩に歌われたリルケの存在の再帰的な論理をどう精妙に換骨奪胎したかを考える格好の材料と、この『飾り彫りのある柱の歌』という詩は、なりましょう。これを考えることもまた、文学(literature)、文藝(literature)の楽しみでありましょう。

「それはだれであろうか?、わたしをかくも愛するがために、
自分の愛(いと)しい生命を撥(は)ね付け、退(しりぞ)ける者は。
誰かがわたしのために、海の中で溺れ死ぬならば
わたしは、石から帰還するのだ
生命の中へ、生命の中に入って、わたしが救われるのだ。

わたしは、さやけき音を立てて流れる血に憧れる
石は、かくも静かだから。
わたしは、生命を夢見る。即ち、生命は、良いものだ。
勇気のある者は、誰もいないのか?
その勇気を通り抜けて、わたしが目覚めたいと思う其の者は。

そうして、わたしは、いつか生命の中にあることになれば、
わたしに最も金色(こんじき)のもの総てを与える生命の中に、
――――――――――――――――-

さすれば、わたしは独りで
泣いて、泣いて、わたしの石を求めて泣くことになる。
わたしの血が、何になろう?、もし血が熟するのであれば、
                     葡萄酒のように。

血は、海の中から外へとは、唯一者を大声で呼出すことはできない。
わたしを、一番愛した唯一者を。」

この詩の中の石を砂に、私という話者たる一人称を砂の女と読み替えて読んでみることは、興味深いことです。あるいはまた、海を砂に読み、私という一人称を仁木順平という読み方もまた、面白い。この場合、石とは砂の穴でしょうか、それとも砂の女でしょうか。

勿論、このように考えてみたとして、これらの言葉に割り当てた意味(役割と言っても良いでしょう)が、一意的に一つ一つの意味になって確定するわけでは、勿論、ありません。そうではなく、わたしが、安部公房の読者であるあなたに伝えたいことは、逆に、関係、即ち言葉と言葉の間にある差異こそが、これらの言葉の意味を確定するのだということです。関係(差異)の総体、即ちcontext(文脈)が。その言葉に意味があるのではないのです。意味は関係に宿る。

これが、安部公房がリルケに言語について学んだことの真髄、本質(essence)です。

従い、安部公房の作品は寓話ではなく、寓意もなく、言葉そのもの、即ち関係、即ち差異の構造をのみを表した言語有機体なのです。何故箱根の仕事場には英国製の紙でできた骸骨の模型が置いてあるのか、何故安部公房はそれを好んだのかの、これが理由です。それは骨格であり、骨同士の関係の総体であり、従い実際に骸骨がそうであるように、それは差異の構造であり、安部公房が最もこころ安らかになり、静謐を感じ、リルケのいう言葉で言えば、時間の存在しない純粋空間を見ることのできる(これを見た瞬間に、シャッターと撮影されることとの時差を計算に入れて、一瞬の判断によって、安部公房はカメラのシャッターを押すのです。これが安部公房の写真です)、また写真は現物として実際に手で触ること(もぐら感覚!)のできる、より自分の身体に近しい、差異の総体として其の構造を表す投影体の一つであるからです。

さて、このような言葉の意味の確定のために、あなたが問うべき問いは、石とは何か、海とは何か、私とは何かという単純な問いなのであり、これらの問いを立てて、日常の時間の中でこれらの問いに答えることに堪えて堪えて堪えて遂に答えることよって、言葉の意味(正確には概念)の関係の構造を知ること、これが、上でお薦めした『砂の女』との関係を考えてみるということなのです。この関係の考察には、唯一の正解などはありません。これを自分自身によって知れば、あなたは言語の構造を知ったことになり、安部公房の思想の核心を知ることになるのです。

これを実際に行うことが、十代の安部公房がリルケに学んだと後年言っている「”物”と”実存”の対話」なのです。

次の、箱根の仕事場にある創作のために安部公房の作成したカードに書かれた問いは、このような、安部公房の、誰にも知られぬ、存在の部屋での、孤独な営為を示しております。このカードは、『密会』か『カンガルー・ノート』執筆のためのものでありましょう。



右上のカードには、進歩とは何か、幸福とは何か、下に置かれているカードには、患者とは何かという本質的な、即ち関係の在り方の全体(context)を求める問いが書いてある。これは、ヨーロッパの文明圏の人間たちにとつては、古代ギリシャの哲学の始祖ソクラテスの問うた、西洋の哲学の時代を超えて問われ続けている根本的な問いの形式です。即ち、それは何かという問いに答えればよいのです。この答えを主語と述語の形式の一行で表せば、これを定義(definition)と云いまた命題(proposition)といいます。[註5]


[註5]
この単純な問いに答えることを、安部公房はデジタル変換と呼びました。このことはあちこちで述べていることですが、今『内的亡命の文学』から以下に引用します(全集第26巻、383ページ下段)。

「文学というものは、言語というデジタルを通じていかに超デジタル的なものに到達するかという、自己矛盾の仕事なんだ。デジタルを通じて超デジタルに、つまり、最終的にその先のアナログに到達するための努力なんだね。そうすると、文学はものすごく苦しい作業でなければならない。だから、小説家は音楽家に非常にねたみを感じるんだよ。そのねたみの本質は何かというと、音楽家がストレートにアナログに到達できるのに小説家は苦しい廻り道をしなければならないからだ。」(傍線筆者)

この「最終的にその先のアナログに到達するための努力」とは、上の写真のカードにある問いに正面から答え、あらゆる角度から点検して穴のない完璧な定義を得て、即ち一つのcontext(世界)を発見して、そのあとに、今度は逆に、リルケに学んだ通りに外部と内部を交換して、その論理だけのデジタルの骨格の一行をcontextの中に置いて今度は其れが作者の形象(イメージ)と化すばかりではなく、読者にとっても日常の形象(イメージ)と化さしめる行為なのであり、安部公房は此れをアナログ変換といっているのです。これがバロックの精神だといっています。

この『内的亡命の文学』の「物語性と反物語性の衝動」の章(同巻、381~386ページ)に、安部
公房による此のバロックの精神とデジタル変換・アナログ変換についての説明があります。興味のある
読者はお読み下さい。安部公房の創作方法に関する考えを知ることができます。


ヨーロッパの哲学者たちは、16世紀のルネサンスの後、17世紀のバロック時代以降現在に至るまで、それが何語で思考され論ぜられ書かれようとも、当人が知っても知らなくても、また意識しようが無意識であろうが、近代の資本主義と民主主義と共産主義(マルクス主義)の生まれ出た同根キリスト教の唯一絶対全知全能のGodから如何に離れて、そうして自分の頭でものを考えた場合に、一体どのような論理があり得るのかということを考えているのです。

即ち、この近代の文明を創造した人間たちが、キリスト教の、即ち信仰の、神学の世界で、そうして哲学の、即ち思考と論理の世界で、延々と2500年間議論してきたことは、言語の観点から言葉の眼で眺めれば、たった次の二つのいづれを選ぶのか、どちらが正しいのかという議論なのです。

1。言葉(言語)に備わる再帰性の肯定:哲学:汎神論的存在論:多神教の世界:古代
2。言葉(言語)に備わる再帰性の否定:キリスト教:唯一絶対の全知全能のGod:一神教の世界:古代後

上記2は、God(仮に「神」と訳しましょう)が絶対的な命令を人間に下し、人間が神自身に絶対的に服従することを命ずる世界、即ち神みづからへ戻ることを神自身が禁ずる世界、即ち神がみづからの再帰性を否定する世界であり、これに対して上記1は、神ならば、人間によって神と名付けられ神と呼ばれるならば、神は神へと戻ることができると考える世界、即ち神の再帰性を肯定する世界です。

哲学者の考えることは、必然的に汎神論的な存在論と認識論へ、また宗教としては、この問いを立てたソクラテスの生きた古代ギリシャの宗教がそうであるように、多神教へと向かつています。二十一世紀も引き続き、彼らにとってはそうでありましょう。しかし、八百万(やおよろず)の神々のすまふ日本の国に住む私たちには自明の事であり、特別に事を荒立てるべき論では、哲学は、ないのです。

このソクラテスの立てた問いに、言語と論理の視点から、正面から回答したということ、これが、安部公房の文学の持つ、時代を超えた世界的な普遍性です。

私たちは、何か苦しい時には、俺は俺だとか、わたしはわたしよとか、そのように言いたくなり、そのような文をよく作るでしょう。これが、あなたの生成する再帰的な文です。この文は、理屈からは生まれない。あなたの魂の、その叫びの発露です。

そうして、あなたが社会に出て、世の中で働くと、この再帰的な文の生成を禁じられ、忘れることを強いられる。即ち、わたしはわたしであるという文では、自己が自己である証明ができないと、他人に言われる。自己が自己であるという此のあなたにとっての根源的な生来ある再帰性を証明するために、差異を設けて、即ち自己とは別のものを持ってきて(例えば免許証や保険証や証人)其れを証明することを強いられるのです。そうして、同時に自分のことを忘却する。即ち、自己を喪失するのです。その代償に、「わたしは生きている」と思っている。そうして、他人のために、会社のために、社会のために、国のために生きる(あなたは毎月源泉徴収されて税金も納めているでしょう)。勿論、これは、かけがえのない、この世を生きる尊い人間の行為です。平俗な言い方をすれば、あなたは現に、我を忘れて、毎日毎日、他人によってあなたの名前を「~さん」と呼ばれて、人のために生きているのです。たとへ、あなたがどんなに其の日々の現実に不平不満があろうとも。

ここまで書くと、安部公房の読者であるあなたには、既に『S・カルマ氏の犯罪』の主題、即ち言語と自己の存在証明の話が、これであることにお気づきでしょう。この小説もまた、こうして最初から、差異のことを、即ち自己と自己の差異の忘却と覚醒のことを書いた小説なのです。

この「再帰性を証明するために、差異を設けて、即ち自己とは別のものを持ってきて其れを証明することを強いられる」「そうして、同時に自分のことを忘却する。即ち、自己を喪失する」ことに気づいた主人公の意識は、既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号及び第33号)で明らかにしたように冒頭から超越論的に「既にして」、自己の喪失、即ち自己の忘却によって、また忘却による差異の覚醒、差異の自覚として、次のように書かれております。『S・カルマ氏の犯罪』の冒頭です。

