2012年5月17日木曜日

埴谷雄高論3(自同律の不快)


埴谷雄高の言葉:わたしはわたしであるという文が成立しない、即ち同義語反復になるということを埴谷雄高は、自同律の不快と表現した。


わたしの言葉:同義語反復が不快であるということは、主語が機能化され、述語になり、わたしがわたしではないようになることが不快であるということ、演技すること、役割を演ずることの不愉快である。即ち、わたしがわたしであるという孤独を否定されるからだ。このことから幾千万幾千億の文が生まれてきたし、今も生まれているし、これからも生まれる。

4 件のコメント:

瀬田裕和 さんのコメント...

自同律は誤りだ、とか不愉快だ、でもなく「不快」なのです。「私は」と発した意識が「私である」場所に帰れないならば、無限の闇をさすらうしか有りません。それはあたかも始原の宇宙がインフレーションにより無限大に膨張し生み出された単独者の「光」が無限大の悲哀を内に抱えながら一直線に突き進む宇宙の姿ににているのかも知れません。

瀬田裕和 さんのコメント...

自同律は誤りだ、とか不愉快だ、でもなく「不快」なのです。「私は」と発した意識が「私である」場所に帰れないならば、無限の闇をさすらうしか有りません。それはあたかも始原の宇宙がインフレーションにより無限大に膨張し生み出された単独者の「光」が無限大の悲哀を内に抱えながら一直線に突き進む宇宙の姿ににているのかも知れません。

Eiya Iwata さんのコメント...


瀬田さん、コメントありがとうございます。コメントに気づくのが遅くなり、申し訳ありませんでした。

全く、おっしゃる通りだと思います。

しかし、わたしは他方、こうも思うのです。人間の主体(subject)は、関係の中にあり、従い述語の中にその姿を現す以外にはない。

もし、わたしはわたしであると言えない(同義語反復になってしまう)のであれば、今日も思ったことは、インドのヴェーダにある深い一行の言葉、Tat Tvam Asi、即ち汝は、それである、という以外にはなかなかないのでないかということでした。

何故、わたしたちは、わたしはわたしだということを知っているのに、その発声を禁ぜられ、瀬田さんの言葉で言えば、わたし以外の場所に行かねばならないのでしょうか。

折に触れ、埴谷雄高の死霊についての文章を投稿しようと思っておりますので、また感想などお寄せ戴けると、誠にありがたく思います。

今後とも、よろしくお願い致します。

Eiya Iwata さんのコメント...

瀬田さん、

以後、埴谷雄高についての文章は、この詩文楽ではなく、散文楽に投稿しますので、そちらをご覧いただければと思います。

詩文と散文をわけ、それぞれのブログに分けて記事を上梓していいるのです。

散文楽の場所は、次のところです。

http://sanbunraku.blogspot.jp/