2011年10月8日土曜日

無題(言葉):第41週

無題(言葉):第41週

by Albert Vigoleis Thelen (1903 - 1989)

【原文】

Lahm lag und brach
der Sprachwarenhandel.
Wortsack stapelt auf
Wortsack
im Lager des Sprachsackverkramers,
der mit Laus-Deo-Semper
allen Sprachmachern
den Lombard anhaengt.
Wortpluderdunen
entbammeln dem Stammler,
als ob es Flocken Schloesse
aus Wortgestoeber, -
und die Wortmahd erntet
den tauben Aehr.
Darum ziehe auch du,
wohlfeiliger Wortverbraucher,
den Sprach-Hunger-Rechen
ueber die Flur
im Schatten
der Schatten,
die niemand wirft.


【散文訳】

言語商品取引は
麻痺して横たわっていた、そして、壊れた。
言葉袋が
言語袋置き忘れ屋の倉庫に
フォークリフトでうず高く積まれている
言語袋置き忘れ屋は
”虱(しらみ)ー神にーいつも”を使って
すべての言語行為者に
質札をぶら下げる

言葉毛羽立ち柔毛(にこげ)が
吃りの人間の不安な気持ちから生まれる
恰もそれが言葉吹雪の中から
雪片を閉じ込めるかのように
そして、言葉草刈が
聾(つんぼ)の稲穂を収穫する
それ故、お前もだ
廉価な言葉消費者よ
”言語ー飢餓ー熊手”を持って来て
誰も投げ掛けることのない影の
そのまた影の中にある
床の上を
掻け


【解釈】

日本語訳の最後の5行は、埴谷雄高が言っているような気がする。

この詩人のWikipediaです。ドイツ語です。

http://de.wikipedia.org/wiki/Albert_Vigoleis_Thelen

Googleの画像検索でみると、如何にもこんな風な詩を書くひとのように思えます。

http://goo.gl/Aitbs


Wikipediaを読むと、この詩人もまた、生きた時代の風と波に翻弄されるように、また同時に自分自身の意志に従って、ヨーロッパ各国各地を転々とした生活をしたものと見えます。

本屋の息子だとありますから、早くから文学に親しんだのではないかと思います。

”虱(しらみ)ー神にーいつも”を使ってと訳した”虱(しらみ)ー神にーいつも”は、原文では、”Laus-Deo-Semper”で、これをそのまま語順通りに訳しましたが、これらの語の選択と組み合わせ、それから語順に、何か含みがあると思われます。

こう思って、解釈してみると、いつもシラミの神だというのでしょうか。しかし、辞書の用例をみると、このsemperというラテン語である成句をつくる場合には、いつもsemperが冒頭に来ています。

従い、この倒置も何かの尺度をひっくり返したものと考えることができるかも知れません。

同様に、”Sprach-Hunger-Rechen”(言語ー飢餓ー熊手)があります。

この語順は、この語の通りの、やはり熊手を指しています。

つまり、言語に対して飢えている熊手という意味です。

そう思って、”Laus-Deo-Semper”(虱ー神にーいつも)を顧みると、やはり、その語順の通りの「いつも」だという意味なのでしょう。

つまり、いつも成句の語頭に来る「いつも」が転倒して語末にある「虱の神に」のいつも、という意味。

更につまり、この神は、いつもやって来ないという含みなのかも知れません。

そうして、言語袋置き忘れ屋が、”虱(しらみ)ー神にーいつも”を使って、すべての言語行為者に質札をぶら下げる、という文の意味は、虱のようなちっぽけでどうしようもない神のいつもを使って、わたしたちの何かを質草としてとる。言語行為者である我々皆は、その質札を貼られている。

その質草にするわれわれの何かとは、どうも言語のことらしい。

言葉袋という言葉の意味は、言葉が穀物のように一杯詰まった輸送用の袋という意味です。ですから、この詩は、最初からずっと、言葉が流通する、消費されるという事を前提に、あるいはそれを揶揄して書かれているのだと思います。

しかし、言葉吹雪などという造語は、ある種の美しささへ感じさせるようにすら思います。

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