「目を覚ましました。
 朝、目を覚ますということは、いつもあることで、別に変わったことではありません。しかし、何が変なのでしょう?何かしら変なのです。」

この後に、主人公のお腹の満腹と胸の空っぽという差異を書いて、この生理的身体的な差異の自覚を表し、それ故に読者にとっては入りやすい入り口を開いて、そのあとで、次の文がやって来ます。

「 ふと、ぼくはペンを握ったまま、サインができずに困っていることに気づきました。ぼくは自分の名前がどうしても思い出せないでいるのでした。それがそのためらっている理由なのでした。しかしたいして驚きはしませんでした。」

主人公が、この時「たいして驚きはし」なかったのは、「既にして」超越論的に、再帰的な人間になっているからなのです。差異に生きることが日常であり、それが日常感覚である人間、即ち十代の安部公房の至った言葉で言えば、未分化の実存に生きる人間に、即ち無名の人間に、「既にして」超越論的に、なってしまっているからです。

これが冒頭であれば、その論理的な必然として、最後の結末では、主人公は、(日常的な)時間の存在しない(砂漠という)空間の中で、これも時間の存在しない方向である垂直方向に、即ち天に向かって永遠に成長を続ける壁になってしまうのです。

さて、この先へ進みますと『壁』論になってしまいますので、宇宙の無時間の構造の話から、筆を戻して、有時間の中の、即ち歴史の中のキリスト教と哲学の話に戻ります。

さて、従い、ヨーロッパの哲学者たちは、このように神の再帰性を肯定することによって、従い神の絶対命令に従わないことによって、キリスト教の異端者として、必然的に汎神論的な存在論へ、また宗教としては、この問いを立てたソクラテスの生きた古代ギリシャがそうであるように、多神教へと向かいます。二十一世紀も引き続き彼らはそうでありましょう。しかし、私たち神々の国に住まふ日本人には古来自明の事であり、取り立てて騒ぐ事ではないのです。それは『奉天の窓から日本の文化を眺める』を書いて、言葉の眼で観れば、哲学が何も特別な学問ではないという事を、お伝えしている通りです。

このソクラテスの立てた単純な問いに、言語と論理の視点から、正面から回答したということ、ヨーロッパの歴史に残るすべての神学者と哲学者たちを相手にして、ただ一人均衡して秤(はかり)のこちら側に日本人の言語藝術家として孤独に在ること、そうして、この秤の上の安部公房の孤独の持つヨーロッパ文明に対する情け容赦のない徹底的な批判の力(安部公房の晩年称揚してやまなかったエリアス・カネッティと同質の、この文明に対する強烈な批判の力)、これが、アジアにいて日本語で書いた安部公房の文学の持つ、ヨーロッパ文明にとっての圧倒的に本質的な重要性なのであり、時代を超えた世界的な普遍性なのです。

全集第25巻の贋月報にあるように、安部公房についてドナルド・キーンさんが一人娘のねりさんに語った「まあ、しかし、お父さんには大変な野心がありました。というのは、長いこと日本の現代作家は、ヨーロパ人から学ぶということが、非常に大切だったのです。外国文学を読んで、なにか新しい日本文学を作るという考え方がありました。お父さんはむしろ、先駆的なことをやってみたい、まだ西洋人が考えたこともないことをやってみたい、未来の西洋文学者たちは、自分をまねするだろうなどと考えていました。」という此の安部公房の自負の念は、上述の言語と世界の差異に関する認識に基づいていて、それは、既に述べてきたように、十分な理由が、あり過ぎる位にあるのです。安部公房の先駆性は、従い、

1。人間の言語(言葉)には、本来再帰性が宿っていること
2。この再帰性が、人間と言語の構造の在り方であること、従い、
3。この構造をそのまま物語に仕立てて、多次元的な宇宙を表すこと
4。上記1から3のことを実現すれば、唯一絶対の神による(言語の)再帰性の否定によって成り立っている近代ヨーロッパの文明(資本主義と民主主義とマルクス主義)を超えて、再帰性の肯定を超越論的に求めて汎神論的存在論へと向かうことになる「未来の西洋文学者たちは、自分をまねするだろう」

と考えたところにあるということなのです。

安部公房の文学の世界性、地球の上の文明のレベルでの普遍性があるのは、この批判の地点であるのです。それが、その近代の、このことを最初に明確に文字にして表現したヨーロッパのバロック時代の精神に全く通っているのです。何故ならば、バロックの人間の精神は、どの領域であれ、それが文学であれ、絵画であれ、庭園であれ、建築物であれ、数学であれ、哲学であれ、ただただひたすらに差異だけに着目し、差異だけを探究し、差異だけを表す精神だからです。それ故に、バロックの人間は、例外なく、この差異という一点のみを通じて逸脱し、越境し、業際間を自由に往来し、多領域で活躍する多能の人間なのです。即ち、100人のうち99人が自己の再帰性を否定して生きているのに対して、再帰的な人間とは、自己が再帰的である事を全面的に肯定して生きる人間なのです。安部公房のように。それが、文学であれ、劇作であれ、演技論であれ、ラジオ・ドラマであれ、シナリオであれ、映画であれ、写真であれ。安部公房にとっては、奉天の窓(という言語と存在の窓)から眺めると、どの領域も皆同質のものであり、同じ質を備えた価値(value)を持っているのです。再帰的な構造は、どの領域にあっても、言葉の眼で眺めれば、全く変わらないのです。

私が、安部公房の文学は、世界文学のレベルでは、バロック文学だという理由が、ここにあります。

一桁の学齢の小学生の安部公房の知った、あの奉天の窓の相対的な、超越論的な存在論の価値(value)の世界、即ち宇宙の生命の横溢する世界です。(『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号と第33号)で詳細に論じましたのでお読み下さい。)


バロックの精神と安部公房について論じるのは、また後日とします。

2015年10月18日日曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀


三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀

43歳の三島由紀夫は、『太陽と鉄』といふエッセイで、精神との関係で、言葉の本質的な機能と其の言葉による呪術が一体どのやうなものかについて、次のやうに書いてゐます(新潮文庫版、88~89ページ)。

「前に述べた私の定義を思い出してもらひたい。[註1]私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した(略)」

[註1]

この簡潔な定義に関する、次のやうな「前に述べた私の定義」の詳細な叙述がある。:

「 私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。それといふのも、虚無を汚し、虚無を染めなし、京都の今なほ清い川水で晒されてゐる友禅染のやうに、二度と染直せぬ華美な色彩と意匠で虚無をいろどる言葉は、そのやうにして、虚無を一瞬一瞬完全に消費し、その瞬間瞬間に定着されて、言葉は終り、残るからだ。言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続感の一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少なくとも、「絶対」の医者を待つ間(ま)の待合室の白い巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。そしてその、虚無を一瞬毎に汚すことにより、生の連続感をたえず寸断せねばならぬのと引き代へに、少くとも、虚無を何らかの実質に翻訳するかの如き作用をするのである。」(新潮文庫版の77~78ページに)

この詳細な説明を読みますと、安部公房が言葉と空間の関係をのみ、即ち時間を捨象して、その空間化を考え、即ち現実の諸関係を関数関係に変換して、その関係を形象(イメージ)として表すのに対して、三島由紀夫は常に言葉と時間の関係をのみ考へ、現実の中の時間は捨象せずに、むしろ其の時間の中に「「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無」、即ち時間の刻一刻の、時刻と時刻の間に在る虚無を表して残るのが言葉だといふことがよく解ります。

「生の連続感の一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する」とあるやうに、時間の「一刻一刻の断絶」の此の断絶と其の寸断にこそ、言葉の力が宿るといふ考へです。

この、時間の「一刻一刻の断絶」の此の断絶と其の寸断によつて、従い年月日や時刻を記して始まる冒頭の一行を備へた小説が、すべて、叙事詩としての小説なのです。

それは、いはば、時差に在る追想と追憶の美を求める叙情詩とは裏腹の、丁度貨幣の裏表の関係にあつて表裏一体の、叙事詩のあり方です。

従い、上の引用の前半では、時差、即ち時刻と時刻の隙き間を「現在進行形の虚無」と言っているのです。さうして、

「いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。」

といふ此の言ひ方に、15歳の三島由紀夫の詩『凶ごと』の真意があります。それは、次のやうな詩です。傍線筆者。

「凶ごと

わたしは夕な夕な
窓に立ち椿事(ちんじ)を待つた、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに町並みの
むかうからおしよせてくるのを。

枯れ木かれ木の
海綿めいた
乾きの間(あひ)には
薔薇輝石色に
夕空がうかんできた……

濃(のう)沃度丁幾(ヨードチンキ)を混ぜたる、
夕焼の凶ごとの色みれば
わが胸は支那繻子(じゅす)の扉を閉ざし
空には悲惨きはまる
黒奴たちあらはれきて
夜もすがら争ひ合ひ
星の血を滴らしつゝ
夜の犇(ひしめ)きで閨(ねや)にひゞいた。

わたしは凶ごとを待つてゐる
吉報は凶報だつた
けふも轢死人の額は黒く
わが血はどす赤く凍結した……。

(『Bad Poems』、決定版第37巻、400~401ページ)」


この『凶ごと』と同じ主題の詩を含む詩に、次のやうな詩があります。

1。『枯樹群』(決定版第37巻、368ページ)
2。『鎔鉱炉』(決定版第37巻、396ページ)
3。『古代の盗掘』(決定版第37巻、720ページ)


この詩を読みますと、次のことが判ります。

1。凶ごとは、詩人の高みである高窓(窗)辺にゐると、
2。夕方にやつて来る。
3。夕方の夕焼けの色は、凶ごとの色である。
4。詩人にとつては、凶ごとは吉報である。
5。凶ごとは、轢死人のゐる十字路で、即ち詩人の高みで見るものである。それ故、
6。詩と詩人の論理は倒錯してゐる。しかし、
7。この倒錯が詩として歌はれるときには、轢死人としての詩人は既に地上に降り立ち、殺人者となつてゐる。

