2011年10月22日土曜日

林檎の木 (Apfelbaum):第44週


林檎の木:第44週

by Gottfried Benn (1886 - 1956)


【原文】

Was meinte Luther mit dem Apfelbaum?
Mir ist es gleich - auch Untergang ist Traum -
ich stehe hier in meinem Aepfelgarten
und kann den Untergang getrost erwarten -
ich bin in Gott, der ausserhalb der Welt
noch manchen Trumpf in seinem Skatblatt haelt -
wenn morgen frueh die Welt zu Bruche geht,
ich bleibe ewig sein und sternestet -

meinte er das, der alte Biedermann
u. blick noch einmal seine Kaete an?
und trinkt noch einmal einen Humpen Bier
u. schlaeft, bis es beginnt - fruehmorgens vier?
Dann war er wirklich ein sehr grosser Mann,
den man auch heute nur bewundern kann.


【散文訳】

ルターは、林檎の木で、何が言いたかったのだろうか?
わたしならば、同じだな ー破滅もまた夢だな ー
わたしは、わたしの林檎園の庭に居て
そして、朗(ほが)らかに、破滅を待つ
神はこの世界の外にいて
まだ幾多の切り札を、そのスカート(というトランプ遊び)の札に持っているが、
わたしは、その神の中にいるからだ
もし明日の朝、世界が滅んだなら
わたしは、永遠に彼のものであり、星になって輝く

それとも、ルターがいったことはこういうことだろうか
年老いた市井の正直者がいて
そして、もう一度自分の小さな家を見てから
もう一杯大きな奴でビールを飲んで
そして、ことが始まるまで眠るということー明日の朝4時まで?
だとしたら、この男は、実際、今日もまた、ただただ賞賛され得る
非常に偉大な男だったのだ、と。


【解釈】

Gottfried Benn、ゴットフリート・ベンは、言うまでもなく、ドイツ文学史に名のある詩人です。

このひとのWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Gottfried_Benn

読めば、その通りの詩です。

この詩は、ルターの有名な言葉を、下敷きにしています。

今、ドイツ語圏のウエッブサイトで、その言葉を引いてくると、次のようになります。

Auch wenn ich wüsste, dass morgen die Welt zugrunde geht, würde ich heute noch einen Apfelbaum pflanzen.[http://natune.net/zitate/autor/Martin+Luther

たとえ、明日世界が破滅することを、わたしが知っていたとしても、わたしは、今日もなお、林檎の木を植えるでしょう。

これは、開高健が、色紙に揮毫を求められるとよく書いていた言葉です。

調べますと、聖書の中の無花果(いちじく)の木に始まって、この林檎の木に至るまで、ヨーロッパの歴史には、この樹木を植えるということについての伝承と継承があって、興味深いテーマですが、それは、また別のところで書きたいと思います。

第1連の最後の言葉、sternestetを、わたしは、上の訳のように、星になって輝く、と訳しましたが、この言葉は辞書にありません。

インターネットで調べても、用例は、このベンの詩が出てくるばかりです。

ドイツ語のStern、シュテルン、星という言葉が入っているので、そのように訳した次第です。

もしご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えください。

わたしは、この詩を今年、すなわち2011年3月11日の大震災の直後に訳しました。

3月11日の直後の三日間で、こうして毎週土曜日に上梓しているドイツ語詩、2011年度分53週53篇のうちの今年に入ってそれまで訳していた9篇以外の44篇のドイツ語詩の理解と解釈と訳に、朝から晩まで没頭して、一気になし終えたのでした。

朝から晩まで一心不乱に訳したといってもよいと思いますし、他方、その仕事は、淡々と訳したものだったといってもよいと思います。

ドイツの友人は、わたしのこの3日間の仕事は、お経を読んだのだと言い当てました。

そういわれると、全くその通りです。

大地震と大津波の衝撃(ことばになりません)から受けたこころの動揺を鎮めるために、こころを鎮護するために、こころを鎮守するために、鎮静させるために、これらの詩を訳したのです。

(鎮守し、鎮静したのは、わたしひとりのこころであったのだろうか?否。)

この詩は、実に絶妙なタイミングで、わたしのドイツ語の世界に飛び込んで来ました。

また、この後登場するEichendorf、アイヒェンドルフのクリスマスの詩も、わたしのこころを慰め、守ってくれた詩です。

詩人という人種は、いつも最悪のことを想像することから離れない人間です。

詩人に限らず、芸術家、artistsとは、本来そういう人種のことです。

(他方、芸術家は、いつも最善のことも同時に考えている。)

やはり、大震災にあって、周章狼狽するような人間は、真の芸術家、真の詩人とは言いがたいと、この詩を前にして、そう思っています。

何故ならば、情動にかられて、ひとを煽動したり、使嗾したりする言葉は、詩人の言葉ではないからです。

大震災の後に、そのような、詩人の言葉が日本語圏では目に余るものがあります。

そのような言葉の寿命は短い。何故ならば、事実に頼り、現実に依拠して書いているからです。

いけないのは、その態度が盲信的だということ、無条件に現実を信じすぎているというところにあります。

詩人の言葉は、そのような言葉の在り方とは対極にあるものです。

この言葉の持つ力の働きを、わたしは言葉の鎮静作用と呼んでいます。

この詩も、Eichendorfの詩も、そのような鎮静作用を備えた詩らしい詩、素晴らしい詩になっています。

詩を読み、解釈し、理解し、味わうことのよろこびを感じます。

あなたにも一緒に、ゴットフリート・ベンの今週のこの詩を味わって戴ければと思います。

追伸:
スカートというトランプカードのゲームは、ドイツ人の発明になるカードゲームで、これはサッカーと同様に熱狂的なファンの大勢いるゲームとのこと。次のウエッブページをごろうじろう。(わたしは不覚にもこのゲームのことを全く知りませんでした。この詩で初めて知った次第です。)

http://www.geocities.jp/atnek_odnok/

このページからスカートのWikipediaに行く事ができます。そこで、このゲームの歴史を知る事ができます。

このゲームの説明を読みますと、どうやらこの詩人は、神様をこのゲームの「単独プレーヤー」に擬したものと見えます。








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