2011年10月29日土曜日

Herbsthexen(秋の魔女):第45週



Herbsthexen(秋の魔女):第45週
by Aspazija (1868 - 1943)

【原文】

Von niemand geladen
sind sie gekommen,
Hexen des Herbstes,
durch Suempfe gewatet,
durch Luefte geflogen,
von Nebelbergen, aus Teufelshoehlen.

Gefolgt von Gaengern,
zottigen, spurrigen,
struppigen Wolken:
Fressern und Saeufern
mit runden Baeuchen,
gestopft zum Platzen.
Frassen die Sonne, tranken das Licht aus.

Gefolgt von Fahrern,
ratternden Donnern,
prasslnden Hageln,
knatternden Stuermen.
Fuhren der Finsternis
sind vollgeladen.
Strahlen das Jahr weg, entfuehrten die Tage.


【散文訳】

誰にも呼ばれないのに
彼女たちはやって来た
秋の魔女たち
瘴気の沼を歩いて渡り
空中を飛び
霧の深い山々から、悪魔の洞窟から
やって来た


徒歩(かち)の者を付き従え
ふさふさの、幾列もの
もじゃもじゃの雲を付き従えて
破裂するほど腹一杯の
太鼓腹した
大喰漢や大酒飲みを付き従えて
太陽を喰らい、光を飲み干した

御者を付き従え
ゴロゴロ音立てる雷を
パラパラ音立てる雹(ひょう)を
ガラガラ音立てる嵐を付き従えて
闇の馬車が荷物を一杯に積んで
1年の光を奪い取り、日々を奪い去った


【解釈】

この詩人は、Lettland、ラトヴィア共和国の女流詩人です。

この国は、ヨーロッパ、バルト海の沿岸にある国です。

ラトヴィア語でWikipdiaがあります。写真も載っています。

http://lv.wikipedia.org/wiki/Aspazija

ラトヴィア語の世界には、このような魔女が生きているのでしょう。

日本語の訳にも出ていますが、擬音語を使って、恐ろしい感じを出しています。

ふさふさの、幾列もの
もじゃもじゃの雲を付き従えて

と訳したところの「幾列もの」という訳は、spurrig、シュプーアリッヒという形容詞の訳ですが、これは辞書に載っていませんでした。

ドイツ語圏のGoogleで検索すると、鉄道マニアのレールの設置の仕方、走らせ方に2軌道、4軌道という言い方が出てくるばかりです。

従い、幾列ものと訳しましたが、他方、「ふさふさ」と「もじゃもじゃ」の間に「幾列もの」が入るのは、一寸異な感じがします。

ご存知の方はお教え下さい。

10月の終わり、秋の深まるその奥で、魔女がやってくるという感じは、古代的で、如何にもそれらしいし、また、これから来る冬を暗示しているように思います。

これは、ハーロウィーンの時季の詩なのだと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ハロウィン





2011年10月22日土曜日

林檎の木 (Apfelbaum):第44週


林檎の木:第44週

by Gottfried Benn (1886 - 1956)


【原文】

Was meinte Luther mit dem Apfelbaum?
Mir ist es gleich - auch Untergang ist Traum -
ich stehe hier in meinem Aepfelgarten
und kann den Untergang getrost erwarten -
ich bin in Gott, der ausserhalb der Welt
noch manchen Trumpf in seinem Skatblatt haelt -
wenn morgen frueh die Welt zu Bruche geht,
ich bleibe ewig sein und sternestet -

meinte er das, der alte Biedermann
u. blick noch einmal seine Kaete an?
und trinkt noch einmal einen Humpen Bier
u. schlaeft, bis es beginnt - fruehmorgens vier?
Dann war er wirklich ein sehr grosser Mann,
den man auch heute nur bewundern kann.


【散文訳】

ルターは、林檎の木で、何が言いたかったのだろうか?
わたしならば、同じだな ー破滅もまた夢だな ー
わたしは、わたしの林檎園の庭に居て
そして、朗(ほが)らかに、破滅を待つ
神はこの世界の外にいて
まだ幾多の切り札を、そのスカート(というトランプ遊び)の札に持っているが、
わたしは、その神の中にいるからだ
もし明日の朝、世界が滅んだなら
わたしは、永遠に彼のものであり、星になって輝く

それとも、ルターがいったことはこういうことだろうか
年老いた市井の正直者がいて
そして、もう一度自分の小さな家を見てから
もう一杯大きな奴でビールを飲んで
そして、ことが始まるまで眠るということー明日の朝4時まで?
だとしたら、この男は、実際、今日もまた、ただただ賞賛され得る
非常に偉大な男だったのだ、と。