さうしてみると、凶ごとといふ詩の倒錯の論理は、いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布」であるといふ其の画布の上に、言葉を定着させるための論理、即ち両極端のものの倒錯的な概念の交換によつて生み出す、時間の始めと終はりの交換、即ち時間の転倒、やはり時間の無化、即ち時間といふ単位の繰り返しの其の合間合間に於ける無時間の創造であるといふことが判ります。

この言葉による無時間の創造を、43歳の三島由紀夫は、「言葉の本質的な機能」と呼び、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」のです。

これが、三島由紀夫の言語観であり、言語の持つ力なのであり、その力を行使した呪術なのです。

この言葉の定義の中で、その最初に機能といふ言葉を使つてゐることは、三島由紀夫は言語とは何かを考へ抜き、その本質に至つた言語藝術家であることを意味してゐます。

この事実は、同じ言語機能論者であつた安部公房と対等、同格に言語の話ができたことと同時に、他方、無時間の空間を言語によつて創造することを一生考へ、時間の空間化を図つた安部公房とは、同じ言語観の接点を共有してをりながら、方向が正反対であることをも意味してゐます。

やはり三島由紀夫は、時間の差異、即ち時差に、他方安部公房は、空間の差異、即ち隙間(非連続体の場合)と歪み(連続体の場合)に、それぞれの世界を対照的に構造化し、構築したのです。


[註1-1]
また、『太陽と鉄』の上記[註1]に引用した直前に、十代の詩人の時代の作品を、さうして特に十七歳といふ年齢を指定してまで、十七歳の詩人三島由紀夫の詩に対する考へ方と其の用ゐる方法が間違へてゐたのだと書き、その方法は、冒頭の定義と[註1]に引用した三島由紀夫による定義に対する詳細な補足説明にある方法とは全く正反対に間違へてゐて、それは何故かといふと、「それは実に「言葉を終らせない」ための営為であつたと云えるのだ」からなのであると云ひ、更に「なぜなら私は、形見としての言葉をモニュメンタルに使はうと望みながら、その方法をまちがへてゐたからである。」と断言してゐる。

さうして更に、それはどのやうに間違へてゐたかを、次のやうに語つてゐます。決定的なことを言はうとすると、やはり隠喩(metaphor)を使はずにはゐられない、ワットオの不可視の林檎論を論ずるのと同じ三島由紀夫がをります。しかし、43歳のこの譬喩を読みますと、譬喩であるだけに、その言葉は凝縮を備へてゐて、生きることを惜しむ三島由紀夫のゐるのです。:

「なぜなら私は、形見としての言葉をモニュメンタルに使はうと望みながら、その方法をまちがへてゐたからである。全知を節約し、むしろ全知をしりぞけ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ねて、自分の持たぬ肉体を持たぬがままに反映させ、あたかも伝書鳩の赤い肢に銀の筒に入れた書信を託するやうに、言葉をして私の憧憬と共に未来から死へと飛び翔たせる作業に専念してゐたからである。それは実に「言葉を終らせない」ための営為であつたと云えるのだが、とまれかくまれ、その営為には陶酔があつた。」(傍線筆者)

といふ此の文章の次に、[註1]に引用した「言葉の本質的な機能」に関する定義が始まるのです。

ここで三島由紀夫の言つてゐることは、遅くとも43歳の此の三島由紀夫の認識するに至つた「言葉の本質的な機能」、即ち「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」此の定義を適用すれば、これによつて、三島由紀夫の最晩年の文学はどうなるかといへば、「全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ねて、自分の持つてゐる肉体を持つてゐるがままに(言葉に)反映させ、あたかも伝書鳩の赤い肢に銀の筒に入れた書信を託するやうに、言葉をして私の憧憬と共に過去から生へと飛び翔たせる作業に専念してゐ」ることになります。

この生は、死を含む、死と裏腹にあつて一緒の生でありませう。

即ち、「全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ね」るといふことは、即ち「時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ね」るために「全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ」るといふことは、そのまま死を意味してをり、また、死を含む、死と裏腹にあつて一緒の生を意味してをります。そのことを、三島由紀夫は安部公房との対談『二十世紀の文学』の中で、次のやうに言つてをります。西暦1966年、昭和41年、三島由紀夫41歳、安部公房42歳の2月の対談です。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』より当該箇所を引用して、お伝へします(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html))。:

「三島由紀夫の現実での無時間の生き方は、現実と非現実の二つの平行線を宰領することでしたが、しかし、その死を以って、1970年11月25日に非ユークリッド幾何学の交差点を実現したということ、この世の時間の変化を到頭一回限りの関数の、唯一の絶対的な関数の変化として表現し得た三島由紀夫がおります。こうしてみますと、二人の次の会話は、誠に興味深い。伝統に対する戦略的方法を論ずる二人の会話です。

「安部 やはり蛮族との関係があるのだよ、ソクラテスにも。
 三島 あるけれども、あるいは、ソクラテスは、メトーデを発明しようとしたから、殺されちゃったのかも知れないよ。
 安部 それはそうだな。
 三島 そういう点、そのころのギリシャは日本に似ていると言えるかも知れない。しかし日本ほどストイックな伝統観念は、それほどではなかったかも知れないね。それにしても、僕はしかし、自分が非常に自由だという観念は、伝統から得るほかないのだよ。僕がどんなことをやってもだよ、どんなに西洋かぶれをして、どんなに破廉恥な行動をしてもだね、結局、おれが死ぬときはだね、最高理念をね、秘伝をだれかから授かって死ぬだろう。
 安部 きみ、死ぬときに授かるのか。
 三島 そう、死ぬときに授かる。(笑)
 安部 遅すぎはしないかな。(笑)しかしもう少し詳しく聞きたいのだけれども、僕は率直に言って、伝統という観念がほとんどないのだよ。観念がだよ。(略) 」

さて、しかしまた、話を三島由紀夫の十代の詩作に戻しますと、「それは実に「言葉を終らせない」ための営為であつたと云えるのだが、とまれかくまれ、その営為には陶酔があつた。」「この営為には陶酔があつた」といつてゐるといふことを、次のやうに書いてをります。:

「 あのころの、十七歳の私を無知と呼ばうか?いや、決してそんなことはない。私はすべてを知つてゐたのだ。十七歳の私が知つてゐたことに、その後四半世紀の人生経験は何一つ加へはしなかつた。ただ一つのちがひは、十七歳の私がリアリズムを所有しなかつたといふことだけだ。[註1-1-1]
 もしもう一度あの夏の水浴のやうに私を快く涵(ひた)してゐた全知へ還ることができたらどんなによからう。かくて自分のその年齢の領域を仔細に検分した結果、自分の言葉が確実に「終らせて」ゐる部分はきわめて少なく、その透明な全知の放射能に汚染されてゐる区域はきわめて窄いことを知つた。」

[註1-1-1]
三島由紀夫が、ここで「十七歳の私」といつてゐる年齢が、満年齢ではなく、戦後アメリカ軍に強要された数えの年齢であるとすれば、私のまとめた次の「三島由紀夫の人生の見取り図(v5)」が理解の役に立ちます。即ち、満年齢16歳の歳は、『理髪師』といふ詩を書いた歳であるからです。この詩が三島由紀夫にとつてどんなに重要な詩であるかについては、次の考察をご覧ください。:

(1)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く27:二人の理髪師』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_4.html
(2)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く15:イカロス感覚5:蛇』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_12.html




三島由紀夫は、従ひ、十代の詩の世界へと回帰するために決心したハイムケール(帰郷)の晩年の時代を早くとも開始する39歳の『絹と明察』のときから、遅くとも此のエッセイを書く43歳までの間に、上の引用した自分の十代の詩の、このやうな「検分」を終了してゐたのです。

さうして、「その透明な全知の放射能に汚染されてゐる区域はきわめて窄いことを知つた。」(即ち、三島由紀夫は、この時、十代からの苦しみであつた、自己と言葉の関係にある、自己に対する言葉といふ白蟻の腐食作用を、言葉が自己の言葉に対して働く白蟻の腐食作用を、言葉といふ白蟻の自己の肉体に作用する腐食作用を遁れるものの考へ方と具体的な術(すべ)を知つたといつてゐるのです。)

ここに、「私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」と定義した言葉を、現実のものとする余地が十二分にあることを知つた三島由紀夫がをり、そうであるが故に、十七歳の「う一度あの夏の水浴のやうに私を快く涵(ひた)してゐた全知へ還る」ために、さうして古林尚との死の一週間前のインタビューで率直に、次のやうに述べてゐるのです。:

「ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくはもし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口をいわれようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と思うようになりました」

と率直に述べてゐるやうに、即ち、十代の詩人としての三島由紀夫を45歳の詩人としての三島由紀夫の言葉に反転させた次の言葉が、この最後のインタビューには響いてゐるのです。

全知を節約することなく、むしろ全知を受け容れ、時代の風潮への反措定のありたけを言葉に委ねて、自分の持つてゐる肉体を持つてゐるがままに(言葉に)反映させ、あたかも伝書鳩の赤い肢に銀の筒に入れた書信を託するやうに、言葉をして私の憧憬と共に過去から生へと飛び翔たせる」ために、三島由紀夫は、市ヶ谷のバルコニーに立つた。さうして、あの檄文読み、檄を発した。

即ち、あの言葉は、全く非政治的な人間の言葉なのであり、從ひ、日本人の詩の魂の、詩魂の、古代からの、記紀万葉の時代からの、日本人に対する叫び声なのであり、全く文化的な檄の言葉なのです。その詩魂は、『日本文学少史』に明らかに書かれてをります。

さうして、更に『太陽と鉄』と『文化防衛論』に三島由紀夫の書くところの通りに、事実その通りに、三島由紀夫は日本語といふ言葉に命を懸けて私たちを見た、三島由紀夫は私たちに見られた、さうして見返した・見返してゐる者として私たちを尚三島由紀夫は見返してゐるのです。あの『暁の寺』の、時間の向かうの其の隙間に存在して此の今の時間にゐる私たち読者を見返してゐる、あの聖牛のやうに。

