Manche Nacht(幾多の夜):第33週
by Richard Dehmel (1863 - 1920)
【原文】
Wenn die Felder sich verdunkeln,
fuehl ich, wird mein Auge heller;
schon versucht ein Stern zu funkeln,
und die Grillen wispern schneller.
【散文訳】
野原が暗くなると、いつも
感じるのは、わたしの目がより明るくなるということ
もう、ひとつの星が瞬こうとし
そして、蟋蟀(こおろぎ)が、より一層速くささやいている
【解釈】
このひとの英語のWikipediaです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Dehmel
ドイツ語のWikipedia。こちらの方が写真がいろいろ載っている。
http://de.wikipedia.org/wiki/Richard_Dehmel
「蟋蟀(こおろぎ)が、より一層速くささやいている」というところの「速く」は、ドイツ語では、schnellerというschnell、速いという副詞の比較級ですが、しかし、日本語では、もっと頻(しき)りに、と訳すことができると思います。
この詩は、言葉からみると、ふたつの比較級の副詞が中心になってできている。
ひとつは、より明るくなるのであり、ひとつは、より頻りになるのだ。
前者の主語は、単数の眼であり、後者の主語は、複数の蟋蟀(こおろぎ)です。
それぞれに対するのは、暗くなってゆく複数の野原であり、またたく単数の星です。
こうして言葉の形式の上から考察してみると、どの行も、行と行の関係も、論理的に対比的に、できていることがわかります。
でも、だから、この詩人のこのように計算して書いたからといって、それで、この詩が何だというのでしょうか。
この詩の何がいいのでしょうか。
このように問うて、あらためて詩を読むと、この詩の中心にあるのは、わたしと星だということがわかります。
わたしと星のことが書いてあるのだ。
わたしと星という一行を、如何様にでも変奏させることができるのではないでせうか。
これが、この詩の奥深さだと思いますが、如何でせうか。
この詩人は、若き20代の短編作家であったトーマス・マンを発見した詩人です。この詩人の推挙を受けて、マンは文壇に登場したのです。
1894年11月4日付けのデーメルからマン宛の賞賛の手紙が残っております。
それから、最後の一行に、蟋蟀がないているというところは、トーマス・マンということであれば、
トーマス・マンの小男フリーデマン氏のさいごの一行を思い出させます。
小男フリーデマン氏の最後も、蟋蟀が鳴いている。
マンの場合の蟋蟀は、傴僂(せむし)で小男のフリーデマンの死と共に、またその背景として鳴いているのですが、この詩の場合は、死とは関係が直接はないと思います。
わたしは、この蟋蟀というものを注意してみているのですが、ドイツ文学では、この他にふたつほど、またドイツ系アメリカ人のある短編にひとつ、蟋蟀が出てくることを知っています。
他の国の文学ではどんなものでせうか。
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