【解釈】

Gottfried Benn、ゴットフリート・ベンは、言うまでもなく、ドイツ文学史に名のある詩人です。

このひとのWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Gottfried_Benn

読めば、その通りの詩です。

この詩は、ルターの有名な言葉を、下敷きにしています。

今、ドイツ語圏のウエッブサイトで、その言葉を引いてくると、次のようになります。

Auch wenn ich wüsste, dass morgen die Welt zugrunde geht, würde ich heute noch einen Apfelbaum pflanzen.[http://natune.net/zitate/autor/Martin+Luther

たとえ、明日世界が破滅することを、わたしが知っていたとしても、わたしは、今日もなお、林檎の木を植えるでしょう。

これは、開高健が、色紙に揮毫を求められるとよく書いていた言葉です。

調べますと、聖書の中の無花果(いちじく)の木に始まって、この林檎の木に至るまで、ヨーロッパの歴史には、この樹木を植えるということについての伝承と継承があって、興味深いテーマですが、それは、また別のところで書きたいと思います。

第1連の最後の言葉、sternestetを、わたしは、上の訳のように、星になって輝く、と訳しましたが、この言葉は辞書にありません。

インターネットで調べても、用例は、このベンの詩が出てくるばかりです。

ドイツ語のStern、シュテルン、星という言葉が入っているので、そのように訳した次第です。

もしご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えください。

わたしは、この詩を今年、すなわち2011年3月11日の大震災の直後に訳しました。

3月11日の直後の三日間で、こうして毎週土曜日に上梓しているドイツ語詩、2011年度分53週53篇のうちの今年に入ってそれまで訳していた9篇以外の44篇のドイツ語詩の理解と解釈と訳に、朝から晩まで没頭して、一気になし終えたのでした。

朝から晩まで一心不乱に訳したといってもよいと思いますし、他方、その仕事は、淡々と訳したものだったといってもよいと思います。

ドイツの友人は、わたしのこの3日間の仕事は、お経を読んだのだと言い当てました。

そういわれると、全くその通りです。

大地震と大津波の衝撃(ことばになりません)から受けたこころの動揺を鎮めるために、こころを鎮護するために、こころを鎮守するために、鎮静させるために、これらの詩を訳したのです。

(鎮守し、鎮静したのは、わたしひとりのこころであったのだろうか?否。)

この詩は、実に絶妙なタイミングで、わたしのドイツ語の世界に飛び込んで来ました。

また、この後登場するEichendorf、アイヒェンドルフのクリスマスの詩も、わたしのこころを慰め、守ってくれた詩です。

詩人という人種は、いつも最悪のことを想像することから離れない人間です。

詩人に限らず、芸術家、artistsとは、本来そういう人種のことです。

(他方、芸術家は、いつも最善のことも同時に考えている。)

やはり、大震災にあって、周章狼狽するような人間は、真の芸術家、真の詩人とは言いがたいと、この詩を前にして、そう思っています。

何故ならば、情動にかられて、ひとを煽動したり、使嗾したりする言葉は、詩人の言葉ではないからです。

大震災の後に、そのような、詩人の言葉が日本語圏では目に余るものがあります。

そのような言葉の寿命は短い。何故ならば、事実に頼り、現実に依拠して書いているからです。

いけないのは、その態度が盲信的だということ、無条件に現実を信じすぎているというところにあります。

詩人の言葉は、そのような言葉の在り方とは対極にあるものです。

この言葉の持つ力の働きを、わたしは言葉の鎮静作用と呼んでいます。

この詩も、Eichendorfの詩も、そのような鎮静作用を備えた詩らしい詩、素晴らしい詩になっています。

詩を読み、解釈し、理解し、味わうことのよろこびを感じます。

あなたにも一緒に、ゴットフリート・ベンの今週のこの詩を味わって戴ければと思います。

追伸:
スカートというトランプカードのゲームは、ドイツ人の発明になるカードゲームで、これはサッカーと同様に熱狂的なファンの大勢いるゲームとのこと。次のウエッブページをごろうじろう。(わたしは不覚にもこのゲームのことを全く知りませんでした。この詩で初めて知った次第です。)

http://www.geocities.jp/atnek_odnok/

このページからスカートのWikipediaに行く事ができます。そこで、このゲームの歴史を知る事ができます。

このゲームの説明を読みますと、どうやらこの詩人は、神様をこのゲームの「単独プレーヤー」に擬したものと見えます。








2011年10月15日土曜日

saudade(サウダーデ):第43週


saudade(サウダーデ):第43週

by Elisabete P.Ferreira Koeninger(1959年生まれ)


【原文】

in meinem Land
wird der Tisch gedeckt
Fruchtsaft
schwarzer Kaffee
Papayas, Kaese, Brot
und 35 Grad im Schatten

in Deutschland
is jetzt Kuchenzeit
wir trinken Tee auf dem Sofa
ziehen uns zusammen
unter der Wolldecke


【散文訳】

わたしの国では
食事時になると
果実のジュース
黒いコーヒー
パパイヤ、チーズ、パン
そして、日陰は、35度になる

ドイツでは
今、お八つの時間で
わたしたちは、ソファーに座って、お茶を飲んだり
毛布の中で
身を寄せ合って、一緒になっている


【解釈】

サウダージとは、ポルトガル語で、「郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ、ポルトガル語およびガリシア語語彙。」だそうです。