三島由紀夫が『太陽と鉄』と『文化防衛論』と『日本文学少史』の3部作で日本人に訴へてゐることは、次のことでありませう。

一つめのエッセイは、我が事、即ち自己と言葉と肉体と、從ひ詩に於ける認識と存在の関係を、自分が何故どのやうに死ぬのか、即ち生きるのか、といふことを、二つ目のエッセイは、日本の国と文化の関係を、三つ目のエッセイは、日本の文化の精華たる詩文の真髄について述べてをります。

さうして、やはりこれら3部作を通る一つの糸、それは、繰り返される様式(フォルム)であり、その様式のもたらす、時間の間(はざま)に存在する美と静寂なのです。

これらを更に、もつと一言でいへば、次のやうになります。

1。先の敗戦後にアメリカによつて忘却を強ひられたことを思い出せ。それは、
2。日本人の文化の有する様式(フォルム)である。
3。様式とは、時間の中の繰り返しであり[註1-1-2]、その繰り返しの間(はざま)にある静寂の静止の頂点[註-1-1-3]にこそ、その真髄がある。

[註1-1-2]
『文化防衛論』の「国民文化の三特質」といふ章で、三島由紀夫は、次の3つの特質を挙げてをります。

(1)再帰性
(2)全体性
(3)主体性

(2)と(3)は、いづれも最初の(1)に収斂される特質です。この再帰性とは、時間の中での繰り返しと其の時間と時間の隙間にある静止と静寂であり、その静止と静寂を保証し保障する様式であるのです。

さうして、この再帰性は、文化が博物館にある遺物のやうに死物としてあるのではなく、生き生きとした私たちの日常の生活の全体性と主体性を恢復しするためには、「文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返して来る、といふ認識に他ならない」のです。

この章の前の「日本文化の国民的特色」では、このやうな繰り返しの様式の典型的な例として、伊勢神宮の遷宮を挙げてをります。

この60年ごとの周年に執りおこなはれる神聖なる古来からの神道の儀式もまた、上に述べたやうに「その繰り返しの間(はざま)にある静寂の静止の頂点」を極め、これを快楽として味はう、私たちの文化的な静寂なの再帰的な創造なのです。

このことから自明のやうに、從ひ、全体性とは天皇(すめらみこと)を頂点とする祭政一致のことなのであり、主体性とは、私たちが「文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返して来る、といふ認識に他ならない」といふこと、この生き生きとした認識を、即ち文化の共同体の普通の在り方を、連綿と続く時間の中で、即ち歴史の中で、即ち其の伝統の中で、思ひ出すといふことなのです。

2011年3月11日のあの大震災、あの大津波の後の今を、また今に、思へば、実に当り前のことを、三島由紀夫は述べてゐるのです。この大震災、この大津波の後に、日本人が絆といふ言葉を思ひ出し、今も口にして忘れないでゐることは、記憶に常に新しい。何故ならば、この絆は、死者との絆だからです。

[註1-1-3]
『日本文学少史』の最後の章である第六章「源氏物語」の最後のところから。この章もまた論ずべきことが多々あるも、これだけの引用に惜しくも留めることに致します。:

「私は物語の正午の例証として源氏物語について語らうと思ふ。(略)人があまり喜ばず、又、敬重もしない二つの巻、「花の宴」と「胡蝶」が、私の心に泛んだ。二十歳の源氏の社交生活の絶頂「花の宴」と、三十五歳の源氏のこの世の栄華の絶頂の好き心を描いた「胡蝶」とである。(略)源氏物語に於いて、おそらく有名な「もののあはれ」の片鱗もない快楽が、花やかに、さかりの花のやうにしんとして咲き誇つてゐるのはこの二つの巻である。それらはほとんどアントワーヌ・ワトオの絵を思はせるのだ。いづれの巻も「艶なる宴」に充ち、快楽(ヴォリユプテ)は空中に漂つて、いかなる帰結をも怖れずに、絶対の現在のなかを胡蝶のやうに羽搏いてゐる。
 このやうな時のつかのまの静止の頂点なしに、源氏物語といふ長大な物語は成立しなかつた。(略)」(傍線筆者)

三島由紀夫は、アントワーヌ・ワトオの絵が本当に好きだつた。さうして、その林檎の紅の、緋色の色が。アントワーヌ・ワトオの絵については、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』をご覧ください。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html



言葉とは、そのやうな呪術なのです。

さて、それでは、その呪術のための呪文は何かと言へば、それは既に述べましたやうに、言葉の繰り返しであり、その繰り返しの間の時差に、三島由紀夫は美と叙情を感じるといふことは、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』以下の此の論考で縷々述べて来たところです。

典型的には、名作『金閣寺』の主人公が吃りであつて、吃りとは繰り返し同じ言葉を口せずにはゐられぬ人間であり、その繰り返しの言葉の合間合間の時差、その拍、その虚無に、美と叙情を感ずる人間であり、これを書く三島由紀夫も同様の人間であるからです。

これが、三島由紀夫の叙情詩です。時差の隙間、時差の間の空虚に美と叙情を感じて筆を起こすのが、三島由紀夫の叙情詩としての小説です。[註2]

[註2]
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』より、その[註2]を再掲して、お伝へします。:

「[註2]
安部公房が時間を空間化した作家だというのに対して、三島由紀夫は、空間を時間化した作家だという例を以下に、十代の小説から最後の『豊饒の海』までの間で挙げて、みてみましょう。

まづ『仮面の告白』の最初の有名な冒頭から。しかし、何故それが有名であるのか、何故三島由紀夫の読者であるあなたに訴求する力を持っているのかの説明を、わたしはしたいのです。:

「永いあひだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」

この冒頭の一行にあるように、三島由紀夫の豊かな修辞の言葉は、現在から過去を追憶すること、追憶して現在と過去との差異を意識するところから生成するのです。これは、この論考の本文で後述し、詳述します。

同様に、世に出た最初の作品『花ざかりの森』の冒頭。ここには、隠遁した人間の追憶が語られています。この最初の行を含む段落の其の次の段落の冒頭の最初の一行で、主人公の行為が、追憶という言葉を使って始まり、その意識の有り様の具体的な事柄が、はっきりと語られています。:

「この土地へきてからといふもの、わたしの気持ちには隠遁ともなづけないやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。」

最後の連作『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の冒頭:

「学校では日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もつとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえてゐるだけであつた。」

主人公の追憶、即ち現在と過去との差異を求めるこころから、この全四巻の一連の物語は始まるのです。それでは、第二巻『暁の寺』以下第四巻『天人五衰』までの冒頭はどうでしょうか。

『暁の寺』:「バンコックは雨期だつた。空気はいつも軽い雨滴を含んでゐた。」
『奔馬』:「昭和七年、本多繁邦は三十八歳になつた。/東京帝国大学法科大学に在学中、高等文官試験の司法科に合格し、大学を卒業すると、司法官試験補として大阪地方裁判所詰になり、その後ずつと大阪で暮らしてゐた。」
『天人五衰』:「沖の霞が遠い船の姿を有限に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。」(傍線筆者)

この全四巻のうち、最初の『春の雪』と最後の『天人五衰』の出だしは、従って其の物語の性質は、『花ざかりの森』型、この二つの間にある第二巻『暁の寺』と第三巻『奔馬』は、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』型ということになります。『豊饒の海』の連作は、そのまま三島由紀夫の人生の在り方の変遷と「ハイムケール(帰郷)」を写していることがわかります。

この十代に書いた二つの、三島由紀夫の人生に於いて有している、物語としての典型的な、また本質的に重要な性格については、本文で後述します。ちなみに、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の冒頭は、次のように始まっております。一読、『暁の寺』と『奔馬』に通っていることがお判りでしょう。問題は、この冒頭の殺害とある言葉の意義にあるのです。

 室町幕府二十五代の将軍足利義鳥を殺害。百合や牡丹をゑがいた裲襠(うちかけ)を着た女たちを大ぜいならべた上に将軍は豪然と横になつて朱塗の煙管で阿片をふかしてゐる。」

そうして、この日記には時間のない、日ばかりの、空白の時間ばかりの日記であることに注意を払いましょう。」


これに対して、やはり同じく詩や小説の最初の呪文として、いや繰り返しが無いといふ意味では正確には呪文ではありませんが、「生の連続感の一刻一刻の断絶」を表す場合には数字で此れを示して、従い、年月日や日時や時刻の数字を書いて、この場合には其の作品が叙事詩であることを、三島由紀夫は作品の第一行目に其れを示し置くのです。[註3]

[註3]
このことは、既に次の考察にて詳述しましたので、ご覧ください。:

(1)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html)、及び
(2)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html

上記(1)の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』の[註1]を其のまま引用してお伝えします。:

「さて、三島由紀夫の小説が叙事詩だといふことに関する考えは、私の仮の説であり、仮説です。しかし、十代の次の詩が、丁度、叙情詩、叙事詩、そして小説といふ時間の順序で展開してゆく其の中間状態の移行期の姿を示していて、わたしの仮説は、正しいのではないかと思はれます。

この仮説を証明する其の詩は、13歳の『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ詩です(決定版第37巻、206ページ)[註1]

[註1]
桃葉珊瑚(あをき)といふ題の言葉と、この老いの記の内容との関係を稿を改めて明確にすること。この時期、三島由紀夫は桃の詩を幾つも歌つています。桃と桃色の意味を解く事を後日致します。今ここで少しく考察を加えてをけば、次のやうになります。

桃葉珊瑚(あをき)といふ植物は、「葉は厚くつやがある。雌雄異株。春、緑色あるいは褐色の小花をつけ、冬、橙赤(とうせき)色で楕円形の実を結ぶ。庭木とされ、品種も多い。桃葉珊瑚(とうようさんご)。」[『大植物図鑑』>「アオキ Aucuba japonica 桃葉珊瑚(1034)」:https://applelib.wordpress.com/2009/05/09/1034/

この説明をみますと、三島由紀夫は、この当時楕円形といふ形が好きであつたやうに思はれます。何故ならば、この実は楕円形をしてをり、小説『詩を書く少年』の中で、13歳ではなく15歳といふ年齢設定ではあるものの、主人公の製作する詩集は「ノオトの表紙を楕円形に切り抜いて、第一頁のPoesiesといふ字が見えるやうにしてある」表紙を備えてゐるからです。

