tag:blogger.com,1999:blog-1189818390103572463.post3459364882983694088..comments2022-04-09T19:37:56.511+09:00Comments on 詩文楽 - Shibunraku: 埴谷雄高論3(自同律の不快)岩田英哉http://www.blogger.com/profile/14867908716751107288noreply@blogger.comBlogger4125tag:blogger.com,1999:blog-1189818390103572463.post-91067312430236964022012-09-19T11:29:14.897+09:002012-09-19T11:29:14.897+09:00瀬田さん、
以後、埴谷雄高についての文章は、この詩文楽ではなく、散文楽に投稿しますので、そちらをご...瀬田さん、<br /><br />以後、埴谷雄高についての文章は、この詩文楽ではなく、散文楽に投稿しますので、そちらをご覧いただければと思います。<br /><br />詩文と散文をわけ、それぞれのブログに分けて記事を上梓していいるのです。<br /><br />散文楽の場所は、次のところです。<br /><br />http://sanbunraku.blogspot.jp/<br />岩田英哉https://www.blogger.com/profile/14867908716751107288noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1189818390103572463.post-11137750472105092842012-09-19T11:24:43.805+09:002012-09-19T11:24:43.805+09:00
瀬田さん、コメントありがとうございます。コメントに気づくのが遅くなり、申し訳ありませんでした。
...<br />瀬田さん、コメントありがとうございます。コメントに気づくのが遅くなり、申し訳ありませんでした。<br /><br />全く、おっしゃる通りだと思います。<br /><br />しかし、わたしは他方、こうも思うのです。人間の主体(subject)は、関係の中にあり、従い述語の中にその姿を現す以外にはない。<br /><br />もし、わたしはわたしであると言えない(同義語反復になってしまう)のであれば、今日も思ったことは、インドのヴェーダにある深い一行の言葉、Tat Tvam Asi、即ち汝は、それである、という以外にはなかなかないのでないかということでした。<br /><br />何故、わたしたちは、わたしはわたしだということを知っているのに、その発声を禁ぜられ、瀬田さんの言葉で言えば、わたし以外の場所に行かねばならないのでしょうか。<br /><br />折に触れ、埴谷雄高の死霊についての文章を投稿しようと思っておりますので、また感想などお寄せ戴けると、誠にありがたく思います。<br /><br />今後とも、よろしくお願い致します。<br />岩田英哉https://www.blogger.com/profile/14867908716751107288noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1189818390103572463.post-30056584156574581512012-08-26T12:39:01.729+09:002012-08-26T12:39:01.729+09:00自同律は誤りだ、とか不愉快だ、でもなく「不快」なのです。「私は」と発した意識が「私である」場所に帰れ...自同律は誤りだ、とか不愉快だ、でもなく「不快」なのです。「私は」と発した意識が「私である」場所に帰れないならば、無限の闇をさすらうしか有りません。それはあたかも始原の宇宙がインフレーションにより無限大に膨張し生み出された単独者の「光」が無限大の悲哀を内に抱えながら一直線に突き進む宇宙の姿ににているのかも知れません。Anonymoushttps://www.blogger.com/profile/06810881464986356429noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1189818390103572463.post-56936965075718140322012-08-26T12:38:47.925+09:002012-08-26T12:38:47.925+09:00自同律は誤りだ、とか不愉快だ、でもなく「不快」なのです。「私は」と発した意識が「私である」場所に帰れ...自同律は誤りだ、とか不愉快だ、でもなく「不快」なのです。「私は」と発した意識が「私である」場所に帰れないならば、無限の闇をさすらうしか有りません。それはあたかも始原の宇宙がインフレーションにより無限大に膨張し生み出された単独者の「光」が無限大の悲哀を内に抱えながら一直線に突き進む宇宙の姿ににているのかも知れません。Anonymoushttps://www.blogger.com/profile/06810881464986356429noreply@blogger.com