その他、詳細な説明は、以下のWikipediaへ。

http://goo.gl/554KL

この詩人は、名前を拝見すると、ポルトガルとの混血の詩人なのでしょう。

そう思うと、一寸、やはり異国的な感じがします。

ふたつの国と文化の間に立って、郷愁、憧憬、思慕、切なさを、ポルトガル人のこころで、ドイツ語で歌った詩ということになるでしょう。

名詞だけを、最初の文字を大文字にするという正書法の規則に従っていて、後はみな小文字で書いています。

その書き方は、どこかこの詩の与える印象、簡素で、衒(てら)いがなく、率直だという印象につながっているかのようです。







2011年10月8日土曜日

無題(言葉):第41週

無題(言葉):第41週

by Albert Vigoleis Thelen (1903 - 1989)

【原文】

Lahm lag und brach
der Sprachwarenhandel.
Wortsack stapelt auf
Wortsack
im Lager des Sprachsackverkramers,
der mit Laus-Deo-Semper
allen Sprachmachern
den Lombard anhaengt.
Wortpluderdunen
entbammeln dem Stammler,
als ob es Flocken Schloesse
aus Wortgestoeber, -
und die Wortmahd erntet
den tauben Aehr.
Darum ziehe auch du,
wohlfeiliger Wortverbraucher,
den Sprach-Hunger-Rechen
ueber die Flur
im Schatten
der Schatten,
die niemand wirft.


【散文訳】

言語商品取引は
麻痺して横たわっていた、そして、壊れた。
言葉袋が
言語袋置き忘れ屋の倉庫に
フォークリフトでうず高く積まれている
言語袋置き忘れ屋は
”虱(しらみ)ー神にーいつも”を使って
すべての言語行為者に
質札をぶら下げる

言葉毛羽立ち柔毛(にこげ)が
吃りの人間の不安な気持ちから生まれる
恰もそれが言葉吹雪の中から
雪片を閉じ込めるかのように
そして、言葉草刈が
聾(つんぼ)の稲穂を収穫する
それ故、お前もだ
廉価な言葉消費者よ
”言語ー飢餓ー熊手”を持って来て
誰も投げ掛けることのない影の
そのまた影の中にある
床の上を
掻け


【解釈】

日本語訳の最後の5行は、埴谷雄高が言っているような気がする。

この詩人のWikipediaです。ドイツ語です。

http://de.wikipedia.org/wiki/Albert_Vigoleis_Thelen

Googleの画像検索でみると、如何にもこんな風な詩を書くひとのように思えます。

http://goo.gl/Aitbs


Wikipediaを読むと、この詩人もまた、生きた時代の風と波に翻弄されるように、また同時に自分自身の意志に従って、ヨーロッパ各国各地を転々とした生活をしたものと見えます。

本屋の息子だとありますから、早くから文学に親しんだのではないかと思います。

”虱(しらみ)ー神にーいつも”を使ってと訳した”虱(しらみ)ー神にーいつも”は、原文では、”Laus-Deo-Semper”で、これをそのまま語順通りに訳しましたが、これらの語の選択と組み合わせ、それから語順に、何か含みがあると思われます。

こう思って、解釈してみると、いつもシラミの神だというのでしょうか。しかし、辞書の用例をみると、このsemperというラテン語である成句をつくる場合には、いつもsemperが冒頭に来ています。

従い、この倒置も何かの尺度をひっくり返したものと考えることができるかも知れません。

同様に、”Sprach-Hunger-Rechen”(言語ー飢餓ー熊手)があります。

この語順は、この語の通りの、やはり熊手を指しています。

つまり、言語に対して飢えている熊手という意味です。

そう思って、”Laus-Deo-Semper”(虱ー神にーいつも)を顧みると、やはり、その語順の通りの「いつも」だという意味なのでしょう。

つまり、いつも成句の語頭に来る「いつも」が転倒して語末にある「虱の神に」のいつも、という意味。

更につまり、この神は、いつもやって来ないという含みなのかも知れません。

そうして、言語袋置き忘れ屋が、”虱(しらみ)ー神にーいつも”を使って、すべての言語行為者に質札をぶら下げる、という文の意味は、虱のようなちっぽけでどうしようもない神のいつもを使って、わたしたちの何かを質草としてとる。言語行為者である我々皆は、その質札を貼られている。

その質草にするわれわれの何かとは、どうも言語のことらしい。

言葉袋という言葉の意味は、言葉が穀物のように一杯詰まった輸送用の袋という意味です。ですから、この詩は、最初からずっと、言葉が流通する、消費されるという事を前提に、あるいはそれを揶揄して書かれているのだと思います。

しかし、言葉吹雪などという造語は、ある種の美しささへ感じさせるようにすら思います。