しかし、いづれにせよ『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』といふ《EPIC POEM》(叙事詩)を読みますと、その主題は、ある老いた人間の死と、その理由の誰にも知られない無償の自己犠牲によつて起こる生命の蘇生といふ主題ですから、この桃葉珊瑚(あをき)に永遠に繰り返され、冬の季節の後に到来する春に再び此の世に現れる強い生命力をみてゐたことは間違いありません。

さうすると、同様に此の時期歌ふことの多かつた桃についても、その形状と色彩と其の色艶に、同様の魅力を覚えたゐたことが判ります。桃を巡る形象は、夏であり、青空であり、泉であり、川の流れであり、その青色を映す湖であり、青色そのものである海であり、これらの歌われる春と夏の季節であり、また夜であり、月であり、月の光であり、黒船であり、とかうなつて来ると季節の秋もあり、夜に響く谺(こだま)といふ繰り返しの声があり、また桃の果樹園であり、桃林なのです。

『奔馬』で、この物語の最後に主人公が死を求めて、夜の海へと駆ける場所は、桃の果樹園ではなく、蜜柑畑といふ果樹園です。最晩年の三島由紀夫が蜜柑といふ果実と其の果樹園といふ場所、それも夜の海を前にした言はば庭園といひ庭といふことのできるやうな場所に何を表したのか。 」



さて、このやうな呪文を、三島由紀夫は一体どのやうに作品の冒頭第一行に使つてゐるのかを見てみませう。

呪文とは同じ言葉の繰り返しです。

繰り返しと其の形象があれば、それは叙情詩であり、時間の数字で始まれば、それは叙事詩である。前者は、そのまま後年三島由紀夫の其の種の小説のままに、同時に其れは戯曲になりゆき、後者は叙事としての小説に其のままなりゆく。[註4]

[註4]
三島由紀夫は、『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)の同じ上の自筆のあとがきで、20歳以降の小説と戯曲の関係と展開について、次のやうにいつています。

「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」

この率直な言葉を活かして考へますと、20歳以降の小説と戯曲は、そのまま小説(散文)と戯曲(詩文)といふ併存が、生涯の最後の『豊饒の海』(小説、散文)と『癩王のテラス』(戯曲、詩文)まで続いたといふことになります。



今手元ある小説の名前を次のやうに、三島由紀夫の年齢順に列挙して、叙情詩としての小説と叙事詩としての小説を識別してみませう。そのあとで、それぞれの範疇にある小説の中から10篇づつを選んで、その冒頭の数行も引きうつし、実際を見ることにします。

1。叙情詩としての小説
(1)『彩絵硝子』:1940年11月:15歳
(2)『苧菟と瑪耶』:1942年7月:17歳
(3)『みのもの月』:1942年11月:17歳
(4)『祈りの日記』:1943年6月:18歳
(5)『仮面の告白』:1949年7月:24歳
(6)『親切な機械』:1949年11月:24歳
(7)『遠乗会』:1950年8月:25歳
(8)『禁色』:1951年1月~1953年8月:26歳~29歳
(9)『椅子』:1951年3月:26歳
(10)『卵』:1953年6月:28歳
(11)『鍵のかかる部屋』:1954年7月:29歳
(12)『詩を書く少年』:1954年8月:29歳
(13)『沈める滝』:1955年1月~4月:30歳
(14)『牡丹』:1955年7月:30歳
(15)『金閣寺』:1956年1月~10月:31歳
(16)『十九歳』:1956年3月:31歳
(17)『鏡子の家』:1959年9月:34歳
(18)『スタア』:1960年:35歳
(19)『苺』:1961年9月:36歳
(20)『月』:1962年8月:37歳
(21)『雨のなかの噴水』:1963年8月:38歳
(22)『切符』:1963年8月:38歳
(23)『剣』:1963年10月:38歳
(24)『豊饒の海』の第一巻『春の雪』:1965年9月~1967年1月:40歳~42歳
(25)『豊饒の海』の第二巻『暁の寺』:1968年9月~1970年4月:43歳~45歳

2。叙事詩としての小説
(1)『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』:1943年8月:18歳
(2)『頭文字』:1948年6月:23歳
(3)『訃音』:1949年7月:24歳
(4)『怪物』:1949年12月:24歳
(5)『果実』:1950年1月:25歳
(6)『死の島』:1951年4月:26歳
(7)『江口初女覚書』:1953年4月:28歳
(8)『海と夕焼け』:1955年1月:30歳
(9)『新聞紙』:1955年3月:30歳
(10)『橋づくし』:1956年12月:31歳
(11)『百万円煎餅』:1960年9月:35歳
(12)『憂国』:1961年1月:36歳
(13)『帽子の花』:1962年1月:37歳
(14)『魔法瓶』:1962年1月:37歳
(15)『美しい星』:1962年1月~11月:37歳
(16)『葡萄パン』:1963年1月:38歳
(17)『真珠』:1963年1月:38歳
(18)『絹と明察』:1964年1月~10月:39歳
(19)『豊饒の海』の第三巻『奔馬』:1967年2月~1968年8月:42歳~43歳
(20)『蘭陵王』:1969年11月:44歳


これら二つの詩の種類の延長にある小説に対して、第三の小説があります。第三の小説は、三島由紀夫にとつては、三島由紀夫の好む語彙を用ゐれば「快楽(けらく)」そのままの世界、即ち詩の世界そのものなのであつて、敢へて呪文を最初に唱へる必要がなく、直かに足を踏み入れることのできる世界です。

それらは、最初から、三島由紀夫の詩人としての高みを保証し保障する高みから話が始まります。または、作品第一行に三島由紀夫の布置する其の言葉そのものが、詩人の高みを表してゐるのです。

従ひ、形式は異なつてゐても、実質的には、三島由紀夫の心情の中では、1の叙情詩型の小説と3の第三の小説とは分かち難いものであつたに違ひない。

3。第三の小説
(1)『花ざかりの森』:1941年9月~12月:16歳
(2)『玉刻春』:1942年12月:17歳
(3)『世々に残さん』:1943年3月:18歳
(4)『岬にての物語』:1946年11月:21歳
(5)『盗賊』:1947年12月~1948年11月:22歳~23歳
(6)『慈善』:1948年6月:23歳
(7)『火山の休暇』:1949年11月:24歳
(8)『牝犬』:1950年12月:25歳
(9)『美神』:1952年12月:27歳
(10)『不満な女たち』:1953年7月:28歳
(11)『志賀寺上人の恋』:1954年10月:29歳
(12)『水音』:1954年11月:29歳
(13)『商ひ人』:1955年4月:30歳
(14)『山の魂』:1955年4月:30歳
(15)『女方』:1957年1月:32歳
(16)『午後の曳航』:1963年9月:38歳
(17)『月澹荘綺譚』:1965年1月:40歳
(18)『命売ります』:1968年5月~10月:43歳
(19)『豊饒の海』の第四巻『天人五衰』:1970年7月:45歳


しかし、これらの三つの、三島由紀夫の型の冒頭に共通してゐることは、この現在の地点に立つて過去を振り返り、追想し追憶することを、言葉の繰り返しによる時差として生み出し、そこに美と叙情を招来することにあるのです。

これが、この考察の冒頭に引いた『太陽と鉄』の三島由紀夫自身の定義の言葉を借りれば、

1。叙情詩とは、時間の繰り返しの中で「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」を歌ふこと、即ち、繰り返しの呪文の言葉の合間の拍、拍子、空白の時差を生み出すことなのであり、
2。叙事詩とは、年月日を入れ、時刻を入れて其の一瞬を特定し、「あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術」である。

といふことなのです。

まづ、叙情詩としての小説からみてみませう。傍線を施したところが、繰り返しを意味する言葉であり、その形象なのです。さうして、それが空間的な形象であれば、それを直ちに時間的な形象で、三島由紀夫は、その空間性を打ち消す。最初の『彩絵硝子』が其の例です。

(1)『彩絵硝子』:1940年11月:15歳
「化粧売り場では粧つた女のやうな香水壜がならんでゐた。人の手が近よつてもそれはそ知らぬ顔をしてゐた。彼にはそれが冷たい女たちのやうにみえた。範囲と限界の中の液体はすきとほつた石にてゐた。壜を振ると眠つた女の目のやうな泡が湧き上がるが、すぐ沈黙即ち石にかへつて了ふ。」

(2)『苧菟と瑪耶』:1942年7月:17歳
「苧菟(おつとお)は瑪耶(まや)を見た。その日から彼は瑪耶に恋した。
 お互ひの魂のまはりをささやきながらとび交はす小鳥のやうに、かれらは多分それをみたのにちがひない。おそらくそれは、ふしぎに明るく、しづかにためらひがちに縺れあつたひとつの季節のやうにして来たのだ。……」

小鳥は、十代の三島由紀夫の詩に登場する素材の一つです。何故ならば、小鳥の囀りは、同じ調子で同じ鳴き声を繰り返し繰り返すからです。

さうして、「……」が、現在から過去への追想、追憶を示し、その記憶の中で物語が始まることを意味してゐます。詳細は、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』で論じた通りです。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html

(5)『仮面の告白』:1949年7月:24歳
永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。それを言ひ出すたびに大人たちは笑ひ、しまひには自分がからかはれてゐるのかと思つて、(略)」

これも、現在から過去への追想、追憶を最初に示し、即ち時間の差異、その空白を示し、即ち普通の人間が忘却して表立つた記憶にすらない其の「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」といふ無意識の記憶の中で物語が始まることを意味してゐます。

「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」といふ一文の意味するところは、「永い間」「言ひ張つてゐた」とある以上、やはり繰り返し、この同じ言葉の呪文を唱へたといつてゐるのです。


また、三島由紀夫の文字の選択は、「永い間」とあつて、「長い間」ではないのであり、「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」といふことを、この文字の選択は示してをります。

(8)『禁色』:1951年1月~1953年8月:26歳~29歳
康子は遊びに来るたびに馴れ、庭さきの籐椅子に休んでゐた俊輔の膝の上へ、平気で腰を下ろすやうなことをするまでになつた。このことは俊輔を欣ばせた。」

「俊輔を欣ばせた」た理由は、やはり遊びに来ることの繰り返しであり、対象となるものが、自分自身にある親しさをもたらすことであるからです。

その季節は、上の最初の段落の次に来るやうに、「恰も夏である」そのやうな季節でなければならないのです。夏もまた、そのやうな季節として、十代の詩に親しく繁く歌はれた素材であり動機(モチーフ)です。

(11)『鍵のかかる部屋』:1954年7月:29歳
「きよう、社会党内閣が瓦解した。内紛でつぶれたのである。二三日前の新聞が、すでに総辞職を予報してゐた。」

「二三日前」といふことから、現在から過去を追想追憶すると解して、抒情詩に入れました。

(12)『詩を書く少年』:1954年8月:29歳
「詩はまつたく楽に、次から次へ、すらすらと出来た。」

三島由紀夫の詩そのもののである繰り返しによる出しです。

(15)『金閣寺』:1956年1月~10月:31歳
幼時から父は、私によく、金閣のことを語つた。

これもまた繰り返しです。この小説刊行後との対談で、小林秀雄が、この作品について、「……で、まあ、僕が読んで感じたことは、あれは小説つていうよりむしろ抒情詩だな。」といふ評言は正鵠を射てゐるのです(『小林秀雄 美の形ー『金閣寺』をめぐってー三島由紀夫』)。

(17)『鏡子の家』:1959年9月:34歳
みんな欠伸(あくび)をしてゐた。これからどこへ行かう、と峻吉が言つた。」

あくびは伝染し、繰り返されるものでありませう。さうして、同じ発声がなされるのではないでせうか。

(23)『剣』:1963年10月:38歳
「黒胴の漆に、国分家の双葉竜胆の金いろの紋が光つてゐる。」

双葉竜胆の紋とは、次のやうな繰り返しの模様、即ち対称性を備えた文様です。



この同じ形象に、三島由紀夫の好きであつたダリの描いたキリストの磔刑の十字架の絵があります。

即ち、この紋の図柄で、三島由紀夫が一番魅かれるものは、十字の交差した中心にある円形の場所にあるのです。

この場所には、繰り返しの中にあつて、時間のない積算の値の存在する、さういふ意味では『天人五衰』の最後の月修寺の庭前にあるのと同じ、三島由紀夫が終生求め続けてやまなかつた静謐静寂の空間が、否、時差があるからです。このことについては、次の考察をご覧ください。:

1️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html

2️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html

また、三島由紀夫が楕円形が好きであつたことについては、[註1]をご覧下さい。

(24)『春の雪』:1965年9月~1967年1月:40歳~42歳:
「学校では日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もつとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえてゐるだけであつた。

叙情詩とは、時間の繰り返しの中で「「絶対」を待つ間(ま)の永い空白」を歌ふこと、即ち、繰り返しの呪文の言葉の合間の拍、拍子、空白の時差を生み出すことなのであるといふ三島由紀夫の定義の通りに、空白の記憶の時差が、ここで最初に措かれてをります。

從ひ、これから先の話は、必然的に、空白の記憶の時差から生まれる繰り返しの話に成るのです。即ち、自然に、永劫回帰の、殊に『暁の寺』では、唯識論の意匠を纏ふた転生輪廻の話に成るのであり、『天人五衰』の最後の「……」で終り、更にまた繰り返されて、『春の雪』の上の冒頭に永劫回帰するのです。

(25)『暁の寺』:1968年9月~1970年4月:43歳~45歳
「バンコックは雨期だつた。空気はいつも軽い雨滴を含んでゐた。」

云ふまでもなく、雨期もまた、毎年繰り返されるものでありませう。

次に、叙事詩としての小説をみてみませう。冒頭は、すべて時間に関する数字で始まるので、詳細な説明は不要でありませう。

(1)『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』:1943年8月:18歳
⬜︎⬜︎
 室町幕府二十五代の将軍足利義鳥を殺害。」

⬜︎⬜︎日」で判る通りに、時間の無い空白の時差に書かれた日記です。

(3)『訃音』:1949年7月:24歳
「ものの三四十分にわたるパイプの手入れがすんだ。愛用の象牙のパイプである。」

もし付言すれば、パイプ煙草を吸ふといふ行為も、スパスパと、またゆつくりと、同じ呼吸と音の繰り返しでありませう。

(8)『海と夕焼け』:1955年1月:30歳
文永九年の晩夏のことである。のちに必要になるので附加へると、文永九年は西暦千二百七十年である。

(10)『橋づくし』:1956年12月:31歳
陰暦八月十五日の夜、十一時半にお座敷が引けると、小弓とかな子は、銀座板甚道(いたじんみち)の分桂家(わけかつらや)へかえつて、いいで浴衣(ゆかた)に着かへた。」

(11)『百万円煎餅』:1960年9月:35歳
「「おばさんとの約束は九時だつたかね」
 と建造がきいた。」

(12)『憂国』:1961年1月:36歳
昭和十一年二十八日、(すなはち二・二六事件突破第三日目)、近衛歩兵一聨隊勤務武山信二中尉は、事件発生以来親友が叛乱軍に加入せることに対し懊悩を重ね、皇軍相撃の事態必至となりたる情勢に痛憤して、四谷区青葉町六の自宅八畳の間に於いて、軍刀を以て割腹自殺を遂げ、麗子夫人も亦夫君に殉じて自刃を遂げたり。」

(15)『美しい星』:1962年1月~11月:37歳
十一月半ばのよく晴れた夜半すぎ、埼玉県飯能市の大きな邸(やしき)の車庫から、五十一年型のフォルクスワーゲンがけたたましい音を立てて走り出した。」

(18)『絹と明察』:1964年1月~10月:39歳
「岡野が駒沢善次郎にはじめて会つたのは、昭和二十八年九月一日、京都嵐山の或る割烹旅館の朝食の席である。」

(19)『奔馬』:1967年2月~1968年8月:42歳~43歳
昭和七年、本多繁邦は三十八 歳になつた。/東京帝国大学法科大学に在学中、高等文官試験の司法科に合格し、大学を卒業すると、司法官試験補として大阪地方裁判所詰になり、その後ずつと大阪で暮らしてゐた。」

(20)『蘭陵王』:1969年11月:44歳
八月二十日、私どものやつてゐる盾の会は、新入会員の卒業試験ともいふべき小隊戦闘訓練を、炎天下の富士の裾野で行つた。」

さて、次は、第三の小説、即ち、最初から、三島由紀夫の詩人としての高みを保証し保障する高みから話が始まる、そのやうな小説の冒頭をみてみませう。

(1)『花ざかりの森』:1941年9月~12月:16歳
「この土地へきてからといふもの、わたしの気持ちには隠遁ともなづけないやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。(略)さうした気持ちを抱いたまま、家の裏手の、狭い苔むした石段をあがり、物見のほかにはこれといつて使ひ途(みち)のない五坪ほどの草がいちめんに生いしげつて高台に立つと、わたしはいつも静かなうつけた心地といつしよに、来し方への燃えるやうな郷愁をおぼえた。」

三島由紀夫の豊かな修辞の言葉は、現在から過去を追憶すること、追憶して現在と過去との時間の差異を意識するところから生成するのです。

世に出た最初の作品『花ざかりの森』の上の冒頭の「(略)」と省略したところ迄の最初の一行は、このことを語つてをります。ここには、隠遁した人間の追憶が語られていて。この最初の行を含む段落の其の次の段落の冒頭の最初の一行で、主人公の行為が、「いくたびもわたしは、追憶などはつまらぬものだとおもひかへしてゐた。」とあるやうに、追憶という言葉を使って始まり、その意識の有り様の具体的な事柄が、はっきりと語られています。

さうして、「(略)」とした後の、家の裏手の山に登るのは、これは既に論じたやうに、詩人の高みに登るのであり、これは既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』で論じた通りです。再度、この論から[註4]を以下に引用して、その意義をお伝へします。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html

「[註4]
『近代能楽集』の『卒塔婆小町』を見ますと、やはり登場する此の詩人の言葉として、作者は其の詩のよって来る由来を卒塔婆小町に向かって次のように語っております。

「このベンチ、ね、このベンチはいわば、天まで登る梯子なんだ。世界一高い火の見櫓なんだ。展望台なんだ。恋人と二人でこれに腰かけると、地球の半分のあらゆる町の燈(あかり)が見えるんだ。例えば僕が(ト、ベンチの上に立上がり)僕がこうして一人で立ってたって、何も見えやしない。……やあ、むこうのほうにもベンチが沢山見える。懐中電気をふりまわしている奴が見える。ありゃあお巡りだな。それから焚火が見える。乞食が火に当たっている。……自動車のヘッドライトが見える。……やあ、すれちがった。むこうのテニスコートのほうへ行っちまった。ちらっと見えたぞ、花をいっぱいに積んでいる自動車だよ。……音楽会のかえりかな。それともお葬式の。(ベンチより下りて腰かける)......僕に見えるのは、せいぜいこれだけさ。」という、やはり戦後の東京を眺めて景色の中のものの名前を列挙する其の科白、そうして其れは実は現実の景色ではないという此の科白は、そのまま『天人五衰』のあの冒頭から延々と続く高い灯台から眺めた海の景色、即ち学習院初等科の二階の教室から眺めた外界の景色と其の列挙の仕方に同じものであることが、よく判ります。

また、同じ詩人としての高みを、感情の問題として、その高みという垂直方向の差異から生まれる源泉の感情を、悲劇の定義との関係では、崇高さとして、次のように言っています(『太陽と鉄』)。

「 私の悲劇の定義においては、その悲劇的パトスは、もっとも平均的な感受性が或る瞬間に人を寄せつけぬ特権的な崇高さを身につけるところに生まれるものであり、決して特異な感受性がその特権を誇示するところには生まれない。したがって言葉に携わる者は、悲劇を制作することはできるが、参加することはできない。しかもその特権的な崇高さは、厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要があった。」(傍線筆者)

この箇所は、詩人としての特権的な高みである崇高さと「一定の肉体的な力を具えた平均的感性」の関係を述べた重要なところです。この特権的な崇高という詩人の高みは、「厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要」があったのであれば、ここで三島由紀夫は詩人である自己とボディビルや剣道に向かう自己との関係の均衡について語っているのです。

他方そうして、やはり、この高みという垂直方向の(地上との)差異は、高さでありますので、その均衡点には、時間は存在しないのです。高さ(隠喩)に時間はない。学習院初等科の二階の教室にいて外界を眺めて景色を叙する詩人三島由紀夫にとって、教室の内部には時間は存在しなかったことを意味しています。人と公の空間においては、三島由紀夫が詩人である限りは、自らが現実と非現実を宰領する関数となって無時間を生きる小学生三島由紀夫の姿です。

この註で上に引用した『卒塔婆小町』の箇所に続いて、もう少し先へ行きますと、次のような会話が、詩人と卒塔婆小町の間で交わされております。

「詩人 いや、今僕の頭に何かひらめいた。待って下さい。(目をつぶる、又ひらく)ここと同じだ。こことまるきりおんなじところで、もう一度あなたにめぐり逢う。
 老婆 ひろいお庭、ガス燈、ベンチ、恋人同士……
 詩人 何もかもこことおんなじなんだ。そのとき僕もあなたも、どんな風に変わっているか、それはわからん。
 老婆 あたくしは年をとりますまい。
 詩人 年をとらないのは、僕のほうかもしれないよ。
 老婆 八十年さき……さぞやひらけているでしょうね。
 詩人 しかし変わるのは人間ばっかりだろう。八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。
 老婆 そのころこんな静かなお庭が、東京のどこかに残っているか知らん。
 詩人 どの庭も荒れ果てた庭になるでしょう。
 老婆 そうすれば鳥がよろこんで棲みますわ。
 詩人 月の光はふんだんにあるし……
  老婆 木のぼりをして見わたすと町じゅうの燈(あか)りがよく見えて、まるで世界中の町のあかりが見えるような気がす
    るでしょう。
 詩人 百年後にめぐり会うと、どんな挨拶をするだろうな。
 老婆 「御無沙汰ばかり」というでしょうよ。
    (二人、中央のベンチに腰かける)
 詩人 約束にまちがいはないでしょうね。
 老婆 約束って?
 詩人 百日目の約束です。」(傍線筆者)

1956年、三島由紀夫31歳のときの、この会話に、既に『豊饒の海』があると、わたしが言っても、誰も反対はしないでありましょう。また、「八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。」という菊の花は、これも勿論、我が国の国民が外国に出かけるときに持参する旅券に日本人としての国籍と身分を保証し、実際に其の命を保障してくれている天皇家の家紋であることも、いうまでもないことでありましょう。

大切なことは、何故詩人が卒塔婆小町である老婆と、このような会話を交わすのかということなのです。」

この『卒塔婆小町』の詩人が詩人の高みから眺める景色を『花ざかりの森』では、上の引用に続けて、次のやうに、三島由紀夫は書いてをります。:

「この真下の町をふところに抱いてゐる山脈にむかつて、おしせまつてゐる湾(いりうみ)が、ここからは一目にみえた。朝と夕刻に、町のはづれにあたつてゐる船着場から、ある大都会とを連絡する汽船がでてゆくのだが、その汽笛の音は、ここからも苛だたしいくらいはつきりきこえた。夜など、灯(ひ)をいつぱいつけた指貫ほどな船が、けんめいに沖をめざしてゐた。それだのにそんな線香ほどに小さな灯のずれやうは、みてゐて遅さにもどかしくならずにはゐられなかつた。」

この同じ海の景色は、 最後の小説『天人五衰』の冒頭に、夜ではなく論理を反転させて昼のこととして、延々と描かれる素晴らしい快楽(けらく)の景色として、読者は読むことができる僥倖を得るのです。

(4)『岬にての物語』:1946年11月:21歳
「その性向は乾燥し寿(いのち)衰えつつも、今なほ根強く残つてゐるが、幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費やすことをも惜しまぬやうな性質(たち)であつた。」

(5)『盗賊』:1947年12月~1948年11月:22歳~23歳
「極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として身を全ふすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、現代の綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。彼の固く閉ざされた心の暗室は、古い物語にある古城や土牢の役割をつとめる。彼と他人との間ん心の溝は、古(いにし)への冒険者が泳ぎわたつた暗い危険な堀割ともなるであらう。」

古城は、三島由紀夫の十代の詩の素材であり、重要な詩の舞台です。何故ならば、古城には塔があり、その一番上へは階段を上つて至る「階段室」があり、更に此の小さな部屋には、窗(まど)といふ文字で三島由紀夫が特別に表した、詩人の高みを保証し保障して、死ぬことなく安全に外界を眺めることのできる高窓があるからです。それは、上記(1)『花ざかりの森』で述べた通りです。

また、土牢については、『金閣寺』を出した後の、上に引用した小林秀雄との対談で、この小説のモデルとなつた男の牢屋での病気の発覚と、仮釈放後の死について、次のやうに三島由紀夫は述べてをります。:

「(略)今年の春、死んで……。でも、僕、人間がこれから生きようとする時牢屋しかない、といふのが、ちよつと狙いだつたんです。ジャン・ジュネの小説なんか、牢屋の中だけで生きてゐるでせう。四十年か五十年生きるといふことは、牢屋の中にゐるといふことですからね。ゐくら書いたつて、ああいふ奴には敵はないから、そこまでで止めちやつたけど、死刑にはどうせならなかつたでせうしね、もし生きてたら、七十になつても、八十になつても、牢屋の中にゐたかも知れない。

この発言に対して、小林秀雄は、沈黙を以て答へてをります。

この発言にある牢屋は、『岬にての物語』の冒頭の牢屋とは対極にある、三島由紀夫が『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の主人公の殺人者が地上に降り立ち、この地盤の上、または水盤の上で生きて行かうとした、時差(時間)の遍在する此の水平面の上にある、多数の時間の在る牢屋です。

この牢屋に関する三島由紀夫の持つ時間と此の世の考へ方については、次の論考で詳細に論じましたので、ご覧下さい。:

1️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論としての『絹と明察』(1):殺人者たち』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_22.html
2️⃣『三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎』:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_58.html

この世の時間に生きることは牢屋に生きることだといふ三島由紀夫の認識は、そのまま安部公房の認識と形式的な論理の骨組みは全く同じです。互ひに誠に相似たる二人です。安部公房は地下生活者であるもぐらに自らを擬しました。地下の穴倉もまた牢屋でありませう。

対談集『源泉の感情』に所収の二人の対談『二十世紀の文学』は誠に面白く、二人の友情とすら言ひたい情が通つてをります。安部公房のいふ通りに、接点は共有してゐるが、しかし、全く正反対の方向の二人ではあるのですけれど、そこでする議論が誠に面白い。一読をお薦めします。

(13)『商ひ人』:1955年4月:30歳
「天使園修道院はH市郊外のいちばん高い丘のいただきに在る。」

三島由紀夫の詩人としての高みを保証し保障する高みの言葉は、やはり「いちばん高い丘のいただき」にある修道院なのです。

(16)『女方』:1957年1月:32歳
「増山は佐野川万菊の芸に傾倒してゐる。国文科の学生が作者部屋の人になつたのも、元はといへば万菊の舞台に魅せられたからである。」

いふまでもなく歌舞伎の世界は、三島由紀夫にとつては、最初から詩の世界そのものであります。上記[註3]と、以下の論考をお読みください。:

(1)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生:三島由紀夫の人生の見取り図2(詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html)、及び
(2)『三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html

(17)『午後の曳航』:1963年9月:38歳
「おやすみを言ふと、母は登(のぼる)の部屋のドアに外側から鍵をかけた。火事でも起こつたらどうするつもりだらう。もちろんそのときは一等先にこのドアをあけると母は誓つてゐるけれど、もしその時木材が火でふやけ、塗料が鍵穴をふさいだら、どうするつもりだらう。窓から逃げるか。しかし窓の下は石のたたきで、この妙にノッポの家の二階は絶望的に高かつた。

ここには、高窓(窗)があり、「絶望的に高」い「ノッポの家の二階」に、その、詩人としての高みを保証し保障する窗はあるのです。

(18)『月澹荘綺譚』:1965年1月:40歳
「私は去年の夏、伊豆半島南端の下田に滞在中、城山の岬をめぐる遊歩路がホテルから程よい道のりなので、しばしば散歩をした。滞在の第一日には岬の西側をとほり、強い西日を浴びながら、角を曲る毎に眺めを一変させる小さな入江入江を愉しんで歩いた。」

現在から過去を追想する最初の言葉で始まつてをります。さうしてなほ、更に、岬といふ事から、この一人称で語る話者は、殺人者として降り立つた詩人の見る水盤の彼方へと、詩人がいつも出発する場所の一つに立つてゐるのです。



さうしてまた、ホテルとふ建物は、三島由紀夫にとつては塔と同じやうに高い建物であつて、そこには多数の窗(まど)があるのです。

(19)『命売ります』:1968年5月~10月:43歳
「……羽仁男は、目をさまして、まはりがひどく明るいので、天国にゐるのかと思つた。しかし、後頭部にきつい頭痛が残つてゐる。天国で頭痛がするわけはあるまい。
 まづ見えたのは、磨ガラスの大きな窓だつた。何も飾りのない窓で、あたりがむやみに白つぽい。」

「……」最初の記号が既に追想であり、追憶となつてをります。さうして、やはり高窓があり、何故ならば、詩人三島由紀夫にとつては、ホテルや病院といふのは、高い建物であり且つ窓のある、即ち十代で何度も歌つた高窓のある塔の類であるからなのです。

さうして、そこは確かに、地上ではなく、「天国にゐるのかと思」ふほどの別の世界なのであり、この世の物語ではないお話になつてゐます。

(20)『天人五衰』:1970年7月:45歳
「沖の霞が遠い船の姿を有限に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。」(傍線筆者)

この出だしの一行もまた、追憶と追想の一行です。

さうして、「沖はきのふよりも澄み」とあるやうに、今日の現在から過去を振り返つて、その差異を設定して、美と叙情の物語、即ち繰り返しの、時間の隙間に存在する物語を招来するのです。

加へて、殺人者として降り立つた詩人の見る水盤の彼方も、また対照的に陸の地盤の彼方の山々の稜線もまた、他の小説の場合と同様に書かれてをります。

さて最後に、三島由紀夫が「そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思われる。」と言つてゐる、前者、即ち詩の延長である戯曲の冒頭を見てみませう。

詩の延長である以上、その冒頭はやはり繰り返しの呪文と其の時差で始まつてゐる筈です。

(1)『近代能楽集』
   ①「邯鄲」:1950年10月:25歳
   ②「綾の鼓」:1951年1月:26歳
   ③「卒塔婆小町」:1952年1月:27歳
   ④「葵上」:1954年1月:29歳
   ⑤「班女」:1955年1月:30歳
   ⑥「道成寺」:1957年1月:32歳
   ⑦「熊野」:1959年4月:34歳
   ⑧「弱法師」:1960年7月:35歳
(2)『白蟻の巣』:1955年9月:30歳
(3)『薔薇と海賊』:1958年5月:33歳
(4)『熱帯樹』:1960年1月:35歳
(5)『癩王のテラス』:1969年7月:44歳


以下、上の作品の冒頭です。

(1)『近代能楽集』
   ①「邯鄲」:1950年10月:25歳
    「菊 (声きこゆ)ほんたうにまあ、よくお越し下さいました、お坊つちやま。
     次郎(声きこゆ)十年ぶりだね、菊や、十年ぶりだね

   ②「綾の鼓」:1951年1月:26歳
    「岩吉 (老小使。箒で掃除してゐる。窓のところまで掃いて来て)どいた、どいたあんたはまあ、足許の五味を庇つてゐるやうだぞ。」

   ③「卒塔婆小町」:1952年1月:27歳
    「老婆 ちゆうちゆうたこかいな、ちゆうちゆうたこかいな、……

「……」といふ記号は、これを最初に措いて、現在から過去への追想、追憶を示し、その記憶の中で劇が始まることを意味してゐます。

   ④「葵上」:1954年1月:29歳
    「光 (旅行鞄を下げ、レインコートを着たまま、看護婦に案内されて入つて来る。美貌の青年。声をひそめて)よく眠つてゐますね
     看護婦 ええ、よくお寝つてゐらつしやいます
     光 普通の声で話しても目をさましませんか。
     看 ええ、お薬が利いてますから、一寸やそつと、大きな音を立てたつて。
     光 (葵の寝顔をぢつと見下ろして)静かな寝顔だ
     看 今は静かな寝顔をしてゐらつしやいます

   ⑤「班女」:1955年1月:30歳
    「実子 (独白)むだになつたは、むだになつたはこれだけの苦労が。」

   ⑥「道成寺」:1957年1月:32歳
    「主人 ごらんください。古今東西稀なる衣装箪笥。およそ実用といふものを超越した代物。……」

この「……」といふ記号を最初に措いて、現在から過去への追想、追憶を示し、その記憶の中で劇が始まることを、即ち繰り返しの始まることを既に冒頭で意味してゐます。この記号に三島由紀夫が割り当てた意味の詳細は、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』で論じた通りです。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html

さうして付言すべきは、この骨董屋の主人の最初の口上が、定型的な繰り返しの文句からなつてゐる香具師の口上であるといふ事です。さうして、その後には、複数の金持ちの男女の客たちが、衣装箪笥にある自分たちの所有する衣装の数を自慢するために、何着衣装が収納されてゐるか、その数を言ひ合ふ科白が来て、これも三島由紀夫好みの数字の時系列的な羅列による繰り返しの呪文が舞台で発声される仕儀となつてをります。

更に先へ参りますと、これらの客たちが競売で競ひ声高に発声する箪笥の値段が、数字として時系列的な羅列による繰り返しの呪文となつて舞台で発声されるのです。この数字を挙げて呼ぶ声の、即ち繰り返しの合間の拍の空虚が、三島由紀夫の美を感じ、従ひ抒情を感ずる時間の空白なのです。これは、何度云つても言ひ過ぎることはありません。

   ⑦「熊野」:1959年4月:34歳
    「宗盛 (大実業家。五十歳位)え?そろそろ出かけようぢやないか?けふを外したらあの丘一目千本の花見は、また来年のばしにしなくちやならんのだ。どの新聞の予想を見たつて、来週の日曜まで花は保つまいと書いてある。平日の花見なんかできるのは失業者だけだから、要するに今年の花は今日かぎりといふわけだよ。なあ?......それにあれだけの花を見られるのは、くりかへして言ふやうだが、今年が最後だ。」

この花見に誘ふ宗盛の科白には、詩人の高みの宿る丘があり、また「……」といふ追憶の中で、「今年が最後だ」といふ科白が「くりかへし言ふ」といふ言葉をまで使つて、いはれてゐるのです。

   ⑧「弱法師」:1960年7月:35歳
    「級子 (四十歳をこえた美貌の和服の女)ひどく蒸しますのね。こんな風で、扇風器もござゐませんし……(一同沈黙。級子仕方なしに笑つて)何しろ御承知のとほり、家庭裁判所といふところは、予算も雀の涙ほどですし、私ども調停委員と申しましても、名前は立派なようでござゐますけれど。……(一同沈黙。ややあつて)どうぞ。お話しになつて。喧嘩の場所ぢやござゐませんのですから、ここは。
     川島 まことに……まことに思ひがけませんでした。かうして俊徳の実の御両親にお目にかかることにならうとは。……あれから十五年、……十五年でございますからなあ

この科白もまた、「……」といふ追憶の中で、「まことに……まことに」という科白と「十五年」といふ科白がくりかへし言はれてゐるのです。

(2)『白蟻の巣』:1955年9月:30歳
  「真夏の朝。(略)そばの椅子で、すでに身仕度をすませた妻の啓子が、良人の寝顔をぢつと見戍(ままも)つてゐる。百島は二十七八、妻は二十歳くらゐである。啓子急にしめやかに泣き出す
   百島 (目をさまして、あたりを見まわし、妻の泣いてゐるのに気づく)おや、泣いてゐるね。何だい、朝つぱらから。」

ト書きにある「しめやかに」といふ副詞に、舞台で演じる女優の忍び泣くやうな、さうして、しくしくと繰り返しの泣き声があり、百島の科白の「泣いてゐるね」といふ言葉が、既に其の繰り返しを前提に発せられてゐる。即ち、この劇もまた、繰り返しと其の隙間の時差で始まつて、幕が開くのです。

(3)『薔薇と海賊』:1958年5月:33歳
  「帝一 あなたニッケル姫でせうさうでせう(三十歳なるに子供つぽき口調)......隠してもだめ。僕ちやんと知つてゐるんだもの。あなたニッケル姫でせう。そら、笑つてる。きつとニッケル姫なんだ。」

(4)『熱帯樹』:1960年1月:35歳
  「郁子 小鳥さん、可愛い小鳥さんあなたも今日一日の命だは。今夜からはそんなにいらいら啼かずに、安らかに眠りをたのしむことができるのよ。」

(5)『癩王のテラス』:1969年7月:44歳
  「子供C (Bに)おーい。まだ見えないか
   子供B (バナナを食べながら)まだだよ。道の上には何も。
   子供A しーつ
       (――--間)
   子供C (Bに)まだだよ見えるのは入道雲だけだ。
   子供C 遅いなあ。
   子供A しーつ


これ以外にもある三島由紀夫の戯曲、『鹿鳴館』の、『黒蜥蜴』の、『サド侯爵夫人』の、『朱雀家の滅亡』の、『わが友ヒットラー』の、さうしてこれら以外の戯曲の冒頭の一行を、ご自分で吟味なさることは、興味深い事実となりませう。

特に『近代能楽集』の各作品の冒頭の入り方を、上のやうに列挙してみて判ることは、確かに三島由紀夫のいふ通りに、戯曲は少年時代の詩の延長であるといふことであり、典型的な例では、短編小説『女方』の冒頭にあるやうに、古典藝能である歌舞伎の世界の言葉を小説の冒頭に措けば、その小説は直ちに詩の世界と変ずる程に、塔や窗(まど)と同格の、その世界は、正(まさ)しく三島由紀夫の詩の世界の言葉なのであり、そのやうにある三島由紀夫の意識なのだといふことです。

この意義に於いても、詩集としての『近代能楽集』を論ずることは、三島由紀夫の文学の全体にとつて、さうして從ひ、逆に其の論の成果を以て照らして見ることは、三島由紀夫の小説にとつても、誠に興味深いことであり、その結構(構造)も含めて、このことについては、稿を改めて論じます。

以上のことが、上に記した註記も含めて、三島由紀夫の自らいふ、呪文と秘儀の次第です。[註5]

[註5]
『太陽と鉄』に次のやうに、三島由紀夫は次のやうに書いてをります。:

「私が何一つ自分の日常生活について語らぬところに留意してもらひたい。私はただ、幾度かかうして私の携わつた秘儀についてのみ語らうと思ふのだ。」(新潮文庫版『太陽と鉄』、85ページ)

三島由紀夫は、このエッセイでは、まとめると、次のところで、呪文、咒文や秘儀といふ言葉を使つてをります。:

(1)78ページ:「終わらせる、といふ力が、よしそれも亦虚構にもせよ、言葉には明らかに備わつてゐた。死刑囚の書く長たらしい手記は、およそ人間の耐えることの限界を超えた永い待機の期間を、刻々、言葉の力で終わらせようとする咒術なのだ。」
(2)85ページ:
「私が何一つ自分の日常生活について語らぬところに留意してもらひたい。私はただ、幾度かかうして私の携わつた秘儀についてのみ語らうと思ふのだ。
 駆けることも亦、秘儀であつた。」
(3)86ページ:「人が狂躁と罵るやうな私の生活がかうして続いた。ジムナジアムから道場へ、道場からジムナジアムへ。そのたびの、運動の直後の小さな蘇りだけが、何ものにもまさる私の慰謝になつた。たえず動き、たえず激し、たえず冷たい客観性から遁れ出ること、もはやかうした秘儀なしには私は生きて行けないやうになつた。そして言ふまでもなく、一つ一つの秘儀の世界の裡には、必ず小さな死の模倣がひそんでゐた。」
(4)89ページ:「私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した」
(5)109ページ:「私は久しく出発といふ言葉を忘れたゐた。致命的な呪文を魔術師がわざと忘れようと努めるやうに、忘れてゐたのだ。」